Never Let Me Go ―ここにいる理由―
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
グレンはまだ何か言いたそうだったが、クロセは見なかったことにした。
戻ってきたばかりのシグレへ記録板を向ける。
「シグレさん。少し見てもらえますか」
「もちろんでござる」
シグレは椅子を寄せ、四つの問いと外で拾ってきた記録へ順に目を走らせた。
読む速度は速い。
ただし、途中で一度戻り、同じ行を読み直す。
「ひとつずつなら、代わりがあります」
クロセが言う。
「待ち合わせ場所は変えられる。店も別の場所で探せる。道も覚え直せます」
「そうでござるな」
「それだけでは、止める理由として弱い」
「少なくとも、それだけでは足りぬでござろうな」
即座には肯定されなかった。
クロセは少しだけ言葉を止め、そのまま新しい行を加えた。
五 なぜ、いま強制移転でなければならないのか
シグレの視線が、そこで止まる。
「そこは外からでは見えぬでござるな」
「はい」
「どうするでござる?」
「起きたことなら追えます」
昨夜の全体影響記録を開いた。
強制待機列による滞留や、表示遅延による再照会、市場への迂回、別拠点への移動が並ぶ。
第一段階でも、使えなければ別を探し、表示されなければ確認し、待たされれば別の経路を選ぶという動きが出ていた。
「強制移転なら、これがもっと大きく――」
そこまで言って、クロセは止まった。
「……なるかもしれません」
「まだ起きておらぬでござるからな」
「はい。今のは推測です」
シグレが小さく頷く。
「ただ、人そのものが動くなら、何を見るべきかを先に決めておくことはできるでござる」
クロセは今朝の記録へ戻った。
待ち合わせ場所を決め直すこと、新しい店を探すこと、道を覚え直すこと、仲間へ連絡して移転先を確認することが並んでいる。
クロセは一つの欄を作った。
【強制移転によって減るもの】
シグレがその文字を見る。
「減るものだけでござるか?」
クロセの指が止まった。
「……ほかに?」
「場所が変われば、確認が増える。連絡も増える。探し直す者も出るでござろう」
クロセは今朝の記録を見直した。
「増えるもの」
「そうでござるな」
隣へ、もう一つ欄を作る。
【強制移転によって増えるもの】
二つを並べた。
どちらも、まだほとんど空欄だった。
「どこから見るでござる?」
クロセは机に広がった記録へ視線を走らせる。
市場、移動経路、拠点、連絡記録。
「まず、今ある記録と突き合わせます。推測は、そのあとにします」
「了解でござる」
シグレが構造図を引き寄せ、クロセも記録板へ戻ろうとした。
そこで手が止まった。
今朝から、自分は似た問いを何人にも向けている。
「シグレさん。もう一つ、聞いてもいいですか」
「何をでござる?」
「どうして、ここまでやっているんですか」
シグレが少し首を傾げた。
「拙者の話でござるか」
「はい」
シグレは記録板から手を離し、机に広げられていた構造図を自分の方へ少し引いた。
「現実でも、白と黒の間は見えるのでござるよ」
「グレーですか」
「そうでござる」
構造図の上では、軽量表示や再照会、市場迂回、待機列といった線がいくつも枝分かれしている。
「ただ、見えることと、そこへ入れることは別でござる」
「入らない、ではなく?」
「入れない、でござるな」
シグレは一本の線へ指を置いた。
「試す前に影響を確認する。手順を作る。根拠をそろえる。問題が起きた時に、どこまで戻せるかも決めておく」
「慎重ですね」
「現実では、気軽に失敗できぬからな」
「自分だけの失敗では済まないから?」
「そういうことでござる」
シグレは苦笑し、肩を少し竦めた。
「仕事で『とりあえず試してみます』とは、なかなか言えぬ」
「言ったことは?」
「ないでござる」
返事が早かった。
「今のは迷いませんでしたね」
「想像しただけで胃が重くなるのでござるよ」
シグレが笑う。
冗談らしいが、完全な冗談にも見えなかった。
「でも、ここでは試せるのでござる」
「失敗しても構わないから?」
「そうではないでござるよ。失敗した時に、戻って別の道を選べるのがよいのでござる」
「現実と、あまり変わらないようにも聞こえます」
「全然違うでござる」
シグレは構造図の中で行き止まりになっている線をなぞった。
そこで止まっていた指が、少しだけ横へ動くと、何もなかった場所へ細い線が一本伸びた。
「ここでは、自分で道を作ってもよい」
クロセはその線を見る。
「それが、自由ですか」
「拙者にとっては、かなり」
「ござると話すことも?」
「それも非常に重要な自由でござる」
