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第一章 偽善の空売り

「マヨネーズ」二十四パーセントストップ高。



 屋上のフェンス際、ブラックの長い髪を夜風に揺らしながら、情報屋の琴音がノートPCの画面を見つめて呟いた。「健常者どもの『おいたわしや市場』、本日も大盛況。テレビの福祉特番が一本流れただけで、ネット上の募金と『いいね』の買い注文が殺到してる。ドロドロに甘くて中身の薄い偽善の買い支え。まさにストップ高のバブルね」「いい傾向だ。実態のないバブルほど、空売り(ショート)を仕掛けた時の利益は大きい」湊航は義足の右脚に体重を預け、冷ややかに微笑んだ。数日後、東洋興産の障害者雇用フロアに、新たな「ノイズ」が侵入してきた。人事部の大河原が、いかにも上質なスーツを着た細身の男と、役所特有の退屈な空気をまとった中年の男を連れて現れたのだ。「みんな、注目してくれ」大河原がわざとらしい大声で手を叩く。「今日から我が社の障害者雇用環境をさらに改善するため、外部のアドバイザーをお招きした。市役所福祉課の統括職員である神崎さんと、福祉コンサルタント『ウェルフェア・イノベーション』代表の木下先生だ」コンサルタントの木下は、値踏みするような視線でフロアの面々を見回し、完璧に作り込まれた「慈愛の微笑み」を浮かべた。「皆さん、初めまして。私たちは皆さんの『真の社会的自立』を支援するために来ました。今の単純作業ばかりの環境を変え、もっと社会に貢献できるステップアッププログラムを用意しています。共に頑張りましょう」フロアのあちこちから、気のない、あるいは怯えたような返声が上がる。木下と神崎は、彼らの反応に満足したように頷くと、別室の会議室へと消えていった。



 その背中を見送りながら、琴音がワイヤレスイヤホンに手を触れる。「ターゲット確認。福祉課の神崎と、悪徳コンサルの木下。あの二人が組んで、国からの『障害者多数雇用事業者用助成金』の申請スキームを大幅に変更するつもりよ。建前は『自立支援のための業務委託』。本音は……」「俺たちの給与原資を削り、ペーパーカンパニーを経由して助成金を身内で山分けする着服スキームだな」車椅子の戦術参謀・瀬戸玲央が、自らの膝の上でノートPCを開き、すでに敵の狙いを看破していた。「上場企業側の『障害者を雇っている』という免罪符と、行政の『予算を消化した』という実績、そしてコンサルの懐に入る裏金。すべてが健常者側の都合だけで美しく完結している。私たちの『生存コスト』を掠め取ることでね」湊は、デスクの下で不意に激しく痒み出した「無い右足の親指」を意識した。幻肢痛。失った肉体が、敵の接近を告げる警報のように疼いていた。「健常者どもは、自分たちが施しを与える側だと信じて疑わない時、最も無防備になる。彼らのその肥大化した優越感ごと、この市場を空売りする」



 「今回のプログラム導入に伴い、皆さんの労働契約を一時的に『就労継続支援A型』の変則型、あるいは特定の業務委託契約へと切り替えます。これは皆さんのステップアップのため、ひいては自立のためです」数日後、大河原を同席させた個別の面談室で、木下は湊に向かって滑らかな口調で説明を続けていた。提示された書類の文面は、専門用語と美しい倫理的フレーズで巧みにデコレーションされていたが、その本質は劣悪だった。基本給の引き下げ、各種手当の削除、そして名目ばかりの研修費の徴収。「なるほど、自立のため、ですか」 湊はあえて、気弱で無知な障害者を装い、書類を指先でなぞった。「ですが、これでは僕たちの月々の手取りは、今の最低賃金ラインからさらに三割近く下がることになります。生活が成り立ちません」隣に座っていた福祉課の神崎が、不快そうに眉をひそめ、説教するような口調で割り込んできた。「湊くん、物事を近視眼的に見てはいけないよ。国や企業がいつまでも君たちを保護し続けられるわけじゃないんだ。痛みを伴ってでも、社会の厳しさに適応する訓練をしなければ、本当の自立とは言えない。木下先生はね、君たちの未来を思ってボランティアに近い形で動いてくださっているんだよ?」ボランティア。その言葉の響きに、湊は内心で激しい冷笑を浮かべた。神崎の胸ポケットに覗く高級万年筆、木下の腕で鈍く光るロレックス。それらすべてが、彼らがこれまでに「救済」してきた弱者たちの血肉で買い叩かれたものであることは明白だった。「僕たちの痛みが、あなた方の利益になるとしてもですか?」湊が静かに顔を上げ、声のトーンを落とした。その瞳から「弱者の怯え」が完全に消え失せていることに、木下が一瞬だけ目を見開く。



