沈んでいたログ
前担当メモ。
【あとでやる(本気)】
その文字列を見た瞬間、俺はしばらく何も言えなかった。
いや、言いたいことはあった。
山ほどあった。
だが、言葉にすると、たぶん運営補助者として不適切なものになる。
「……本気って書けば、放置していいわけじゃないだろ」
「その通りです」
アイは、いつも通り淡々と頷いた。
表示されているのは、旧ダンジョン案件フォルダの奥に眠っていた申請ログだった。
【レムナント・ラボ長期利用申請】
申請者:ギルド《灰色の工房》
代表:シグレ
状態:確認中
経過:標準処理目安を大幅超過
「確認中」
「はい」
「標準処理目安を大幅超過」
「はい」
「具体的には?」
「三か月です」
「三か月」
「はい」
「それ、“確認中”っていうより“沈没中”じゃない?」
「表現は粗いですが、状況認識としては近いです」
「近いのかよ」
俺は前担当メモを、もう一度見た。
【あとでやる(本気)】
「前担当ああああ!」
「本気だったようです」
「本気で放置するな!」
叫んでも、フォルダは何も答えない。
当然だ。
ログは言い訳をしない。
ただ残るだけだ。
*
俺は、レムナント・ラボの案件フォルダを開いた。
レムナント・ラボ。
イベント終了後、公式イベント会場としての役目は終わった。
ただし、完全に消されたわけではない。
内部ラベルは、こうなっている。
【公式利用終了】
【用途未定】
【保管中】
「元公式イベント会場の空き家か」
「おおむねその理解で問題ありません」
「空き家管理、ちゃんとしようぜ」
「それが今日の話です」
「嫌な予感しかしない」
俺は観察モードで、レムナント・ラボへ視界を飛ばした。
薄暗い研究施設風のフィールド。
割れた培養槽。
止まったままの転送装置。
古いイベントの案内板。
【実験は終了しました。またの挑戦をお待ちしています】
「三か月どころか、もっと待たされてる案内板、ちょっと怖いな」
「ホラー演出ではありません」
「結果的にホラーだよ」
奥へ進むと、視界に旗が見えた。
灰色の歯車を模した紋章。
ギルド《灰色の工房》。
その周囲には、作業台、露店、簡易倉庫、休憩スペース。
古い研究施設の中腹が、ほぼ小さな町になっていた。
「……住んでるな」
「はい。日常利用です」
「言い切った」
「入場頻度、滞在時間、出入ログ。どれも拠点利用の傾向です」
「“ちょっと使ってみました”じゃないな」
「“引っ越し済み、許可待ち”に近いです」
「役所っぽい例えやめろ」
「運営です」
「そこは言い直すのか」
施設内に残っていた公開発言ログも確認できた。
【レムナント・ラボ周辺公開ログ】
『申請出したし、返事来るまで使ってみる?』
『ダメなら片付ければいいでしょ』
『三か月音沙汰ないし、もう実質OKでは?』
『ここ、加工台置くとめちゃ便利』
「実質OKって言うな。……これ、ギルドチャットまで見てるわけじゃないよな?」
「違います。レムナント・ラボ内で発言された周辺公開ログです」
「つまり、現地でしゃべってた分か」
「はい。管理対象フィールド内の公開発言です。ギルド内部の非公開チャットは含みません」
「そこは見てないんだな」
「見ていません。見るには別の理由と手順が必要です」
「なるほど。現地で看板立ててしゃべってるのと、部室の中で相談してるのは違うってことか」
「おおむねその理解で問題ありません」
俺は、ついさっき処理した古坑道の案件を思い出した。
あれは、現役ダンジョンに空いた穴だった。
世界律に基づくダンジョン管理規定があった。
危険箇所を特定する。
範囲を絞る。
期間を出す。
迂回ルートを案内する。
修繕要求を同時に出す。
面倒ではあったが、道はあった。
だから、仮封鎖できた。
「これ、古坑道みたいに仮封鎖で止めれば……いや、違うか」
途中で、自分の言葉が止まった。
アイがこちらを見る。
