逆さの祈り ―A Prayer That Brings Nothing Back―
黒い扉が、音もなく左右へ開いた。
中央に刻まれた金色の世界樹が、二つに割れる。
その隙間から、金色の光が差し込んだ。
扉の向こうには、巨大な世界樹。
太い幹から伸びる、無数の枝。
その一本一本に、まだ世界律になる前の言葉が、葉のように吊られている。
新しい季節を生み。
新しい道を伸ばし。
ここは、本来なら世界を広げるための場所だ。
けれど、今日ここへ持ち込むのは違う。
道を細くする話。
できることを、減らす話だった。
「……気が重いな」
「はい」
「そこは否定してくれ」
「状況として、否定できません」
「いつも通りだな」
「そうでもありません」
「……そうか」
扉を越える。
背後で、黒い扉が閉じた。
音はしなかった。
それでも、戻る道を一度切られたような気がした。
「お待ちしていました」
世界樹の枝の下に、ルルが立っていた。
黒いローブ。
金色の髪。
夕焼けのような瞳。
口元には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいる。
「ずいぶん慌ただしい接続ですね」
「緊急です」
「知っています」
ルルが片手を上げる。
白い管理空間から送った資料が、金色の記録板となって開いた。
【外部基盤反映見込み】
【全体同期限界予測】
【現行権限】
【追加措置候補】
「共有された内容は確認しました」
ルルが指を動かす。
最後の一枚だけが、俺たちの間へ残った。
【追加措置候補】
混雑登録領域への新規登録制限
高負荷操作の強制待機列投入
低優先同期処理の強制延期
対象領域の一部機能制限
既存登録拠点の強制移転
これでも、必要な範囲には絞ったつもりだった。
「最初に確認します」
ルルの指が、記録板の上で止まった。
「他に取れる手段は、すべて検討しましたか」
「外部基盤側の対策は進行中です。登録情報の再配分。読み取り系統の分離。基盤増強。障害分離設定。現行権限による負荷軽減措置も、実施準備に入っています」
「任意協力で足りる可能性は」
「あります」
「では、結果を待たずに、なぜ強制措置を含む世界律を作るのですか」
アイが答えるより先に、俺は口を開いた。
「結果が出てからじゃ、間に合わないかもしれないからだ」
二人の視線が、同時に俺へ向く。
「外部基盤の作業が予定どおり終われば、持つかもしれない。任意協力だけで負荷が下がるかもしれない」
「ええ」
「でも、持たないかもしれない。その時になって、何もできませんじゃ遅い」
ルルは、記録板へ視線を戻した。
「その可能性に備えて、ここまでの権限を求めるのですね」
「そうだよ」
「既存の登録拠点を、本人の意思に反して動かす権限まで」
「必要になるかもしれない」
「かもしれない。かもしれない」
ルルは、その言葉だけを繰り返した。
「分かってるなら――」
「分かっているから、聞いています」
声は柔らかい。
けれど、少しも譲る気配はなかった。
「この広さは必要ですか?」
「今から全部を想定できるわけじゃないだろ」
「だから、広く作るのですか」
「後で足りないよりはいい」
「利用者に課す制限についても?」
また止める。
必要性は分かっている。
時間がないことも分かっている。
———そのうえで、まだ線を引こうとしている。
今は、そんなに丁寧にやっている場合なのか。
数字は、今も減っている。
世界は待ってくれない。
それでも、この石頭は線を引くことをやめない。
今守るべきなのは、その線なのか。
世界じゃないのか?
「のんびり原則論をやってる場合かよ」
アイが、わずかに俺を見る。
「かもしれません」
ルルの指が、最後の項目へ触れた。
【既存登録拠点の強制移転】
「ですが、危険だから、必要になるかもしれないからといって、すべて認めることはできません」
声から、柔らかさが消えた。
「危険だからこそ、今必要なものだけに切ります」
言っていることは分かる。
分かるから、余計に腹が立った。
そして、それはたぶん、正しい。
でも、正しさを積み上げている間に、世界は限界へ一歩ずつ近づいている。
一つ確かめるたびに、時間が減る。
一つ削るたびに、間に合わない未来が近づいてくる。
もう十分だろ。
そこまで考えているなら、今は先へ進めばいい。
そんな焦りが、喉元までせり上がっていた。
「必要な権限は整理した。現行権限では足りないことも示した。使う順番だって考えてる。今この間にも時間は減ってるんだぞ」
声が強くなる。
ルルは、危険を軽く見ているわけじゃない。
同じ数字を見ている。
同じ限界を見ている。
それでも、止める。
こっちは世界を落とさないために急いでいる。
向こうは、強すぎる権限で世界を壊さないために止めている。
見ている危険は同じでも、引く線が違う。
「それは、今することか?」
「時間がないからこそ、後戻りできない形では通しません」
真正面だった。
一歩も引かない。
記録板の端で、数字が更新される。
【全体同期限界予測】
残り 三十五時間三十一分
ここへ来てから、もう五十分近くが過ぎていた。
「作るつもりはあるのか」
「あります」
即答だった。
思わず、言葉が止まる。
「ただし、あなたたちの案を、そのまま作るつもりはありません。必要な権限と、あれば対応しやすい権限が混ざっています」
「安心のために出してるんじゃない」
「では、既存登録拠点の強制移転まで、今この時点で必要だと言い切れますか」
「必要になる可能性はある。でも、後からじゃ――」
「間に合わない」
ルルが、俺の言葉を先に取った。
「それは理解しています。だからこそ、必要な線と、備えの線を分けます」
また、正しい。
正しいことしか言わない。
だが――
世界が落ちた後で、正しい線を引けましたと言って何になるんだ。
「だから、その時間が――」
「ありません」
静かな声が、俺の言葉を切った。
「だったら急げよ!」
胸の奥で、何かが跳ねた。
「世界が落ちるかもしれないんだぞ! それなのに、まだ削るのか!」
「ええ」
迷いがない。
本気で削るつもりだ。
必要になった時に足りなくなるかもしれない。
それでも、今は認めない。
馬鹿じゃないのか。
世界が終わってからでは遅い。
その時に責められるのは、使えなかった俺たちだ。
なら。
「だったら、俺が持つ」
言葉が、先に出た。
「対象を決めるのも、理由を書くのも、説明するのも俺たちがやる。使うかどうかも俺が決める」
ルルは黙っている。
「間違えたら批判も受ける。逃げない」
隣で、アイがわずかに息を止めた。
それでも、止まれなかった。
「俺が責任を持つ」
その瞬間。
ルルの笑みが消えた。
いつも柔らかく細められていた夕焼け色の目が、まっすぐ俺を射抜く。
笑顔の下に隠れていた、冷たいほど怜悧な真顔だった。
「で?」




