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道を祷る  作者: バステト
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第一章:朝

 瞼の向こうにかすかな眩しさを感じて、祷はゆっくりと目を開いた。やや焦点の合わない視界の中で、障子窓から差し込む朝の太陽光が、部屋の中央で畳の上を舞うほこりをきらきらと輝かせている。

 しばらくその様子を眺めながら、ゆっくりと数度瞬きをすると、祷(いのり)はベッドに両手をついて慎重に上体を起こした。

 早起きは苦手でこそないが、身長も、体重も心許ないこの身体では、急に起き上がると視界が真っ暗になって眩暈がする。以前医局長が、起立性低血圧というのだと言っていた。それを聞いて以来、起き上がるときは、バランスを崩してしまわぬようにいつも細心の注意を払っている。

 身を起こし、ベッドの上に座り込む。左手側の壁に設えられた障子の格子に指先をひっかけて、軽く向こうへ押す。この建物にはひずみなどないのだろう。軽い力で押された障子は音もなく滑り、隠していたガラス窓をあらわにした。

 ガラス窓から外を見ると、見渡す限りの新緑と、その左側の向こうにまだ少し黄色味の残る朝日が昇っていた。今は、朝の6時くらいといったところだろう。宮棚に手を伸ばせば携帯端末がありはするが、祷はその端末の画面に表示される、無機質なデジタル数字で正確な時刻を知ることが、あまり好きではなかった。正しい時刻を精密に知ることより、多少不正確でも太陽の位置や空の色味から、今は何時くらいかしらねと思いを馳せるほうが、よほど心を満たしてくれた。

 森の木々の頭の上を、2羽の烏が飛び交っている。祷は、烏が好きだった。黒く美しい羽根を力強く広げて空を舞う姿も、漆黒を宿したつぶらで賢そうな瞳も、艶やかで鋭い嘴も、全てが格好良く見えた。しかしなぜだか今日は、しきりに鳴き交わすその少しざらついた声が、心なしか不気味に、騒々しく聞こえた。

 

 穀雨(4月20日)の朝は、まだ肌寒さが残っていた。祷はうーんと伸びをし、乱れていた掛け布団を膝の上に折りたたむように少し整えると、ちょっと上半身で背伸びをして窓ガラスに自分の顔を映した。それを見ながら、長い黒髪と眉上で切りそろえられた前髪を、少し手櫛で整える。これが毎朝の日課になったのは、いつからだったか。

 そろそろかしらと思っていると、案の定、コンコンと、襖の木枠を指の間接で軽くたたく音が聞こえてきた。恐ろしいのは、訪れを告げるその音がするまで、足音のひとつもしないことだ。この軋みやすい古い板張りの廊下を、いったいどうやって音も立てずに歩いているのだろうか。今度一度聞いてみようかな、などということをぼんやり思いつつ、祷は襖を振り返って、「はい」と返事をした。それからすぐ、低く、小さく抑えられた男の声が返ってくる。

 「お嬢、與一(よいち)にございます。失礼してもよろしいでしょうか」

 いつも通りの、隙のない入室の挨拶。祷は一瞬逡巡した。それから急いで背後の窓ガラスに自分を映し見て、もう一度前髪を少し整えると、「構いません、入って頂戴」と襖の向こうへ声をかけた。襖がするすると押し開けられる。動かされた襖は日の光を浴びて、描かれている雲母の散らされた白い鳳凰を生き生きと輝かせた。

 その向こうでは、漆黒の着物に羽織を重ねた男が、折り目正しく背筋を伸ばして立っていた。男は静かに敷居を跨ぎ、後ろ手に襖を閉めると、祷を見て頭を下げる。

 「おはようございます、お嬢。本日は大変良いお天気にございますね」

 祷は鷹揚に少し手を挙げてその礼を受けた。

 「おはよう、與一。そうね、朝日が綺麗に見えます」

 與一は少し目線を上げ、窓の外を見た。

 クイーンサイズのベッドを入れてなお、ゆとりのあるこの部屋の広さのわりに小さい窓だ。この窓を見ると與一はいつも、奥歯の痒くなるような忌々しさを覚える。老中どもの作為を、感じざるを得なかった。

 その向こうには、ほとんど人が立ちいることのない樹海が、空との境界線まで続いている。青と緑の境界線を少し離れたあたりに座する太陽は、朝のすがすがしい空気の中で、確かに美しく見えた。そういえば、昔の祷は、與一か千尋が開けてやるまで、窓ガラスを覆う障子を開けようとはしなかった。毎朝こうして障子を開けるようになったのは、いったいいつからだったろうか。

