The Strange Case of What We See—狂へる貌—
本作は、法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
今回は、簡単なガイドを添えておきます。
前回集めた記録をもとに、黒環書庫で審理が始まります。
今回判断するのは、ひよこ商会にかかる制限を、残りの時間について止める必要があるか、ということです。
「損失があること」と「いま止める必要があること」を分けて見ていきます。
【世界標準時】
三時五十八分
「まだ営業時間なんだがな」
ミナトは、黒い扉を見上げて言った。
「営業時間中だから、いま申し立てているのでござろう。店番も置いたでござるよ」
「利益が出るなら歓迎する」
「裁定者は客ではござらぬな」
「二人とも、少し静かにしてください」
クロセは声を落とした。
落とす必要があったのかは分からない。
扉はまだ閉じている。
黒くて、大きい。ただそれだけだ。
それなのに、声を立ててはいけない場所のような気がした。
黒環書庫。
クロセがここへ入るのは、初めてだった。
「この時間に見ると、余計に最終地点という扉でござるな」
「帰りますか」
「ここまで来て、それを言うのでござるか」
「まだ店に戻れば、何件か売れる」
「勝てば、もっと売れるでござるよ」
「負けたら?」
「そこはクロセ殿に聞いてほしいでござる」
「私に振らないでください」
時刻が変わった。
【世界標準時】
四時〇〇分
黒い扉が、音もなく開いた。
◇
中も、黒かった。
壁も。
床も。
どこまでも続く書架も。
その中央だけが円形に空いている。
正面にいるのが話に聞くレクスだろう。
その向かいには、二人。
黒いキャソックに似た衣服の男。
白い祭祀服をまとった女。
男は椅子の横に立ち、女はそのすぐ隣にいる。
二人とも、表情がない。
特に女の方は、妙に整って見えた。
姿勢。
服。
指先まで。
人形みたいだ。
最初に浮かんだのは、それだった。
「定刻となった。本件執行停止申立ての審理を開始する」
レクスの声が落ちる。
「本件措置は、世界標準時二十二時四十分に発動された。期間は八時間。満了予定は六時四十分」
クロセは時刻を確認した。
四時。
残り二時間四十分。
「時間の経過に伴い、申立人が失う取引上の利益は増加する。本件については、通常の順序を一部省略して審理する」
クロセは顔を上げた。
―――――急いでいる。
こちらが、ではない。
裁定する側が、急ぐと言った。
四つ目。
見直しを待たず、いま止める必要。
少なくとも。
そこは裁定側も見ている。
「申立人」
「ひよこ商会代表、ミナトでございます。本日は審理の機会をいただき、ありがとうございます」
クロセは隣を見た。
さっきまで営業時間を気にしていた店主と、同じ人物には聞こえない。
「現在も営業中か」
「はい。当店は深夜帯を主要な営業時間としておりますが、四時以降も利用者がいる限り営業を継続しています」
「申立人側記録担当」
「シグレです。提出記録について、店舗記録、周辺観測記録及び市場取引記録との照合を行いました」
こっちもだ。
片方は、始まると崩した口調を捨てる。
もう片方は、始まると接客用の微笑をかぶる。
似た者同士なのかもしれない。
動く方向だけが、逆だった。
「〇時台の通常平均取引件数、二十・三件。実績、五件。相違ないか」
「ございません」
「減少分の全てを、本件措置による損害と主張するものではない」
「はい。逸失取引として主張するのは、欠品表示を確認した後に店舗を離れ、同種商品を別市場で購入したことまで確認できた件に限っています」
ミナトは淀みなく答えた。
五件。
通常の四分の一ほど。
ひどい数字だ。
だが、減少分の全てを措置のせいにはしなかった。
そこは、こちらで切った。
「現時点で、事業継続が困難となるおそれは」
「そこまでは申し上げません」
「顧客基盤の喪失は」
「長期的な離脱までは確認できておりません。ただ、今夜失われた取引を、後から同じ形で戻すことはできません」
ミナトの声は変わらない。
店が潰れるとは書くな。
事実ではない。
あの連絡と同じだった。
「申立人側代理人」
「はい」
クロセは立った。
「措置が後に解除されても、既に他市場で成立した取引は戻りません。申立人の主要な営業時間は既に大きく削られており、残存期間についても損害が継続します」
「金銭による算定は可能か」
「取引額の算定は可能です。しかし、失われた取引機会と顧客の再訪可能性まで、同額で回復するとは限りません」
