↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/9

第6話 ゴブリンと商人の娘

村は、思っていたより小さかった。


丸太を並べただけの柵。その内側に、屋根の低い家が二十軒ほど。畑は痩せていて、家畜小屋からは、羊に似た何かの鳴き声がする。


アイシャが言うには、灰の辺境には、こういう開拓村がぽつぽつとあるらしい。どの国にも守ってもらえない代わりに、どの国にも税を取られない。そういう場所で、逃げてきた人たちが寄り集まって暮らしている。


昼過ぎ、村に入る前に、アイシャは翻訳の魔法をかけ直してくれた。


「半日だから、夜中までは持つと思うよ」


そう言って、少しふらついた。


門の前に立っていた男が、俺たちを見て、目をむいた。


「異界の……」


その先は、言わなかった。代わりに、家の陰から覗いていた子どもを、母親らしい女が慌てて中に引っ込めた。


隊商の噂は、俺たちより先に、この村に着いていたらしい。



アイシャが村長と話をつけて、俺たちは村はずれの空き家を借りることになった。


屋根に穴の空いた、物置みたいな家だ。それでも、壁と屋根がある場所で座れるのは、転移してから初めてだった。


隊長が、床に地図を広げた。ノアとエヴァンがこの数日で描き足してきた、手描きの地図だ。


「ここから先のことを決める」


隊長は全員の顔を見回した。


「やることを言う。まず、生き延びること。食料と寝床と水。次に、ここがどこなのかを知ること。それから」


そこで一度、言葉を切った。


「帰る方法を探すことだ」


誰も何も言わなかった。


帰る方法。そんなものがあるのかどうかすら、誰にも分からない。


「手がかりがあるとしたら」とエヴァンが言った。「俺たちが飛ばされてきた、あの森だ。痕跡が残っているなら、あそこが一番確率が高い」


「古い遺跡なら」アイシャが、少しだけ迷うように口を挟んだ。「この辺境には、ルメリアっていう、ずっと昔に滅んだ国の遺跡がいくつかある。私、それを調べに来たの」


「遺跡に、帰る方法があるのか」と隊長。


アイシャは、少し考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。


「今の魔法体系には、別の世界へ渡る術式なんてないの。どの学院の術式書にも載ってない。でもね、ルメリアの魔法は、今のとは根っこから違うの。今の魔導士には読めない古代術式で、今の魔導士にはできないことをしてた。遺跡には、今でも動いてる仕掛けがあるって話もあるんだよ」


彼女は、俺たちの顔を順番に見た。


「あなたたちが、どこか別の世界から来たんだとしたら。それを説明できるのは、今の魔法じゃなくて、古代の魔法だけだと思う。だから、もしかしたら、遺跡に手がかりがあるかもしれない」


「もしかしたら、か」とマーカス。


「……たぶん」


アイシャは、そう言って、目を伏せた。


隊長は、しばらくアイシャを見ていた。


「君は遺跡に行きたい。俺たちは帰る手がかりが欲しい。行き先は同じだ」


「うん」


「なら、このまま一緒に行こう。約束どおり、君は案内と通訳を。俺たちは、君を守る」


アイシャの顔が、ぱっと明るくなった。でも、その明るさが、ほんの少しだけ、作ったもののように見えた。


「まずは食料だ」と隊長が言った。「それと情報。アイシャ、この村で物を手に入れる方法は」


「広場に、旅の商人が来てるって村長が言ってた。ちょっと詳しく聞いてくるね」


アイシャが村長のところへ出ていくと、物置の中には、六人と俺だけが残った。


最初に口を開いたのは、マーカスだった。


「都合がよすぎる」


「何がだ」と隊長。


「あの娘は、一人で遺跡を調べに来ていた。そこへ、遺跡にしか手がかりがないかもしれない俺たちが現れた。行き先がぴったり重なる。偶然にしては、出来すぎだ」


「根拠もない」エヴァンが腕を組んだ。「古代の魔法なら説明できるかもしれない。遺跡に手がかりがあるかもしれない。かもしれないが二つだ。五分と五分でも、掛ければ二割五分。作戦の根拠にはならない」


