(20)来訪者⑤
「い、痛ぇな。放せよ」
「君が、この子にこれ以上付きまとわないと約束すればな」
「はあ? 何言ってんだよ。おっさんに関係ないだろう?」
「大ありだ。この子は私の娘だ」
マドゥとストークが、同時に声を上げた。
「はぁ?」
「嘘言ってんじゃねえ。こいつに父親はいねえんだよ」
「学校で習わなかったのか? 精子と卵子の話を。父親抜きで、子供は作れないんだよ」
男が、ストークを更にねじり上げる。
「痛ぇ。分かった。約束する。だから、放してくれ。腕が、折れる……」
「ふん」と鼻を鳴らして、男が離れた。
ストークが、腕を押さえて座り込む。その尻を、男が蹴り上げる。
「とっとと去れ。今度娘に近づいたら、その時はこれくらいじゃ済まないからな」
「畜生。覚えてろ」
お決まりの捨て台詞を残し、ストークが去って行く。
マドゥはポカンと口を開けて、その姿が闇に溶けるのを見送った。
「大丈夫ですか。お嬢さん」
言われて振り返る。そのとたん、笑いが込み上げてきた。
「ああ、ごめんなさい。助けていただいたのに、笑ったりして」
「いいえ。きっと、ほっとしたのでしょう」
「そうじゃなくて、すごく気の利いた嘘がおかしくて」
「嘘じゃないですよ」
「はっ?」
「だから、嘘じゃないですよ。君は、私の娘だ。マドゥ」
「はあ?」
思わず叫んでいた。
「おじさん、何を急に……」
「確かに、急で申し訳ない。私はずっと会いたかったのだが、君たちの所在が分からなくて、今までずっと探していたんだよ。君が事件を起こしてくれたおかげでユェの居場所が分かり、そこからここにたどり着けた」
「じゃあ、ここにいることは、ユェに聞いたの?」
「そうだよ。ここの住所を教えてくれた」
緩んでいた体が、また固くなる。
ユェは住所を知らないはずだ。ワンは「これ以上の接触は避ける」と言っていたのだ。
「ユェはどうしてる? 元気なの?」
「ああ、元気だ。君に会いたがっていたよ」
やっぱり怪しい。
「父親は私を捨てたって聞いてるんだけど」
「それは嘘だ。ユェが君を連れて逃げたんだ」
「ユェが? どうして?」
ますます変だ。
自分は、祖母が亡くなる前、初めてユェに会ったのだ。
「何で、そこでユェが出てくるの?」
男は妙な顔をした。
「なぜって、母親だから」
(こいつ、やっぱり嘘つきだ)
けれど、そう指摘すれば、なぜそう思うのかと、返されるに違いない。
しかし、本当のことは言いたくなかった。相手の目的が分からないのに、自分の情報をさらけ出すのは危険な気がした。また、ワンに「甘い」と突っ込まれるだろう。
「どうして、母は逃げたの?」
「誤解があったんだよ。私が浮気したと思ったんだ」
「ふーん。でも、今まで隠れていたってことは、きっとあなたに会いたくなくて、私とも会わせたくなかったからだよね。だったら、私もこれ以上話すことはないよ」
「ユェが嫌がると?」
「きっと」
「君はどうなんだ? 父親に会いたいと思わなかったのかい? 父親のことを知りたいと思ってくれなかったのかい?」
顔を上げ、男を真っすぐ見つめる。
「私には生物学的に父親はいても、家庭的な父親はいない。あなたを父とは認めない」
男は肩をすくめ、笑った。
「しょうがないね。今日のところは引き下がることにしよう。でも、君とはもっと会話が必要だ」
「私には、必要じゃない」
男は微笑むと、ゆっくりとした口調で断言した。
「いや、必要になる」
「家まで送ろう」という申し出を丁重に断る。
手を振って去って行く男を見送ると、後ろに気をつけながらアパートに戻った。
その夜、一睡もできなかった。トイレに行くのも、湯船につかるのも、怖かった。
ストークは、ずっとつけていたと言った。それが本当なら、毎日、この部屋をのぞいていたということだ。カーテンのないこの部屋を……。
風呂上がりにくつろぐ自分を、無防備に寝ている姿を、じっと見ていたかもしれない。それなのに、自分は全く気付いていなかったのだ。どんな目で自分を盗み見していたのかと思うと、恐怖と嫌悪で気が狂いそうだった。
そして、今も、この周辺をうろうろしているかもしれないのだ。
(確かに、私は甘い。甘すぎた)
