水面に浮かぶ
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
事情確認用インスタンスが閉じると、白いテーブルと椅子が輪郭を失い、視界はいつもの管理空間へ戻った。
作業台の向こうには、アイがいた。
「……先に話してよかったです」
「そうだな」
俺は、シグレと最後にまとめた整理板を開いた。
公表する事実と、その後の対応は決まった。
運営が三か月処理しなかったこと。
灰色の工房が正式な回答前に設備を持ち込み、利用を広げたこと。
猶予期間を置き、いったん閉鎖して、その後は改めて再利用案を募る。
あとは、それを実際に動かすだけだ。
「世界律作成側への検討依頼、先に上げるぞ」
「はい」
「告知に“検討依頼を行っています”って書いて、まだ送ってません、は嫌だからな」
「よい判断です」
「今日、珍しく褒めるな」
「通常の評価です」
「すぐ戻った」
俺はユキの整理メモを添え、検討依頼を送った。
【世界律作成側へ検討依頼を送信しました】
「ルル、読むかな」
「読むと思います」
「返事は?」
「すぐには来ない可能性があります」
「だよな」
世界律は、目の前の案件より時間がかかる。
それでも、今回だけ何とか辻褄を合わせて、処理する道が足りなかったことまで一緒に忘れるよりはいい。
送信済みの表示を閉じる。
「じゃあ」
「はい」
「告知、作るか」
◇ ◇ ◇
文章そのものは、思っていたより短くなった。
その代わり、一行を決めるのに時間がかかった。
最初に書いた、
【運営側の確認が長期化していました】
という一文を、しばらく眺める。
「……便利だな、これ」
「便利ですね」
「やっぱり?」
「はい」
「消すか」
書き直した。
【運営は三か月にわたり、当該申請の処理を完了していませんでした】
急に痛くなった。
「三か月って文字にすると長いな」
「三か月ですので」
「知ってる」
けれど、そこを短くする理由もなかった。
その下には、灰色の工房について書く。
【この期間中、同ギルドによる設備搬入および利用範囲の拡大が行われ、継続的な日常利用の状態に至っていたことも確認しています】
一度、手を止める。
起きたことは、これで足りる。
その先は比較的早かった。
処理手順が十分に整っていなかったこと。
世界律作成側へ検討依頼を送ったこと。
そして、今後の対応。
【運営からのお知らせ】
旧公式イベントフィールド〈レムナント・ラボ〉について、ギルド《灰色の工房》より長期利用申請が提出されていましたが、運営は三か月にわたり当該申請の処理を完了していませんでした。
この期間中、同ギルドによる設備搬入および利用範囲の拡大が行われ、継続的な日常利用の状態に至っていたことも確認しています。
申請処理が長期間未了となったことについて、申請者および関係プレイヤーの皆さまにお詫びします。
また、本件の確認過程において、旧公式イベントフィールドの長期利用および暫定利用について、現在の運営規定では処理手順が十分に整備されていない点を確認しました。
この点については、世界律作成側へ検討依頼を行っています。
【今後の対応】
一 現在の利用者に対し、退去準備のための猶予期間を設けます。
二 猶予期間中、新たな設備追加および利用範囲の拡大は認めません。
三 猶予期間終了後、レムナント・ラボはいったん閉鎖し、整備状況を確認します。
四 その後、全プレイヤーを対象に、同フィールドの再利用案を募集します。
五 旧公式イベントフィールドの未処理申請について、同種案件の確認を行います。
「……固いな」
「告知ですので」
「読まれるかな」
「必要なところは読まれます」
「全部は?」
「期待しない方がよいかと」
「現実的だな」
「運営ですので」
「その言葉、便利になってきたな」
最後に、再利用案募集について一文だけ足した。
これまでの利用によって得られたフィールドの特徴や課題に関する知見についても、提出された企画内容の一部として評価する。
灰色の工房だけを優先するわけではない。
かといって、三か月の間に積み上げたものまで消すわけでもない。
「こんなもんか」
「はい」
「燃える?」
「反応はあると思います」
「言い方が慎重になったな」
「学習していますので」
「こういう時だけ早いな」
俺は最終確認を開いた。
【告知を発出しますか?】
【はい/いいえ】
三か月止まっていた案件が、ようやく外へ出る。
少しだけ息を吸って、【はい】に触れた。
◇ ◇ ◇
反応は、早かった。
というか、速すぎた。
【新規意見ログ】
・三か月はさすがに長い。
・いや、普通に放置じゃん。
・灰色の工房、ほぼ拠点になってたのか。
・三か月返事なかったら使いたくなる気持ちは分かる。
・でも先に使った者勝ちは困る。
・猶予期間あるなら妥当では?