 「そうですね。空気が、澄んでいるのでしょう」

 與一は、無駄のない動作で祷の座るベッドの横までやってくると、恭しく片膝をついた。それからもう一度窓のほうを見て、少しためらってから、與一は口を開いた。

 「……お嬢のお誕生日が、このような良いお日柄で、安心しました」

 「あぁ、そうでしたね、私の……」

 祷は少し目を擦った。そういえば、今日は自分の誕生日だった。昨日の夜は、やれ宴が億劫だなんだとあれだけ気を揉んだのに、ぐっすり寝て起きたらすっかり忘れてしまっていた。人間というものはつくづく都合の良い生き物なのだなと、祷は少し自嘲した。

 「お嬢。お誕生日、おめでとうございます」

 與一は側に控えたまま、すっと祷に頭を下げた。與一の深い漆黒の短髪が、柔らかな日の光を吸収している。いつもは硬そうに見える髪質が、なんだか少し、柔らかそうに見えた。

 「ありがとう。私ももう、17になったのね。あなたと出会ってから、もう……」

 「11年になります」

 「そう、11年……。あなたも、ずいぶん変わりましたね」

 祷は、白い浴衣の袖で口元を隠してくすりと笑った。

 「あの頃のあなたが懐かしいわ。残念なことに、私は記憶もおぼろなのだけれど……確か当時は15歳だったわよね、あなたはよく覚えているのでしょう、與一?」

 問われると、與一は少しばつの悪そうな顔をした。

 思い返しても当時の自分の行いは、【御神座様(おみくらさま)】たる祷に対して、不敬極まりないどころの話ではなかった。礼儀作法どころか一般社会の倫理や道徳も持たぬまま、汚い言葉遣いで荒れた態度をとっていた当時の記憶は、與一にとって、大切だが苦い記憶となっていた。

 「お嬢があまり覚えていらっしゃらなくて本当に良かったです。たとえ覚えておいででも、忘れてくださいと、お頼みするところでしたし……」

 180cmを優に超える巨躯を小さく丸めて、飼い主に叱られた後の犬のように俯く與一の様子が、祷にはいつも、どうしようもなく可愛らしく見えていた。だからつい、こうして揶揄ってしまうのだ。もちろん過去の與一のことも、幼さゆえに消えてしまった記憶こそあれかなり鮮明に覚えているのだが、それは黙っておく。

 「あら、そう?私は、あの頃の粗野なあなたも好きでしたよ?」

 そう言われると、與一は神妙な顔をして眉を顰めた。

 「……お嬢。冗談でも、御神座様ともあろうお方が、そう簡単に『好き』などというお言葉を口になさらないほうがよろしいかと。愚かな勘違いをする人間が、いないとも限りませんので」

 「まあ!」

 祷は、丸く大きな目を少し大げさに見開いて、心底驚いたわ、といった様子で與一を見た。それからベッドの縁を両手で掴み、しなやかな動作で與一に顔を近づける。

 宇宙を内包するような烏の濡れ羽色をした祷の大きな瞳に、與一の強張った表情が映った。

 「いつ、私が冗談を言いましたか?」

 「お嬢っ、お戯れも大概にと何度も……!」

 一層眉を顰め、困ったように眉間にしわを寄せる與一を傍目に、祷は小さく肩を揺らして心底楽し気に笑っていた。與一が、きちんと言い含めなければと口を開こうとしたとき、再び襖の縁を軽く叩く控えめな音がした。はぁい、と祷は返事をする。声を聞かずとも、襖の向こうにいるのが誰であるかが祷には分かっていたが、これも儀礼なので仕方がなかった。

 「御神座様、千尋にございます。朝のお支度に上がりました」

 「えぇ、どうぞ。入って頂戴」

 ややあって、音もなくすーっと襖が開かれた。

 淡い紺色の着物を崩れなく着て、完璧な正座をした千尋の姿が見える。千尋はそのまま静々と膝行で畳の上に進み出た。丁寧に襖を閉め戻し、無表情で祷に座礼をする。

 「御神座様、お早うございます。加えて、お誕生日をお迎えになられましたこと、心よりお慶び申し上げます」

 「ありがとう、千尋。あなたとはもう、16年になるわね……!」

 「はい。今年もこうしてお側でお召し替えをお手伝いできることを、心より嬉しく存じます」

 千尋はそういうと、顔を上げて、まじまじと祷の顔を見上げた。それからふっと、目元を綻ばせた。

 「またひとつ、お綺麗になられましたね、御神座様」

 「あら、あなたからそんな風に言ってもらえるなんて嬉しいわ……!ありがとう、あなたももう立派な女性ねぇ」

 祷は千尋を見やると、顎に手を当てて小首を傾げ、感慨深げな顔をした。

 その姿がなんだか無理に大人ぶっているように見えて、千尋は内心で苦笑した。

 祷のことは、彼女が1歳だった頃から知っている。生家で過剰なほど叩き込まれていた格式ばった礼儀作法のおかげか、見込みがあると判断された千尋は、御神座様の身の回りの世話を引き受ける【御側女(おそばめ)】の次期候補として、齢8つにしてこの道明寺家に買い取られてきた。それから御側女見習いとして、ひたすら幼い祷の世話を手伝って回った。千尋にとって祷は、年の離れた妹のようであり、そして娘のようだった。その所為だろう。どんなに祷が大人びたしぐさをして見せていても、どこか背伸びをしているように思えてならなかった。

