What We Talk About When We Talk About Loss ―ささやかだけれど、そこにあるもの―
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
淹れてもらった茶は、少し甘かった。
両手でカップを包むと、冷えていた指先へじわじわと熱が戻ってくる。湯気の向こうではリラがこちらを見ていて、目が合うたび、まだ休んでいろと言うようにわずかに目を細めた。
星空サロンの天井には夜の色が残っているものの、窓の外は少しずつ明るくなり始めている。昨夜から灯り続けていた記録板の青白さも、さっきまでより弱く見えた。
ひと口飲むと、甘さのあとから温かさが喉を通った。
頭も少しずつ戻ってくる。
戻ってくれば、机の上に積んだ資料まで一緒に思い出すので、それが良いことなのかは分からない。それでも今は、考えるより先に味が分かった。
「……おいしいです」
「よかったです」
リラがほっとしたように笑った。
その声を聞きつけたのか、少し離れた席からグレンが顔を上げる。
「クロセ。多分だけど、お前、普段は味の感想とか言わねえだろ」
「聞かれないので」
「聞かなきゃ言わねえのかよ」
「はい」
間を置かず答えると、グレンが肩を揺らした。
リラは茶を淹れたあとも自分の席へ戻らず、斜め向かいの椅子に腰を下ろしている。頬へ軽く手を添えたまま、まだこちらを見ていた。
どうやら、もう大丈夫だと判断してもらうには、少し時間がかかりそうだった。
「そんなに見なくても大丈夫です」
「大丈夫ですか?」
「……さっきよりは」
「では、もう少し見ています」
「なぜですか」
「心配なので」
迷いがなかった。
そう言われると、こちらの方が困る。
「……そうですか」
「はい」
クロセはそれ以上の反論を諦め、もう一度カップへ口をつけた。
机の上には、閉じた記録板がいくつも並んでいる。閉じたからといって、空欄まで消えたわけではない。
あとで開く。
今は触らない。
それくらいなら決められた。
クロセはカップを持ったまま立ち上がった。
「もう戻るんですか?」
「資料には戻りません」
リラの眉が少し上がる。
「別のことをします」
「そうですか」
何をするのかまでは聞かれなかった。
グレンは少し離れた場所で仲間たちと話している。クロセが近づくと、そのうち一人が席を空け、グレンもこちらを見た。
「グレンさん」
「ん?」
「どうして、そこまでやっているんですか」
グレンの手が止まった。
持っていた記録板を少し下げ、眉を寄せる。
「……また急だな」
「すみません」
「いや、別にいいけど。何の話だ?」
「今回のことです」
「広すぎる」
「あなたが言いますか」
「お前が聞いたんだろ」
その通りだった。
もう少し条件を絞ってから聞くべきかと考えたところで、クロセはやめた。さっきまで、それをやり続けて動けなくなったばかりだ。
「強制的な措置が行われれば、あなたのギルドにも影響がありますよね」
「あるな」
「でも、あなたは《黒煙の牙》だけを見ていません」
昨日からずっとそうだった。
知らない商店から連絡が来れば答え、関係のない工房の様子まで確認する。混乱が起きれば人を動かし、人手が足りなければ自分も動く。
「どうしてですか」
「どうしてって……」
グレンはしばらくクロセを見たあと、困ったように頭をかいた。
「仲間と馬鹿やりたいからじゃねえの」
「馬鹿、ですか」
「そこ拾うなよ」
「ほかに言葉がありませんでした」
「本当にお前は……」
髪をかき上げたグレンは、そのまま少し天井を見た。
「昔はさ、何もなくても人がいたんだよ」
「何もなくても?」
「学生の頃とか。学校が終わったら誰かの家に行ってさ、用事も約束もねえのに、行けば誰かいるんだよ」
話しながら、グレンの視線が少し遠くなる。
