明眸皓歯 ―A Terrible Beauty Is Born―
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
黒環書庫から戻った。
隣を見ると、彼女もこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの少しだけ。
そのまま、彼女が笑った。
それだけだった。
けれど、戻ってきたという実感は、不思議とその瞬間にいちばん強くなった。
白い場所の中で、彼女の黒い瞳だけが、先にこちらへ帰ってきたように見えた。
【世界標準時】
四時四十四分
白い管理空間には、出る前に開いていた窓が、そのまま残っていた。
【第一段階追加措置】
発動中
【満了予定】
六時四十分
その隣。
【既存登録拠点の強制移転】
【布告案】
作成済み
【実行時刻】
未定
未定。
見慣れた二文字だった。
何も定められていないのだから、本来なら、そこに特別な意味はない。
ただ、時刻を一つ置けば、その瞬間から意味を持つ。
空白というものは、埋められるまではひどく静かで、だからこそ、そこに何が入るのかを考え始めると妙に目についた。
彼女の指先が、白い窓の縁で止まる。
「状況を確認します」
一度、いつもの声が落ちた。
それから彼女自身が、その声に気づいたらしい。睫毛を伏せ、ほんの少しだけ間を置く。
「……確認するね」
俺は笑った。
少しだけ。
彼女は何も言わず、耳元へ落ちた黒髪を、細い指でそっと払った。
白い場所では、黒いものはよく見える。
髪も、瞳も、その影も。
今さらのように、そう思った。
【全体同期限界予測】
残り 二十時間〇六分
出る前は、十九時間十九分。
「戻ったな」
「うん」
それだけだった。
措置は止まらなかった。何かが解決したわけでもない。
それでも、数字は戻った。
なら今は、それでよかった。
椅子に腰を下ろすと、彼女は隣に立ったまま、数字を見ていた。
白い衣に、黒い髪。その向こうに、白い数字。
色のない場所だからなのか、わずかに色を持つものばかりが妙に目についた。
彼女の髪。その影。数字の光。
それから、まだ何も記されていない空白の時刻。
静かなものほど、長く見ていると別の形に見えてくることがある。
数字も、たぶん同じだった。
まだ、六時四十分まで時間がある。
*
五時を過ぎると、接続数が増え始めた。
【登録領域接続数】
上昇
朝だった。
【市場照会】
上昇
【工房関連照会】
上昇
【ギルド倉庫参照】
上昇
数字が動く。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間五十六分
それから、また動いた。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間三十二分
早い。
ほとんどすべてが増えていた。
【登録領域間移動】
通常予測超過
【登録情報再照会】
増加
【市場関連再照会】
増加
理由が並ぶ。
一つずつ見ていけば、どれも分かるし、どれも正しい。
だからこそ、少し困った。
誰も、おかしなことはしていない。
朝になったから人が起き、店を開き、荷物を確かめ、誰かに会いに行く。
昨日と同じように、今日を始めただけだった。
それだけのことが、今日の世界には重かった。
彼女の瞳が、流れていく記録を追っている。
何も言わない。
白い光だけが、その瞳の表面を滑っていった。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間十一分
戻った分が、消えた。
白い画面の端へ、赤が滲む。
【局所同期警告】
複数登録領域において
同期不安定化を検出
彼女の指が止まり、俺が窓を開いた。
【局所同期崩壊可能性】
全体同期限界到達前に
一部登録領域で同期失敗が発生する可能性あり
来た。
全体より先に、一部から。
崩れる時は、たぶん全部が一度に壊れるわけではない。
端から、見えにくいところから、一つずつ。
一つ落ちれば復旧が走り、戻ろうとして接続が増え、その分だけ処理も増える。
直そうとすることで、別の場所へ負荷がかかる。
理屈としては分かる。
けれど、分かることと安心できることは、どうやら同じではないらしい。
