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第二章 超過利潤のパージ

「愛」十パーセント急騰。「ステーキ」八パーセント急騰。



 屋上のベンチに腰掛けた湊航は、スマートフォンの画面に並ぶ経済指標を冷ややかに眺めていた。世間の偽善バブルが小康状態を保つ中、我が「屋上経済圏エデン」の内部保留は、前月の神崎・木下からの利権強奪によって過去最高額を記録していた。一部上場企業東洋興産の懐から合法的に引き出された資金は、冴島の精密な洗浄を経て、メンバー全員の口座へ均等に分配されている。彼らはもはや、最低賃金で搾取される哀れな「数合わせ」ではなかった。生存コストをハックし、健常者以上の実利を手に入れた最強の弱者たち。だが、肥大化した資本は、時としてコミュニティの調和を乱す「異常値」を生み出す。



 チ、と静かな電子音が鳴り、屋上へと続く鉄扉が開いた。車椅子の戦術参謀・瀬戸玲央が、いつもより険しい表情で湊の元へ滑り込んでくる。「湊さん、例の件ですが……やはり確証が持てました。メンバー内に、経済圏の隠匿資金を勝手に引き出し、外部の口座へ流出させている者がいます」湊はスマートフォンの画面から目を離さず、淡々と応じた。「誰だ」「轟陽介です」 瀬戸が膝の上のノートPCを回し、画面のログを湊に提示した。「ここ数週間、彼の口座から、ある特定の民間のメンタルヘルス自立支援団体へ、計数百万円単位の送金が繰り返されています。それも、経済圏の共有財産であるハック資金のプールから、偽装されたダミーデータを用いて巧妙に。……いえ、巧妙のつもりでしょうが、冴島の目からは隠し通せませんでした」



 「轟か」 湊は、動かない右脚の義足をそっと撫でた。轟陽介。双極性障害を抱え、その「躁」の爆発的なエネルギーを経済圏の強力なエンジンとして提供してきた男。歳の離れた弟のように瀬戸を可愛がり、屋上のムードメーカーでもあった。「彼は何を企んでいる?」「……自立ですよ」 瀬戸の言葉には、深い失望と冷徹な諦めが混じっていた。 「あの団体は、精神障害者の『完全な社会復帰と健常者社会への統合』を謳う、一種の更生クラブです。轟はそこに大金を注ぎ込み、最新の認知行動療法や民間資格の取得プログラムを買っている。彼は、この屋上のエデンを捨て、普通の『健常者たちの社会』へ戻ろうとしているんです」湊はゆっくりと立ち上がった。金属の義足が、コンクリートの床に低く重い音を立てる。 同時に、彼の失われた右足の親指が、皮膚を引きちぎりたくなるほどの激痛を伴って痒み出した。「経済圏エデンのルールは絶対だ。独自のロジックで実利を貪る代わりに、外部の健常者社会への完全な屈服と自立(裏切り)は認めない。それは、俺たちの生存戦略そのものの崩壊を意味するからな」湊の目が、夜の街を見下ろす冷酷な光を宿した。「剪定の時間だ。鬼瓦を呼べ」



