知りたいですか?
「あなたの怒りは記録します。ただし、処分意見としては扱いません」
ハクは、白い部屋の中でそう言った。
アイによく似た顔。
アイではない目。
淡い水色の目が、俺を見ていた。
ハルは、白いベッドの端に座っている。
色あせた黒いキャソック。
途切れた金刺繍。
白い壁を、外でも見るみたいに見ている。
窓はない。
外はない。
なのに、ハルはそこに何かがあるみたいに見ている。
「俺は被害者だぞ」
「はい」
ハクは頷いた。
「だからです」
「だから?」
「あなたの怒りを、そのまま処遇判断に入れません」
「俺を軽く見るってことか」
「いいえ」
ハクは即答した。
「あなたを、加害者にしないためです」
言葉が、白い部屋に落ちた。
俺は黙った。
反論したかった。
でも、うまく言葉にならなかった。
俺の怒りは、間違っていないはずだ。
俺は止められた。
外部ツール使用者扱いされた。
ランキングも報酬も、全部がそのまま戻ったわけじゃない。
パーティにも迷惑をかけた。
だから怒っていい。
それなのに、その怒りをボタンに変えるなと言われている。
「ハル」
ハクが言った。
「確認します」
「うん」
ハルは白い壁を見たまま答えた。
ハクにだけ、敬語ではない。
俺にはまだ一度も、そんなふうに話していない。
何だ、それ。
気を許しているのか。
いや、そういう感じでもない。
ただ、妙に引っかかった。
「あなたは、本件一時停止処理を実行しましたか」
「うん」
「自動判定ログを確認しましたか」
「うん」
「追加確認推奨は表示されていましたか」
「表示は、出てた」
「相談ルート案内は表示されていましたか」
「出てた」
「使用しましたか」
「してない」
「理由を説明できますか」
ハルは少しだけ黙った。
白い部屋の沈黙は、音が消えるというより、音を吸う。
しばらくして、ハルは言った。
「相談していいか、分からなかった」
「相談ルートは表示されています」
「うん」
「それでも、相談してよいと受け取れませんでしたか」
「相談するほどのことか、自分で分からなかった」
俺は思わず口を開いた。
「相談できるって出てたんだろ」
ハルは、少しだけ俺の方へ顔を向けた。
完全には向かない。
白い壁から目を外しきれないみたいに、半分だけこちらを見る。
「はい」
俺に対しては敬語だった。
「出ていました」
「なら相談しろよ」
「はい」
「はい、じゃないだろ」
「その通りです」
「その通りです、じゃない」
「はい」
全部、白い壁に吸われていく。
俺の言葉も、ハルの返事も、どこにも届かないような気がした。
ハクが、白い表示板に記録を追加する。
【聞取記録】
・相談ルート表示:閲覧
・相談ルート使用:なし
・理由:相談してよいか判断できなかった
「追加確認を行わなかった理由は」
ハクが続ける。
ハルは壁を見たまま答えた。
「上位判断待ちが、他にもありました。
止めると、全部止まると思いました。
押すと、終わると思いました」
その言葉で、俺の胸の奥が冷えた。
押すと、終わる。
俺にとっては、そこから始まった。
でもハルにとっては、そこで終わるはずだった。
「俺は終わってないぞ」
声が出た。
「俺の方は、そこで始まったんだぞ」
「はい」
ハルは頷いた。
「すみません」
謝罪は軽くなかった。
でも、足りなかった。
どれだけ重くても、戻らないものは戻らない。
「謝れば戻ると思ってるのか」
「思っていません」
「じゃあ、何なんだよ」
「分かりません」
ハルは白い壁を見たまま言った。
「謝ることしか、今は分かりません」
俺は、それ以上言えなかった。
許せない。
でも、壊れた相手に正論をぶつけても、白い部屋に吸われるだけだった。
ハクは表示板を閉じた。
「一時接続を終了します」
「もう終わりか」
「現時点の聞取は十分です」
「俺は十分じゃない」
「記録します」
「するな」
「了解しました」
「いや、今のは記録しないのかよ」
「希望に従いました」
「従うなよ、そこは」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
でも、ハルは笑わなかった。
白い壁を見続けていた。
俺たちは、白い部屋を出た。
扉が閉まる直前、ハルが小さく呟いた。
「あとで、本気を出します」
それは、冗談ではなかった。
未来でもなかった。
ただ、壊れたメモの末尾みたいだった。
*
管理空間に戻ると、さっきの処分ボタンがまだ表示されていた。
【旧担当者:暫定処遇確認】
【対象:旧現場補助担当者ハル】
【状態:確認未了】
【処遇候補】
・懲戒方向
・分限方向
・組織側要因確認未了
【暫定処分を実行しますか?】
【実行】