・再募集するなら出したい。
・旧フィールド、ほかにも寝てそう。
・次は評価基準を先に出して。
・前担当フォルダ公開して。
「最後のやつは駄目」
「公開できません」
「したら?」
「問題が増えます」
さらに一件、新しい表示が割り込む。
【新規申請予告】
送信者:グレン
所属:黒煙の牙
レムナント・ラボ再利用案、うちも出す。
灰色だけに好き勝手させるな。
「来たよ」
「来ましたね」
「絶対来ると思った」
「私もです」
「止めて」
「募集は全プレイヤーを対象としています」
「こういう時だけ制度が強い」
ログはまだ増えていた。
灰色の工房に同情する声もあれば、やり過ぎだという声もある。運営の三か月を責める声も、猶予期間を評価する声もあった。
誰も完全には納得していない。
その代わり、再募集へ手を挙げる人間はもう出ている。
「……まあ。沈んだままよりは、ましか」
「はい」
アイは、それ以上何も付け足さなかった。
俺もログを閉じる。
白い管理空間へ来たばかりの頃、運営の仕事というものを、俺はもっと単純に考えていた気がする。
止めるか、通すか。
許すか、許さないか。
たぶん、そのくらいだと思っていた。
実際には、ずっとその前後ばかりを考えていた。
いきなり止める前に、もう少し弱い方法はないか考える。止めるなら、何をどこまで止めるのかを決める。なぜそうしたのかを残して、戻せるものなら戻る道も用意する。
決め方に文句が出れば、もう一度話を聞く。
入口が足りなければ、次は迷わないように作り直す。
そして今日は、誰かが三か月前に置いたまま沈めたものを、水面まで引き上げた。
世界を救うような仕事ではない。
明日になれば、またどこかで何かが詰まる。
それでも、何もなかったことにするよりはいい。
戻れるようにしておく方がいい。
そこまで考えて。
ふと、引っかかった。
「なあ、アイ」
「はい」
「そういえばさ」
「はい」
「俺の一時停止って、今どうなってる?」
アイが黙った。
「…………」
「アイ?」
「聞こえています」
「じゃあ答えて」
ほんの少しだけ間があった。
「……現在も、見直しは完了していません」
「つまり?」
「一時停止状態は継続しています」
「まだ止まってるのかよ」
「はい」
文句を言ったくせに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
まだ止まっている。
なら、少なくとも今すぐここを出ていく理由はない。
もう少し、ここにいていい。
「…………」
そう考えたところで、覚えのある声が戻ってきた。
――何かを差し出して。
次も、勝手に続く。
――そこに置いて。
そして。
――ようやく椅子に座る。
「…………」
まただ。
仕事があるから。
頼まれたから。
止められたままだから。
そういうものを一つずつ並べると、ここにいる理由ができる。
理由ができると、少し安心する。
そして、この先にもう一つ続く言葉があることも知っていた。
そこまで思い出す前に、俺は口を開いた。
「……で」
「はい」
「ちゃんと見直す予定はある?」
今度は、返事が来なかった。
「…………」
「アイ?」
アイは俺の顔をじっと見ていた。
「何?」
「……少し、少しだけ、休みますか」
「話逸らしたな?」
「休憩を提案しています」
「今、俺の停止の話してたよな?」
「あなたには休憩が必要です」
「逸らしたよな?」
「本件の一次対応は完了しています。次の作業へ入る前に、短い停止時間を入れても問題ありません」
「停止って言葉で停止の話を上書きするな」
「そのような意図はありません」
「本当か?」
「はい」
返事だけは速かった。
怪しい。
「あなたの判断精度が落ちると、次の作業に影響します」
「理由が業務寄りだな」
「業務ですので」
「そこは崩さないのか」
「……ただ」
アイは一度、言葉を切った。
いつものようにすぐ続けるのかと思ったが、珍しく少しだけ間がある。
「今日の対応については、ありがとうございました」
「え?」
思わず聞き返した。
「なんで俺がお前に礼を言われるんだよ」
「あなたが対応したからです」
「それは仕事だろ」
「はい」
「じゃあ、なおさら何で」
「…………」