「分かった」
レクスが管理空間側を見る。
「回答を」
黒い衣服の男が口を開いた。
「申立人側が関連性を確認した取引については、個別に算出できます」
その言葉と同時に、女の前へ記録窓が開いた。
「購入予定品、表示遅延時間、他市場での購入価格、通常時の取引実績。補償額の算定に必要な記録は保存されています」
クロセは女を見た。
何も言っていない。
男も、女を見ていない。
指示を出した様子もない。
それでも、必要な記録だけが開いている。
よく連携している。
「停止を求める範囲は、ひよこ商会の商品補充及び市場表示に関する制限のみ。措置全体ではない」
「確認しています」
「一店舗に限って解除することは可能か」
「処理上は可能です」
「影響は」
「一店舗だけであれば、限定的です」
男が答える。
女の指が動き、同じ制限を受けている店舗の一覧が表示された。
「ただし、申立人と同じ条件にある店舗は、ほかにも存在します」
「申立人のみを解除すれば、異なる取扱いになると」
「はい。現時点で、申立人だけを他の店舗と区別すべき事情は確認できません」
クロセは記録を見る。
対象は一店舗。
だから、止める範囲も狭い。
五つ目。
停止を求める範囲を、どこまで限定できるか。
そう考えていた。
だが。
一店舗だけを止めるには。
その一店舗だけを、違って扱う理由がいる。
「同じ条件にある店舗についても解除した場合は」
「分散を前提とした処理負荷の配分が崩れます」
女の指が動いた。
解除対象を同じ条件の店舗まで広げた場合の予測値が並ぶ。
「今後、同種の申立てが行われる可能性もあります。ただし、問題は申立ての件数ではありません」
男が言う。
「同じ条件にある店舗を、同じように扱う必要があることです」
「個別の解除が重なれば、全体処理へ影響すると」
「はい」
「既に発生している事実か。それとも予測か」
「予測です。ただし、現時点の店舗記録及び処理負荷に基づいています」
男が言い終えるより先に、根拠となる数字が並んだ。
次に必要なものが、先に出る。
レクスが聞く。
男が答える。
その間に、女はもう次の記録を開いている。
まるで先が分かっているようだった。
「申立人側。反論は」
クロセは記録へ目を戻した。
今は、こっちだ。
「申立人の損害は、既に確認された事実です。同種の解除が重なった場合の影響は、現時点では予測にとどまります」
「管理空間側」
「確認された損失自体は争いません」
「ただし、申立人だけを異なる取扱いとする事情は確認できず、同じ条件の店舗へ解除を広げた場合、全体処理へ影響する可能性がある」
「はい」
短い。
必要なことしか言わない。
女の指が止まる。
男も口を閉じた。
合図はない。
呼吸を合わせているようにも見えない。
視線すら交わさない。
それでも。
ずれない。
「ほかに主張は」
「申立人からはございません」
「記録担当からもありません」
「管理空間側もありません」
レクスは、開かれた記録を見渡した。
長くはかからなかった。
「裁定する」
ミナトの笑みが消える。
シグレの背筋が伸びた。
クロセもレクスを見る。
「本件申立てを却下する」
黒い空間に、声だけが残った。
負けた。
結果は先に出た。
だが。
クロセが聞きたいのは、ここからだった。
「本件措置により、申立人に具体的な営業上の損失が生じていることは認める。また、通常時の取引実績との比較に照らしても、その減少幅を軽視することはできない。措置の継続中にも取引機会が失われる以上、判断を急ぐ必要も認められる」
一つ目。
具体的な損害。
二つ目。
店の規模から見た影響。
四つ目。
いま判断する必要。
そこは、届いた。
「しかし、申立人が措置との関連性を疎明した損失については、保存された取引記録及び別途算出された金額により、事後的な金銭救済が可能である蓋然性が高い」
三つ目。
クロセの手が止まった。
ここだ。
取引そのものは戻らない。
だが、代金は数えられる。
黒環書庫が切るなら、おそらくここ。
そう読んだ。
そのままだった。
「申立人自身も、事業継続が困難となることまでは主張していない。顧客基盤の長期的な喪失についても、現時点で十分な疎明があるとはいえない」
店は潰れない。
顧客基盤の喪失も、まだ事実として置けない。
書かなかったものは、拾われない。
当然だ。
そう思って、書かなかった。