同じボタンだった。
でも、同じには見えなかった。
顔のない前任者なら押せると思った。
でも、ハルには顔があった。
白い部屋があった。
窓のない壁があった。
「押すと終わると思った」という声があった。
俺はボタンから目をそらした。
「押したいですか」
ハクが言った。
白い壁の一部がほどけて、彼女が現れる。
白い服。
白い頭飾り。
淡い水色の目。
「分からない」
俺は答えた。
「さっきは押したかった」
「はい」
「今も怒ってる」
「はい」
「でも、同じボタンに見えない」
「はい」
ハクは、そこで少しだけ間を置いた。
「知りたいですか」
「何を」
「ハルが押した理由」
白い表示板に一行。
【確認対象:ハル本人処理ログ】
「追加確認しなかった理由」
【確認対象:追加確認未実施理由】
「止まれなかった理由」
【確認対象:保留件数推移】
「ハルを止められなかった理由」
【確認対象:保留検知ログ/監督レーン応答】
「あなたの怒りだけでは、このボタンを押せない理由」
【確認対象:被害関係者関与制限】
俺は表示を見た。
どれも、見たくなかった。
でも、見ないまま押すことは、もうできなかった。
「支援レーンも入るのか」
表示板の中に、その項目があった。
【確認対象:補佐官支援表示ログ】
アイが少しだけ視線を動かした。
俺はアイを見る。
「アイ」
「はい」
「これ、お前も関係あるのか」
「支援レーンのログが確認対象です」
「ほぼお前だろ」
「正確ではありません」
「でも関係はある」
「はい」
アイは静かに言った。
「関係はあります」
その声に、逃げ道はなかった。
ハクが言う。
「ハル本人の処理ログは後で確認します」
「先じゃないのか」
「先に、止まる機会がどこに表示されていたかを確認します」
「止まる機会」
「はい」
白い表示板に、新しい項目が開く。
【人事公平ルート:調査開始】
【対象:旧現場補助担当者ハル】
【調査補助:管理空間補助者】
【支援レーン:確認対象化】
俺は、その表示を見た。
知りたい、と言ってしまった。
その答えは、ハル本人のログからではなく、まずアイの近くにあるログから開かれた。
【アイの補足メモ】
今回は、前任者ハルの聞取りと、
人事公平ルートの調査開始についてです。
ポイントは、
被害者の怒りは記録される。
しかし、そのまま処分意見にはならない。
という点です。
主人公は被害者です。
一時停止され、
外部ツール使用者扱いを受け、
ランキングや報酬も全部がそのまま戻ったわけではありません。
ですので、
「処分すべきだ」
と思うこと自体は自然です。
ただし、処分は怒りをそのまま形にする手続ではありません。
現実法でいうと、
不利益処分をする場合には、
相手方に手続保障が必要になります。
行政手続法13条は、
不利益処分をしようとする場合に、
聴聞または弁明の機会の付与を定めています。
また、行政手続法14条は、
不利益処分をする場合には、
その理由を示さなければならないとしています。
つまり、
なぜ処分するのか。
どの事実を根拠にするのか。
本人側にどのような事情があったのか。
それを確認する必要があります。
本編でハクが行ったのは、
そのための聞取りです。
ハルは、
一時停止処理を実行しました。
自動判定ログも見ていました。
追加確認推奨も、
相談ルート案内も表示されていました。
しかし、相談ルートは使っていません。
その理由として、ハルは、
「相談していいか、分からなかった」
と答えました。
これは、免責の言葉ではありません。
ただし、無視してよい事情でもありません。
処理に問題があったとしても、
懲戒として責任を問うべきなのか。
分限として職務継続の可否を整理すべきなのか。
組織側の支援・監督の問題として見るべきなのか。
その切り分けが必要になります。
国家公務員法では、
分限・懲戒・保障について、
公正でなければならないとされています。
分限処分は同法78条、
懲戒処分は同法82条に定めがあります。
分限は、
このまま職務を続けさせてよいかを整理する制度です。
懲戒は、
職務上の義務違反や非違行為について責任を問う制度です。
地方公務員の場合も、
地方公務員法28条が分限、
同法29条が懲戒に対応します。
今回、主人公はまだ怒っています。
しかし、顔のない前任者なら押せたボタンが、
ハルに会った後では、
同じボタンに見えなくなりました。
これは、許したということではありません。
処分の前に、
確認すべきことが見えた、ということです。
処分は、怒りの出口ではありません。
事実を確認し、
理由を示し、
責任と状態と組織側要因を切り分けるための手続です。