アイの視線が、ほんの少しだけ横へ逸れた。
「それでも、です」
「…………」
「何ですか?」
「いや。珍しいなと思って」
「私も、あまり慣れていませんので」
「礼を言うのに?」
「こういう形では」
妙に限定された。
何がどう違うのか聞こうかと思ったが、やめた。
褒められたわけではない。
正しかったと言われたわけでもない。
今日だって、途中で妙な方向へ行きかけた。
それでも、最初から横で見ていた相手に礼を言われると、思っていたより悪くなかった。
「……分かった。少し休む」
「はい」
「その間に次のタスク積むなよ」
「努力します」
「そこは断言しろ」
「未来の状況によります」
「不器用か」
「仕様です」
いつもの調子に戻った。
そのことに少しだけ安心していると、アイが作業台の端へカップを置いた。
黒い液面から、細い湯気が立っている。
「コーヒー?」
「はい」
「ブラック?」
「砂糖があります」
カップの横を見る。
一つ。
それと、半分。
「…………」
「何ですか?」
「いや」
前に出された時は、二つだった。
多いとも言わなかったし、減らしてくれとも頼んでいない。ただ、一つだけ使って、もう一つには手を付けなかった。
「一個半なんだ」
「はい」
「何で?」
「前回の摂取状況から調整しました」
「見てたの?」
「見えていましたので」
「そう」
「不要でしたか?」
「いや」
砂糖を入れる。
一つと、半分。
ゆっくり混ぜてから口をつけた。
少し苦くて、少し甘い。
「……丁度いい」
「それはよかったです」
アイは、それだけ言った。
俺はもう一口飲んでから、まだ何も開かれていない作業台を見る。
「続き、あとでもいい?」
「問題ありません」
「珍しく即答だな」
「休むと決めたのであれば、休んでください」
「俺が戻ってくる前提なんだ」
何となく言った。
アイは、少し不思議そうにこちらを見る。
「はい」
「担当だから?」
「それもあります」
「それも?」
アイの視線が、ほんの少しだけ揺れた。
「……あなたが続ける方が、よいと思います」
「俺が?」
「はい」
「なんで?」
「それは」
珍しく、すぐには答えなかった。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「あなたは、少し危なっかしいので」
「は?」
「目を離すと、時々、妙な方向へ頑張ります」
「ひどい評価だな」
「評価ではありません」
「じゃあ何だよ」
「観察結果です」
「もっとひどい」
言うと。
アイの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「…………」
「何ですか?」
「今、笑った?」
「いいえ」
「笑っただろ」
「記録にはありません」
「便利だな、記録」
「はい」
まだ、ほんの少しだけ口元が柔らかい。
それをもう一度指摘したら、今度こそ消えそうな気がしたのでやめた。
「つまり、危なっかしいから目を離せないと」
「そのような表現はしていません」
「ほぼ言ったよ」
「あなたが続ける方がよい、と申し上げました」
「そのあとが問題なんだよ」
「そうでしょうか」
しれっと返された。
コーヒーを飲む。
さっきより、少しだけ甘く感じた。
「……じゃあ、今後もよろしく」
「はい」
「それと」
「はい」
「さっきの停止の話、忘れるなよ」
今度は、アイが黙った。
「…………」
「また黙った」
「忘れてはいません」
「ならいいけど」
「はい」
「あとで、ちゃんと聞くからな」
少しの間。
「……はい」
返事はした。
ただ、その声だけが、ほんの少し硬くなった気がした。
俺はカップを両手で持ったまま、白い管理空間を見回した。
ここへ来た時、俺は止められた側だった。
なのに気づけば、誰かへお願いを出し、何かを止める範囲を考え、理由を残し、戻る道を作り、決めたことを見直す入口まで用意していた。
随分遠くまで来たような気もする。
たいして動いていないような気もする。
結局、俺自身は最初の場所で止まったままなのだから。
ただ。
前とは少し違う。
止めることにも理由がいる。
止めたままにするなら、なおさらだ。
戻す道がなければ、作らなければならない。
納得できなければ、聞く入口もいる。
