A Room of One's Own ―わたし自身の声で―
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
「私は、リラさんに救われたので」
茶を注いでいたリラの手が止まった。
ほんの一瞬だった。けれど、傾いたポットから細い茶が同じ場所へ落ち続け、カップの表面に広がった輪がゆっくり重なっていく。その向こうでは誰かが椅子を引く音がしていたが、クロセには妙にはっきりと、その小さな波紋だけが見えた。
「……そうですか」
「はい」
リラは何事もなかったように手首を戻し、ポットを傾け直した。湯気が二人の間を薄く横切り、注ぎ終えたカップがクロセの前へ置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
クロセが両手でカップを受け取っても、リラはその場を離れなかった。いつもなら次の席へ向かうはずの足が止まったままで、やがてエプロンの端に触れていた指が離れる。
「クロセさん。少し、いいですか?」
「もちろんです」
リラは向かいの席へ腰を下ろした。少し前まで相談に来た人が座っていた椅子で、座面にはまだ浅い沈みが残っている。
膝の上で重ねたリラの指が、一度ほどけてから、もう一度ゆっくり組み直された。
「……何を話せばいいのか、分からなくて」
「私も、何を聞けばいいのか分かりません」
リラが顔を上げた。
「そこは、何か言ってくれないんですか?」
「下手に聞くと、違うところへ連れていきそうなので」
「自覚はあるんですね」
「最近、少し」
クロセが開いていた記録板を閉じると、青白い光が一つ消えた。リラはその動きを目で追ってから、肩をわずかに落とす。
「では、聞いていてください」
「それならできます」
「たぶん、それが一番助かります」
クロセは頷き、カップに添えていた指を離した。
リラはすぐには続けなかった。膝の上で重ねた指を一度組み直し、息を整えるようにゆっくり吐く。
クロセも口を挟まず、その向かいに座っていた。
しばらく聞こえていたのは、少し離れた場所で交わされる低い声と、食器が触れ合う乾いた音だけだった。
「その前に、一つだけ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「どうして、私だったんですか?」
「申立人のことですか」
「はい」
「ここで継続して活動していて、今回の措置を自分自身の問題として受ける可能性がある人だからです」
リラは返事をせず、親指で反対の手の甲をゆっくり撫でた。
「……この場所を大事にしていそうだったから、ではなく?」
クロセはサロンの中を見回した。
椅子とテーブルが並び、飲みかけのカップがいくつも残っている。奥では誰かが声を落として話し、その向こうでは別の誰かが記録板を眺めていた。人が動くたびに小さな音が生まれるのに、どれもこの場所では珍しくない。
「そこは、まだ分かりません」
「分からない?」
「ここに何かがあることまでは分かってきました。でも、それがこの場所と一緒に失われるものなのか、別の場所へ持っていけるものなのかは、まだ分けられていません」
リラもクロセの視線を追った。少しのあいだサロン全体を眺めてから、今度はゆっくり身体をこちらへ戻す。
「では、このサロンが別の場所へ移ったら、クロセさんはついてきますか?」
「行きます」
「……早いですね」
「考える必要がありますか?」
「ないみたいですね。クロセさんには」
「はい」
リラの口元がわずかに緩んだ。けれど、その表情はすぐには笑みに変わらず、何かを確かめるようにクロセの顔へ残っている。
「では、ここでなくてもいいじゃないですか」
今度はクロセが考えた。
「私については、そうかもしれません」
「私については?」
「私は、場所だけを目的にここへ来ているわけではありませんから」
「何を目的に?」
「リラさんです」
リラが黙った。
視線だけがクロセの顔に残り、数秒遅れて頬がわずかに強張る。
「……そういうことを、普通に言うんですね」
「質問されたので」
「質問した私が悪かったみたいに言わないでください」
「そういう意味ではありません」
「分かっています」
そう答えたわりに、リラはクロセを見なくなった。
テーブルの上に残った茶の輪へ視線を落とし、そこへ指先を寄せる。触れる直前で止めてから、細く息を吐いた。
「私、人の話を聞くのが好きなんだと思っていました」
「違うんですか?」
「好きです。それはたぶん、本当なんです」
リラはカップの縁に指を添え、自分の中にあるものを一つずつ確かめるように言葉を続けた。
「誰かが困っていると、何をすればいいのか分かります。話を聞いて、できることがあれば手伝って、分からなければ一緒に考える。そうしている間は、自分が何をしていればいいのか迷わなくて済むんです」
少し離れた席で構造図を見ていたシグレが顔を上げた。
二人を一度見てから手元の板を閉じ、妙に慎重な動作で立ち上がる。
「……拙者、少々確認することを思い出したでござる」
「今ですか?」
「今でござる」
抱えた記録板を胸元へ寄せ、そのまま離れていく。