【局所同期崩壊可能性】
二一%
白い部屋に、赤い数字が一つ増えた。
右側を見る。
【既存登録拠点の強制移転】
【実行時刻】
未定
指を置くと、光が指の腹を透かした。
白い光だった。
温度はない。
それなのに、押せるという感覚だけが妙に生々しかった。
押せる。
まだ押さない。
ただ、そこに触れている間だけ、未来の一部へ指を置いているような気がした。
「どうする?」
彼女は答えなかった。
数字を見て、世界律を見て、それから、また数字へ戻る。
肩から滑った髪にも気づかないまま。
「お前は?」
彼女の視線が止まり、ゆっくりとこちらへ向く。
「……もう少し、待ってみたい」
「六時四十分まで?」
「うん」
短かった。
それでいい。
第一段階はまだ動いているし、一度は戻った。完全に駄目だとは、まだ言い切れない。
指を離すと、白い光が元へ戻った。
彼女の肩からもわずかに力が抜け、その動きに合わせて黒い髪が少し揺れた。
俺は、それを見ていた。
見ていた、と気づいたのは、そのあとだった。
*
【世界標準時】
六時十二分
朝は止まらない。
【登録領域間移動】
増加
【高負荷操作待機列】
増加
【理由記録参照】
増加
接続が増えれば、当然のように移動も増え、待機列も伸びてゆく。
何が起きているのかを知ろうとしている人間がいる。それ自体は、少なくとも悪いことではない。
けれど、その一つ一つが処理になる。
【全体同期限界予測】
残り 十八時間四十一分
数字は、また短くなった。
白い光の中に浮かぶ時刻を眺めていると、それが残された時間なのか、それともこちらへ近づいてくる何かなのか、時々分からなくなる。
その横に、赤い表示が増えた。
【局所同期崩壊可能性】
二五%
まだ持つ。
たぶん。
そう考えてから、自分がさっきから同じ言葉を何度も使っていることに気づいた。
たぶん。
まだ。
もう少し。
どれも確かなことを言っているようで、実際には何も保証しない。確かなものが減ってゆくと、その隙間を埋めるために、こういう言葉ばかりが増えるらしい。
六時二十八分。
【全体同期限界予測】
残り 十八時間〇三分
彼女は何も言わず、俺も何も言わないまま、二人で同じ数字を見ていた。
その数字だけが動き続けている。
六時三十四分。
【全体同期限界予測】
残り 十七時間四十二分
第一段階追加措置の窓を開く。
【満了予定】
六時四十分
解除条件は満たしていない。
むしろ、六時四十分に近づくほど遠ざかっていた。
延長欄を開く。
【第一段階追加措置】
【延長】
新たな判断理由の記録を要する
朝から増えた処理、一度だけ戻った予測、そのあと再び始まった悪化。
彼女が記録を拾って並べ、俺が余分なものを削ってゆく。
少し長い。
一つ消した。
すると彼女の指が伸びてきて、俺の手のすぐ横を通った。
白い袖と、黒い袖。
触れそうなほど近いのに、触れない。
白い窓から漏れる光の上に、二人の手の影だけが並んだ。
彼女は、俺が消した一行を戻した。
俺はその文章を読み、次に彼女を見る。
彼女もこちらを見ていた。
しばらくして、俺は何も言わずにそのまま残した。
たぶん、説明することはできた。
なぜ必要なのかも、なぜ削ったのかも。
けれど、そういう言葉を置いた瞬間に、いま交わしたものまで文章になってしまうような気がした。
【延長理由】
現行措置による一時的な負荷低下を確認したものの、
登録処理量の再増加および局所同期不安定化が継続しており、
解除条件を満たしていないため。
【延長期間】
八時間
【次回満了予定】
十四時四十分
次は、強制移転だった。
布告案そのものは、もうできている。
残っているのは時刻だけで、その空欄がさっきよりずっと狭く見えた。
【世界標準時】
六時三十八分
【全体同期限界予測】
残り 十七時間二十二分
このまま進めば、限界はほとんど零時になる。
もちろん予測にすぎない。
それでも、そこまで待つという判断はできなかった。
二時間。
前へ置く。
時刻欄に触れた。
【既存登録拠点の強制移転】
【発動予定時刻】
二十二時〇〇分
白い数字が浮かんだ。
二十二時〇〇分。
それまでは、一日のどこにでもある時刻だった。
朝が終わり、昼が過ぎ、夕方の光が消えて、その先に自然とやって来る夜の一部。
そこへ、こちらから意味を置いた。