「分かってる」


隊長は、地図に目を落としたまま言った。


「根拠はない。だが、他に手がかりもない。この世界のことを一番知っていて、俺たちに力を貸してくれるのは、今のところ彼女だけだ」


「彼女が嘘をついていたら」


「ついているだろうな。少なくとも、全部は話していない」


隊長は、あっさりと言った。


「だが、彼女も俺たちが必要だ。この辺境を一人で歩くより、俺たちと歩く方が安全だからな。お互いに、相手を必要としている。今はそれで十分だ」


マーカスは、短く息を吐いて、引き下がった。


「あの」


気がついたら、声が出ていた。全員の視線が、こっちを向く。


しまった、と思った。でも、言いかけたことは、言うしかなかった。


「その、根拠ってほどじゃないんですけど。異世界ものだと……あ、いや、物語の話なんですけど。別の世界から人が来る時って、だいたい昔の何かが残ってる場所に落ちてくるんです。召喚の魔法陣とか、古い神殿とか、封印された祭壇とか。もうお約束なんですよ。つまり、俺たちが目を覚ましたあの森の近くに遺跡があったら、それは偶然じゃないかもしれないってことです」


言いながら、自分でも、何を言っているんだろうと思った。物語の話を、本物の兵士たちに。


エヴァンが、じっと俺を見た。


「……数字で言え、とは言わない」


それから、ふん、と鼻を鳴らした。


「だが、仮説としては悪くない。俺たちが出てきた場所と、遺跡の位置。重なっているなら、偶然じゃない可能性がある」


「確かめる価値はあるな」と隊長が言った。


俺は、膝の上で、手を握りしめた。


本当は、もう一つ、言えることがあった。


俺たちをここへ飛ばしたあの装置。あれは、クロウがどこかから集めてきた、見たこともない石と、見たこともない文字で動いていた。今思えば、あの文字は、アイシャの手帳の角ばった文字に、少し似ていた気がする。


でも、それを言えば、なぜ俺がそれを知っているのかも、話さなきゃいけない。


俺は、黙った。



物置を出ると、井戸のそばに、アイシャが一人で立っていた。村長の家から戻ってきたところらしい。


声をかけようとして、足が止まった。


アイシャは、井戸の縁に両手をついて、うつむいていた。誰にも聞こえないくらいの小さな声で、何かをつぶやいた。


翻訳の魔法が、その言葉を、そのまま俺の耳に運んできた。


「……ごめんなさい」


誰に謝っているのか、俺には分からなかった。


アイシャが顔を上げた時には、もういつもの笑顔に戻っていた。


「ミナト! 広場の商人、すごく変わった物を売ってるって!」



広場には、確かに店が出ていた。


店といっても、荷車の上に布を広げて、雑多なものを並べただけだ。乾いた果物、塩、ナイフ、色のついた石、よく分からない干物、古びた本。


その荷車の前で、一人の女の子が、村の老婆と値段の言い合いをしていた。


「だーかーら、これは南の塩湖の塩なの。この辺のしょっぱいだけの塩とは違うの。はい、銅貨三枚」


「二枚にしとくれ」


「おばあちゃんの笑顔がかわいいから、二枚と半分!」


「半分ってなんだい」


「半分は半分だよ」


小柄な子だった。俺より頭一つ低い。日に焼けた肌に、麦わら色の髪を後ろで一つにくくって、くりくりした茶色の目がよく動く。年は、アイシャと同じくらいだろうか。


その子が、ふとこちらを見た。


俺たちの服を見て、装備を見て、銃を見て。


茶色の目が、星みたいに光った。


さっきまで老婆と話していたのが嘘みたいに、彼女は荷車を飛び越えてこっちへ駆けてきた。


「ねえ、お兄さんたち! 噂の異界の戦士でしょ!」


アイシャの魔法のおかげで、言葉は全部分かった。分かりすぎるくらいに分かった。


「その腰の黒い棒、何? その目に着けるやつ、何? ねえ、何か売ってくれない? 見たことない道具なら、何でも高く買うよ。たぶん」


「たぶん、かよ」とノアが言った。


「値段は物を見てから決めるの。商売の基本!」


女の子は、胸を張って笑った。



――――――――――

ピッパ(たぶん)

商才:S

愛想:S(ただし営業用)