 それでも、千尋はその人生の半分以上を、御側女として祷の隣で仕えてきた。御神座様の「足」となり「地」となり彼女を支えていく【御身地(おんみのち)】として、この與一が就任してから、色々と大きく変わってしまいはしたが、その事実は変わらない。御側女として、千尋は個人的な愛着や思い入れを表に出すことなく、どこまでも冷静に、淡々と職務を全うする。

 「恐れ入ります。……御神座様、本日は正午より、御身の生誕を祝う【瑞鶴の宴】がございますから、少々早いですが、朝のお支度をさせて頂いてもよろしいでしょうか」

 「そうね、構わないわ。お願いしますね、千尋」

 その言葉を聞くと、千尋は再度、恭しく頭を下げた。

 そっと顔を上げると、襖のほうに向かって、軽く2回手を叩く。するとすぐに襖が開き、質素な薄い青色の着物を着た女性が2人、深々と座礼をしていた。それから、脇に置いていた白木の隅切(四隅が切り落とされた、低い4本の脚がついたお盆)をそれぞれ手に持ち上げて、足音を立てぬよう静かに入室してくる。この広大な道明寺の本殿で、屋敷中全ての下働きを担う【葵(あおい)】たちだ。

 2人の葵下女は、木目の美しく出た白木の隅切を持って、祷のいるベッドの近くまで進み出る。彼女たちが部屋に入ってくると、隅切から檜の香りがふわっと漂った。彼女たちは顔を伏せたまま畳の上にそれを置き、ついぞ一言も発することなくそそくさと部屋を去っていった。襖が閉まるまで、祷はその背中を見届ける。

 隅切の上には、片方には黒漆塗りの小盥が、もう片方には湯気を上げる朱漆の小盥と白練の絹の手拭いが乗っている。千尋は黒漆塗りのほうの小盥を両手で持ち上げつつ、與一に顔を向けた。

 「御身地。あなたは手拭いを湯に浸して、絞ってください」

 「かしこまりました」

 與一が手拭いを手に取るのを横目で捉えると、千尋は手に持った小盥を、ベッドの縁に腰掛ける祷の前に差し出した。小盥に張られた透き通るような水が、部屋の中に差し込んでいる淡い朝の太陽光を、その水面に細かく反射している。つやつやと表面の輝いている小盥の中の水は、大層冷たそうに見えた。

 祷は少しだけ口元を強張らせてから、そっとその水に両手を入れた。指先にじんじんと染みる目の覚めるような水の冷たさを堪えて両手で水を掬うと、こぼさぬように注意を払いながら、祷はゆっくりと手のひらの中の水面に口をつけた。指先には冷たかった水は、寝起きでやや熱を帯びた唇と口腔には、さっぱりとして心地よかった。少し口を漱いでから、口元を隠しつつ小盥へ水を吐き出す。祷が白い寝衣の浴衣の袖口で口元を拭おうとすると、千尋が鋭く咎めた。

 「御神座様。袖口でお口元を拭わないでください。私がすぐにお拭きいたしますから……」

 「もう、また見つかってしまったわね……。分かりました」

 祷は少し口を尖らせた。

 千尋は御側女として完璧な振る舞いをするけれど、少しばかり作法にうるさすぎるきらいがあった。それもまた彼女の美徳であり長所だとわかってはいても、祷の心の中にはいつも、少しくらい良いじゃないという、ちょっとした反抗心もある。今の祷の表情には、その気持ちが誰の目にも明らかなほど現れていた。

 千尋は素早く小盥を隅切に戻し、懐からさっと細麻の手拭いを取り出した。慣れた動作で、祷の口もとを、軽く手拭いを押し当てるようにして拭っていく。千尋の背後から、手拭いが絞られて水の滴る音がした。この少し肌寒い部屋で熱いお湯に浸され絞られた絹の手拭いは、與一の手の中でホカホカと湯気を上げている。それを持ち、與一は千尋の隣に膝をついた。手拭いを広げて、祷のほうに差し出す。

 「お嬢、熱くはありませんか」

 手拭いから立ち上る湯気が、微かに祷の頬を撫でた。手を伸ばして手拭いに触れると、確かに少し熱かったが、どうせこの寒さの中ではすぐに冷めてしまうのだ。これくらいでちょうどよかった。