 「……何を言っているんだね、君は」神崎が声を荒らげる。「木下さん、あなたの会社『ウェルフェア・イノベーション』が過去三年間で手がけた五つの特例グループ会社。そのすべてで、プログラム導入から一年以内に障害者の離職率が八〇パーセントを超えている。そして、空いた枠に新たな障害者を嵌め込むたび、国からの初期導入助成金があなたの個人口座に還流している。違いますか?」木下の微笑みが、完全に凍りついた。



 「灰原、センサーの状況は?」面談室の壁一枚隔てた廊下で、瀬戸がインカムを通じて問いかける。インナーカラーブルーの髪を短く揺らした灰原雫は、壁に背を預け、激しく胸を上下させていた。彼女のパニック障害が、面談室の内部から漏れ出す「悪意の濃度」を正確に感知していた。「神崎のバイタルが上がってる……怒りと、それから強い動揺。木下は冷酷。完全に保身の計算に入った。空間のリスクレベル、イエローからレッドへ移行」「了解。轟、エンジンを回せ」瀬戸の指示と同時に、面談室の扉が勢いよく開いた。「失礼しまーす! データの追加分、持ってきました!」大声を上げて入ってきたのは、轟陽介だった。双極性障害の「躁」のエネルギーを極限まで高めた彼は、異様なハイテンションと圧倒的な威圧感を放ちながら、神崎と木下の目の前に大量のファイルを叩きつけた。「これ、神崎さんが過去に『指導』した福祉法人の財務諸表と、木下さんのペーパーカンパニーの取引履歴の突合データです!冴島さんが一分一秒の狂いもなく一瞬で解析しました!ほら、一円単位までピッタリ一致してますよ! 天才ですかね!?」「な、なんだ君は! 突然入ってきて無礼な」神崎が立ち上がろうとするが、轟の巨体と放たれる圧倒的な熱量に圧されて腰が引ける。「無礼なのは、俺たちの市場(聖域)を荒らしにきたあなた方だ」湊は席を立つことなく、冷徹に言い放った。「神崎さん、あなたが福祉課の職権を利用して木下のコンサルを選定し、公金をチューチュー吸い上げていたスキーム、すべてこちらの冴島が記録し、書面化してあります。ASDのサヴァンを舐めないでいただきたい。彼の脳内帳簿は、あなた方のどんな隠蔽工作よりも正確だ」冴島慧はフロアの自席から動くことなく、ただ淡々と素数を暗唱しながら、すべてのデータをオンラインのクラウドへ同期し続けていた。木下は冷や汗を流しながらも、必死にコンサルタントとしてのプライドを保とうと、声を震わせた。「これだから……障害者は扱いづらいと言うんだ。恩を仇で返しおって。こんな大企業を脅迫するような真似をして、タダで済むと思っているのか?企業側がその気になれば、君たち全員を解雇することなど……」



 「解雇? ぜひやってみてください」 車椅子を進め、瀬戸玲央が室内に滑り込んできた。その膝の上の画面には、東洋興産の現在の「障害者雇用率」がリアルタイムで表示されている。「今、このフロアにいる私たち八人を含めた雇用枠が一人でも欠ければ、東洋興産は法定雇用率を下回り、来月から毎月数百万円の罰金(納付金)が発生します。さらに、来期の一部上場維持のためのガバナンス審査にも重大な赤信号が灯る。大河原さん、そうですよね?」同席していた人事部の大河原は、完全に真っ青になり、ガタガタと震えながら深く椅子に沈み込んでいた。これ以上の不祥事が発覚すれば、自身の首が飛ぶどころか、会社全体の破滅につながることを誰よりも理解していた。「あなた方は、私たちが『生かされている』と思っていた」瀬戸は木下を見つめ返した。「逆ですよ。東洋興産という巨大な客船が沈まないために、私たちがその底底で重しになって生かしてやってるんだ」