信用:測定中

備考:笑顔のまま、値段を倍にできる人間を、俺は初めて見た。

――――――――――



「あたしはピッパ。旅の商人やってるの。で、あっちがあたしの相棒」


ピッパさんが振り返って、荷車の陰に向かって手を振った。


荷車の陰から、小さな人影が出てきた。


背丈は、子どもくらい。厚手のフードを目深にかぶって、顔は見えない。背中が少し曲がっていて、歩き方が、どこかぎこちなかった。


「ニクス、挨拶!」


人影は、ため息をつくように肩を落とした。それから、ゆっくりとフードを下ろした。



緑だった。


肌が、くすんだ緑色をしていた。


耳は大きく、横に向かって尖っている。目は黄色くて、瞳が細い。鼻は低く、口が大きい。しわの多い顔は、年を取っているように見えた。


俺の頭の中で、何度も見てきた画像が、勝手に重なった。


ゴブリンだ。


本物の、ゴブリンだ。


心臓が跳ねた。ファンタジー好きなら、誰だって一度は想像したことがある。もし本物に会えたら。


その興奮は、すぐにしぼんだ。


ゴブリンが、外套の内側に、すっと手を入れたのだ。


がちゃり、と金属の音がした。


マーカスの銃口が、まっすぐゴブリンの顔に向いていた。


考えるより先に、体が動いたのだと思う。見たことのない、人間でない何かが、目の前で懐に手を入れた。武器を抜く動きと、同じ動きだった。この人たちは、そういう動きを一瞬も見逃さない訓練を受けてきた人たちだ。


「うわ、マジでゴブリンじゃん!」


アダムが叫んだ。ゲームの中でしか聞いたことのない名前が、本当に口から出ていた。その声は、驚いているのに、どこか興奮していた。


正直に言うと、そのとき俺は、アダムに少しだけ仲間意識を感じた。


「次はドラゴンかよ」


ノアだった。ガムを噛むのを止めていた。


「人間とは違う種だ」エヴァンが、低い声でつぶやいた。「骨格も、皮膚の色素も、耳の形も。どこかで分岐した、別の……」


理屈で、目の前のものを何とか飲み込もうとしている声だった。


サムだけが、少し違うところを見ていた。ゴブリンの腕に巻かれた、汚れた布。その下から、血がにじんでいた。


隊長は、一歩も動いていなかった。ゴブリンの手と、目だけを見ていた。武器を持っているか。こちらに向かってくる気があるか。


広場の村人たちが、悲鳴を上げて散っていく。誰かが「魔物だ」と叫んだ。


その全部の真ん中に、ピッパさんが飛び込んできた。


ゴブリンの前に立って、両手を、いっぱいに広げた。


「うちの相棒に、何すんのさ!」


小さな体だった。マーカスの銃口が、ちょうど彼女の胸の高さにあった。それでも、ピッパさんは一歩も引かなかった。


マーカスの指は、引き金から外れていた。でも、銃口はまだ下がっていなかった。



そのとき、ゴブリンが口を開いた。


低い、しわがれた声だった。


「人間は、みんな最初に、その顔をする」


しゃべった。


いや、ゴブリンがしゃべること自体は、異世界ものなら珍しくもない。でも、俺の背中を冷たくしたのは、その声の調子だった。


怒っていなかった。怯えてもいなかった。


ただ、慣れていた。銃を向けられることに。いや、きっと、剣や槍や石を向けられることに。ずっと昔から。


ニクスは、外套の内側から、ゆっくりと手を出した。握られていたのは、角のすり切れた、分厚い帳簿だった。挨拶の代わりに、商売の帳簿を見せようとしただけだったのだ。


それを見て、マーカスが、ゆっくりと銃を下ろした。


しばらく黙ってから、マーカスは、ゴブリンに向かって、一言だけ言った。


「……すまない」


ゴブリンは、少しだけ目を細めた。それが笑ったのかどうか、俺には分からなかった。



――――――――――

ニクス

目利き:S(たぶん)

口数:E

年齢:不明(ピッパいわく「すごいおじいちゃん」)