 「はい、大丈夫です」

 「良かったです。……失礼いたします」

 祷はそっと目を閉じた。少し衣擦れの音がして、左の頬に湯気の熱気が、先ほどよりはっきりと届く。祷は熱源に頬を摺り寄せた。すぐに温められた熱い絹の質感が肌に触れる。目を、閉じているからだろう。その絹の向こうにある、硬くて大きな與一の掌の感触まで、はっきりと分かった。

 「……あったかい」

 思わずといった様子でそう零した祷の顔を見て、與一は内心で微笑んだ。

 左手は顎に添え、右の手のひら全体を、手拭い越しに祷の頬にあてがう。彼女の柔らかい肌を決して痛めないよう、息を殺して力加減を調節し、頬から目元、鼻と顔を拭っていく。親指を使って慎重に拭っていくと、大人びてきたとはいえまだあどけなさの残る祷の顔が、安心しきったように緩み、次第に緊張が抜けていくのが與一の目に見て取れた。

 淡い桃色の口が、少し開いている。

 親指を近づけると、生温かい呼気が指先にかかった。口元を拭うとその口が閉じ、「んっ」と、祷の喉の奥から控えめな声が漏れた。

 與一の中指の先が、祷の耳に触れた。祷の顔は、與一の片手で覆い隠せるほどに小さい。去年の誕生日に彼女の身長を測ったときは、確か145cmだった。特殊な環境で育ってしまった祷は、健康でこそあるが、同年代の同性に比べて身長の伸びが遅い。そのせいだろう。指先が触れている耳も、手拭いの向こうにある顔も、頭も、体格の大きな與一からすれば驚くほど小さかった。それこそ、片手で捻り潰せそうなほどに——。

 脳裏をよぎった不穏な思考を、強く目を閉じて追い払う。それから手拭を左手に持ち替えて、無心で同じことを繰り返した。

 最後にもう一度目元を拭ってやり、與一は手拭いを持って膝で歩いて後ろに下がる。手拭いをお湯を張った朱漆の小盥に戻し、祷を見上げた。

 「終わりました、お嬢」

 「えぇ、ありがとう」

 祷は頬に手を添えた。先ほどまで熱い手拭いを宛がわれていたせいで、ほんのり上気した頬は、朝の空気を先ほどより少し冷たく感じる。いや、熱い手拭いのせいだけでは、ないのかも。

 千尋が2回手を叩く乾いた音で、祷ははっとした。

 「御手水の道具を片付けさせ、朝餉の支度をさせていただきます」

 千尋の冷ややかな声と共に再び襖が開き、滑るように先ほどと同じ葵下女が2人進み出る。1人は手早く隅切を重ね、小盥を重ねて片付けていく。同時にもう1人が、丸い漆塗りのお盆を持って千尋の側に控えた。彼女が動くと、ほのかに出汁の良い香りが立ち上った。

 彼女たちの様子を白目で捉えつつ、與一は腰を上げた。祷のベッドの足元のほうに避けてあった、コの字型のベッドサイドテーブルを滑らせて、祷がベッドの上で食事をとれるよう適切な位置に配置する。千尋はそれを見ると、隣の葵下女からお盆を受け取り、下がってよいと目顔で合図を出した。

 千尋は、静かに下がっていく彼女たちに背を向けたままベッドのすぐ傍らに進み出て、整えられたテーブルにお盆を載せる。祷は体の向きを変えると、ベッドサイドテーブルの下に足を滑り込ませて、お盆に向き合った。縁に美しい螺鈿細工の施された漆塗りのお盆の上には、小さな小鉢が5つ乗っていた。どの小鉢にも、ひと口分ずつ、異なる種類の料理が盛り付けられている。

 ベッドのそばで、千尋が小さくお辞儀をした。

 「御神座様、本日の朝餉のご説明を申し上げます。まず——」

 千尋が中央の小鉢を、五指を揃えて指し示す。

 「こちらが、鯛と吉野葛の黄金出汁粥でございます。左手前の小鉢が、丸餅と若菜の白味噌澄まし汁。右手前が甘鯛の若狭焼きです。骨は全て取っておりますので、安心してお召し上がりください」

 そこまで言うと、千尋は着物の袖をもう片方の手で押さえてから、左奥の小鉢を示した。

 「こちらが出汁巻き卵のべっ甲餡かけです、御神座様のお口に合うよう、少し甘めに作らせております。そして、右奥が桃と桜を使用した寒天の甘味でございます。お口直しに最適かと存じます」