ただそれだけで、二十二時という数字は、さっきまでとは違うものに見えた。
彼女はしばらくそれを見ていた。
白い数字が黒い瞳の中に小さく映り、その瞳が少し遅れてこちらへ向く。
目が合った。
二十二時。
そこまでに戻れば使わない。
戻らなければ、使う。
それだけの線を、今ここに引いた。
彼女がほんの少し首を傾ける。
「キミは?」
「延長する」
彼女の瞳が、わずかに細くなった。
「うん」
世界の残り方を決めるには、あまりにも短い会話だった。
けれど、長く話したところで、いま見えている数字が増えるわけでもない。
【世界標準時】
六時四十分
時間になった。
窓が切り替わる。
【第一段階追加措置】
延長
【次回満了予定】
十四時四十分
続いて、予告文が開いた。
【例外措置に関する予告】
現行措置のみでは全体同期の断絶を回避できないと判断した場合、
暫定世界律に基づき、
既存登録拠点の強制移転を実施します。
【現在の発動予定時刻】
二十二時〇〇分
【実行】
発動要件を満たす場合に限る
理由、対象、見直し、外部確認。
一つずつ確認する。
どれだけ状況が悪くなっても、こういうものまで一緒に削ってしまってはいけない。
彼女の指が確認欄の横へ置かれ、俺もその隣へ手を伸ばした。
白い光の上で、二つの指先の間には、ほんのわずかな隙間しかない。
触れようと思えば、触れられる距離だった。
その事実だけを、どういうわけか妙にはっきり認識した。
「出す」
「うん」
二人で触れる。
【第一段階追加措置・延長】
布告済み
【例外措置に関する予告】
公開済み
窓が閉じた。
白い光が消え、それまで指先に残っていた明るさまで、少し遅れて薄れてゆくように見えた。
静かだった。
少なくとも、ここでは。
*
一分も経たなかった。
【登録領域間移動】
増加
続いて。
【自主登録変更】
増加
【対象領域外への移動】
増加
【対象領域内への移動】
増加
さらに。
【登録拠点確認】
増加
【理由記録参照】
増加
【外部確認導線参照】
増加
読んだ。
だから、人は動いた。
誰かが自分の場所を確かめ、誰かが残ることを選び、誰かが離れることを選んだ。
大切なものだけを先に動かした者もいた。
どれも、不思議なことではなかった。
自分の場所がどうなるのか知りたい。残せるものなら残したいし、危ないのなら、失う前に動かしておきたい。
そう思った人間が、その通りに動いただけだった。
【全体同期限界予測】
残り 十七時間〇八分
そして、その結果を示すように数字が減った。
白い光の中で、何事もなかったように。
誰も間違えてはいなかったし、少なくとも、そう見えるだけの理由はそれぞれにあった。
【局所同期崩壊可能性】
二九%
それでも、赤い数字は一つ増えた。
二九%。
三割にはまだ届いていない。その程度の差に何か意味があるような気がして、一瞬だけ安心しかけたが、何に対して安心したのかは自分でもよく分からなかった。
第一段階を続けただけで、強制移転はまだ予告したにすぎない。
何も始めていないはずだった。
それなのに、何かがすでに始まっているような感覚だけが、白い部屋の中に薄く残っていた。
彼女は、赤い数字を見ていた。
俺も同じものを見ていたはずなのに、いつの間にか、その向こうにある横顔の方へ視線が移っていた。
白い頬に淡い赤が映り、黒い髪が一筋だけ、その近くへ落ちている。
彼女は気づいていない。
少し前までなら、俺もたぶん気づかなかった。
彼女が瞬きをすると、睫毛の影が一度だけ頬へ落ち、再び上がった。その時、開いた瞳の中に、さっきまで見ていた赤い数字が小さく映っているのが見えた。
数字そのものより、その瞳に映った数字を見ていることに気づいて、少し遅れて自分でも妙だと思った。
いつからそうしていたのかは、分からない。
彼女がこちらを向いた。
目が合う。
ほんの少しだけ、彼女は笑った。
その向こうで、数字が変わる。
【全体同期限界予測】
残り 十六時間五十九分
また減った。
さっきまでより世界の先は見えにくくなっているのに、彼女がまだ隣にいることだけは、不思議なくらいはっきり分かった。
二十二時。
まだ遠い。
遠いはずだった。
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