シグレは少し胸を張った。
「現実の拙者は、ここの拙者よりずっと真面目なのでござるよ」
「想像できます」
「そこは否定してほしかったでござるな」
クロセは笑った。
構造図には、シグレが作った細い線がそのまま残っている。必要なら消せるし、駄目なら戻って別の道を引ける。それでも、最初からそこに用意されていた線ではなかった。
クロセはしばらくそれを見たあと、机の上へ視線を戻した。
外で聞いてきた記録をめくると、待ち合わせや相談、初心者支援といった別々の内容の横へ、同じ名前が何度か現れている。
星空サロン。
もう一枚開く。
「……また」
「何がでござる?」
「いえ」
この場所を起点に集めた以上、星空サロンの名前が多くなること自体は不自然ではない。
クロセはそう考え、次の記録へ移ろうとした。
少しして、同じ行へ戻る。
さらにもう一度。
「クロセ殿」
「はい」
「そこ、三回目でござる」
クロセは文字から目を離した。
瞬きをすると、乾いていた目の奥が少し痛んだ。
「そうですか」
「休んだ方がよいのでは」
「さっき休みました」
「茶を一杯飲んだだけでござろう」
「休憩です」
「そうでござるか」
シグレはまったく納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
代わりに、横から別の声がした。
「お代わり、いりますか?」
顔を上げる。
リラが空になったカップを見ていた。
「はい」
答えてから、自分でも少し早かったと思った。
リラは何も指摘せず、ほんの少し口元を緩める。
「分かりました」
カップを受け取り、新しい茶を淹れに向かう。
シグレはその背中を見送っていたが、やがて何かを思いついたようにクロセへ向き直った。
「ところで」
「はい」
「クロセ殿は、なぜなのでござる?」
今度はクロセの手が止まった。
「私ですか」
「拙者には聞いたでござろう」
「そうですね」
「なら、こちらから聞いてもよいはずでござる」
理屈としては正しい。
こういう時の正しい理屈は少し困る。逃げ道をきれいに塞いでくる。
クロセはすぐには答えなかった。
朝から聞いてきた人たちの顔が、順番に浮かぶ。
グレン。
シオン。
ミナト。
そして、今目の前にいるシグレ。
自分にも、同じように一つの理由があるのだろうか。
そこまで考えても、うまく言葉にはならなかった。
視線を動かす。
少し離れたところで、リラがカップへ茶を注いでいる。
答えと呼んでいいのかは、まだ分からない。
それでも、最初に浮かんだものだけは消えなかった。
「私は、リラさんに救われたので」
リラの手が、ほんの少しだけ止まった。
【訴訟準備前資料・暫定メモ 追記】
一 強制移転によって生じる可能性のある変化
【減少する可能性があるもの】
・既存地点への習熟
・既存の待ち合わせ関係
・既存店舗、取引相手との接触機会
・相談先として認識されている場所
・特定地点に人がいるという期待
・継続利用によって形成された利用関係
現時点で数量化できず。
【増加する可能性があるもの】
・移転先の確認
・利用者間の再連絡
・待ち合わせ場所の再設定
・店舗、取引相手の再探索
・移動経路の再確認
・問い合わせ及び再照会
・移転に伴う人流
第一段階措置において、
表示遅延、
待機、
利用制限等に対し、
迂回、
再照会、
別地点への移動
が発生している。
ただし、
強制移転時に同様又はそれ以上の変化が生じるかは未確認。
記録との突合せが必要。
二 追加で確認すること
五 なぜ、現時点で強制移転を行う必要があるのか
六 強制移転を行わない場合、何が生じるか
七 より弱い措置による代替が可能か
三 現在不足している資料
・対象拠点ごとの継続利用記録
・利用者間の移動、連絡実態
・強制移転後の復元可能性
・移転に伴う再照会数の推計
・移転先の条件
・強制移転を必要とする運営側事情
・第一段階措置によって減少した負荷
・第一段階措置によって新たに発生した負荷
・申立人候補と具体的不利益との対応関係
四 現時点の整理
個々の利用について、代替手段が存在するものはある。
ただし、
代替先が存在することと、
移転前の状態へ回復できることは同一ではない。
また、
強制移転によって何かが失われるだけでなく、
確認、
連絡、
探索、
再照会など、
新たに発生する行動がある可能性も確認する必要がある。
現段階では、
誰について、
どの不利益が、
どの程度回復困難なのか
について資料不足。
加えて、
なぜ現時点で強制移転を行う必要があるのか
について、外部から確認できる資料も不足している。
申立てには早い。
記録確認を継続する。




