最終章 異常値(雑巾)はエデンに鳴り響く
「マヨネーズ」三十パーセント暴落。 「ステーキ」四十パーセント異常値検出。そして「雑巾」が、百パーセントのストップ高を記録。
深夜の屋上、かつてない血の味がするほどの暴落と急騰のアラートが、スマートフォンから無慈悲に鳴り響いていた。だが、その異常な数値を冷徹に分析するはずの戦術参謀は、もうこの場所にいない。車椅子のタイヤが回る乾いた音も、ノートPCを叩く軽快な打鍵音も、すべては数日前の濡れたアスファルトの上で、文字通り肉体ごと圧し潰されて消え失せていた。瀬戸玲央の死。それは、東洋興産の暗部をハックし、完全無欠の牙城を築いたかに見えた屋上のエデンの歯車を、根底から狂わせる致命的なエラーだった。「ひ、う、あぁ……!」屋上の隅、アロマの香りが完全に掻き消された冷気の中で、灰原雫がインナーカラーブルーの髪をめちゃくちゃにかきむしりながら、過呼吸の発作を起こしていた。彼女のパニック障害は、瀬戸を襲った突発的な死という究極のリスクをトリガーにして、完全に決壊していた。「聞こえる、全部聞こえる……!街のノイズが、私たちを殺しにくる足音が……! センサーが壊れちゃった、もうどこにいても、誰と話していても、死ぬかもしれないパニックしか湧いてこない……!」社会の危険を嗅ぎ分ける最大の防衛センサーだった彼女の過敏さは、今や周囲のすべての事象に過剰反応するただの機能不全の塊と化していた。「雫、うるさい。耳が、耳が割れる……!」情報屋の琴音は、ノイズキャンセリングヘッドホンを両耳にこれ以上ないほど強く押し当て、床に丸まっていた。深夜のジャンクフードの袋が、彼女の周囲に異常な量で散乱している。ドカ食いで脳の多動性を抑えようという試みは、もはや破綻していた。無線から偶然拾ってしまった、瀬戸がトラックに轢かれた瞬間の「金属と肉体が潰れるノイズ」。あの音が彼女の聴覚過敏の鼓膜に焼き付き、無限にリピート再生され続けている。「情報が入ってこない……数字の矛盾が読めないよ……。街の音が、全部瀬戸が死んだ時のブレーキ音に聞こえる……!」エデンの「目と耳」が同時に潰れていた。 精神的支えであり、移動の頭脳であった瀬戸を失ったことで、各メンバーがそれまで「投資原資」として完璧に運用・管理していたはずの独自の特性は、一瞬にして自らの精神を内側から破壊する、制御不能なバグへと反転していたのだ。
「エラー。システムフリーズ。パズル、未完成。欠落。欠落」オフィスフロアの自席から一歩も動かず、無地の純白ジグソーパズルを狂ったような速度で弄り回しているのは、ASDの冴島慧だった。彼のサヴァン症候群としての驚異的な脳内計算能力は、今や「完璧なエデンというパズルから瀬戸が消えた」というバグを処理できず、無限ループに陥っていた。 「一円のズレも許されない。しかし、瀬戸玲央の分の生存コストが浮いている。これは不正会計だ。誰が承認した? 承認者は? エラー、エラー……」彼が完璧に管理していた財務データや法改正の監視書面は、完全に更新を停止し、画面にはエラーログだけが虚しく流れ続けていた。「湊、航……!」背後から、地を這うような怨嗟の声が響く。双極性障害の轟陽介が、赤黒く充血した目で湊を睨みつけていた。かつて歳の離れた弟のように瀬戸を可愛がっていた彼の「鬱」の波は、自己管理の瓦解と共に、制御不能な狂躁へと急激にシフトしていた。「お前が……お前が陽介(俺)の自立の足を引っ張って、この檻に縛り付けたからだ! 俺たちがここにいたから、瀬戸は死んだんだ! なぁ、次は誰をパージするんだよ!?効率の悪い駒から順番に間引くのか!?だったら俺を今すぐ殺せよ!!」轟は、かつて筋トレで鍛え上げたその巨体を震わせ、デスクを殴りつけた。バキィ、と派手な音がしてプラスチックの天板が叩き割れる。感情のブレーキとアクセルが同時にぶっ壊れたエンジンの暴走。その轟の背後に、高次脳機能障害の鬼瓦剛が、無表情のまま音もなく立ち塞がった。その手には、あの鋭利な剪定ハサミが握られている。「ノイズ……パージ。無駄な、枝……」鬼瓦の恐怖心のブレーキが壊れた脳は、瀬戸という経済圏の最も美しい枝が外因で折れたショックにより、攻撃性の制御を完全に失っていた。湊の指示を待つこともなく、彼は街の加害者や、目の前で喚き散らす轟というノイズを、直接物理的にパージしようと、ハサミの刃を冷たく噛み合わせる。
「やめなよ、みんな……。醜いなぁ、健常者以下じゃない」ピンクの髪の夢見凪が、スマートフォンの画面を弄りながら、うつろな目でおぞましい笑みを浮かべていた。彼女の境界性パーソナリティ障害が弾き出したのは、強烈な見捨てられ不安の暴発だった。「瀬戸くんに置いていかれちゃった。次は湊でしょ?どうせみんな私を捨てていくんだわ。だったら、私が先にこの経済圏のデータを全部労働局に売って、みんなで一緒に心中しちゃおうか? ねぇ、その方がずっとずっと、深く繋がれるよね……?」かつて大企業や福祉の搾取者たちを完膚なきまでに論破し、実利を貪り尽くした最強の弱者集団。その実態は、戦術参謀を失っただけで、互いが互いのバグで自滅し合う、見るも無惨な機能不全の怪物へと成り下がっていた。
