The Things They Carried ――名前をつける、その前に――
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
朝の王都は、思っていたより明るかった。
星空サロンの扉を閉じると、夜通し灯っていたオレンジの光が細くなり、最後に扉の向こうへ消えた。中で重なっていた話し声や記録板の通知音も遠ざかり、代わりに、まだ人の少ない通りを渡る風の音が耳へ入ってくる。
外の空気は少し冷たかった。
石畳には夜の湿り気が残っていて、踏み出すたび、靴底から冷えた感触が返ってくる。湖の向こうから昇った朝日が王都の白い壁を照らし始め、軒や窓枠の影を長く道へ伸ばしていた。
行き先は決めていない。
クロセは一度だけ背後の扉を見た。
そのまま歩き出す。
朝の街にも、それなりに人がいた。
夜から残っているらしい者もいれば、今しがた接続したばかりなのか、軽い足取りで店へ向かう者もいる。開店準備をする店主の横では誰かが商品を眺め、広場の端には一人で誰かを待っている者が立っていた。
中央広場まで来たところで、クロセの歩幅が狭くなった。
やがて、足が止まる。
噴水の水が止まっていた。
昨日までは聞こえていた水音がなく、浅く残った水面だけが朝日を返している。縁では二人が話し、その前を荷物を抱えた男が横切っていった。
少し離れた店先では、店主が客へ何かを説明している。
噴水以外は、だいたいいつもの朝に見えた。
クロセはしばらくそこへ立っていたが、やがて広場の端へ寄った。
目の前を人が行き交っている。
そのうち一人が近くを通った。
「あの、少しよろしいですか」
「はい?」
「現在、この場所をどのような目的で利用していますか」
男の眉間に皺が寄った。
クロセは答えを待ったが、返ってきたのは少し困ったような顔だった。
「……え?」
「王都ミトラノープルにおける既存登録拠点の強制移転が実施された場合、あなたの活動にどのような影響が――」
「あ、すみません。急いでるんで」
「そうですか」
男はクロセの横を抜け、足早に広場の向こうへ消えていった。
クロセは記録板を持ったまま、その背中を見送る。
肩に入っていた力を少し抜いた。
「……長かったでしょうか」
誰に聞かせるでもなく呟き、今度は別の人へ声をかけた。
「普段、ここで何をしていますか」
「なんとなく?」
「具体的には」
「友達いたら喋ったり、買い物したり」
今度は答えが返ってきた。
クロセの指が記録板へ触れる。
「強制移転によって失われる具体的な利益は」
相手の表情が止まった。
「……分かんないです」
「そうですか」
「もういいです?」
「はい。ありがとうございました」
今度は回答を得られた。
クロセは広場の端へ少し寄り、友人がいれば話をすること、買い物にも利用していること、具体的な不利益について本人にも分からないことを書き込んだ。
文字は増えた。
ただ、増えた文字を見ても、何かを掴めた感じはほとんどしない。
「何してるんだ、あんた」
聞き覚えのある声が背後からした。
振り返ると、ミナトが立っていた。
店はもう閉めてきたらしい。接客中には整っていた髪が少し崩れ、目元には隠しようのない眠気が残っている。立ったまま首の後ろを揉んでいるところを見ると、黒環書庫から店へ戻り、そのまま朝まで働いていたのだろう。
「話を聞いています」
「聞けてないだろ」
「質問には答えてもらえました」
「それで何か分かったか?」
クロセは手元を見る。
「……あまり」
「でしょうね」
即答された。
「突然聞いたからでしょうか」
「じゃあ、私が同じように聞いて答えてもらえたら?」
「私の聞き方に問題があります」
「よし」
「何がですか」
「見てて」
ミナトは一歩進みかけて、ふとクロセの顔を見直した。
「その前にさ」
「はい」
「あんた、外向きの顔くらいないの?」
「……あまり得意ではありません」
「でしょうね」
「まだ何もしていませんが」
「見れば分かる」
「失礼ですね」
「じゃあ、せめて笑ってみなよ」
「笑う?」
「愛想。知らない人に話しかけるんだから」
できないことではない。
たぶん。
クロセは少し考え、口元へ意識を向けた。
「……こうでしょうか」
ミナトが黙った。
眠そうだった目が、少しだけ開く。
「違いましたか」
「前言撤回する」
「何をですか」
「笑わなくていい」