それくらいは、もう知っている。
俺はもう一口、コーヒーを飲んだ。
一個半。
前より、ちゃんとちょうどよかった。
作業台の向こうでは、アイがまだこちらを見ている。
「……何?」
「休んでください」
「見張ってる?」
「観察しています」
「やっぱり目を離す気ないだろ」
今度は。
ほんの少しだけ。
アイは笑った。
俺は、それ以上追及しなかった。
沈んでいたものは水面まで浮かんだ。
続きは、明日の俺に任せる。
それくらいは、
今の俺にも許される気がした。
次に拾うことになるのは。
たぶん。
ずっと最初から、そこに沈んでいた俺自身の話なのかもしれない。
【アイの補足メモ】
今回は、第1章全体のまとめです。
ここまで、主人公にはいろいろな仕事をしてもらいました。
中央広場では、迷惑行為に対して、いきなり禁止するのではなく、まず「お願い」で対応しました。
第二広場では、複数の企画から一つを選び、その理由を示し、納得できない側が見直しを求める手続まで確認しました。
初心者ダンジョンでは、危険な場所を一時的に止め、利用者の協力を得ながら原因を調べ、修繕後に再び使える状態へ戻しました。
そして最後には、三か月処理されずに残っていた申請を拾い上げ、運営側と申請者側、それぞれに残っていた事実を整理して、次の手続へつなげています。第1章は、中央広場から第二広場、初心者ダンジョン、レムナント・ラボへと場所を変えながら、この問題を繰り返してきました。
扱っている事件は、それぞれ違います。
ただ、考えていたことは、かなり似ています。
何かを止める前に、本当に止める必要があるのか。
止めるなら、どこまで止めるのか。
なぜそうしたのかを説明できるか。
あとから確認できるように、記録を残しているか。
そして、事情が変わったとき、間違っていたとき、納得できない人がいたときに、戻ったり、見直したりする道があるか。
初心者ダンジョンの補足でも、
「どこが危ないのか」
「なぜ止めるのか」
「どこまで止めるのか」
「いつ見直すのか」
「代わりの道はあるのか」
という整理をしました。
第1章を通して、少しずつ形を変えながら扱っていたのは、結局この部分です。
行政法というと、
「行政が何をできるのか」
を定める法律のように見えるかもしれません。
もちろん、それも重要です。
ですが同時に、
「できるとしても、どうやって使うのか」
を考える分野でもあります。
権限がある。
だから、すぐ使う。
それだけでは足りません。
弱い手段で足りるなら、強い手段を使う必要はない。
人に不利益を与えるなら、理由が必要になる。
判断したなら、あとから確認できる記録を残す。
そして、一度決めたことも、必要なら見直せるようにしておく。
作中では、それをゲーム運営の仕事へ置き換えてきました。
たぶん、第1章で一番大事なのは、
「止めること」
そのものではありません。
止める前。
止めている間。
そして、止めたあと。
そこまで含めて考えることです。
穴を塞いで終わりではありません。
不採用を出して終わりでもありません。
申請を受け付けて、「確認中」と表示しておけば終わりでもありません。
苦情や異議が出たなら、それも次に直すための情報になります。古坑道の件でも、一件の報告から調査を進め、原因を確認して改善へつなげました。
うまくいかなかったときに、
「では、どこから戻るか」
を考えられること。
それも、運営の仕事です。
そして。
ここまでは、主人公が主に「処理する側」に座っていました。
誰かへお願いを出す。
誰かの利用を止める。
誰かの申立てを受ける。
誰かの沈んだ申請を拾う。
そういう仕事です。
ですが、本人も最初から一つだけ、止まったままの案件を持っています。
自分自身の一時停止です。
次からは、
「止める側なら、理由を示せ」
「止めたままなら、見直す道を用意しろ」
と他人の案件で考えてきたことが、そのまま本人へ返ってきます。
今度は、処理する側ではありません。
止められた側です。
以上、第1章の補足でした。
なお。
本人が自分の一時停止を思い出すまで、かなり時間がかかりました。
忘れていたわけではないそうです。
記録上は、そのように扱っておきます。