 「さて、神崎さん、木下さん。市場の清算チェックアウトの時間です」湊は立ち上がり、大河原、神崎、木下の三人を見下ろした。「あなた方が着服しようとした助成金、および東洋興産が今回の『環境改善プログラム』のために用意していた予算、計二千四百万円。これをすべて、我が『屋上経済圏』が提供する独自の福利厚生・データ管理業務への委託費として、正式に契約を切り替えていただきます」「そ、そんな契約、通るわけが」神崎が絶望的な声を出す。「通さなければ、明日の朝一番に、このデータが労働局と主要メディア、そして東洋興産のコンプライアンス委員会に一斉送信されます。美談の裏に隠された『福祉公金の汚職スキーム』。マスコミは大好物ですよ。健常者どもの偽善のバブルが弾ければ、あなた方の社会的生命は完全に空売りされる」木下は深く溜息をつき、眼鏡を外して顔を覆った。神崎は完全に戦意を喪失し、机に両手を突いたまま動かない。「それから、夢見」湊がインカムへ呼びかける。「はーい、お疲れ様」面談室のすぐ外で、スマートフォンを弄っていたピンクの髪の美女・夢見凪が、艶然たる微笑みを浮かべて木下に視線を送った。「木下先生、あなたがお気に入りのキャバクラの女の子に漏らしていた『次のターゲット企業の内部情報』、私のSNSプロファイリングで全部裏取りしちゃいました。境界性の執着心を甘く見ないでね。あなたのプライベート、アカウントの底まで丸裸よ?」木下の背筋に、氷のような戦慄が走った。彼らはただ法律やデータを盾にしているのではない。自分たちの歪んだ人間の精神、その暗部までをも網羅し、完全にコントロールしているのだと、今更ながらに思い知らされた。「契約書は、冴島が完璧なものを用意してあります」湊はペンを大河原たちの前に放り投げた。「サインを。拒否権オプションは最初からありません」



 深夜。東洋興産のビル最上階、フェンスに囲まれた屋上。 琴音のノートPCの画面上で、無機質なアラートが鳴り響いていた。「『雑巾』五十パーセント異常値検出」琴音が画面を見つめたまま、低く冷たい声で言った。「神崎と木下、完全に市場から退場されたわ。彼らの利権、そっくりそのまま私たちの口座へ着金完了。最初の市場介入、大成功ね」「当然の結果だ」轟がベンチプレスを重そうに持ち上げながら、ふぅ、と息を吐き出した。「健常者どもは、自分たちが『与える側』だと盲信しているから、足元をすくわれる。俺たちの生存コストを舐めすぎなんだよ」メンバーたちが、それぞれ手に入れた「果実(資本)」を確認し、静かな勝利の余韻に浸っている。その中で、湊だけは一人、夜の街を見下ろしながらフェンスを強く握りしめていた。「湊さん?」車椅子を寄せた瀬戸玲央が、不思議そうに彼を見上げた。 「どうかしましたか? 初戦としては完璧なハックでした。大企業の犬どもを完封し、私たちの聖域をさらに強固なものにできたはずです」「……いや」 湊は、動かない右脚の義足を見つめた。 そこに存在するはずのない親指が、狂いそうなほど、肉を引きちぎりたくなるほどに激しく痒んでいた。「勝ったはずなのに、この無い足がまだ騒いでいる。まるで、ここにある完璧なバランスが、そう遠くない未来に根底からひっくり返るとでも言うように」「考えすぎですよ、湊さん」瀬戸は優しく、だが確信に満ちた声で笑った。「私たちの四輪(車椅子と義足)は、どんな悪路でも通れない道を切り開いていける。あなたと僕が組んでいる限り、このエデンが破ることはありません」「……そうだな」湊は歪んだ笑みを浮かべ、親指の痒みを押し殺すように義足を一歩、踏み出した。地上では、何食わぬ顔をした健常者たちの街が、相変わらず眩いネオンを放ち続けている。彼らはまだ知らない。自分たちが「障害者雇用」という箱庭に隔離して放置したはずの弱者たちが、その頭上で、世界のすべてを買い叩くための牙を研ぎ澄ましていることを。



「屋上のエデン」の市場は、まだ開いたばかりだった。


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