 全ての小鉢の中身を説明し終えると、千尋は静かに身を引いて畳の上に正座をした。

 祷は身を乗り出すようにして、5つの小鉢の中身をそれぞれ覗き込んだ。甘味以外は、全て柔らかい湯気を立てており、食欲をそそる優しい出汁の香りが鼻腔を擽った。

 「ありがとう、いい香りね」

 祷はそういうと、ちらっと與一を見上げた。こちらを見つめていた漆黒の双眸と目が合う。

 「……仰せのままに」

 與一は恭しく礼をすると、祷のすぐ傍らまで歩み寄った。

 お盆に添えてあった小さな銀匙と空の平皿を手に取り、全ての小鉢から少しずつ料理を移すと、まずは出汁粥を口に含んだ。熱さを感じるが、直ぐには嚥下せず、舌がどんな些細な痛みも感知しないか、神経を研ぎ澄まして確認してから飲み下す。

 御神座様という、この世にただ一人しか存在しない神職を帯びた祷には、いかなる食事であっても毒見の過程が必ず必要とされていた。

 正直なところ、苛烈な環境で15歳までを育ち、その後特殊な訓練を受けてしまった與一にとっては、ある程度の毒物などであれば耐性ができてしまっていて全くと言って良いほど効きはしない。以前一度だけ、強力な筋弛緩剤が混入されていたことがあった。当然そのことをその場ですぐに報告したのだが、待てど暮らせど與一に一向に変化が訪れないものだから、本当にそんなものが入っているのかと真偽を疑われすらしたこともある。

 それでも、人体に有害な何かが混入していれば、わずかな違和感も逃さない敏感な舌先が検知はする。だからこそ與一は、御身地としてはもとより、毒見役としても、誰よりも優秀であった。

 そうして、全ての小鉢の毒見が終わった。與一は少し身を引いて膝をつくと、祷に目礼をする。

 「全て、毒物の類の混入はありません。どうぞ召し上がってください、お嬢」

 「いつもご苦労様、與一」

 祷は中央の粥に匙を伸ばした。冷めてしまわない様、いつも熱い状態で持ってきてもらっているはずだが、この長い工程を待っている間に、粥は食べやすい温度になっていた。口の中に、柔らかくなった米がふんわりと広がる。昆布の出汁に、鯛の旨味が相まって、起き抜けの胃に優しい味だった。

 それから千尋に説明された順で食べ進める。左奥の小鉢に盛られた出汁巻き卵へ手を伸ばしたとき、帯が緩んでいたのだろう、浴衣の右肩がやや滑り落ちた。

 その刹那、見守っていた千尋が手を伸ばすより、果ては祷が落ちた浴衣に手を伸ばすより早く、両肩に少し重たい布が掛けられる。見やるとそれはつい先ほどまでは與一が身に纏っていた、漆黒の御召の羽織だった。

 「あ、ありがとう……」

 祷はそのあまりの素早さに驚いて、長いまつげを数回瞬かせた。それから羽織の下で浴衣の肩口を引っ張り上げて胸元を整え、黙っている與一をちらりと盗み見る。彼は既に、羽織を着せる前と同じ位置に膝をついていた。慌てた様子も、呼吸が乱れた様子も、少しもない。

 ときどき、與一はこういうことをする。祷や千尋には理解の及ばないような身のこなしをしたり、目で追いきれないような素早さを見せたり、常識では考えられないような強靭さを示したり。祷には、與一のまれに垣間見るそういう姿が、よく知っているはずの彼の知らない部分を覗き見た様で少し恐ろしくて、一方で自分にはないその物理的かつ圧倒的な強さに抗いがたい魅力を感じていた。

 肩に掛けてもらった羽織の襟元を、指先でつまんで引き上げる。祷とはずいぶん対格差のある與一が着ているこの羽織は、生地が分厚くサイズも大きいため、祷の薄い肩には少し重たかった。それでも、祷はこの羽織が好きだった。

 祷の肌が意図せず露出されようとしたとき、あるいは祷が出先や宴席で少しでも寒そうな素振りを見せたとき。與一はすぐにこの羽織を着せてくれる。防刃繊維が織り込まれた、【織の綾部】という、道明寺家が贔屓にしている織元の特別製だそうで、本来ならば祷の身を守る盾となる與一が着ていなければならないものだ。それでも與一は、何のためらいもなく羽織を脱ぎ、祷の小さな背中を優しく守るように掛けてくれる。

 祷は、引き上げた羽織に、少し首をかしげて顔を近づけた。意識的に鼻で息を吸えば、どこか緊張のほぐれるような、それでいて胸の真ん中がきゅっとするような、與一の匂いがする。鉄と血と、それを隠すように強く焚き染められた沈香の匂い。そしてその奥にほんのりと香る、男の汗と、若くみずみずしい松の木によく似た、與一自身の香り。

