Measure for Measure —以尺報尺—
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
黒環書庫の扉が背後で閉じると、さっきまで声を吸い込んでいた黒い空間も、裁定の文字も見えなくなった。
外へ出たからといって何かが変わるわけではない。それでも、張りつめていた空気から急に放り出されたような感覚があったのか、ミナトは肩から力を抜き、大きく息を吐いた。
「負けたな」
審理中ずっと顔に張りついていた接客用の微笑は、もう残っていない。
「はい」
「そこは少しくらい慰めろよ」
「事前に説明したとおりの結果です」
「本当に慰める気がないな」
「ありません」
「正直でよろしい」
ミナトは凝った肩をほぐすように片腕を回してから、閉じた黒い扉を振り返った。ほんの数秒だったが、さっきまで自分の店のことを裁いていた場所を見る目は、店先で客を待っているときよりずっと静かだった。
「まあ、うちだけ特別扱いはできないってことだろ」
「かなり雑ですね」
「でも、大きく外してはいないだろ?」
クロセは裁定記録を思い返し、小さく頷いた。
「大きくまとめれば」
「うちの損は出てる。でも、今のところ金で計算できる。しかも、うちだけ制限を外す理由もない。同じような店まで全部外したら、今度はそっちで負荷が増える」
ミナトはそこまで一息に言うと、鼻から短く息を抜いた。
「そりゃ負けるわ」
「納得しているんですか」
「裁定にはな。気に入ってるかは別だ」
「そうですか」
「だから店に戻る」
言い終わるころには、もう黒い扉ではなく、来た道の先を見ていた。背筋も伸び、さっきまで裁定を受けていた申立人ではなく、営業時間を気にする店主の顔へ戻っている。
「もう戻るのでござるか」
シグレの口調も、いつの間にかいつものものへ戻っていた。
「まだ営業時間中だからな」
「負けた直後くらい、余韻に浸ってもよいのではござらぬか」
「時は金なり。余韻は利益にならない」
「徹底しているでござるな」
「店主だからな」
ミナトはそのまま歩き出した。
「ありがとうございました」
「礼はいい」
振り返らないまま上がった片手が、軽く左右へ振られる。
「負けたまま終わらせるなよ」
「努力します」
「そこは勝つと言え」
「事実ではありませんから」
「本当に面白くないな、お前」
最後にそれだけ残し、ミナトは制限の続いている自分の店へ戻っていった。
「ミナト殿らしいでござるな」
「はい」
クロセは遠ざかる背中を見送ってから、手元に残った裁定記録を開いた。
申立てを作るときに考えていたことは、大きく外れていなかった。ただ、影響する範囲を狭く切れば、それだけで停止しやすくなるわけではないらしい。一つだけ違う扱いをするなら、その理由がいる。同じ条件にあるものまで広げたとき、全体がどう動くかも見られる。
記録の文字を追っていると、黒環書庫の中では掴みきれなかった輪郭が、少しだけはっきりしてきた。
「では、拙者もここで失礼するでござる」
隣から声がして、クロセは顔を上げた。
「シグレさんもですか」
「少々、やることができたのでござる」
「何をするんですか」
「戻ってからのお楽しみということで」
シグレは抱えていた記録板を脇へ挟み直し、口元だけで笑う。
「嫌な言い方ですね」
「では、一旦ドロンでござる」
「本当に言うんですね、それ」
笑ったシグレは、ミナトとは別の道へ足を向けた。黒い衣の裾が角の向こうへ消えるまで見届けてから、クロセも裁定記録を閉じる。
少なくとも、戻って整理する材料は増えた。
「……戻りましょう」
◇
星空サロンへ戻ると、机の上は出る前よりさらに狭くなっていた。
記録板の青白い光が何枚も重なり、その間へ利用状況や移動記録、それぞれの拠点から届いた報告が差し込まれている。誰かが新しい板を置くたびに古いものを横へずらしているらしく、端に追いやられた資料は少し斜めになり、空になったカップまで申し訳なさそうに隅へ寄せられていた。
天井に浮かぶ星明かりはいつもと変わらないのに、その下だけが妙に忙しい。
「おかえり」
グレンが椅子の背へ片腕を預けたまま、こちらを見た。
「ただいま戻りました」
「どうだった」
「ダメでした」
「そうか」
返事はそれだけだった。
グレンは一度だけ顎を引くと、開いていた記録板へ視線を戻し、そのまま指先で何枚かを横へ送る。
「じゃあ、次だな」
「はい」
「いけそうか?」
「昨日よりは」
答えてから、クロセは手にした裁定記録へ目を落とした。
「裁定理由がありますから」
「お。珍しく自信あるじゃねえか」
「そこまでは言っていません」
「今の流れなら言ったようなもんだろ」
「違います」
グレンが笑う。