「加えて、申立人のみについて制限を停止すべき事情が、同様の制限を受ける他の店舗と区別できる程度に疎明されているとはいえない。同じ条件にある店舗について同様の停止を行った場合、市場表示、購入導線及び処理負荷の配分に影響し、本件措置の目的を損なう可能性が認められる」
クロセは顔を上げた。
ここ。
少し違う。
範囲を絞る。
それだけでは、足りない。
一店舗だけを止めるなら。
その一店舗だけを、違って扱う理由がいる。
さらに。
同じ条件にある者まで並べたとき、何が起きるのか。
そこまで見る。
五つ目。
停止を求める範囲。
その意味が、少し変わった。
「以上から、本件措置を停止しなければ避けることのできない重大な損害があるとは認められない」
レクスは一度、記録を閉じた。
「現時点では、執行停止の要件を満たさない」
裁定窓に文字が刻まれる。
【裁定】
執行停止申立てを却下する
結果は変わらない。
ミナトの店は、残り時間も措置を受ける。
そこは変わらない。
だが。
クロセは裁定窓ではなく、その前に並んでいた記録を見た。
具体的な不利益。
後から回復できるか。
措置の対象と範囲。
停止した場合の全体への影響。
星空サロンで、現実の判例から拾った項目。
大きくは外れていない。
むしろ。
かなり近い。
違ったのは、一つ。
狭く止めれば、狭く終わる。
そうは見ない。
一つだけを止める理由があるか。
同じ条件にある者まで止めたとき、何が動くか。
そこまで見る。
物差しは。
見えた。
「以上で審理を終了する」
「承知いたしました。ご審理いただき、ありがとうございました」
ミナトは、最後まで接客用の声を崩さなかった。
「記録を確認しました」
シグレも、ござるを戻さない。
徹底している。
少しだけ感心した、その時だった。
黒い衣服の男が、わずかに頭を下げる。
その半歩後ろで。
白い祭祀服の女も頭を下げた。
同じ角度だった。
クロセは二人を見る。
男が顔を上げる。
女も上げる。
同時。
男が踵を返す。
女も、同じ瞬間に向きを変えた。
クロセは何も言わなかった。
代わりに、レクスを見る。
レクスも二人を見ていた。
何も言わない。
黒と白。
違う衣服。
違う姿。
男と、女。
それなのに。
動きだけが、一つだった。
二人は扉の向こうへ消えた。
足音は、二つあった。
遠ざかる音は。
一つに聞こえた。
【黒環書庫・裁定記録】
申立人
ひよこ商会 代表 ミナト
対象措置
第一段階追加措置のうち、ひよこ商会の商品補充及び市場表示に影響する処理制限
第一 主文
本件申立てを却下する。
第二 具体的な損害及び緊急性
本件措置の発動後、申立人店舗において商品補充後の市場表示に遅延が生じ、欠品表示を確認した利用者の一部が店舗を離れ、他市場において同種商品を購入した事実が確認されている。
また、申立人の主要な営業時間中に取引件数が通常時を大きく下回っており、本件措置の継続中にも取引機会が失われることから、判断を急ぐ必要性は認められる。
第三 事後的な回復可能性
申立人が本件措置との関連性を疎明した取引については、購入予定品、市場表示の遅延時間、他市場における購入記録その他の記録が保存されている。
これらにより、少なくとも確認された取引上の損失については、事後的な金銭救済が可能である蓋然性が高い。
申立人は、事業継続が困難となることまでは主張しておらず、顧客基盤の長期的な喪失その他、金銭による回復が困難な損害についても、現時点で十分な疎明があるとは認められない。
第四 停止による影響
申立人が停止を求める対象は、ひよこ商会の商品補充及び市場表示に関する制限に限定されている。
しかし、当該店舗における商品補充及び市場表示のみを復旧した場合、検索結果及び購入導線が当該店舗へ偏り、複数市場への分散を前提とする現在の処理負荷の配分に影響を与える可能性がある。
したがって、本件制限の停止による影響が、申立人店舗のみに限定されるとは認められない。
第五 結論
本件措置により申立人に具体的な営業上の損失が生じ、かつ判断を急ぐ必要性があることは認められる。
しかし、現時点で疎明された損失については、事後的な金銭救済が可能である蓋然性が高く、事業継続又は顧客基盤に回復困難な影響が生じることについて、十分な疎明があるとはいえない。
また、申立人の求める限定的な停止についても、その影響が当該店舗のみで完結しない可能性が認められる。
以上から、本件措置を停止しなければ避けることのできない重大な損害があるとは、現時点では認められない。
よって、本件申立ては執行停止の要件を満たさないものとして、主文のとおり裁定する。