 翌日の深夜、定時を過ぎて完全な静寂に包まれた東洋興産のフロア。その一角に、轟陽介は一人で残っていた。いつもなら狂ったように筋トレに励むか、カロリー計算に没頭しているはずの彼が、デスクの上で一枚の退職届をじっと見つめていた。「おい、陽介」背後から掛けられた低い声に、轟の肩がビクッと跳ね上がった。 振り返ると、暗がりの中から湊航が歩み出てくる。そのすぐ後ろには、言葉少なに巨大な影を落とす、高次脳機能障害の鬼瓦剛が立っていた。鬼瓦の手には、いつも屋上の植栽を整えるために使っている、鋭利な剪定ハサミが握られている。チャキ、と金属の擦れる冷たい音がフロアに響いた。「み、湊さん……鬼瓦さんも。どうしたんですか、こんな時間に」轟は必死に笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が強張っている。「良い報せがある」湊は轟のデスクの前に立ち、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。「お前が例の民間団体ステップ・フォーワードに注ぎ込んでいた金、すべてこちらの冴島の手によって逆ハックし、一円残らず経済圏の口座へ回収した。お前が夢見ていた健常者社会への復帰パスポートは、たった今、ただの紙切れになったぞ」轟の顔から、一瞬で血の気が引いた。「な、何を……言って……」「白々しい演技はよせ」闇の中から、車椅子を走らせて瀬戸が現れた。その瞳には、かつての仲間に対する容赦のない拒絶があった。「轟さん、あなたは経済圏の共有財産を横領した。それも、私たちが最も忌むべき健常者たちの偽善の市場へ魂を売るために。あなたが自立してここを出ていけば、東洋興産における私たちの雇用枠のバランスが崩れるだけでなく、これまでのハックの全容が外部に漏洩するリスクが発生する。それは、残された7人の生存コストを脅かす致命的なエラーだ」



 轟はガタガタと震えだし、やがてその大きな身体を丸めるようにして頭を抱えた。双極性障害の「鬱」の波が、一気に彼を襲っていた。「俺は……俺はただ、普通になりたかったんだ!」轟は搾り出すような悲鳴を上げた。「お前らは狂ってるよ!無い脚を非課税財産だと言い張り、社会のバグを突いて金を毟り取る!確かにスリルはあるし、金も手に入った! でも、ここは本物のエデンなんかじゃない!檻だ!障害という檻の中でしか生きられない化け物たちの巣窟だろ!?俺は、ちゃんと治療して、資格を取って、昼間の太陽の下で健常者として働きたかったんだ!」フロアの隅で、インナーカラーブルーの髪を震わせた灰原雫が、激しく胸を押さえて呼吸を乱していた。空間のリスクレベル……マックス。轟の絶望と恐怖が、フロア全体を汚染してる……」だが、湊の表情は一ミリも動かなかった。「普通、だと?」湊は一歩踏み込み、退職届を手に取ると、轟の目の前で端から引きちぎった。「健常者どもが作った普通という市場に、お前のような双極性障害を抱えた男が飛び込んで、どうなるか本当に理解していないのか?彼らは優しく微笑みながら、お前を便利に消費し、次の瞬間には自己管理が足りないと切り捨てる。お前が注ぎ込んだ数百万の治療費など、彼らの弱者更生ビジネスのあぶくぜにとして貪り尽くされただけだ」「違う! あの先生は俺を認めてくれた!」「認めたのではない。お前という優良顧客をパージしたくなかっただけだ」 湊の冷徹な声が、轟の心を容赦なく切り裂いていく。「お前が経済圏のルールを乱し、社会的な自立という妄想に走った時点で、お前はもう俺たちのエンジンではない。ただのノイズだ。ルールに従えない駒は、盤上から排除する」



