第三章 暴走する四輪
「マヨネーズ」八パーセント急騰。「ステーキ」十五パーセント暴落。そして、「雑巾」が三十パーセントの異常値を検出。
屋上の鉄扉の影で、琴音がノイズキャンセリングヘッドホンを片耳だけ外し、不穏な市場のざわめきを報告した。前回の轟のパージ以降、エデン内部の空気は冷え切り、メンバー間の相互監視の網は張り詰め続けている。しかし、そんな歪んだ緊張感をあざ笑うかのように、外部からのノイズはより狡猾に、より組織的に彼らの聖域を脅かし始めていた。「東洋興産が、障害者雇用の業務委託費を削減する方向で動いています」車椅子の戦術参謀・瀬戸玲央が、いつになく鋭い手つきでキーボードを叩き、ノートPCの画面を湊航に提示した。「神崎と木下を排除したことで、人事部の上層部が警戒を強めたな」湊は義足の右脚にじっと視線を落としたまま、低く応じた。「彼らにとって、俺たちは大人しく隔離されていなければならない数合わせの家畜だ。知恵をつけて利権を毟り取る家畜など、生かしておく理由は無いということか」「ですが、こちらの防衛線を突破されるわけにはいきません。今回は私に市場介入の主導権を預けてください。健常者どもが絶対に侵入できない、都市の死角を用いたロジックを展開します」
瀬戸の瞳には、かつてないほどの静かな熱が宿っていた。脊髄損傷により歩行の自由を失った二十四歳の青年。彼は誰よりも車を愛していた。幼い頃から自動車のメカニズムに魅了され、サーキット観戦を趣味とし、今でも深夜の屋上で海外のレース動画や都市の道路設計図を貪るように眺めている。そんな彼にとって、自らの身体の一部である車椅子は、ただの福祉用具ではなく、都市という巨大なバグだらけの回路を攻略するための「最も小さな四輪」だった。「健常者どもは、自分たちが整備したバリアフリーや都市計画の網の目が、完璧だと盲信しています。だから、その死角に潜む死に金に気づかない」瀬戸は不敵に微笑み、画面に地方都市の複雑な立体交差と、東洋興産が裏で保有する遊休資産の物流ルートを重ね合わせた。「奴らの物流ハブと、行政の制度改定の隙間を突きます。私たちの四輪で、あの傲慢な巡回ルートを完全にジャックしてやりましょう」
瀬戸の仕掛けたモビリティハックは、実に鮮やかで冷徹だった。東洋興産は、岡山 地域の物流網を牛耳る大手企業と提携し、排気量や関税の制度改定に伴う大規模な配送ルートの再編を極秘裏に進めていた。健常者の役員たちは、最新のAI運行管理システムを導入し、一分一秒の無駄もない完璧な物流ポートフォリオを組み上げたつもりでいた。しかし、そのシステムには致命的な人間の死角があった。都市のバリアフリー法や車椅子用のスロープ、そして大型車両が進入できない狭隘な旧市街の路地。それらは健常者の設計者にとっては配慮すべきお荷物に過ぎなかったが、瀬戸の脳内では、巨大な利権をバイパスするための「最速のショートカット」へと変換されていた。
「琴音、ターゲットの配送車のGPSログを同期して。夢見は、配送センターの管理職に揺さぶりをかけて、運行計画の最終アクセス権を奪うんだ」瀬戸の的確な指示のもと、屋上の経済圏は再び一つの精密な有機体として駆動した。夢見凪が心理操作によって引き出した内部情報と、サヴァンの冴島慧が弾き出した一円単位の関税・助成金の控除スキームを組み合わせ、瀬戸は東洋興産の物流ルートの一部を「障害者自立支援のための地域集荷デッドライン」として合法的に乗っ取ることに成功した。企業のシステムは、車椅子の青年が引いた通れないはずのルートを自動的に最適解として認識し、本来なら上層部の懐に入るはずだった超過利潤を、次々とエデンの裏口座へと吸い上げていく。「見事な戦術だ、瀬戸」深夜のオフィスで、湊は画面に並ぶ利益の数字を見て、瀬戸の肩を叩いた。「言ったでしょう、湊さん。車椅子の四輪と、あなたの義足。このモビリティがあれば、私たちは健常者の社会がどれほど高い壁を作ろうとも、その下をいくらでも潜り抜けていける。物理的な制約なんて、システムをハックするための極上のフレーバーに過ぎません」瀬戸は嬉しそうに、まるで新しい玩具を手に入れた子供のような純粋な目で笑った。「これでまた、エデンの資本は強固になりました。誰も、私たちを隔離することなんてできませんよ」「あぁ……」湊は微笑み返しながらも、デスクの下で、存在しないはずの右足の親指が、肉を引き裂くような激しさで疼き続けているのを感じていた。轟をパージして以来、この幻肢痛は一時も消えていない。勝っている。利益は最大化している。それなのに、この身体のバグは、何か致命的な「エラー」の接近を告げるように、激しく鳴り響いていた。