「別に、その頃の連中と仲悪くなったわけじゃねえ。仕事始めて、住む場所が変わって、結婚して、子どもができて……そうすると、『今度な』とか『また時間が合ったら』とか、『落ち着いたら』って言葉ばっかり増えてく」
「会わなくなる」
「そう。誰も悪くねえのにな」
笑ってはいたが、いつもの大きな笑い方ではなかった。
クロセはカップの縁へ親指を滑らせる。
「……厄介ですね」
「何が?」
「まだ、うまく言えません」
「そうか」
今度はいつもの顔で笑う。
「まぁ、話し戻すが。気づいたらさ、何もなくても会える奴って減ってたんだよ。でも、ここならログインすりゃ誰かいる」
「約束をしていなくても?」
「そう。全員じゃねえよ。でも誰かはいる。くだらねえ話して、失敗して、笑って、次の日に来たら、また誰かいる」
「現実の友人の代わりですか」
「違う」
返事は早かった。
グレンの目が、まっすぐクロセへ戻る。
「代わりになんかならねえよ」
「……すみません」
「謝るほどじゃねえけど、別物なんだよ」
カップを取り、残っていた茶を一口飲む。
「でもさ、大人になってから一緒に馬鹿やってくれる奴を探すのって、結構大変なんだぞ」
「そうなんですか」
「お前、全然分かってねえ顔してんな」
「分かりません」
「堂々と言うなよ」
グレンが吹き出した。
笑いが収まるのを待ってから、クロセはもう一度尋ねる。
「だから、なくしたくない?」
「ああ。その……こういう時間をな」
今度の声は、少し小さかった。
「大した理由じゃねえだろ」
「私は、大したことだと思いますけど」
「は?」
思ったまま口にしてから、少し遅れて恥ずかしくなる。
クロセは手の中のカップを持ち直した。
「なくしたくないんですよね」
「まあ」
「なら、大したことではないと、私が決める話ではないと思います」
グレンが黙った。
数秒ほど見つめられ、だんだん居心地が悪くなってくる。
「お前さ、たまに真っ直ぐすぎて恥ずかしくならねえ?」
「今、かなりなっています」
「なるのかよ」
「なります」
グレンは堪えきれなかったように笑い、クロセも逃げるように茶へ口をつけた。
頬が熱い。
まだカップが温かいので、そのせいということにしておく。
机の記録には、誰が入った時刻も、出た時刻も、滞在人数も残っている。
けれど、グレンが今話したものを、どの欄へ入れればいいのかは分からなかった。
視線を動かすと、シオンがまだ観測板に向かっている。
背筋を伸ばしたまま、指だけが細かく動いていた。工房周辺、市場表示、登録領域間の移動と表示を切り替え、そのたびに時刻を確かめて何かを書き加えている。
クロセはそちらへ向かった。
「シオンさん」
「はい」
返事はあったが、目は上がらない。
「休まれていますか」
「もう少し見ています」
クロセは一瞬、返事を忘れた。
ついさっき、リラから似た言葉を聞いたばかりだった。
ただし、見ているものはまるで違う。
「……依頼したのは私ですが、そこまで見る必要がありますか」
そこで初めて、シオンの指が止まった。
顔を上げ、しばらくクロセを見る。
「貴方がそれを聞きますか」
「なぜですか」
「昨日から一番休んでいない人に言われたくありません」
クロセは反論しようとして、やめた。
「……それは別の話です」
「便利ですね、その言葉」
シオンの口元が少し緩んだ。
そのまま観測板へ戻るかと思ったが、今度は手を膝の上へ下ろした。
「さっきの話ですよね。そうですね。現実の私は、別に不幸ではありません」
「はい」
「仕事もありますし、生活もできています。それだけは先に言っておきます」
一度、言葉を選ぶように視線を落とす。
「ただ、昔はもう少し格好よく働いていると思っていました」
「格好よく?」
「自分にしかできない仕事があって、自分だから任される役割があって、それを自分の責任でやる。そういうものがあると思っていたんです」
「現実では?」
「思っていたより、普通でした」
シオンは小さく笑った。
「私でなくても回る仕事があって、誰かが休んでも困らないようにしておく。それは、たぶん正しいんです」