クロセもわずかに口元を緩めたが、否定しながらも、昨日よりは進めると思っていた。
少なくとも、何もないところから探す必要はない。
「お疲れさまでした。座ってください」
リラが積み上がった資料の間から椅子を引いた。
「ありがとうございます」
腰を下ろすと、思っていたより深く身体が沈んだ。座面へ体重を預けた途端、黒環書庫では気づかなかった肩の重さが遅れて現れる。
クロセは背筋を立て直し、左側へ裁定記録を、右側へ昨夜からの資料を置いた。
黒環書庫が何を見たのかは分かった。
なら、その物差しに照らしていけばいい。
新しい記録板を開き、裁定理由を横に置いたまま、集まった資料を分け始める。
売上の減少は、金額として追える。利用者の離脱は確認できても、そのまま長期的な損失とまでは言えない。工房では、生産物そのものを後から作れる場合がある一方、その時間に予定されていた共同作業までは戻せない。
そこまでは迷わなかった。
事実を確認し、言えるところまでを残す。
それは、もう何度もやった。
クロセは工房の記録を一枚動かしかけ、途中で指を止めた。
戻らない時間。
確かに、後から取り戻すことはできない。
では、それだけで強いのか。
指先で摘んだ記録板の端が、宙に浮いたままになる。
一時間ならどうか。十分なら。そこにいたのが十人なら重く、一人なら軽いのか。
クロセは眉間へ寄りかけた力をほどき、いったん板を元の位置へ戻した。
数字を見れば比較はできる。
人数、時間、件数、代替できる場所の有無。
試しに影響人数の多いものを上へ置き、継続時間が長いものをその隣へ並べてみた。商店、工房、倉庫と順番に進めていけば、少なくとも見た目は整っていく。
資料の重なりが減り、机の中央に細い空間が戻ってきた。
これならいける。
そう思ったところで、個人利用の記録が目に入った。
影響を受けたのは一人。時間も短い。
数字だけを見れば、さっき作った順番では下になる。
クロセは一度そこへ置いた。
次の資料へ手を伸ばしたが、指先が途中で鈍った。
視界の端に、さっき置いた一枚が残っている。
一人だから軽い。
自分は、今そう決めた。
黒環書庫は、そんなことを言っていただろうか。
「……」
クロセは置いたばかりの記録を取り上げ、元の束へ戻した。
人数順につけた印も消す。
「どうした?」
グレンの声が飛んできた。
「少し、違いました」
「何が?」
「まだ分かりません」
「分からねえのに違うのか」
「違うことだけは分かりました」
「面倒だな、お前」
「自覚はあります」
答えながら、今度は倉庫の資料を開く。
物は残っている。後から取り出せるなら、失われたのは利用できなかった時間になる。代わりの場所が使えるなら影響はさらに小さく見えるが、そこへ移るまでに時間がかかる場合や、同じ作業ができない場合もある。
記録を追うたびに、条件が一つずつ増えていく。
読めないわけではない。分類できないわけでもない。
むしろ、分かる。
どこが足りないのかも、何を追加で確認すればよいのかも、前より見える。
それなのに、最後の一枚をどこへ置くかだけが決まらなかった。
クロセは記録板の一番下へ、新しい欄を作った。
【採用資料】
商店の記録を一枚選びかけて、手を止めた。
これは裁定では使いやすい。
では、その隣にあるものは。
工房へ移る。
こちらは時間が戻らない。ただし、代替できる工程もある。
倉庫はどうか。
個人利用は。
読み進めるうちに、さっきまで広く見えていた机が、少しずつ狭くなっていくような気がした。実際には資料を整理した分だけ空いているはずなのに、青白い表示ばかりが目に入る。
気づけば、背中が椅子から離れていた。
肩が上がり、肘を机へ寄せた姿勢のまま、記録板へ顔を近づけている。
クロセは一度身体を戻そうとして、それより先に時計を見た。
思ったより進んでいる。
「……まずいですね」
「今度は何が?」
グレンがまた顔を上げた。
「まだ、決められていません」
「何を」
クロセは答えようとして、空欄を見た。
何を、と聞かれると困る。
事実なら分けた。
不足している資料も分かる。
裁定で見られた項目も、そこにある。
それでも【採用資料】には何も入っていない。
「……何を出すかです」
「全部じゃ駄目なのか」
「全部では、何を止めてほしいのか分からなくなります」
「じゃあ強いやつ」
グレンはあっさり言った。
それで済めば早い。
裁定に届きやすいものを選べばいい。回復が難しく、影響が大きく、他と区別できる事情があるものを前へ出す。
書面としては、その方が強い。
クロセは一枚の資料へ手を伸ばした。
そこで、また止まった。
強い。
何に対して。
裁定に対して。
それなら、その条件から少し外れるものは後ろへ置けばいい。
そうしようとして、できなかった。