「続けてください」
「古坑道は、現役で開いているダンジョンに危険箇所があった。座標も範囲も期間も、修繕条件も切れた」
「はい」
「でも、レムナント・ラボは違う。通常利用は終わってる。危険箇所の仮封鎖じゃなくて、長期利用申請が確認中で止まってる案件だ」
「その通りです」
「命令で止める話じゃない。使わせるか、使わせないか。条件を付けるか。その前に、そもそもどういう道で処理するのかが怪しい」
「理解が進んでいます」
「分かってるよ」
少しだけ、アイが黙った。
「では、さらに悪い話をします」
「嫌な前置きだな」
「この件について、現在の世界律および運営規定には、直接の処理ルートがありません」
「……ない?」
「ありません」
「旧公式イベントフィールドの長期利用申請を受け付けたあと、運営が長期間処理せず、その間に申請者が事実上拠点化していた場合に、どう扱うか」
「はい」
「それ用の道がない?」
「はい」
「うわ」
今度の穴は、地形の穴ではない。
世界律の穴だ。
「じゃあ、今から世界律を作ればいいんじゃないのか?」
「作ることはできます」
「なら」
「ただし、今から作った世界律を、三か月前からの行動にさかのぼってそのまま当てることはできません」
「……後出しルールで殴れないってことか」
「かなり粗いですが、理解としては近いです」
「粗いのかよ」
「後から“この場所の長期利用は、こういう手続に従うこと”と定めることはできます。しかし、それを理由に、過去の時点で明確に違反だったものとして扱うことはできません」
「今ルールを作って、“三か月前のお前らはアウトでした”とは言えない」
「はい」
「じゃあ、詰んでない?」
「詰みかけています」
「優しくない」
「ただし、“何もできない”とは違います」
「何ができる」
「今あるログと、今ある世界律の範囲で、現在の状態を整理すること。運営側の長期未処理を認めること。申請者側の既成事実化を確認すること。そして、今後同じことが起きないように、世界律側へ新しい道の検討を上げることです」
「一発で命令して終わり、じゃないんだな」
「はい。一方的に命令して終わらせるには、根拠が弱すぎます」
「でも、完全に許可するのもおかしい」
「はい。正式な判断が出る前に、占有範囲を広げていた事実は残ります」
「運営も悪い。灰色の工房もやりすぎ。世界律には道がない。後出しルールで過去を殴れない」
「はい」
「最悪じゃん」
「はい」
「そこは否定してくれ」
「否定すると、あとで困ります」
俺は額を押さえた。
古坑道の穴は、見れば分かった。
座標もあった。
封鎖もできた。
直すこともできた。
だが、これは違う。
処理の穴。
世界律の穴。
そして、時間が経ったことで、穴の周囲に人が住み始めている。
「これ、俺だけで処理するの怖い」
「正しい判断です」
「即答が刺さる」
「過去の積み残し、現在の利用実態、今後のフィールド運用、世界律の欠けている部分が混ざっています。整理係を入れた方が安全です」
「整理係」
「呼んでおきました」
「誰を?」
管理空間の端に、細い線のような扉が開いた。
灰色のキャソック風の衣装。
糸目。
関西寄りの軽い声。
どこを見ているのか分からない男。
ユキだった。
「お邪魔します。前担当フォルダは、開く前に深呼吸した方がええですよ」
「もう開いた後なんだよ」
「それはお気の毒に」
そこで俺は、ユキの肩を見た。
「……あれ」
「なんです?」
「今日はくま、いないのか」
ユキは自分の肩をちらりと見て、肩をすくめた。
「今日はお留守番です」
「くまって留守番するのか」
「するんとちゃいますか。少なくとも、今日は来てません」
アイは何も言わなかった。
ただ、作業板のログを一枚、静かに閉じた。
「……なんか理由ありそうだな」
「世の中、知らんでええこともあります」
「その言い方が一番怖い」
*