 祷は匙を取り上げると、左手で羽織を掴んだまま出汁巻き卵を掬った。口に含み、咀嚼する様子を隠すために浴衣の袖を持ち上げて口元に寄せ、その陰で密かにほほ笑んだ。與一は、祷がここまで鼻の利くことを知らない。知っているのは千尋だけだが、彼女にも固く口止めをしている。與一がこのことを知れば、自分の汗や体臭のような不潔なものをお嬢に嗅がせるわけにはいかないと、もう羽織を掛けてくれなくなるかもしれない。もっと強く沈香を焚き染められてしまうかもしれない。祷にはそれが、どうしてもいやだった。

 

 起きたときより、畳に落ちる自分の影が、少し短くなっている。

「……御馳走様でした」

 全ての小鉢の中身を平らげると、祷は両の手を合わせた。口の中には、最後に食べた桃と桜の寒天の、爽やかな甘みが残っている。

 千尋は三度(みたび)葵下女を呼んで食器を片付けさせ、祷の足元の方の壁に向かって設置されている鏡台に向かうと、丁寧だがてきぱきとした仕草で化粧の支度を始めた。與一はそれを見ると、速やかにテーブルを元の位置まで戻し、再びベッドの縁に座りなおしていた祷のすぐそばで跪いて待機した。

 しばらくすると、千尋がこちらを振り返り、與一に目で合図を送った。與一はひとつ頷き、祷を見上げて声をかける。

 「お嬢、お化粧と髪結いの支度が整いました。鏡台の御椅子まで、お運びしてもよろしいでしょうか」

 「えぇ、お願いします」

 祷は少し顔を伏せて頷いた。両手で、かけてやった羽織の左右の襟をつかんでいる。このままでいたい、ということだった。

 「……失礼します」

 與一は一言断ってから祷の横に回って屈み込み、自分の羽織ごと、両ひざの裏と背中を支えるようにして、軽々と祷を横抱きに抱え上げた。分厚い羽織を介していても、その体のか細さと、11年という歳月が変化させた彼女の身体の曲線がよくわかる。祷の頭が、與一の胸元に添うように預けられた。祷の些細な動きに合わせて、甘い桃のような香りが鼻を擽る。

 つい、目線が下がった。

 祷は自分の腕の中で、自分の羽織に埋もれて、眠るように穏やかな表情で目を閉じ、全てを自分に委ねて安心しきっている。その姿が目に入ったとき、與一の背筋を何か猛烈なものが駆け上った。屋敷中を転がりまわった埃の塊のように、あらゆるものを巻き込んでいる「それ」を、與一は一切の表情とともに奥歯でかみ殺す。

 鏡台の側では、千尋がこちらに体を向けて立っていた。與一は、千尋の近く、鏡台の前に置かれた背もたれの無い椅子に祷をゆっくりと座らせる。さして高い椅子ではなかったが、祷の身長なら、足が畳に触れる心配はなかった。それでも、與一は祷のすぐ横に膝をついて控えると、すっと伸ばされた祷の華奢な背に手を添えた。手のひらに、控えめに体重がかかるのを感じて、與一は温かい気持ちになると同時に気を引き締め直した。

 「御神座様。お化粧をさせていただきます」

 千尋は祷の背後に立ち、その黒く長い髪に手を伸ばした。顔の横から髪をすくい上げ、まとめて全て後に流す。随分前に腰を越え、いまでは臀部に届きそうなほど長くなった祷の豊かな髪を毎日手入れするのは、気が遠くなるほど大変だろうに。滑るように千尋の手の中を抜けていった烏の濡羽色の髪は、何の引っ掛かりもなく艷やかで、日頃の手入れの良さといっそ恐ろしいほどの愛執を、否応なく実感させられるものだった。

 この男は就任してからというもの、祷の世話のうち、力仕事以外すらほとんどを千尋から持っていってしまった。就任してすぐの頃は祷の髪を梳かすにもおっかなびっくりといった様子で大きな背を小さく縮めて櫛を片手に祷の背後で固まっていたのに、今では櫛を通す千尋の手つきを、髪を傷めはしないかと狼のような目付きで監視していた。

 千尋は内心でため息をつきつつ、祷の両肩に軽く手を置いた。

「御神座様。髪を結いますので、バランスを崩されませんよう、十分お気をつけください」

 それを聞くと、祷は少し肩を揺らしてから千尋を振り返るようにして仰ぎ見た。

「大丈夫よ、今の私には背もたれがあるもの」

 そう言って、自分の隣にかがみ込む與一の着物の肩口をきゅっと掴んでみせた。祷のその笑顔は、まるで自分の自慢のおもちゃを見せびらかす子供のような、どこかいたずらっぽい、無邪気な執着と独占欲を感じさせるものだった。千尋は表情を変えないように努めつつ、與一に視線を向けた。