 「鬼瓦」湊が短く名前を呼ぶと、鬼瓦剛がゆっくりと前に進み出た。高次脳機能障害恐怖のブレーキが壊れたその男は、一切の感情を排した目で轟を見下ろした。手にした剪定ハサミが、オフィスの蛍光灯を浴びて鈍く光る。「無駄な、枝だ」鬼瓦は言葉少なに呟いた。「剪定、しなければ。木が、死ぬ」「ま、待ってくれ! 湊さん! 瀬戸!」轟はデスクから転げ落ちるようにして後退したが、鬼瓦の圧倒的な威圧感の前に、完全に蛇に睨まれた蛙のようになっていた。「殺しはしない」湊は冷酷に言い放った。「だが、お前が外部の健常者どもに漏らそうとした屋上のロジック、そのすべてを実質的に無効化させてもらう。冴島、実行しろ」フロアのスピーカーから、冴島慧の無機質な声が流れた。「轟陽介。あなたの個人名義で開設されていたすべての裏口座を凍結。同時に、あなたがステップ・フォーワードに提出していた個人情報および通院履歴のデータを改ざん。現在、あなたはその団体から虚偽の申告を行った危険なクレーマーとしてブラックリストに登録されました。アクセス権、完全喪失」「あ、あぁ……」轟の口から、魂が抜けたような声が漏れた。彼が必死に築こうとしていた健常者社会への架け橋は、屋上の天才たちによって、一瞬にして跡形もなく爆破されたのだ。「これより、お前のポジションを再配置する」湊は、絶望の淵に沈む轟の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。「お前は今後、経済圏の共有財産からの一切のボーナス配分を停止する。最低限の生存コスト食費と部屋代だけを与え、この東洋興産のフロアで、健常者どもの無害な数合わせの家畜として一生シュレッダーをかけ続けろ。自立という贅沢な病を、その脳髄から完全にパージしてやる」「湊……お前は、悪魔だ……」轟の目から涙がこぼれ落ちる。「お前たちが俺をリーダーに選んだんだ」湊は手を離し、スラックスに付いた埃を払うようにして立ち上がった。「忘れるな。俺たちは、社会の理不尽をハックするダークヒーローなんかじゃない。五体を損ない、脳をバグらせたまま、泥水をすすってでも実利を貪り尽くす、ただの生々しいサバイバーだ」



 深夜、ビル最上階の屋上。冷たい夜風が、鉄の結束にヒビが入ったエデンを吹き抜けていた。ピンクの髪の夢見凪は、スマートフォンの画面で轟の精神状態のプロファイリングデータを眺めながら、ふぅとため息をついた。「陽介の見捨てられ不安、完全に底を打っちゃったね。もう二度と、私たちを裏切るようなエネルギーは残ってない。……でも、これで本当によかったの? 湊」「これしか選択肢はなかった」瀬戸玲央が車椅子のタイヤをロックし、冷たく言った。「経済圏の論理を維持するためには、内なる裏切りに対する容赦のないパージが必要不可欠です。緊張感が無くなれば、私たちはすぐに健常者どもの都合の良いおもちゃに逆戻りする」メンバーたちの間に、第一章の勝利の時とは全く異なる、重苦しい絶対的な緊張感が支配していた。互いが互いを監視し、少しでも「自立」や「正常」へと傾けば、容赦なく切り捨てられるという恐怖。エデンは今や、鉄壁の牙城であると同時に、冷徹な相互監視の檻へと変貌を遂げていた。



 「マヨネーズ」十五パーセント暴落。情報屋の琴音が、お気に入りのジャンクフードを口に運びながら、ぼそりと呟いた。「健常者どもの偽善市場、一気に冷え込んできた。……それから、街のノイズが、少しずつこのビルの足元に集まってきている気がする。気のせいならいいんだけど」湊は一人、フェンス際で夜の街を見下ろしていた。轟陽介という強力なエンジンの片肺を自らの手で潰した。それは経済圏の防衛のためには不可欠な剪定だったが、コミュニティ全体の最大出力が低下したことは否めない。



そして何より。



 「くそ、痛むな……」湊は、自身の義足の先、存在しないはずの右足の親指を強く床に叩きつけた。激しい幻肢痛。轟をパージした瞬間から、その痒みと痛みは増すばかりだった。コントロール権の内側にあるはずの駒を、力技でねじ伏せなければならなかった事実。それは、完璧に運用されていたはずの「屋上のエデン」というシステムに、目に見えない微細なクラックが入り始めた証拠ではないのか。「湊さん、次の仕掛けですが」瀬戸が静かに寄り添ってくる。「あぁ……進めよう、瀬戸。俺たちの足が完全に止まる前に、社会のバグをさらに買い叩く」湊は不敵な笑みを浮かべようとしたが、その表情は夜の闇に白く凍りついていた。足元に広がる光の海は、まるで巨大な怪物が口を開けて、屋上の八人を飲み込もうと待ち構えているかのように不気味に揺らめいていた。エデン崩壊のカウントダウンは、すでに静かに、だが確実に始まっていた。


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