リラは遠ざかる背中を見送り、小さく息を漏らした。
「気を遣わせましたね」
リラは一度笑いかけたものの、口元に浮かんだものを途中で収めた。代わりに背筋を少しだけ伸ばし、膝の上で重ねた手へ視線を落とす。
「嫌なことを言ってもいいですか?」
「どうぞ」
そこで一度、呼吸が止まった。
「誰かが困っていると、少し嬉しいんだと思います」
クロセは返事をしなかった。
驚かなかったわけではない。ただ、何を返せばいいのか分からず、カップの取っ手へ置いた指だけがわずかに動いた。
「困ってほしいわけではないんです。でも、そこへ私が手を伸ばせることは嬉しい。ありがとうって言われることも、また来てもいいですかって聞かれることも、私がいると助かるって言ってもらえることも……好きです」
話すうちに、それまで途切れがちだった言葉が少しずつ滑らかになっていく。
それでも最後の一言を出す前には、リラの喉が小さく動いた。
「人を助けたいのも本当です。でも、必要とされたいのも、本当みたいです」
「そうですか」
「嫌じゃないんですか?」
「何がですか?」
「今の話です。あまり綺麗ではないでしょう」
クロセは答えようとして、やめた。
湯気の薄くなった茶へ目を落とし、少し考えてから顔を上げる。
「……分かりません」
「分からないんですか?」
「こういう時に、綺麗かどうかを決めるのは得意ではありません」
「そこは否定してくれてもいいところですよ」
「そうなんですか?」
今度はクロセの方が困った。
その顔を見て、リラの口元がほんの少し緩んだものの、すぐに視線が下がる。
「誰にも必要とされていないと、何をすればいいのか分からなくなるんです。みんなが楽しそうにしていて、私がいなくても何も困らないように見えると、自分だけが余っているような気がして」
声が次第に小さくなり、最後には向かいの席にいるクロセへ届く程度まで落ちた。
「……ここにいる意味、あるのかなって思います」
クロセはすぐには答えなかった。
何か言おうとして、結局カップへ視線を落とす。
「少しだけなら、分かる気がします」
「少しだけ?」
「私も、やることが決まっている方が楽です。聞いたことを整理するとか、記録するとか、どこへ届けるか考えるとか。その辺りなら、迷わずに済みます」
「それ以外は?」
クロセは一度口を閉じた。
「今も、何を言えばいいのかかなり困っています」
リラが瞬きをする。
「そんな顔には見えませんけど」
「顔に出す方法が分からないので」
「……やっぱり、少し違いますね」
「何がですか?」
「クロセさんは、隠しているというより、隠れていないことに気づいていないんです」
「そうなんですか?」
「今のところ、その認識で大丈夫です」
クロセにはよく分からなかったが、訂正できる材料もなかった。
リラは少し姿勢を変え、胸元へ片手を添えた。さっきまで膝の上に重なっていた指が、今度は服の布地を軽くつまんでいる。
「私は、隠せるんです。人の話を聞いて、笑って、その人が少し楽になれる言葉を探せます。本当にその人のためにやっているし、嘘をついているつもりもありません」
そこで指先の動きが止まった。
「でも、その間は、自分のことを見なくて済むんです」
誰かが来れば、することができる。相談する場所を探している人には席を用意し、初めて来た人が迷っていれば声をかける。
そうして過ごすうちに、人が訪れるたび、この場所へ自分を結びつけるものが少しずつ増えていった。
「ここへ来てくれる人が増えるほど、私はここにいたくなりました」
リラは星空サロンを見回した。
何度も眺めてきたはずのテーブルも、カップも、そこで話している人たちも、今は少し違うものを見るような目で追っている。
「たぶん、一番ここに執着しているのは、私です」
クロセは口を挟まず、その視線の先を一緒に見た。
「運営が世界を守ろうとしていることも分かっています。ここだけ特別にしてくださいなんて、簡単に言える話ではないことも分かっているつもりです」
リラはカップから手を離し、今度はクロセへ向き直った。
「それでも、世界が残っても、ここがなくなったら嫌です」
言葉にした直後、肩に入っていた力がほんの少し抜けた。
その一方で、視線は外れなかった。
「たくさんの人がいる世界なのに、自分の居場所の方が大事だなんて。ひどいでしょう?」
クロセは考えた。
否定すればよいのかもしれない。けれど、それを自分が決めるのも違う気がした。
「……少し安心しました」
「どうして?」
「リラさんも、自分のことで困るんですね」
リラの目が大きくなる。
「それ、かなり失礼ですよ」
「すみません」
「今度はちゃんと謝るんですね」
「失礼だと言われたので」
リラは額へ手を当てた。
しばらく俯いていた肩が一度揺れ、やがて指の隙間から笑い声が漏れた。それは相談相手へ向けるために整えられたものではなく、止めようとしても残ってしまったような笑いだった。
「本当に、毒気を抜かれますね」
「そうですか」
「はい」
笑いが収まるころには、さっきまで胸元をつまんでいた指も離れていた。
リラは背もたれへ少し身体を預け、それから改めてクロセを見る。
