月下の輪郭 ―What the Moon Conceals―
回答が届いたのは、それから十二分後だった。
作業板の端で、回答待ちの文字が消える。
代わりに、四つの項目が開いた。
【外部回答】
登録情報の再配分:実施可能
読み取り系統の分離:順次実施可能
基盤増強:実施可能
障害分離設定:一部実施可能
実施可能。
並んでいるのは、前向きな言葉ばかりだった。
けれど、その下に表示された時刻は、前向きには見えなかった。
【暫定反映見込み】
三十一時間四十分以降
【主要処理反映見込み】
三十六時間
「三十六時間……」
アイが、現在の負荷推移を隣へ並べる。
【全体同期限界予測】
現行運用継続時:三十六時間二十二分
差は、二十二分。
予定どおりに終わって、ようやく二十二分。
それは余裕ではない。
遅れていない、というだけだ。
「間に合うのか?」
「現在の増加率が維持され、追加の負荷が発生せず、基盤側の作業が予定どおり進行した場合は」
「条件が多いな」
アイと目が合った。
訂正は来なかった。
「一つでも外れたら?」
アイの指が、二本の予測線をなぞる。
外部基盤の反映。
世界が耐えられる限界。
二本は、ほとんど同じ場所で交わっていた。
「限界到達が先行する可能性があります」
世界が突然消えるわけではない。
最初に遅れるのは、急がない処理だ。
掲示板。
通常の倉庫更新。
所属情報の反映。
市場の同期。
その次に、財産の確定が遅れる。
転送の照合が遅れる。
誰がどこにいて、何を持っているのか。
世界が、同じ問いに同じ答えを返せなくなる。
「それ、もう遅いじゃ済まないだろ」
アイの視線が、二本の予測線へ戻る。
「追加の負荷って?」
「遅延を認識した利用者による確認行動を含みます」
第二広場の映像が開いた。
露店の灯り。
噴水のそばに座る人。
掲示板を眺める人。
星空サロンへ入っていく人。
誰も走っていない。
倉庫へ殺到する人もいない。
見えているのは、ほんの少しだけ、目覚めの遅い世界だった。
「これを見せたら、まず倉庫を見るな」
映像の横に、倉庫の参照予測が開く。
「次に取引。転送門も使えるか試す」
取引と転送門の線も加わった。
「同様の行動が集中すると予測されます」
知らなければ、いつもどおり使う。
知らせれば、自分が大丈夫か確かめる。
その確認が、新しい負荷になる。
「公表した場合は?」
作業板に、複数の線が伸びる。
倉庫。
取引。
登録情報。
転送門。
どれも、現在の線より急だった。
そして、外部基盤の反映を待たずに、限界を示す線へ届いていた。
「時間は出せないな」
「判断理由を確認します」
「短すぎる」
三十六時間。
余裕は、二十二分。
そんな数字を見せて、落ち着けと言う方が無理だ。
「自分の物が消えるかもしれないと思えば、誰だって確認する」
アイの視線が、港湾の倉庫へ向く。
「確認するなと言われたら、余計に確認したくなる」
「その傾向はあります」
「出せば、確認が増える」
アイは何も言わない。
「出さなければ、隠したことになる」
どちらも正しい。
どちらを選んでも、負荷は増える。
「世界を守るための告知で、世界を止めるわけにはいかない」
公表しないわけではない。
遅延が起きていること。
影響を受ける機能。
運営が負荷軽減を始めていること。
連続操作を控えてほしいこと。
必要な情報は出す。
ただし、運営側に見えている限界時刻までは見せない。
プレイヤーから見えるのは、少し遅い世界だ。
運営から見えているのは、あとわずかで線を越える世界だった。
同じ場所にいるのに、見ているものが違う。
「公表文を準備してくれ」
白い作業板に、空の告知欄が開いた。
「遅延と対象機能。今やっている対策。繰り返し操作を控えてほしいこと」
項目が順に収まっていく。
「復旧見込みは、基盤側の作業中とだけ」
反映時刻の表示が外れた。
「限界予測は出さない」
最後に残っていた二本の線が、告知欄の外へ移る。