大声で暴れたい。何もかも破壊したい。
そんな思いに耐え、じっと、部屋の隅でひざを抱えてうずくまっていた。
次の朝、荷物をすべてリュックに詰め込み、アパートを出た。
開店時刻を待ちかねて、ワンの店に飛び込む。
「やっぱり部屋を変わりたいの」
カウンターの向こうに腰かけ、広げた新聞に眼を落したまま、ワンが問う。
「また、何かあったのか?」
「変な男につけられた」
「ふーん。どんな?」
バサリと音を立てて、新聞がめくられる。
「そいつ、私の父親だって言うの」
ワンが顔を上げた。
顔つきがいつもと違う。メガネの奥の目が、険しい。
ワンは、さっと店内を見回した。誰もいないのを確認し、立ち上がるとマドゥに顔を寄せた。
「そいつの名前は?」
「聞かなかった」
「バカ。まあいい。他に何を言った」
「ユェが母親だって。嘘ばっかり」
しかし、ますますワンの表情が翳って行く。への字に曲がっていた口が開く。
「そいつは、敵だ。すぐにニーケのところに行け」
「敵って、誰の?」
「お前とユェの、だ。全く、こんなに早く現れるとはな、全部自分の蒔いた種だぞ」
「待って、訳が分からない。お願い。知っていることを教えて」
「でかい声を出すな。チャヤに聞こえる」
「あ……」
「そうだな、こうなったら知っておく方が良いだろう。その男の話は、本当だ」
「本当って、じゃあ、あいつが私の父親で、ユェが……」
「母親だ」
「嘘……」
「じゃない。あいつはドミトリーという名で、エイコサネラのスパイだ」
「エイコサネラって、北方の?」
「他にどこがある? 自分が利用されていることに気づいたユェは、ばあちゃんにお前を預けた。整形で顔を変え、名前を変え、街に溶け込んだ後、お前を引き取った。整形前のユェは、そりゃあ美人だった。お前はユェに似ているよ」
ユェの顔を思い浮かべる。ぽっちゃり丸顔に二重あご、垂れたまぶたに低い鼻。優しい笑みをたたえるその顔は、自分とは正反対だ。
「本当のことを言わなかったのは、身内に被害が及ぶのを防ぐためだ。あの美しい顔を捨ててでも、お前をあいつから守ろうとしたんだ。ここでつかまってどうする?」
その口調で、思い当たる。
(ワンは、きっとユェを愛していたんだ。それなのに、私がヘマばかりするから腹を立てていたんだ)
「ごめんなさい。私、本当はあなたが私の父親かもって、ちょっとだけ、思ってた」
思ってた、は嘘だ。期待してた、が正しい。
ワンが、初めて驚いた顔をした。
「お前、やっぱりバカだ」
何となく照れた口調で、そう毒づく。
「うん、バカだ。認める。でも、その方が絶対良かった。どうして、ユェはあなたを選ばなかったのかな」
ワンは大きくため息をついた。
「発想が、まるで少女漫画だ。甘すぎて反吐が出る。それより、すぐニーケに連絡しろ」
前に、ユェの言うことを聞かなかったから後悔した。
今は、ワンの言うことを聞いた方が良いに違いない。
「うん。でも、どうやって?」
「ほら、電話機、貸してやる」
「番号、知らない」
「全く、どこまでバカなんだ」
ワンはスマホでナッシュコーポレーションの番号を調べると、プッシュした。
しかし、取り次いではくれなかった。
「まあ、当然だよな。仮にもナッシュコーポレーションの社長だ。一般人がアポ無しで話せるはずがない」
ワンは、腕を組んで考える。
「さて、どうするか」
「あっ!」
「良い方法が見つかったか?」
「そうじゃなくて、仕事……。忘れてた」
「バカか、お前は。仕事より命だ」
言いながらも、清掃事務所に連絡してくれる。
「スーパーもお願いできる?」
「全く。人使いが荒い娘だ」
仕事をなくすのは辛い。けれど、ストークの件もある。あれであいつが諦めたとは思えない。これ以上この街にいられないなら、きちんと辞めておこう。
「そうだ、あの男とは連絡取れないのか?」
「あの男って、誰?」
「だから、長髪の美形だよ。あいつのせいで居所がばれたんだろう?」
「あ、フォン」
そうだ。彼はニーケのところにいるんだ。そして、……。
マドゥは、右手で左手を包み込むと、指輪をこすりながら念じた。
(フォン。お願い、すぐ来て)
本当にすぐ、フォンが現れた。
なぜか、下着姿で。