「そんなにですか」
「今のは二度とやるな」
「……分かりました」
思ったより傷ついた。
自分でも上手だったとは思わない。それでも、二度とやるなとまで言われるとは思っていなかった。
無意識に口元へ手をやりかけ、クロセは途中で下ろした。
「顔はそのままでいい。見てろ」
ミナトが振り返る。
次の瞬間、表情が変わった。
口元から力が抜け、目尻が柔らかく下がる。少し前まで眠そうだった声まで、自然に一段明るくなった。
「すみませーん。ちょっといいですか?」
近くを歩いていた女が足を止めた。
「はい?」
「この辺、よく来ます?」
「結構来ます」
「何しに?」
「フレンド待ちです」
「いつもここ?」
「大体」
「なんでです?」
「ここなら、とりあえず集合って言えば通じるんですよ」
「場所が変わったら?」
女は少しだけ首を傾けた。
「面倒ですね。また決め直さないといけないし」
「ですよね。ありがとうございます」
女はそのまま歩いていった。
ミナトがこちらを向く。
さっきまで浮かべていた柔らかな顔は、もう消えていた。
「だってさ」
クロセは記録板へ目を落とした。
待ち合わせに使っていることも、場所が変われば集合地点を決め直す必要があることも聞けている。
同じ広場で、同じように知らない相手へ話しかけただけだった。
「……何が違ったのでしょう」
「いきなり失うものなんか聞くからだよ」
ミナトは言いながら大きな欠伸を噛み殺した。目尻に浮いた涙を指で拭い、そのまま広場を顎で示す。
「普段何してるのか。よく来るのか。なんでここなのか。そのくらいから聞け」
「それで必要なことが分かりますか」
「知らねえよ」
「知らない?」
「だから聞くんだろ」
クロセは返事をしなかった。
記録板へ置いていた指も止まっている。
「感心した顔するのはまだ早いぞ。あんた、もう二人に逃げられてるんだからな」
「逃げられたわけではありません」
「じゃあ何だよ」
「一人は急いでいて、もう一人は質問への回答を終えて――」
「はいはい」
途中で切られた。
その後も、ミナトに付き合ってもらいながら何人かへ話を聞いた。
「いつも同じ店ですか」
「大体。場所覚えてるし、店主も分かるし」
別の人は、ログインすると特に用事がなくても、この辺りまで来るらしい。
「何をしに?」
「別に。ここなら誰かいるかなって」
クロセは口を開きかけた。
いつもの問いが喉まで上がってくる。
そこで一度、唇を閉じた。
「誰かいると、いいんですか」
「まあ。一人で何するか決めるより楽じゃないですか」
「そうですか」
記録板へ書き込む。
何に使える回答なのかは分からない。
今は、そのまま残した。
「次、あんたやってみな」
「私が?」
「いつまで私に働かせる気だ」
「……そうでした」
少し離れたベンチに、一人の男が座っている。
クロセは近づき、記録板を胸の前へ寄せた。
「あの、少しよろしいですか」
「はい」
「ここには、よく来ますか」
「まあ」
「何をしに?」
「別に何も」
さっそく困った。
クロセは一度だけミナトを見る。
助ける気はないらしく、少し離れたところで腕を組み、眠そうな目のままこちらを眺めていた。
「……では、どうしてここに?」
「んー」
男はベンチの背へ身体を預け、朝の空を見上げた。
「ログアウトする前、大体ここ座るんですよ」
「どうしてですか」
「景色がいいから?」
「疑問形ですね」
「考えたことないし」
「そうですか」
クロセは記録板へ視線を落とした。
男は少ししてから笑った。
「でも、なくなったら嫌かな」
「なぜ――」
言葉が口から出かかり、クロセは止めた。
さっき本人が、考えたことがないと言ったばかりだった。
少し間が空く。
その間にも、広場の向こうから開店準備の音や、誰かを呼ぶ声が流れてくる。
「……そういうものですか」
「たぶん」
男が笑った。
クロセも少しだけ口元を緩める。
横から禁止の声は飛んでこなかった。
「ありがとうございます」
それ以上は尋ねなかった。
記録板には、ログアウト前に繰り返し同じ場所を利用していることと、その場所がなくなるのは嫌だと本人が話したことだけを書く。
書き終えたところで、ミナトが横から覗き込んだ。
「最初よりマシ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどじゃない」