「……だそうですよ、御身地」

「……覚悟の上です」

 それは、何をおいても祷を椅子から転げ落ちさせることはない、という與一の硬い決意が滲み出た返事だった。

 可愛げがないわね、という言葉を千尋は胸中でぼやく。

 千尋の2つ年上で、立場上も與一の方が位は高かったが、千尋は彼のことを弟のように思っていた。與一が道明寺家に来るまでどんな生活をしていたかを詳しく知っているわけではないが、相当に特殊な環境であったこと、ここに来てからの4年間も、非常識なほど過酷な境遇に身を置いていたことはわかっていた。だからこそ、人として必要な物をたくさん取りこぼしてきた状態で、不器用ながらも祷を大切にして懸命に守り抜こうとする與一に、祷の世話のあれこれや礼儀作法のいろはを千尋は根気強く叩き込んだ。

 健気に、一途に、祷のために。

 今まで学んでこなかったことも、苦手なことであっても全て習得しようと努力する與一の姿を見ているうちに、いつしか千尋は與一のことを、弟を見守るような目で見ている自分に気が付いた。実際のところ、與一はかなり覚えが良かった。教えたことは概ね一度で覚えるし、何より底なしの体力と根性を持っているので、決して諦めなかった。しかし、その努力の陰で無理をして体を壊したり、それを千尋や祷に対して隠したまま鉄面皮を貫いて平然と「何もありません」と言ってのけるので、千尋の中ではいつまでたっても「手のかかる弟」のままだった。

 與一の手がしっかり祷の背を支えていることを目視で確認してから、千尋は懐からぴったりとしたビニール手袋を取り出して装着した。それから、櫛に鬢付け油を軽く塗布し、祷の髪に通していく。櫛が引っかかることはほどんとないが、今日は普段と違って「割り鹿の子」という、丸髷を2つに割ったような、複雑な髪形に結い上げねばならない。その過程でどうしても多少は祷を自分の方へ引っ張ることになるから、支えは欠かせなかった。

 結い方は——毎年やっているのだ、手が覚えていた。特に何を見ずとも、だれの補助を借りずとも、千尋は手際よく、美しく髷を結い上げていった。途中で丸髷を2つに割り、その間を通すように純白の白絹を掛ける。祷の溶け落ちそうな黒髪に、白い布が良く映えていた。

 結い上がると、手に馴染ませた油で後れ毛が無いように整える。鏡に映る祷を見ても、髪型は正しく左右対称になっており、白い布もきれいに見えている。文句の付け所は、どこにもなかった。

 千尋は、内側が表となるようにして手袋を外し、足元の屑籠に放った。これで、素手は汚れていない。そっと祷の両肩に触れる。

 「出来ました、御神座様」

 「……えぇ、どうもありがとう。相変わらず千尋は髪結いが上手ねえ」

 「恐縮です。次は、お化粧をさせて頂きます」

 千尋は少しだけ微笑みかけて、鏡台の上に準備しておいた化粧水を手のひら全体に塗り伸ばした。甘やかな桃の香りがふわりと広がる。祷の側面に回り、祷の顔を包み込むようにして両手で化粧水を、頬から額、顎へと拡げ伸ばしていく。祷は穏やかな表情で目を瞑っていたが、ふっと口を開いた。

 「……いい香りね」

 「私も、そう思います。お気に召して頂けて、何よりにございます」

 「えぇ、とても気に入っています。……これなら、老中様方の嫌味にも耐えられそう」

 祷の細い眉が、悲しげに八の字を作った。千尋は、薄く頼りないこの双肩にかかっている重圧を推測してやることしかできない自分の無力を呪った。出来ることなら、肩代わりしてあげたかった。それができぬなら、せめて盾になってやりたかったが、立場が千尋にそれを許さなかった。

 「……せめてものお力添えができているならば、御側女としてこれ以上ない幸せです」

 千尋の手が首へと伸びると、祷は慣れた様子ですっと顎を上げて首筋を晒した。生白い細首は、祷の年齢が15を超えたあたりから急激に艶やかな色気を増した。その変化は與一の目にも明白なようで、今も黙ってこそいるが密かに祷から目を逸らしたのを、千尋は見逃してはいなかった。

 「……御神座様。今年も、各分家や里の職人様方から、お祝いの品が届いております。あとで、検分なさいますか」

 祷の表情がぱぁっと明るくなった。まるで雲間から太陽光が差し込んだときのように、部屋の雰囲気もふわっと明るくなる。

 「そう!巌山さん、今年はどんな簪を作ってくださったのかしら。すごく楽しみ」

 祷は胸の前でぴたっと手を合わせた。

 「それに焔も。毎年あの子が贈ってくださる品は、奇想天外で退屈しませんもの」

 焔とは、御神座様を中心とした道明寺本家に連なる8つ分家のうち、距離的にも、血筋的にも、最も本家に近い家の娘だ。御神座様のように八百万の神々からお力を借りることはできないが、分家ごとに祭っている神様——焔の属する篝火家の場合は迦具土神(かぐつちのかみ)——の力だけを借りられるというのが【御霊使い(みたまつかい)】であり、焔もその一人である。