備考:銃を向けられても、懐の手を止めただけで、一歩も動かなかった。動かないことに慣れている、という感じだった。

――――――――――



騒ぎが落ち着いても、村人たちはニクスを遠巻きに見ていた。さっきの老婆も、塩を買わずにどこかへ行ってしまった。


「いつものことだよ」


ピッパさんは、肩をすくめた。


「人間って、見た目で決めるでしょ。ゴブリンは魔物と同じだ、って。でもね」


彼女は、ニクスの背中を軽く叩いた。


「人間より、ゴブリンの方がよっぽど約束守るもん」


そう言って、また笑った。


その笑顔が、さっきの営業用の笑顔とは、少しだけ違って見えた。



そこから先は、完全にピッパさんのペースだった。


干し肉、乾いたパン、塩、乾燥した豆。食料を一通り並べて、彼女が告げた値段に、アイシャが目を丸くした。


「えー、それ、町で買うよりずーっと高いよ」


「ここは町じゃないもーん。運ぶ手間賃込み」


「で、こちらには、この世界の金がない」と隊長が言った。


ピッパさんの笑顔が、一瞬だけ固まった。


「……え、一銭も?」


「一銭も」


ピッパさんは、腕を組んで、うーんとうなった。それから、ふと、足元に目をやった。


地面に、金色の小さな筒が転がっていた。誰かのポケットから落ちたらしい、空の薬莢だった。


ピッパさんは、それを拾い上げて、日にかざした。


その目が、また、星みたいに光った。


「ねえ、ちょっと。これ何?」


「撃ち終わった弾の殻だ」とノアが言った。「ただのゴミだよ」


「ゴミ!? この金色の筒が!? こんなに綺麗で、こんなにきっちり同じ形してて、こんなにぴかぴかなのに!?」


「ぴかぴかなのは、さっき落としたばっかだからだ」


「これ、高く売れる。絶対売れる。職人が見たら目の色変えるよ。仕入れ値がゴミなら、丸儲けじゃん」


ピッパさんは、くるりと隊長の方を向いた。


「これで払って。この筒、あといくつある?」


隊長が答えるより先に、ニクスが動いた。


黙って荷車に近づいて、ピッパさんが書いた値札を一枚ずつ外し、新しい値札に書き直していく。


「ちょっと、ニクス!」


ニクスは、手を止めなかった。書き直された値札の数字は、さっきの三分の一くらいになっていた。


「何よ、命の恩人に商売するなってこと?」


ニクスが、小さくうなずいた。


「まだ何もしてもらってないけど!?」


ニクスは、隊長たちを見て、それからピッパさんを見て、短く言った。


「これから、する」


ピッパさんは頬をふくらませて、それから、しぶしぶうなずいた。


結局、俺たちは、ポケットとポーチの底に残っていた空薬莢と引き換えに、数日分の食料を手に入れた。ノアが、袋を抱えて、天を仰いでいた。


「これで、虫は卒業だ」


「まだ分かんねえじゃん」とアダム。


「分かる。俺には分かる」



商談が終わりかけたころだった。


「あ、そうだ!」


ピッパさんが、荷車の奥から、布にくるまれた何かを取り出した。


「お兄さんたち、珍しいもの好きでしょ。とっておきの掘り出し物、見せてあげる。見るだけならタダだよ」


布の中から出てきたのは、握りこぶしほどの石だった。


黒かった。


いや、黒というより、濁っていた。墨を溶かした水を、そのまま固めたような色。光にかざすと、奥の方で、何かがゆっくりと渦を巻いているように見えた。


綺麗だった。でも、なぜか、見ていると胸の奥がざわついた。


「魔石だよ。たぶん、ものすごくいいやつ。こないだ東の古い遺跡の近くで、拾ったって人から買ったの。ほかじゃ絶対手に入らないよ」


魔石。異世界ものなら、杖にはめるのも、武器に埋めるのも、全部これだ。胸のざわつきも忘れて、俺は身を乗り出しかけた。


その時、横にいたアイシャが目に入った。


顔から、血の気が引いていた。


さっきまで、ピッパさんの商売にくすくす笑っていた顔が、紙みたいに白くなっていた。唇が、何かを言いかけて、止まった。


アイシャは、すぐに目をそらした。そして、何でもないふりをして、干し肉の袋の口を結び直し始めた。


紐を結ぶ指が、少しだけ震えていた。


聞けなかった。


あの夜の手帳と同じだ。聞けば、きっと彼女は答えに困る。そして、人に隠し事を聞く資格なんて、俺にはない。



日が傾きはじめたころ、最初に気づいたのは、ニクスだった。


荷車の脇で荷物をまとめていたニクスが、ふと手を止めて、顔を上げた。大きな耳が、ぴくりと動いた。


「……鳥が、鳴きやんだ」


言われて、気づいた。昼間はあれほどうるさかった森の鳥の声が、いつの間にか、一つも聞こえなくなっていた。家畜小屋の羊たちが、落ち着きなく柵の中をぐるぐる回っている。


