序章 幻肢のポートフォリオ
「愛」十五パーセント暴落。
スマートフォンの画面に通知されたその無機質な文字列を、湊航はオフィスビルの硬いプラスチック椅子に深く腰掛けたまま見つめていた。世間一般の人間がこの通知を見れば、新手の暗号資産の急落か、あるいは質の悪い悪ふざけの冗談だと思うだろう。だが、湊にとっては違う。これは彼らが独自に構築した観測網が弾き出した、この街における「健常者どもの偽善の時価総額」の変動記録だった。本日、何らかの社会福祉的な美談が消費し尽くされ、市場における「憐れみ」の価値が暴落した。それが、湊の手元にあるゲームの画面に数値化されて現れているに過ぎない。湊は画面をタップし、高難度のリソース管理シミュレーションゲームの進捗を確認する。画面の向こうの兵士たちは、どれほど過酷な環境に投入されようとも、一滴の血も流さず、ただのデジタルなリソースとして完璧に統制されていた。
「……画面の向こうの駒は、死なないからいいよな」
ぽつりと呟いた湊の視線は、スマートフォンから自身の右脚へと移る。スラックスの裾から覗くそれは、鈍い金属の光沢を放つ義足だった。二十八歳。かつて建設現場での凄惨な重機事故により、大腿部から下を根こそぎ失った男の、これが現在の「足」だった。一般的には、二十代にして片足を失うということは絶望以外の何物でもないだろう。歩行の自由を奪われ、痛ましい同情の視線に晒され、社会のメインストリームから脱落した弱者。それが世間の下す評価だ。だが、湊は違った。彼は動かない義足の先、そこに存在するはずのない『右足の親指』が狂いそうなほど激しく痒むのを感じながら、歪んだ笑みを浮かべる。「不便ではあるが……この無い脚は、最高の不労所得の非課税財産だ」労災による多額の補償金、そして執念深い法的交渉の末にもぎ取った賠償金。それらはすべて、社会の救済システムの網の目を徹底的にハックし、限界まで引き出した果ての初期資本だった。失った肉体という損失を、最も効率的な配分で利権へと転換する。湊にとって、この失われた右脚こそが、人生というクソゲーをひっくり返すための最強のポートフォリオだった。
チ、と静かな電子音が鳴り、オフィスの自動ドアが開いた。車椅子に乗った青年。瀬戸玲央が、音もなく滑り込んでくる。二十四歳。脊髄損傷により下半身の自由を失ったその男は、ノートPCを膝に乗せたまま、冷徹な戦術参謀の眼差しで湊を見上げた。「湊さん、大手の『数合わせ』の計算が完了しました。市場介入のタイミングです」「そうか。始めよう、瀬戸」湊はスマートフォンをポケットに仕舞い、立ち上がった。無い脚の親指の痒みは、まだ消えていなかった。
彼らが今いる場所は、地方都市にそびえ立つ一部上場企業「東洋興産」のオフィスビルの一角だった。広大なフロアには、パーテーションで区切られた簡素なデスクが並んでいる。そこに座っているのは、知的障害、精神障害、身体障害を抱えた「障害者雇用枠」の面々だ。彼らに与えられている仕事は、シュレッダー処理や過去の不要な書類のデータ入力といった、企業の利益には一ミリも貢献しない無害で無意味な単純作業ばかりだった。健常者の社員たちは、このフロアを通りかかるたび、腫れ物に触るような、あるいは露骨な優越感を隠そうともしない生温かい視線を投げかけていく。「彼らは勘違いしている」と、瀬戸は車椅子を湊のデスクに寄せながら、画面の数字を示した。「私たちがここで生かされているのは、彼らの慈悲や社会貢献の精神のおかげではない。ただの『罰金回避の数合わせ』に過ぎないということを」日本の法律において、一定規模以上の一部上場企業には、全従業員の一定割合以上の障害者を雇用する法的義務が課せられている。もしこの法定雇用率を達成できなければ、企業は国に対して一人あたり月額数万円の「障害者雇用納付金」という名の罰金を支払わなければならない。さらに、未達成が続けば企業名が公表され、株価や社会的信用に致命的な大打撃を与えることになる。東洋興産の規模であれば、未達成のペナルティは年間で数千万円、ブランド価値の毀損も含めれば数億円規模の損失になる。
「つまり、俺たちの存在そのものが、この会社にとっては年間数千万円の損失を防ぐ『防壁』であり『利益を生む資産』なんだよ」
湊は、窓の外に見える突き抜けた青空を見上げた。企業側は、彼らに大した給与を支払う気はない。最低賃金ベースの、文字通り「生存コスト」の最低ラインで彼らを囲い込み、ビルの片隅に隔離して放置する。それが、この上場企業が弾き出した最も安上がりな「数合わせの最適解」だった。「健常者どもが計算の上で俺たちを配置したのなら、俺たちはその計算の死角を突いて、この会社を内部から買い叩く」それが、湊がこの閉鎖的なコミュニティに持ち込んだ、独自の経済ロジックだった。