 「……焔様と、お顔を合わせることは、お嫌ではありませんか」

 千尋は、祷の顔色を窺った。焔は祷の1つ年上で境遇も近いのだが、なにぶんプライドが高く、何かといえば祷に突っかかってくる癖があった。祷もそれは把握しているようで、少し口角を歪めている。

 「そうね……。気楽ではないけれど、私も本家を背負う立場上、毅然とした態度で応じねばなりません」

 祷はすっと顎を引き、前を見据えた。

 「逃げるつもりは、毛頭ありません」

 深い覚悟の滲む、凛々しい横顔だった。

 「かしこまりました。お支度が整いましたら、お部屋まで持ってまいります」

 水で溶いた白粉を刷毛に塗っていく。やや冷たかったのか、祷の眉間に一瞬、耐えるような皺が寄る。薄く塗り伸ばせばほんのり桃色を帯びるこの水白粉は、千尋が内儀寮に頼み込んで外に出してもらい、デパートの専門店を探し回って見つけてきたものだった。人体に無害であるのはもちろんのこと、祷のやや赤みを帯びた白い肌に良く馴染む、温かみのある白色をしている。

 何年も前の話にはなるが、祷が御神座様として人々の前へ出るようになり、それに伴って化粧が必要となった頃。老中会が祝の品と称して送ってきた「化粧品一式」は、大正時代を思わせるような古めかしいものだった。特に白粉は驚くほどの年代物で、試しに自分の手の甲に少し取り塗ってみたところ、絵の具のように明るい白が発色した。白粉を塗った自分の肌が、まるでプラスチックか塗装した金属のように嘘くさく見えたことを、今でも覚えている。

 浴衣を少し寛げて、胸元から襟足へ、優しい手つきでおしろいを塗り伸ばす。

 そのおしろいが送られていた来た当時、千尋は17歳だったが、幼い時に次の御側女有力候補として道明寺家に買い取られてきたため、満足な義務教育など受けてはいなかった。それでも自分が師事することになった先代の御側女は、「いつか必要になるかも知れないから」と、この道明寺家に仕える限り必要な技術と知識に加えて、その歴史もまた教えてくれていた。

 だから、その不自然なほどの発色に、思い当たる節があったのだった。人目を忍んで医局に白粉を持ち込み検査をさせたところ、案の定、現行法では禁止されている鉛の検出が認められた。それ以来、千尋は自分が調達した水白粉しか、使っていなかった。

 耳の後ろまで、むらなく白粉を塗り終わる。祷の正面に回って、小さい顎をそっと持ち、祷の芯のつよい性格がよく現れるように——周囲から舐められたり見下されることのないよう、願いを込めて細く通った眉を薄く描く。目元には、濃い桃色に近い紅を入れた。

 「御神座様、目を開けてください」

 鏡に写った祷の顔は、先ほどまでのあどけなさが鳴りを潜め、幾分大人びて見えた。強い意志の宿った大きな瞳を、細めの眉が引き立たせている。

 「……よし、問題ありません。お綺麗です」

 「誰かさんの腕が良いのね」

 口元に笑みを湛えて鏡の中の自分を見る祷の頬を、やや白み始めた朝日が照らしていた。

 祷の背後で、ちらりと腕時計を盗み見る。祷は誰かが時計を見る動作をするのを、とても嫌っていた。口に出しこそしないが、これだけ長く世話をしていれば、あぁ今少し嫌なご気分になられたな、というのが肌で感じられるようにもなるというものだ。時計の針は、8時を少し過ぎたところを指していた。大体10時半くらいには、今日の宴席の列席者やその座席、宴会の流れを説明しに人が寄こされるだろう。それから着付けをするにしても、列席者からの贈り物を祈に見せてあげる時間は、十分に取れそうだった。

 千尋は心の中で安堵した。祷の視界に入る位置へ移動して両ひざをつく。

 「御神座様、私はお着付けに必要な綿と手拭いを下の倉庫から持ってまいります。御身地には、その間に、御神座様のお着物の用意を、お願いいたします」

 「えぇ、分かりました」

 「……かしこまりました」

 二人はそれぞれ返事をした。頷いて、その場を立ち去ろうとする。

 「千尋」

 祷に呼び止められた。着物の袖を軽く引かれる感覚がある。振り返ると、祷がこちらをひたと見つめていた。その烏の濡羽色の瞳には、深い親愛と慈愛が、並々と湛えられていた。

 「倉庫は冷えるでしょうから、暖かくしてね」

 祷の指先が、そっと千尋の手の甲に触れた。触れ合う指先から、育んできた愛情が相互に通うような、そんな気がした。

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