ニクスは、ピッパさんの荷物の中の、布の包みに目をやった。あの黒い石の包みだった。


それから、まっすぐ、隊長のところへ歩いていった。


「来る」


しわがれた声だった。


「魔狼じゃ。群れで来る。日が沈んだら、すぐじゃ」


隊長は、ニクスの顔を見た。疑う顔ではなかった。それから、ノアに目で合図した。


ノアは、物置の屋根に駆け上がって、暗視ゴーグルを下ろした。まだ夕暮れで、ゴーグルの出番には早い。それでも、ノアはしばらく森を見て、それから、短く言った。


「いるな。森の縁の奥だ。まだ遠いが、目が光ってるのがいくつか見える」


隊長の顔つきが、変わった。



隊長は、アイシャとニクスを連れて、村長の家へ向かった。ピッパさんも、ニクスにくっついてきた。俺も、なぜか、その後ろについていっていた。


村長の家の前には、村の男たちが集まっていた。昼間の騒ぎを聞いて、俺たちを見張るために集まっていたのかもしれない。


「魔狼の群れが来る」


隊長は、前置きなしに言った。翻訳の魔法で、言葉はそのまま通じているはずだった。


「日が沈んだら、すぐだ。数が多い。柵だけでは持たないかもしれない。村の人を、一番頑丈な建物に集めてくれ。子どもと年寄りを先に」


村長は、白いひげの、痩せた老人だった。隊長の顔を見て、それから、その後ろのニクスを見て、眉をひそめた。


村長が何か言うより先に、男たちの一人が、鼻で笑った。


「魔狼の群れ? 誰がそんなことを」


「このゴブリンが気づいた。俺たちの仲間も、森の縁で目を見た」


男たちの間に、ざわめきが広がった。


「ゴブリンの言うことを、信じろってのか」


「異界の化け物と、魔物の言うことを聞けるか」


「この村には柵がある。魔狼なんぞ、これまで何度も追い返してきた」


「俺たちを家から追い出して、その間に何をする気だ」


ピッパさんが、我慢できないというように前に出た。


「ちょっと! ニクスは四十年も行商してるんだよ! 魔物のことなら、あんたたちより――」


ニクスが、ピッパさんの腕をつかんで、止めた。


黙って、首を横に振った。


いつものことだ。たぶん、そう言いたかったのだと思う。


村長は、困ったように隊長と男たちの間で目を泳がせていた。何か言いかけて、男たちの顔を見て、口をつぐんだ。


「……お引き取りを。今夜は、あなた方も、借りた家から出ないでいただきたい」


それが、村長の答えだった。


隊長は、しばらく村長の顔を見ていた。それから、何も言わずに、背を向けた。



「勝手にやるしかない」


物置に戻ると、隊長は短く言った。


「村人は、俺たちの言うことを聞かない。なら、聞かないまま守る。全員、屋根に上がれ。柵を越えてくるものは、片っ端から撃つ」


「村人が、俺たちに銃を向けられたと思ったら」とマーカス。


「その時は、その時だ」


隊長は、サムを見た。


「サム、お前はここに残れ。ミナトとアイシャと、商人の二人を守れ」


アイシャが、何か言いかけた。隊長は、首を横に振った。


「君の魔法は、いざという時のために取っておけ」


デルタの五人が、物置を出ていった。


扉が閉まると、急に、物置の中が狭く感じた。


俺と、サムと、アイシャと、ピッパさんと、ニクス。それだけだった。



日が、沈んだ。


物置の窓は、板を打ちつけただけのものだった。その隙間に目を当てると、村の柵と、その向こうの暗い森が、かろうじて見えた。


森の縁に、光があった。


緑色の、小さな光が、二つずつ並んでいる。


二つ。四つ。十。


数えるのを、途中でやめた。


遠吠えが聞こえた。長く、低く、腹の底に響く声。それに答えるように、あちこちから、短い唸り声が上がる。


村の家々から、明かりが一つ、また一つと消えていった。誰かが、慌てて扉に閂をかける音がする。