そう言った直後、大きな欠伸が漏れた。
口元を手で覆ったものの、今度は隠しきれず、肩までゆっくり上下する。
「眠いんですか」
「……あんたが朝まで離してくれなかったからな」
近くを通った二人組が、こちらを見た。
「語弊があります。正確には午前四時から黒環書庫で審理があり、その後――」
「やめろ。もっとひどくなる」
二人組が笑いながら通り過ぎていく。
クロセはその背中を見送った。
「……説明した方が正確だったと思いますが」
「人との会話で、正確なら何でもいいと思うなよ」
「難しいですね」
「今さらかよ」
クロセは返さなかった。
少なくとも条文なら、こちらが読もうとしただけで歩いて逃げたりはしない。
それを口にすると、また何か言われそうだった。
「じゃ、私はもう寝る」
「分かりました」
ミナトが歩き出しかける。
クロセはその背中を見てから、呼び止めた。
「ミナトさん」
「なんだ」
「一つだけ、いいですか」
「またか。手短にな」
「黒環書庫での結果は、ある程度見えていましたよね」
「まあね」
「それでも、なぜ申し立てたんですか」
眠気の残っていたミナトの顔から、少しだけ表情が消えた。
すぐには答えない。
靴先で石畳を軽く叩くと、乾いた音が足元へ落ちた。
「勝手に決めつけてくる奴らに、負けたくないんだよ」
「決めつける?」
「外は勝手に私を見るだろ。見た目とか、話し方とか。女だから、若いから、愛想がいいとか悪いとか。それだけで勝手に理由まで作る」
クロセは、さっきミナトが一瞬で作った接客用の顔を思い出した。
「……悔しかったからですか」
これは申立書に必要な質問ではない。
口にしてからそう気づいたが、取り消す気にはならなかった。
「それもある。でも、ちょっと違う」
「違う?」
「合わせるところは合わせるんだよ。笑った方がうまくいくなら笑うし、頭下げた方が得なら下げる」
「さっきのように」
「そう」
また靴先が石畳へ触れた。
「でも、ここは違う。何を仕入れるか、いくらで売るか、誰に頭を下げるか、誰に売らないか」
ミナトは自分の足元を見る。
「全部、私が決めた」
クロセも視線を落とした。
湿っていた石畳は、朝日に照らされたところから少しずつ乾き始めている。
「金で戻せるなら戻せばいい。客が減ったなら、また来させる。店が潰れないなら、まだ商売はできる」
そこでミナトが顔を上げた。
「でも、続けるか、諦めるか、別の場所へ行くか、ここで店をやるか。それまで誰かに決められるのは嫌なんだよ」
クロセは少し考えた。
「それを争った?」
「そう」
ミナトは笑った。
「それを決めるのは、私だ」
クロセは返事をしなかった。
記録板を開く。
書き込もうとして、指が止まった。
今の話を何と書けばいいのか、すぐには分からない。
カーソルが一度明滅した。
クロセは何も入れず、記録板を少し下げた。
「……難しいですね」
「何が」
「今の話を、どう書けばいいのか」
「それはあんたの仕事だろ」
あっさり言われた。
もう少し助言があるかと思ったが、ミナトは本当にそれ以上何も言わない。
「聞きたいのはそれだけ?」
「はい」
「なら寝る」
「ありがとうございました」
「礼はいい」
ミナトは歩き出した。
数歩進んだところで止まり、肩越しに振り返る。
「あ、そうだ」
「どうしましたか?」
「今度、運営に金払わせる時は手伝え」
「分かりました」
「即答か」
「聞いた話を文章にする方なら、今の聞き取りよりはましだと思います」
「自信あるんだかないんだか分かんねえな」
「今日すでに二回失敗していますので」
「そこは数えるんだな」
「記録は大切です」
「そういうところだよ」
何のことかは分からなかった。
「まあ、頼むよ」
「はい」
ミナトが片手を上げる。
「今度こそ寝る」
「おやすみなさい」
数歩進み、また振り返った。
「あ」
「はい」
「笑うなよ」
クロセの眉間へ少し力が入った。
「あれは駄目だ」
「もう分かりました」
「ならいい」
また歩き出す。
クロセはその背中を見る。
「ミナトさん」
「今度は何だよ」
「少ししつこいです」
ミナトの足が止まった。
振り返った顔には、はっきり驚きが出ている。
クロセも、自分が何を言ったのか一瞬遅れて理解した。
少し言いすぎただろうかと喉の奥が詰まりかけたところで、ミナトが声を上げて笑った。
「言うようになったな」
「そうでしょうか」
「そうだよ。じゃあな」