ハックの最終清算を行うため、瀬戸は一人、車椅子を駆って夜の街へと出向いた。東洋興産の裏の物流拠点に設置された物理サーバーに、冴島が作った暗号キーを直接差し込む必要があったからだ。夜の旧市街。健常者たちが寝静まった午前二時のアスファルトを、瀬戸の車椅子のタイヤが静かに滑っていく。ヘッドホンから流れる深夜の環境音に混じって、琴音の声がインカムから聞こえた。「瀬戸、サーバーの接続を確認したわ。ハック完了まであと三分。……でも、ちょっと待って。何かおかしい」「どうしたの、琴音」瀬戸は車椅子を止め、周囲の暗闇を見回した。街灯の光が、奇妙に歪んで路面に落ちている。「街のノイズが……変。さっきから、大型車の不自然な排気音が、あなたのいるブロックの周辺でループしてる。パニック障害の灰原のセンサーもさっきから狂ったように跳ね上がってるの!瀬戸、今すぐそこを離れて!」「まさか、企業側の回し者……?いや、このルートは健常者には探知できないはずだ」瀬戸の背中に、初めて冷たい汗が伝った。彼は車椅子の車輪を強く握りしめ、Uターンを試みた。誰よりも都市のバリアフリーの死角を知り尽くしている彼にとって、この狭い路地は絶対的な安全圏であるはずだった。だが、その時。暗闇の向こうから、突如として二条の暴力的な光束が射し込んできた。大型トラックのヘッドライトだった。眩い光に視界を完全に奪われ、瀬戸は思わず腕で顔を覆った。ガガガガガ、と夜の静寂を切り裂くような、狂ったようなブレーキ音が旧市街のコンクリート壁に反響する。「瀬戸!? 瀬戸、応答して!!」インカムから琴音の悲鳴が響く。瀬戸は、持ち前の車の知識で一瞬にして理解した。そのトラックの速度、重量、そして制動距離。健常者が整備したはずの、深夜の濡れた路面のアスファルト。それは、どれほど優れたブレーキシステムを持っていようとも、物理法則の限界を超えてその巨体を止めることはできない。都市の設計の、それが最大のバグだった。「あ……」誰よりも車を愛し、その限界と特性を知り尽くしていたはずの青年の目に、迫り来る巨大な鉄の塊が焼き付いた。激しい衝撃。金属がひしゃげ、肉体が引きちぎられる悍ましい音が夜の街に響き渡り、そして、すべての音が、唐突に消失した。
東洋興産のビルの屋上に、息を切らした琴音と夢見が駆け込んできた。二人の顔は土気色に変まり、琴音の手にあるノートPCには、瀬戸のバイタルデータが「完全なゼロ」を示したまま静止しているアラート画面が表示されていた。「湊……さん……」夢見凪が、自身のピンクの髪をかきむしりながら、崩れ落ちるように泣き叫んだ。「瀬戸が……玲央が……死んだ……。交通事故……トラックのスリップに巻き込まれて……今、警察から連絡が……!」屋上に、言葉を失った静寂が広がった。筋トレの手を止めた轟は、信じられないというように虚空を見つめ、高次脳機能障害の鬼瓦は、手にした剪定ハサミをコンクリートの床に落とした。チャリン、という虚しい金属音が、夜の空気に消えていく。「瀬戸が……死んだ?」 湊航は、フェンスに手をかけたまま、微動だにせず街を見下ろしていた。画面の向こうの駒は、どれほど過酷な環境に投入されようとも、一滴の血も流さず、死ぬことはなかった。だが、現実の戦術参謀(瀬戸)は、ゲームオーバーになれば二度とコンティニューすることはできない。どれほど完璧なロジックを組み上げ、大企業をハックしようとも、突発的な「死」というコントロール権外の絶対的な損失の前に、彼らの経済圏はいとも簡単に蹂庫されるのだ。「あ、あぁ……あああああ!」フロアの隅で、灰原雫が耳を塞いで激しいパニックの発作を起こしていた。「音が……瀬戸くんが壊れる音が聞こえた……!もう駄目、この空間は狂ってる!誰も守れない!センサーが……世界中のリスクを検知して頭が割れそう……!」琴音もまた、震える手でジャンクフードを口に詰め込みながら、涙をボロボロとこぼしていた。「瀬戸が事故に遭った瞬間の音……私の聴覚過敏が、偶然無線から拾っちゃったの。ブレーキの音、骨の折れる音……あのノイズが、耳から離れない……情報が集められないよ……」エデンの頭脳であり、移動の要であった瀬戸の唐突な死。それは、残されたメンバーたちの精神的支えを根底から破壊し、彼らの抱える「障害(特性)」という名の牙を、すべて自らを傷つける「バグ(機能不全)」へと一気に反転させていった。鉄壁の結束を誇った屋上の経済圏に、致命的な崩壊の予兆が鳴り響いていた。湊は、ゆっくりと自身の右脚を見つめた。そこにある、無い脚の親指。それは、狂いそうなほど、狂いそうなほど痒かった。激痛を伴う幻肢痛が、彼の脳髄を真っ赤に染め上げていく。現実の損失の恐怖。リスク判断のブレ。初めて直面する「コントロール不能な現実」の前に、リーダーとしての湊の冷徹な仮面が、ミリ単位でひび割れていく。
だが、湊は狂わなかった。狂うことすら、自らに許さなかった。「泣くな」湊は、血が出るほど強く義足を床に踏みつけ、全員に向かって言い放った。その声は、凍りつくほど冷酷だった。「瀬戸という美しいピースが欠けた。だが、エデンの市場はまだ閉まっていない。奴の死すらも、俺たちは生存コストの原資として運用する」メンバーたちが、涙に濡れた絶望の目で湊を見上げる。湊航は、狂いそうな幻肢痛を不敵な笑みの裏に押し隠し、再び夜の街に向かって牙を剥いた。「健常者どもに、瀬戸の死の代償を、一円残らず支払わせてやる」屋上のエデンに、真の地獄のような激動の最終章が幕を開けようとしていた。