「了解しました」
白い文字が組み上がった。
【運営告知案】
現在、一部機能に応答および反映の遅延が発生しています。
対象機能:
・転送および登録情報の確認
・ギルド倉庫の参照、更新
・取引および財産情報の反映
・掲示板の更新
運営側では、負荷軽減および基盤調整を進めています。
処理中の操作については、反映まで再操作を控えてください。
嘘は書いていない。
けれど、全部も書いていない。
三十六時間と、二十二分。
そこだけが、告知欄の外に残った。
正直ではある。
親切かどうかは、分からない。
「これだけで足りるか?」
「事実の告知としては足ります」
「協力を求めるには?」
保留にしていた項目が、作業板の中央へ戻る。
【追加協力候補】
混雑登録領域からの登録拠点移転
大型取引確認の時間分散
ギルド倉庫一斉参照の抑制
低優先同期の延期
「まずは任意で頼む」
アイの指が、登録拠点移転の項目へ触れる。
「その前に、行き先を出す」
登録先の候補が開いた。
【登録拠点移転候補】
森林都市ラグナ
処理余力:高
王都直通転送:時間帯限定
市場規模:小
港湾都市セイル
処理余力:中
王都直通転送:あり
ギルド倉庫接続:一部遅延
鉱山都市グラド
処理余力:高
王都直通転送:あり
移動利便性:低
市場規模:小
数だけなら、足りている。
けれど、どこも王都ミトラノープルではなかった。
登録拠点を移せば、次にログインした時の開始位置も変わる。
王都ではなく、森林都市。
港湾都市。
鉱山街の入口。
帰還先も、復活地点も、移転した領域を基準に組み直される。
倉庫が遠い。
市場が小さい。
転送門が少ない。
王都へ戻るにも、今までより時間がかかる。
必要な機能が揃っていない。
空いている理由が、きちんとあった。
「これ、登録だけの話じゃないな」
「登録領域は、開始位置、帰還地点、復活地点、および一部の接続先に使用されます」
「生活拠点を移せってことか」
アイと視線が重なる。
登録拠点移転には、まだ印がつかなかった。
「このまま頼めば、負担を移すだけだな」
「移った人への補助は?」
「現行の運用権限で実施できる範囲を確認します」
作業板が二つに分かれた。
【現行権限で実施可能】
・任意の登録拠点移転案内
・移転先の機能、開始位置および接続情報の提示
・一般的な利用案内
・処理中表示
・重複操作の抑制
・通常範囲内での処理順序調整
【現行権限では実施困難】
・混雑登録領域への新規登録制限
・既存登録拠点の強制移転
・特定領域の正常機能を負荷軽減目的で停止
・領域単位での強制的な処理延期
・移転者に限定した特別な優先利用
・既存利用者と異なる特例的な倉庫接続
案内はできる。
頼むこともできる。
少しだけ順番を変えることもできる。
けれど、従わせることはできない。
今あるのは、お願いする権限までだった。
「今の権限でできることは、先にやる」
アイの指が動く。
任意案内。
移転先情報の提示。
処理中表示。
重複操作の抑制。
通常範囲内での処理順序調整。
実施可能な項目に印がついた。
「それで足りなかった場合は?」
俺たちは、もう片方の画面を見た。
新規登録の制限。
既存拠点の強制移転。
正常機能の一部停止。
領域単位での処理延期。
どれも、今の俺たちにはできない。
「新しい権限が要る」
アイは答えなかった。
ただ、二つの画面の間に一本の線を引いた。
「どこまで必要になる?」
「新規登録の制限までは、必要となる可能性があります。既存拠点の強制移転まで必要となるかは、現時点では判断できません」
任意の登録拠点移転。
新規登録の制限。
既存拠点の強制移転。
アイの指が、並んだ項目を順に示す。
「任意協力のみで維持できる可能性があります。ただし、外部基盤の反映まで持たない場合は、段階的な制限が必要になります」
判断できない。
その答えが、さっきより重く聞こえた。
できるかもしれない。
できないかもしれない。