村の人たちも、今になって、気づいたのだ。


「……魔狼」


ピッパさんが、小さくつぶやいた。いつもの明るい声じゃなかった。


「群れだよ。あんな数、あたし初めて見た」


ニクスは、大きな耳を窓の方へ向けて、黄色い目で、じっと外を見ていた。そして、ピッパさんが抱えている布の包みに、ちらりと目を落とした。


あの、黒い石の包みだった。



最初の銃声が鳴った。


乾いた、短い音。遠くで、何かが柵から落ちる音。


続けて、二発目、三発目。


隊長の声が、外から切れ切れに聞こえる。何を言っているのかは分からない。でも、その声がいつもより少しだけ速いことは、分かった。


窓の隙間から、影が見えた。


狼だった。でも、俺の知っている狼じゃない。大きすぎる。肩の高さが、人間の腰くらいある。黒い毛が、背中に沿って逆立っている。


それが、何匹も、柵に飛びかかっていく。


銃声のたびに、一匹が落ちる。でも、その横から、次の一匹が柵に爪をかける。


一匹に、二発。三発かかる時もある。


俺は、いつの間にか、心の中で数えていた。


ゲームなら、弾は拾える。敵を倒せば落ちるし、弾薬箱はあちこちに置いてある。でも、ここには何もない。あの人たちが撃っている一発一発は、二度と戻ってこない。


銃声は、途切れなかった。


途切れないことが、怖かった。


昨日の戦いのあと、エヴァンが読み上げた弾の数を思い出す。補給のない、減るだけの数だ。あの群れがどれだけいるのか、俺には分からない。でも、このまま撃ち続けていたら。


「……足りなくなる」


声に出ていた。


アイシャが、こちらを見た。暗くて、表情は分からなかった。



ニクスが立ち上がった。


「おい」


扉の脇のサムに向かって、しわがれた声で言った。


「頭は、どこにおる」


サムが振り向いた。翻訳の魔法は、まだ効いている。ニクスの言葉は、そのまま意味を持って届いていた。


「頭?」


「群れには、頭がおる。一番でかくて、一番後ろで吠えとるやつじゃ。前に出てくるのは、そいつに追い立てられとる若いのだけじゃ。若いのを何匹撃っても、頭がおる限り、群れは引かん」


サムは、一瞬だけニクスを見た。それから、無線のスイッチを押した。


「隊長、こちらサム。ニクス爺さんの話だ。群れには頭がいるそうだ。一番後ろで吠えてるやつだな。そいつを倒せば、群れは散る」


無線の向こうで、少しだけ間があった。


「……了解。探す」


隊長の声だった。



遠吠えが、また上がった。


さっきより、近い。


いや、違う。遠吠えの方は、まだ森の奥だ。近づいてきているのは、唸り声の方だった。柵の、すぐ向こう。何十もの、低い唸り声が、一か所に集まっていく。


みし、と音がした。


丸太がきしむ音だった。


みし。みし。


何かが、柵に体重をかけている。一匹じゃない。何匹もが、同じところに、同時に。


銃声が、そこへ集中した。乾いた音が、立て続けに鳴る。


それでも、きしむ音は、止まらなかった。


アイシャが、杖を握りしめて立ち上がった。ピッパさんが、ニクスの腕をつかむ。サムが、拳銃を構えて、扉の前に立った。


俺は、何もできなかった。窓の隙間から、ただ見ていることしか。


めきり、と、何かが折れる音がした。


柵が、内側に倒れた。


その向こうから、黒い影の群れが、村の中へなだれ込んできた。


閂をかけた家々の中から、村人たちの悲鳴が上がった。



残弾 小銃弾812/拳銃弾225

爆薬 二個

戦闘糧食 残り十食(ほかに干し肉、パン、塩、豆など数日分)

ドローンのバッテリー 51%



(第6話 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。