「でも、悪いことではないんですか?」
今度はクロセの方が黙った。
「また分からない?」
「はい」
「逃げました?」
「少し」
「認めるんですね」
「悪いことかどうかは、私には決められません」
そう答えてから、クロセは閉じたままの記録板へ目を向けた。
「ただ、人を助けたいことも、必要とされると嬉しいことも、今の話では両方あるんですよね」
「……はい」
「なら、片方だけなかったことにする理由はないと思います」
「記録みたいですね」
「その方が、私には分かりやすいので」
「やっぱり逃げてますよ」
「否定はしません」
リラはしばらく何も言わなかった。
テーブルの縁へ置いた指をゆっくり滑らせ、そこに見えない線でも引くように一往復させる。
「人には、言えたんです」
「何をですか?」
「いていいって」
クロセの指が、カップの側面で止まった。
「あの時は、そんなに難しいことだと思わなかったんです。でも、自分のことになると全然言えませんでした」
少し前までなら、その言葉のあとに誰かの名前が続いたのだろう。
今は続かなかった。
「誰かのためなら、ここを残してほしいと言えます。相談に来る人のためとか、初めて来る人のためとか、ここを使っている人のためとか。でも、それを全部外したあとに私だけが残ると、急に言葉がなくなるんです」
リラの視線がまた手元へ落ちた。
クロセはその横顔を見ながら、しばらく考えた。
「私が言いましょうか」
リラが顔を上げる。
「……言ってくれるんですか?」
「必要なら」
「何て?」
クロセは口を開いた。
そこで止まった。
最初の一語を探しているうちに、眉間へ薄く皺が寄る。
「すみません。うまくまとまりません」
リラが吹き出した。
「そこまで来て?」
「リラさんのことなので、私が決めると違う気がしてきました」
「先に気づいてください」
「はい」
笑いの余韻がまだ残っているうちに、リラは一度深く息を吸った。
胸がゆっくり持ち上がり、吐く息とともに肩が下がる。
今度はクロセから目を逸らさなかった。
「私が、ここにいたいです」
言葉が二人の間へ落ちても、すぐに次の会話は続かなかった。
リラは口を閉じたまま、今自分が言ったものを確かめるように座っている。やがて頬に残っていた強張りが少し緩み、照れたように目元が下がった。
「……言えました」
「はい」
リラの視線がテーブルの上へ移り、閉じた記録板のところで止まった。
「クロセさん」
「はい」
「さっきの申立人の話、まだ間に合いますか?」
「もちろんです」
「なら、私がやります」
先ほどまでとは違い、言葉を探す間はなかった。
「みんなの代わりにはなれません。ほかの人が何を失うのかを、私が決めることもできません。でも、私自身のことなら言えます」
クロセは記録板を開いた。
青白い光が戻り、向かいに座るリラの頬と、テーブルに置かれた指先を淡く照らす。
「それなら、記録できます」
「お願いします」
【それを、誰が受けるか】
空欄だった場所へ、クロセは名前を入れた。
【リラ】
【星空サロン代表/継続的利用者】
そこで一度指を止め、次の行を開く。
【本人の継続的活動への影響】
【申立意思:あり】
リラが身を乗り出し、テーブル越しに表示を覗き込んだ。髪が肩から滑り、その先が記録板の光を受ける。
「代表と書いてありますけど」
「登録上の肩書です」
「そこが理由ではない?」
「申立てで確認するのは、その下です」
リラは身体を少し近づけたまま、もう一度表示を上から読み直した。
「私自身の話だから?」
「はい」
「なら、よかったです」
クロセも頷き、記録板から手を離した。
そこで話は終わったはずだった。
けれど、リラは席を立たない。
身体を戻すと頬杖をつき、指先へ軽く頬を預けたままクロセを見ていた。
視線に気づいたクロセがわずかに眉を寄せる。
それを見たリラの目元が柔らかく細まった。
「クロセさん――――
――――最後まで、付き合ってくださいね」
さっきまで何度も手元へ落ちていた視線が、今度はまっすぐこちらへ向いている。
「クロセさんを見ていると、安心するんです。私より、ずっと分かりやすいから」
「何がですか?」
「困っているところが」
「……それは、褒めていますか?」
「安心したと言いました」
リラは頬杖をついたまま楽しそうに笑い、今度は目を逸らさなかった。
クロセは少し考えたあと、その意味を理解するのを諦めたように頷いた。
「では、困った時はお願いします」
「ええ、待ってます」
返事は妙に早かった。
クロセが首を傾げても、リラは答えず、口元に残った笑みをそのままに、自分の茶へ手を伸ばした。
【申立人確認・聴取メモ】
対象者:リラ
属性:星空サロン代表/継続的利用者
申立意思
あり
本人が自己のものとして述べた利益
星空サロンにおける継続的活動
本人発言要旨
・他の利用者全員を代表するものではない
・他の利用者が何を失うかを自分が決めるものではない
・自分自身は星空サロンを失いたくない
・自分自身がこの場所にいたい
今後の確認
本人供述と利用記録、相談記録その他の客観的記録を照合する。