「はい」
「不幸でもありません。ただ……なれなかっただけです」
普段なら、クロセはそこで頷いて終わっていたと思う。
本人がそう言うなら、それ以上踏み込む必要はない。
けれど今日は、さっきグレンへ尋ねたときと同じように、次の言葉が先に出た。
「……悔しくありませんか」
シオンが目を瞬いた。
クロセも少し遅れて、自分が何を聞いたのか理解する。
「すみません。今のは――」
「悔しかったですよ」
言葉を重ねられた。
「……そうですか」
「はい。今でも、多少は」
シオンはもう一度観測板へ手を置いた。
青白い光が指先を照らす。
「ですが、ここでは、私が観測します」
「ゲームの中でも?」
「ゲームだからです」
返事に迷いはなかった。
「私が見なければ、残らないものがあります。誰かがあとで見直すためには、誰かが最初に見て、記録しなければいけない」
指先が観測板の縁をゆっくりとなぞった。
「第漆転送門のとき、私の予測は外れました」
クロセは黙って聞く。
「見えていなかったものもありましたし、後から変わったものもありました。結果だけ見れば、私の出した情報では足りなかった」
一度、指が止まる。
シオンの視線は観測板に落ちたままだった。
「それでも、私はちゃんと見た」
声は静かだった。
けれど、それまでよりはっきり聞こえた。
「表示と実際の動きが合っていなかったことも、門の周りで人の流れが変わっていったことも、自分が見たところまでは記録した」
クロセは少し考えた。
「だから、自分が正しかったと証明したい?」
シオンはすぐには答えなかった。
観測板の端に置かれた指が、わずかに曲がる。
「……それも、ないとは言いません」
「では」
「でも、それだけなら、自分が間違っていたと分かったときに、訂正したくないはずです」
今度はクロセが黙った。
「間違っていたなら訂正します。見落としていたものがあれば足します。それでも、途中で自分の記録から手を離したくはありません」
「なぜですか」
シオンが顔を上げる。
「最後まで見たいんです」
迷いはなかった。
「ちゃんと見た。最後まで見た。そのうえで間違っていたなら、それでいい。そこまで含めて、自分が見たものにしたいんです」
観測板へ触れた手は、そのまま動かない。
「……それが、誇りですか」
「はい」
今度は即答だった。
「たかがゲームだと笑われるかもしれませんけど」
「笑いません」
「まだ何も言っていません」
「笑われるかもしれないと言ったので」
「……そうでしたね」
シオンは少しだけ目を細めた。
「ここで役割を果たすことは、私の誇りです」
その言葉のあと、クロセは自分のカップへ目を落とした。
茶はいつの間にかかなり冷めている。
グレンが話したものも、シオンが今話したものも、机の上の資料には、そのままの名前では載っていない。
クロセは考えた末、素直に尋ねた。
「これ、資料のどこに入れればいいんでしょう」
「知らねえよ」
グレンが即答した。
「私に聞かれても困ります」
シオンまで続ける。
「そうですか」
「そこは貴方が考えるところでは?」
「そうでした」
離れたところで聞いていたらしいリラが、小さく笑った。
クロセはそのまま顔を上げて天井を見た。
話を聞けば何か整理できると思ったのに、資料へ入れる場所は、むしろ分からなくなっている。
それでも、すぐ記録板へ戻る気にはならなかった。
目の前の二人から聞いたものを、また急いで自分の欄へ押し込めば、さっきと同じことになる気がした。
そのとき、リラがポットを持って近づいてきた。
「お代わり、いりますか?」
「お願いします」
自分でも少し早い返事だった。
リラは何も指摘せず、冷めた茶の上へ新しい茶を注いだ。細い湯気が立ち、甘い香りが戻ってくる。
「また難しい顔になっています」
「……分かりますか」
「分かりやすいですよ」
「そこまでですか」
「はい」
少々格好が悪い。
