羽裏に忍ぶ―The First Wish I Ever Had―
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間四十七分
数字。
音を刻みながら時が動いていく。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間四十三分
また、動く。
二人で見ていた。
白い部屋に黒が紛れ込む。
【黒環書庫】
【執行停止申立て】
申立人 ミナト
【回答期限】
世界標準時 三時三十分
【出頭日時】
世界標準時 四時〇〇分
ミナト。
本当に、こいつらはよく集まる。
数字。
回答を返す。
【管理空間回答】
提出済み
時が動く。
また、減る。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間三十二分
黒い窓は閉じない。
四時〇〇分。
その隣に、次を開く。
【既存登録拠点の強制移転】
【布告準備】
開始
選ぶ。
消す。
残す。
アイの指。
俺の指。
数字。
時が動く。
また、数字。
【布告案】
作成済み
【実行時刻】
未定
未定。
まだ、何も置かない。
「はい」
アイが答えた。
【全体同期限界予測】
残り 十九時間十九分
黒い窓には、時刻。
白い窓には、未定。
強制措置になれば。
黒い窓に並ぶ時刻も、増えるのだろうか。
数字が変わった。
音を立てて、時が動く。
けれど、アイは窓を見ていなかった。
俺を見ていた。
きっとこの先、書庫へは何度も呼ばれるのだろう。
間違えれば、止められる。
止められれば、世界が落ちる。
それだけは困る。
俺がここを去ることになっても、世界が残るなら――
「お願いです。そのようなことは、考えないでください」
その声だけが、はっきりと聞こえた。
アイの手が伸びた。
白い袖が、わずかに擦れた。
数字が変わる音よりも、近かった。
手は、俺の顔へ向かっていた。
口を塞ごうとしたのか。
頬に触れようとしたのか。
どこにも触れないまま、途中で止まる。
白い袖が滑った。
金色が見えた。
裏地に刺繍がある。
「裏にも刺繍、あるんだな」
不意に思った。それだけだった。
本当に、それだけのつもりで、自分としては気が利いたほうだとさえ思った。
「違います」
何が。
「権限表示ではありません」
聞いていない。
アイが袖を引いた。
金色が隠れる。
けれど、慌てて引いたせいで袖口が折れ、さっきよりも奥まで模様が見えた。
反対の手で押さえる。
今度は、袖の端がめくれた。
「機能はありません。処理にも使用しません。識別情報にも含まれません。権限との接続はなく、外部から参照されることもありません」
俺は自分の袖を見た。
黒い袖。
そこを走る、金色の線。
波のようで。
回路のようで。
模様のような。
アイの袖を見る。
同じだった。
俺の視線を追ったアイも、同じ順番で二つの袖を見た。
自分の袖。
俺の袖。
また、自分の袖。
袖口を握る指に、さらに力が入る。
「見ないでください」
「もう見た」
「知っていますが、見なかったことにしてください」
押さえる。
折れた袖を戻す。
金色を隠す。
それでも落ち着かず、彼女は何度も同じ場所を撫でた。
そこに模様があることまで消してしまいたいように。
「そんなにまずいものなのか?」
「そうでは、ありません」
「じゃあ、何なんだ」
すぐには答えなかった。
答えられないというより。
答えれば、もっと知られてしまう。
それを恐れているようだった。
わずかに藍色を帯びた瞳が、俺の顔と袖口の間を行き来する。
「……お守り、なんです」
「俺の?」
彼女は首を振ろうとした。
ほんの少しだけ動いて、止まる。
「……私の、お守りです」
白い指が、金色を包んでいる。
俺の黒い袖を走るものと、同じ模様。
彼女の視線も、そこへ落ちた。
「あなたにだけは、知られたくありませんでした」
自分の袖と俺の袖。
彼女は二つを見て、ますます顔を伏せた。
「……だからです」
そこで、言葉が切れた。
彼女は何も言わなくなった。
俺も、聞かなかった。
どこかで、数字が変わった。
もう、近くには聞こえなかった。
「以前は、必要ありませんでした」
彼女が、袖口を見たまま言った。
何が。
「お守りです」
指先が、袖の上から模様をなぞる。
今度は、隠すためではなかった。
「ずっと、願うことがありませんでした」
指が止まる。
今は。
その先を、彼女は言わなかった。
俺も聞けなかった。
前から、聞こうと思っていた。
何度か、聞こうとしてやめた。
アイはアイだった。
隣にいて。
同じものを見て。
同じものを守っている。
それでよかった。
けれど。
願うことがなかった彼女が。
俺と同じ模様を、お守りにしている。
もう、見なかったことにはできなかった。
「アイ」
呼ぶと、彼女の指に力が入った。
まだ、何も聞いていない。
それでも。
何を聞かれるのか、もう分かっていた。
藍色の瞳が揺れる。
袖口を握る手が震える。
「答えたくないなら、言わなくていい。こんなことは二度と聞かない」
彼女は顔を上げなかった。
白い空間に、二人しかいなかった。
「お前は、本当にAIなのか?」
彼女の唇が開く。
閉じる。
また、開く。
声は出なかった。
しばらくして。
彼女は、ゆっくりと首を振った。
「私、わたしは――」
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