ユキは、作業台に並んだログをざっと眺めた。
「なるほど。申請は出てる。返事はない。相手は使ってる。運営は見えてた。世界律に直通の道はない。で、今困ってる」
「五行でまとめるな」
「三行より親切です」
「そこじゃない」
「この件、混ぜたら燃えます」
「もう燃えてる気がする」
「混ぜると爆発します」
「言い直しが怖い」
ユキは、空中に白い板を出した。
【整理】
一 申請を長期間処理しなかった運営側の問題
二 許可前に利用を広げたギルド側の問題
三 旧公式イベントフィールドを今後どう扱うかという問題
四 その処理を直接定める世界律・運営規定がない問題
「この四つを分けます」
「分けるだけで解決する?」
「しません」
「しないのかよ」
「でも、分けないと、どこを直す話なのかも分からなくなります」
ユキは、ひとつずつ指を折った。
「運営が何も決めていなかったことは認める。ここを逃げると全部崩れます」
「はい」
「灰色の工房が正式な許可前に利用を広げたことも消さない。ここをぼかすと、“使った者勝ち”に見えます」
「嫌な言葉」
「今後、レムナント・ラボをどう使うかは、今の利用実態だけで決めない。旧公式フィールドは、全体に関わる場所です」
「灰色の工房だけの問題じゃない」
「そうです」
「世界律の穴は?」
「ルルさんに上げます」
さらっと言われて、俺は一瞬止まった。
「ルルに?」
「はい。これは現場だけで埋めたらあかん穴です」
「現場だけで?」
「今回だけ何とかしても、道がないままなら、次の旧公式フィールドで同じことが起きます」
ユキは白い板に、一行を足した。
【追加対応】
五 旧公式フィールドの長期利用・暫定利用について、世界律作成側へ検討依頼を上げること
「今日の宿題です」
「宿題多くない?」
「前担当が貯めてくれてますから」
「やめろ。怒りが再燃する」
「燃料は十分あります」
「上手いこと言うな」
俺は追加対応の一行を見た。
今から世界律を作っても、過去をそのまま裁くことはできない。
でも、未来のために道を作らないと、また同じことが起きる。
「後出しで過去を殴れない。でも、未来のために道は作る」
「よい理解です」
「今のは、ちょっと分かってきたぞ」
「記録します」
「するな」
整理を進めても、問題は消えない。
むしろ、輪郭がはっきりした分、余計に厄介に見えた。
運営は三か月止めた。
灰色の工房はその間に拠点化した。
直接の世界律はない。
後出しの世界律では過去を裁けない。
今後の世界律作成依頼は必要。
そして、目の前の案件は、目の前の案件として処理しなければならない。
「これ、隠したら終わるな」
俺は、ぽつりと言った。
アイとユキが、同時にこちらを見る。
運営が放置したことも。
灰色の工房が拠点化したことも。
世界律の道が足りていなかったことも。
出すしかない。
ログは嘘をつかない。
けれど、ログを隠せば、嘘より悪いものになる。
【アイの補足メモ】
今回のポイントは、申請の長期放置と、ルールの不遡及です。
申請を受け付けたまま「確認中」で止め続けると、申請者側はその状態を前提に動き始めます。
そのため、後から単純に、
「許可前だったので全部違反です」
とは言いにくくなります。
もちろん、新しい世界律を作ることはできます。
今後、旧公式フィールドの長期利用や暫定利用について、手続を整備することは必要です。
ただし、その新しいルールを、三か月前の行動にそのままさかのぼって適用することはできません。
ルールは、原則として未来に向かって働くものです。
あとから作った物差しで、過去の行動をいきなり叩くと、利用者は何を信じて動けばよいのか分からなくなります。
これが、今回の「後出しルールで過去を殴るな」という話です。
なお、メモに【あとでやる(本気)】と書いても、不作為は不作為です。
「本気」は、処理した後に言ってください。