できなかったと分かった時点で、世界律を作り始めても間に合わないかもしれない。
「今すぐ強制するつもりはない」
アイを見る。
「でも、必要になった時に使える権限は、先に用意しないと間に合わない」
「その認識で問題ありません」
世界律を作る。
ただし、運営へ何でもできる権限を渡すためではない。
今の権限で足りないものだけを切り出す。
何が起きたら使えるのか。
どこまで使えるのか。
誰を対象にできるのか。
いつ終わるのか。
その線を、先に引いておく。
「アイ」
「はい」
「ルルには?」
「原因、負荷推移、外部基盤の回答、現行権限で実施可能な措置、および不足する権限について共有済みです」
「もう送ったのか」
「必要性が認められたため、先行して共有しました」
いつ送った。
そう聞きかけて、やめた。
俺が外部基盤の回答を見ている間か。
公表内容を考えている間か。
たぶん、そのどこかだ。
アイは俺と同じ資料を見ながら、その先に必要になるものまで見ていた。
視線が重なる。
「返事は?」
作業板の端に、金色の表示が開いた。
【世界律管理・ルル】
状況は聞きました。
まずは来てください。
それだけだった。
世界律の案もない。
作るとも、作らないとも言っていない。
文字で往復する話ではない。
そこだけは、俺にも分かった。
「行くしかないな」
アイの視線が、二つに分かれた作業板へ戻る。
今ある権限で、できること。
今ある権限では、できないこと。
その間に、細い線が一本引かれていた。
まだ越えてはいない。
けれど、越えなければ世界を持たせられない可能性がある。
「公表案は準備を続ける。任意協力も、移転先の情報を整えたものから出せるようにしておいてくれ」
「了解しました」
「強制措置は、まだ使わない」
もう一方の画面に並んだ項目は動かない。
「必要になった時に、必要な範囲だけ使える権限を作りに行く」
アイと視線が重なる。
次の瞬間、強制措置の一覧が、世界律検討資料へ移った。
白い管理空間の奥に、金色の扉が現れる。
世界を広げる場所へ続く道。
そこへ持っていくのは、正常に動いているものを止める権限。
誰かの生活拠点を動かす権限。
誰かを待たせる権限。
それは、世界を狭くするための権限。
黒い扉の中央で、金色の世界樹だけが静かに光っていた。
アイの補足メモ
法律を作る前に、行政がしていること
法律を制定するのは、立法府です。
本作では、世界律を審議し、成立させる役割をルルたちが担っています。
では、行政側にいる主人公と私は、なぜ必要な権限を整理しているのでしょうか。
現実の法律でも、立法府がすべての制度案を一から作るわけではありません。
内閣が提出する法律案では、まず所管する行政機関が、現場の問題と現行制度の不足を確認します。
そして、
なぜ新しい制度が必要なのか
現行制度では何ができないのか
どのような権限を設けるのか
その権限をどのような条件で使うのか
を整理し、法律案の原案を作ります。
このように、新しい制度を必要とする事実や事情を、立法事実と呼ぶことがあります。
今回の立法事実は、外部基盤の増強まで世界が維持できない可能性がある一方で、現行の権限では任意の協力しか求められないことです。
主人公たちは、この問題を解決するために、
新規登録の制限
正常機能の一部停止
既存拠点の強制移転
といった措置が必要になる可能性を整理しました。
ただし、行政側が必要だと判断しただけで、新しい権限を持てるわけではありません。
その権限が本当に必要か。
範囲が広すぎないか。
誰を対象とするのか。
どのような場合に発動し、いつ終了するのか。
それを審議し、世界律として定めるのは、ルルたちの役割です。
今回主人公たちが扉の先へ持っていくのは、完成した世界律ではありません。
世界律を作るための、現場の事実と制度案です。
行政は法律を執行するだけでなく、執行の現場で見つかった制度の不足を、次の立法へ返す役割も担っています。