東洋興産の障害者雇用を管理しているのは、人事部のノイズの一人である、太り気味の管理職・大河原だった。彼は定期的にこのフロアにやってきては、恩着せがましい態度で書類を置いていく。「みんな、今日も頑張って会社に貢献してくれよ。君たちがこうして働ける場所があるのも、我が社の先進的な福祉マインドのおかげだからね」大河原の言葉に、フロアの大半の人間は小さく頷くか、怯えたように目を逸らす。だが、湊たちのデスクだけは空気が違った。
その日の夕方、定時を過ぎて健常者社員たちが一斉に退社したオフィスビル。大河原が一人、静まり返った人事部で残業代の申請書を弄っていると、背後で車椅子のタイヤが回る小さな音がした。「大河原さん。少し、経営資源の最適化についてお話しが」振り返った大河原の目に飛び込んできたのは、冷徹な笑みを浮かべる湊航と、ノートPCを抱えた瀬戸玲央の姿だった。「なんだ、湊くん。もう定時だろ?業務外の相談なら、明日の朝にしてくれ」「今でなければならない理由があります」湊は、大河原のデスクの上に、一枚の綺麗にプリントアウトされた財務データシートを滑り込ませた。「東洋興産が今期、法定雇用率をクリアするために『水増し』に近い形で人員配置を行っているデータ、および、あなたが個人的に付き合いのある無認可の就労移行支援事業所から、助成金を還流させている不適切な資金の流れキックバックのログです」大河原の顔から、一瞬で血の気が引いた。「な、何を馬鹿なことを……!そんな根も葉もないデタラメを」「デタラメかどうかは、監査法人と労働局が判断することです」瀬戸が淡々とキーボードを叩く。画面には、大河原の個人口座と、怪しげな福祉コンサルタントとの間で交わされた詳細なメールの履歴が、一寸の狂いもなく表示されていた。「あなたにとって、俺たちはただの『数合わせの駒』だったかもしれない」湊は一歩、大河原のデスクへと踏み込んだ。義足の立てる規則正しい硬い音が、静かなオフィスに威圧的に響く。「だが、俺たちにとっては、この会社全体の歪んだシステムこそが、攻略すべき最高のマーケットなんだよ。大河原さん、あなたが国から着服しようとした助成金、そしてこの会社が雇用納付金をケチることで浮かせた利益。そのすべてを、俺たちの『生存コストの最大化』のために投資してもらう」大河原は額から滝のような汗を流し、完全に言葉を失った。怯えた目で、目の前の「弱者」であるはずの男たちを見上げることしかできなかった。脅迫ではない。これは、市場における適正なリスクテイキングだ。大河原の不正と、企業の致命的な弱点を完全に握った湊たちは、それを原資として、会社側に「特例的な待遇の変更」を認めさせた。勤務時間の自由化。フロアの一部管理権の委譲。そして、ビル最上階にある「屋上」への自由な立ち入り権。健常者たちの目から見れば、それは「扱いづらい障害者グループを隔離するための措置」に過ぎなかったが、湊たちにとっては、完璧な「聖域」の確保を意味していた。夜。ビルの屋上へと続く重い鉄扉が開かれる。フェンスに囲まれたその広大な空間からは、街のネオンが一望できた。地上を走る車のライトが、まるで血管を流れる血液のように無数にきらめいている。「ここが、俺たちの市場だ」湊はフェンスに背を預け、集まったメンバーを見渡した。
車椅子の上でノートPCの画面を見つめる戦術参謀・瀬戸。プロテインシェイカーを揺らしながら、躁鬱のエネルギーを筋トレでコントロールしている轟。 暗闇の隅で言葉少なに、屋上の植栽の無駄な枝をハサミで冷徹に剪定している高次脳機能障害の鬼瓦。ノートに数式と財務データを狂気的な精密さで書き殴っているASDの冴島。ピンク、ブルー、ブラックの髪を夜風に揺らしながら、それぞれの五感とスマートフォンで外部の情報を貪り食うように集めている、夢見、灰原、琴音の三人の美女たち。社会から「欠陥品」として最底辺に追いやられた八人の男女。だが、この屋上の冷たい空気の中にいる彼らの目は、地上にいるどの健常者よりも冷酷で、知的で、飢えていた。「本日、健常者どもの『愛』十五パーセント暴落」湊はスマートフォンを翳し、全員に告げる。「逆に、俺たちの『生存コスト』は八パーセント急騰。これより、社会のバグを突いた市場介入を開始する」彼らの武器は、世間が押し付ける憐れみや同情ではない。物理的制約、脳のバグ、過敏すぎる防衛本能。そのすべてを投資原資に変え、互いの人生を最も効率的な配分で運用・管理する経済圏「屋上のエデン」が、ここに誕生した。「俺たちを舐めた社会から、一円残らず毟り取るぞ」湊の言葉に、屋上の投資家たちは静かに、だが深い狂気を孕んだ笑みを浮かべて頷いた。彼らのサバイバルは、ここから始まるはずだった。この完璧なポートフォリオが、いずれ脆くも崩壊する予兆を、この時の湊はまだ知る由もなかった。