ただ、さっきよりは見られていても困らなかった。
クロセは温度の戻ったカップを持ち上げた。
「……もう少し、聞いた方がいいのかもしれません」
「誰に?」
グレンが尋ねる。
「まだ決めていません」
「何を聞く?」
「それも、まだです」
「何も決まってねえじゃねえか」
「はい」
「大丈夫か?」
「分かりません」
答えると、グレンが嫌そうな顔をした。
「そこは大丈夫って言えよ」
「さっき、それで失敗しました」
「ああ……」
反論できなくなったらしい。
シオンは何も言わず、観測板へ視線を戻した。けれど、指が動き始めるまでには少しだけ間があった。
そのときだった。
サロンの空気を切るように通知音が鳴る。
一枚目の白い表示が視界の端へ開き、続いて二枚目、三枚目と、同じ光が部屋のあちこちに浮かび上がった。
残っていた笑い声が止まる。
グレンがカップを机へ置き、底が木に触れて硬い音を立てた。シオンの指も観測板から離れ、リラは手にしていたポットを胸元へ引き寄せる。
【世界標準時】
六時四十分
【第一段階追加措置】
運用状況及び全体同期状態を再評価した結果、
現在の追加措置を継続する。
【延長時間】
八時間
【終了予定】
十四時四十分
白い文字が、朝の色が混じり始めたサロンを照らしていた。
さらに、その下へ新しい表示が開く。
【既存登録拠点の強制移転】
全体同期状態が所定の条件に達した場合、
例外措置として実施する。
【実行予定時刻】
二十二時〇〇分
クロセの手の中では、まだ茶が温かい。
それなのに二十二時という数字を見た瞬間、カップを支える指へ余計な力が入った。
「二十二時」
グレンが低く言った。
「はい」
クロセは表示から目を離さなかった。
二十二時までに、何かを組み立てなければならない。
反射的に自分の席へ視線が向く。
閉じた資料がある。
今なら、さっきより速く分けられる気がした。回復できるものと難しいものを分け、人数や時間を比較して、裁定に届きそうなものから並べていく。
そこまで考えたところで、クロセはカップから手を離した。
たぶん、それをやればまた同じ場所で止まる。
「……外へ行ってきます」
グレンが顔を上げた。
「今から?」
「はい」
「どこに?」
「まだ決めていません」
「おい」
「何を見るかも、誰に聞くかも決めていません」
自分で言ってみると、かなり頼りない。
グレンも同じことを思ったらしく、眉間に皺を寄せた。
「本当に大丈夫か?」
「それも、まだ分かりません」
「不安になる答えばっかり返すな」
「すみません」
「謝ればいいってもんじゃねえぞ」
それでも止められはしなかった。
クロセは残っていた茶を飲み、カップを机へ置いた。
長く座っていたせいか、立ち上がった最初の一歩だけ膝の奥が固かった。軽く足首を動かしてから、そのまま扉へ向かう。
「クロセさん」
呼ばれて振り返った。
リラがこちらを見ていた。
一度だけ何かを言いかけ、唇を閉じる。視線が机の資料へ向かい、それからまたクロセへ戻った。
「……いってらっしゃい」
それだけだった。
クロセは一瞬、返事を忘れた。
行き先すら決めていないのに、その言葉だけは、帰る場所の決まっている人へ向けられたもののように聞こえた。
「行ってきます」
なぜ嬉しかったのかは、今は考えないことにした。
机の上の資料にも触れなかった。
何を聞けばいいのかは分からないし、聞いたものをどう使うのかも決めていない。さっきの二人の話ですら、まだどこに置けばよいのか分からないままだ。
それでも、分からないまま一度見に行くことくらいはできる。
クロセが星空サロンの扉を開けると、冷えていた夜気の代わりに朝の空気が頬へ触れた。
軒の向こうでは石畳が淡く光り、夜通し灯っていた店の明かりが一つずつ薄れている。その間から、朝の光が王都の輪郭を拾い始めていた。
夜は、もう終わっていた。
【仮の差止め申立て準備資料 整理メモ・追記】
作成者 クロセ
【何を残すか】
何を書けばいい?