弱いからといって、その人が失うものまで小さいとは限らない。
逆に、その人が大切だと言ったからといって、黒環書庫が同じ重さで見るとも限らない。
どちらも分かる。
だから選べない。
クロセは眼鏡の位置を直そうとした。指がフレームへ触れて、初めて、いつもより強く眉間へ力を入れていたことに気づいた。
息を吐く。
思ったより浅かった。
もう一度、資料を見る。
人の声を拾うのはリラがうまい。現場で人を動かすならグレンがいる。入り組んだ構造をほどくときには、シグレがいる。
その人たちが持ち帰ったものを受け取り、確認して、書面へ落とす。
そこは、自分の役目だと思っていた。
少なくとも、それならできると思っていた。
なのに、空欄は埋まらない。
カーソルだけが、一定の間隔で明滅している。
クロセはいつの間にか握り込んでいた右手を開いた。指の腹に、記録板の縁を押していた跡が薄く残っている。
ここで止まるとは思っていなかった。
その考えが浮かんだ途端、喉の奥が狭くなった。
もし、これもできないなら。
では、自分は何を――
「クロセさん」
近くから呼ばれた。
顔を上げると、リラがいつの間にか机の反対側へ回っていた。
こちらではなく、クロセの右手を見ている。
「その手、一度離してください」
「手?」
言われて初めて、また記録板の端を掴んでいたことに気づいた。
力を抜くと、板が机へ戻る。
「まだ終わっていません」
「はい」
「時間もあります」
「ありますね」
「でも、今のクロセさんは、さっきから同じところで止まっています」
責める調子ではなかった。
リラは机に片手を添えたまま、クロセが開いている板を覗き込んでいる。ただし、続きを読もうとはしなかった。
その距離が妙にありがたかった。
クロセはもう一度【採用資料】の欄を見た。
白い。
そこだけが綺麗に残っている。
少し迷ってから、クロセは眼鏡を外した。
「……少し、止めた方がいいかもしれません」
自分からそう言ったことに、あとから気づいた。
リラは目を丸くするでもなく、ただ小さく頷いた。
「では、そうしましょう」
「すみません」
「謝るところですか?」
「分かりません」
「では、あとで考えましょう」
その答えに、クロセの肩からわずかに力が抜けた。
記録板を閉じると、青白い光が一枚分だけ消える。
たったそれだけなのに、目の奥が少し楽になった。
「何か温かいものを持ってきますね」
「お願いします」
リラがカウンターへ向かう。
クロセは眼鏡を手にしたまま椅子へ背中を預け、ゆっくり息を吐いた。
資料は残っているし、空欄も埋まっていない。時間だって止まってくれない。
それでも今だけは、自分で作ったその白い欄から手を離していていいらしい。
そう思うと、椅子へ預けた身体が、さっきより少しだけ重く感じられた。
【仮の差止め申立て準備資料 整理メモ】
作成者 クロセ
■商店関係
確認資料
・商品補充記録
・市場表示記録
・売上推移
・利用者移動記録
確認できる影響
・商品補充後、市場表示までに遅延あり
・欠品表示中に利用者の離脱あり
・一部利用者は他市場へ移動
回復可能性
・売上減少 金銭による回復可能
・利用者離脱 不明
・固定客への影響 不明
重大な影響
・要確認
採用
・保留
■工房関係
確認資料
・生産記録
・搬入記録
・設備利用記録
・共同作業記録
確認できる影響
・生産処理の遅延
・搬入時刻のずれ
・一部共同作業への影響
回復可能性
・生産物 代替可能なものあり
・作業時間 回復不能
・共同作業への影響 不明
重大な影響
・要確認
採用
・保留
■倉庫関係
確認資料
・保管記録
・取り出し記録
・移動記録
確認できる影響
・取り出し処理の遅延
・別倉庫への移動あり
回復可能性
・物品そのもの 回復可能
・移動に要した時間 回復不能
・利用者への影響 不明
重大な影響
・要確認
採用
・保留
■ギルド拠点関係
確認資料
・滞在記録
・集合記録
・連絡記録
・活動記録
確認できる影響
・集合人数の減少
・活動場所の変更
・一部利用者の移動
回復可能性
・不明
重大な影響
・不明
採用
・保留
■個人利用関係
確認資料
・滞在記録
・移動記録
・寄せられた声
確認できる影響
・利用時間の減少
・別拠点への移動
・活動中断
回復可能性
・不明
重大な影響
・不明
採用
・保留
【追加確認】
・金銭で回復できない影響とは何か
・利用者の移動は損害として扱えるか
・一時的な活動中断をどこまで評価するか
・複数の小さな影響を合算できるか
・拠点そのものではなく、そこで行われている活動をどう扱うか
・他の場所で代替できる場合、回復可能と考えるのか
・代替に要する時間はどう扱うか
【採用資料】
【何を残すか】