「全員、黙れ」
フロアの喧騒を引き裂いたのは、湊航の、凍りつくほど低く、圧倒的な質量を持った一言だった。湊は、割れたデスクの前に立ち、ゆっくりとメンバー全員を見回した。彼の視線には、同情も、焦りも、怒りすらもなかった。あるのは、ただ絶対的な、狂気的なまでの「合理性」だけだった。「瀬戸の死に惑わされるな。奴は、自分の四輪の限界と、都市のアスファルトの死角を突いて戦い、そして死んだ。それだけだ。健常者の社会が、奴を殺したわけじゃない。物理法則という、この世界の冷徹なシステムが奴を清算したに過ぎない」「よくそんな冷たいことが言えるな……!」轟が掴みかかろうとするが、湊はその胸元を、義足のステップを利用した圧倒的な踏み込みで鋭く一蹴した。「冷たい? 違う、これが現実だ」湊は、自身の右脚のスラックスを乱暴に捲り上げた。蛍光灯の光を浴びて、鈍く、非情に輝く金属の義足。「見ろ。俺の右足は、とっくの昔に肉ごと削ぎ落とされて存在しない。だがな……」湊は、狂ったように顔の筋肉を歪め、不敵な笑みを浮かべた。「今、この瞬間も、そこにあるはずのない右足の親指が、肉を引きちぎりたくなるほど、脳髄が真っ赤に焼け落ちるほど、狂いそうなほど痒いんだよ!!」全員の動きが、湊の放つ異様な狂気の熱量に、一瞬で凍りついた。
「瀬戸を失った損失は、確かに大きい。エデンのシステムは一時的にバグを抱えた。だが、俺のこの幻肢痛は、二十四時間、三百六十五日、一度だって止まったことはないんだ!脳のバグ、身体の欠陥、精神の歪み。それがどうした!?俺たちは、その欠陥を初期資本にして、このクソみたいな健常者の社会から実利を毟り取るために、ここに集まったんじゃなかったのか!?」湊は、血が出るほど強く義足を床に叩きつけた。「冴島、フリーズしている暇があるなら、瀬戸の死亡によって発生する東洋興産の法定雇用率の完全な空白期間を計算しろ。奴らは今、瀬戸の穴を埋めるために躍起になっている。これを逆手に取る」「エラー……空白……計算、開始」冴島の指が、再びマシンのようにキーボードを叩き始めた。「琴音、耳を塞ぐな。瀬戸の死に怯える健常者どもの、人事部の裏金動向のノイズを拾え。灰原、その恐怖のセンサーを外に向けろ。大企業がこの不祥事をどう隠蔽しようとしているか、その悪意の濃度を測るんだ」湊の圧倒的な意志の力が、バグりかけていたメンバーたちの脳髄に、新たな生存戦略のプロトコルを強制的に書き込んでいく。彼らはダークヒーローではない。社会の理不尽を逆手に取り、独自のロジックで生存コストを最大化する、ただの冷徹なサバイバーだ。戦術参謀を失ったのなら、リーダーである湊が、その狂気ごと盤面を牽引するまでのこと。「夢見、お前が裏切る前に、東洋興産の上層部へ瀬戸の労災隠蔽の証拠をチラつかせて心理障壁を爆破してこい。鬼瓦、そのハサミの矛先は、内側の仲間ではなく、俺たちの利権を削ろうとする外のノイズに向けるんだ」「……了解」鬼瓦がハサミを収め、夢見が歪んだ、だが確信に満ちた笑みを取り戻す。機能不全に陥りかけた「屋上のエデン」というシステムが、湊の強烈な幻肢痛によって、再びドロドロとした黒い輝きを放ちながら駆動し始めた。
深夜。一人、ビルの最上階の屋上へと出た湊航は、フェンスに背を預け、冷たい夜風を浴びていた。街のネオンは相変わらず眩しく、健常者たちの社会は何事もなかったかのように回っている。瀬戸という一人の青年が死のうとも、この世界という巨大なシステムは一ミリの感傷も抱かず、ただ次の利益へと向かって邁進するだけだ。
「合理的だな、本当に……」
湊は、狂いそうなほど痒む無い右足の親指を感じながら、夜空に向かって不敵に微笑んだ。 戦術参謀を失ったエデンは、ここからが本当の地獄だ。外部からの圧力、メンバー内の精神的バグ、そして瀬戸の穴を埋めるための次なる市場介入。すべてが圧倒的なリスクに満ちている。だが、湊の瞳には、一切の諦めはなかった。「瀬戸。お前の分の四輪は、俺がこの動かない右足で全部回してやる。社会のバグを運用し、実利を貪り尽くす。俺たちの生存戦略は、これからが本番だ」スマートフォンの画面がチカチカと点滅し、冴島から次なるターゲットの、東洋興産を揺るがす巨大な不正物流ルートのデータが転送されてくる。「雑巾」百パーセントストップ高。それは、彼らが社会の底底で、健常者どもの汚れを拭き取りながらも、その利権をすべて買い叩くための反撃の合図だった。湊航は、義足の硬い音を響かせながら、次なる巨大な市場介入を見据え、暗闇の向こうへと歩き出した。社会の理不尽をハックする、超合理的サバイバル・ドラマ。 エデン崩壊の予兆を孕んだまま、彼らの果てしない戦いへ続く。
【エピソード一 完】