今度こそ、ミナトは広場の向こうへ消えていった。
クロセは少しだけその場に残った。
何を指して「言うようになった」と言われたのか、自分ではよく分からない。
ただ、強くなっていた肩の力だけは、いつの間にか抜けていた。
もう少しだけ、広場を歩くことにした。
朝日はさっきより高くなっている。
白い街路には人の影がはっきり落ち、湿っていた石畳も日の当たる場所から乾き始めていた。店先からは焼いた生地や温かい飲み物の匂いが流れ、夜とは違うざわめきが街へ広がっている。
中央広場へ戻る。
噴水は、まだ止まったままだった。
けれど今度は、水面より先に、その縁へ腰掛けている人が目に入った。
さっきとは別の人だった。
片手に飲み物を持ち、隣の誰かと話している。
クロセは足を止めず、その前を通り過ぎた。
その後も何人かと言葉を交わした。
質問がうまく通らないこともあったし、「知らない」と言われて終わることもあった。つい相手の答えを先回りしかけ、途中で言葉を飲み込んだことも一度ではない。
少なくとも、急に上手くなったわけではなかった。
いつもこの辺りへ来るという男と話しているうち、ふと別のことが気になった。
「ここで、好きな場所はありますか」
「好きな場所?」
「はい」
「急に何?」
聞かれて、クロセは少し困った。
何に使う質問なのか、自分でもまだ分かっていない。
答えを探す間、唇が少し開いたままになる。
「……知りたいので」
かなり曖昧な返事だった。
男が笑う。
「変な人ですね」
「そうかもしれません」
「あそこかな」
男が広場の端にある階段を指した。
「夕方になると、あそこから湖が光るんですよ」
「そうなんですか」
「知らないんです?」
「はい」
「じゃあ夕方見てみたら?」
クロセは指された階段を見る。
朝の今は、白い石を積んだだけの普通の階段にしか見えない。
「……見てみたいです」
「結構いいですよ」
「ありがとうございます」
男は去っていった。
クロセはその場に残り、記録板を開く。
朝から書き込んできた言葉が並んでいた。
待ち合わせに使うこと。
いつもの店へ行くこと。
誰かがいるかもしれないから立ち寄ること。
ログアウト前に同じベンチへ座ること。
その一番下で、入力欄が点滅している。
クロセは指を置いた。
夕方になると、湖が光る。
文字にしようとして、止まった。
どう書けばいいのか分からない。
しばらくそのまま立っていると、朝日が眼鏡の端へ入り、視界の一部が白くなった。クロセは少し顔を逸らし、指を記録板から離す。
保存せずに閉じた。
「……戻りましょう」
誰に言うでもなく呟き、星空サロンの方角へ身体を向ける。
戻れば、また資料を開くことになる。
さっき聞いた話が何に使えるのかも、どこまで書くべきなのかも、まだ決まっていない。
それは戻ってから考えるしかない。
クロセは歩き出した。
数歩進んでから、一度だけ振り返る。
朝日に照らされた階段は、やはりただの石段にしか見えなかった。
夕方になれば、あそこから湖が光るらしい。
それは、まだ記録していない。
【訴訟準備前資料① 利用実態聞取メモ】
■確認対象
王都ミトラノープル内における既存利用の実態
■確認方法
利用者への任意聞取り
※無作為抽出ではない
※回答者数・属性については未整理
■確認できた利用
・待ち合わせ場所としての反復利用
・特定店舗、取引相手の継続利用
・特定地点に他の利用者がいることを前提とした利用
・ログアウト前に同一地点へ滞在するなどの習慣的利用
・特段の目的を定めない滞在
・景観その他を理由とする特定地点への好み
■聞取りから確認できた事項
・場所が変更された場合、新たな集合地点の共有等が必要となる例あり
・利用理由を本人が明確に説明できない例あり
・理由を明確に説明できない場合でも、当該地点を利用できなくなることについて否定的な回答あり
・代替場所が存在することと、従前と同じ利用が継続することが同一であるかは未確認
■個別確認
店舗利用者から、営業場所の継続・移転・断念等について、自ら判断したい旨の発言あり。
■今後確認すること
・強制移転により、現在の利用が具体的にどのように変化するか
・変更後の利用状態を事後的に回復できるか
・上記影響を、自らの不利益として主張する者がいるか
■備考
聞き取った内容について、現時点では法的評価を行わない。




