第6話 ゴブリンと商人の娘
村は、思っていたより小さかった。
丸太を並べただけの柵。その内側に、屋根の低い家が二十軒ほど。畑は痩せていて、家畜小屋からは、羊に似た何かの鳴き声がする。
アイシャが言うには、灰の辺境には、こういう開拓村がぽつぽつとあるらしい。どの国にも守ってもらえない代わりに、どの国にも税を取られない。そういう場所で、逃げてきた人たちが寄り集まって暮らしている。
昼過ぎ、村に入る前に、アイシャは翻訳の魔法をかけ直してくれた。
「半日だから、夜中までは持つと思うよ」
そう言って、少しふらついた。
門の前に立っていた男が、俺たちを見て、目をむいた。
「異界の……」
その先は、言わなかった。代わりに、家の陰から覗いていた子どもを、母親らしい女が慌てて中に引っ込めた。
隊商の噂は、俺たちより先に、この村に着いていたらしい。
アイシャが村長と話をつけて、俺たちは村はずれの空き家を借りることになった。
屋根に穴の空いた、物置みたいな家だ。それでも、壁と屋根がある場所で座れるのは、転移してから初めてだった。
隊長が、床に地図を広げた。ノアとエヴァンがこの数日で描き足してきた、手描きの地図だ。
「ここから先のことを決める」
隊長は全員の顔を見回した。
「やることを言う。まず、生き延びること。食料と寝床と水。次に、ここがどこなのかを知ること。それから」
そこで一度、言葉を切った。
「帰る方法を探すことだ」
誰も何も言わなかった。
帰る方法。そんなものがあるのかどうかすら、誰にも分からない。
「手がかりがあるとしたら」とエヴァンが言った。「俺たちが飛ばされてきた、あの森だ。痕跡が残っているなら、あそこが一番確率が高い」
「古い遺跡なら」アイシャが、少しだけ迷うように口を挟んだ。「この辺境には、ルメリアっていう、ずっと昔に滅んだ国の遺跡がいくつかある。私、それを調べに来たの」
「遺跡に、帰る方法があるのか」と隊長。
アイシャは、少し考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。
「今の魔法体系には、別の世界へ渡る術式なんてないの。どの学院の術式書にも載ってない。でもね、ルメリアの魔法は、今のとは根っこから違うの。今の魔導士には読めない古代術式で、今の魔導士にはできないことをしてた。遺跡には、今でも動いてる仕掛けがあるって話もあるんだよ」
彼女は、俺たちの顔を順番に見た。
「あなたたちが、どこか別の世界から来たんだとしたら。それを説明できるのは、今の魔法じゃなくて、古代の魔法だけだと思う。だから、もしかしたら、遺跡に手がかりがあるかもしれない」
「もしかしたら、か」とマーカス。
「……たぶん」
アイシャは、そう言って、目を伏せた。
隊長は、しばらくアイシャを見ていた。
「君は遺跡に行きたい。俺たちは帰る手がかりが欲しい。行き先は同じだ」
「うん」
「なら、このまま一緒に行こう。約束どおり、君は案内と通訳を。俺たちは、君を守る」
アイシャの顔が、ぱっと明るくなった。でも、その明るさが、ほんの少しだけ、作ったもののように見えた。
「まずは食料だ」と隊長が言った。「それと情報。アイシャ、この村で物を手に入れる方法は」
「広場に、旅の商人が来てるって村長が言ってた。ちょっと詳しく聞いてくるね」
アイシャが村長のところへ出ていくと、物置の中には、六人と俺だけが残った。
最初に口を開いたのは、マーカスだった。
「都合がよすぎる」
「何がだ」と隊長。
「あの娘は、一人で遺跡を調べに来ていた。そこへ、遺跡にしか手がかりがないかもしれない俺たちが現れた。行き先がぴったり重なる。偶然にしては、出来すぎだ」
「根拠もない」エヴァンが腕を組んだ。「古代の魔法なら説明できるかもしれない。遺跡に手がかりがあるかもしれない。かもしれないが二つだ。五分と五分でも、掛ければ二割五分。作戦の根拠にはならない」
「分かってる」
隊長は、地図に目を落としたまま言った。
「根拠はない。だが、他に手がかりもない。この世界のことを一番知っていて、俺たちに力を貸してくれるのは、今のところ彼女だけだ」
「彼女が嘘をついていたら」
「ついているだろうな。少なくとも、全部は話していない」
隊長は、あっさりと言った。
「だが、彼女も俺たちが必要だ。この辺境を一人で歩くより、俺たちと歩く方が安全だからな。お互いに、相手を必要としている。今はそれで十分だ」
マーカスは、短く息を吐いて、引き下がった。
「あの」
気がついたら、声が出ていた。全員の視線が、こっちを向く。
しまった、と思った。でも、言いかけたことは、言うしかなかった。
「その、根拠ってほどじゃないんですけど。異世界ものだと……あ、いや、物語の話なんですけど。別の世界から人が来る時って、だいたい昔の何かが残ってる場所に落ちてくるんです。召喚の魔法陣とか、古い神殿とか、封印された祭壇とか。もうお約束なんですよ。つまり、俺たちが目を覚ましたあの森の近くに遺跡があったら、それは偶然じゃないかもしれないってことです」
言いながら、自分でも、何を言っているんだろうと思った。物語の話を、本物の兵士たちに。
エヴァンが、じっと俺を見た。
「……数字で言え、とは言わない」
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「だが、仮説としては悪くない。俺たちが出てきた場所と、遺跡の位置。重なっているなら、偶然じゃない可能性がある」
「確かめる価値はあるな」と隊長が言った。
俺は、膝の上で、手を握りしめた。
本当は、もう一つ、言えることがあった。
俺たちをここへ飛ばしたあの装置。あれは、クロウがどこかから集めてきた、見たこともない石と、見たこともない文字で動いていた。今思えば、あの文字は、アイシャの手帳の角ばった文字に、少し似ていた気がする。
でも、それを言えば、なぜ俺がそれを知っているのかも、話さなきゃいけない。
俺は、黙った。
物置を出ると、井戸のそばに、アイシャが一人で立っていた。村長の家から戻ってきたところらしい。
声をかけようとして、足が止まった。
アイシャは、井戸の縁に両手をついて、うつむいていた。誰にも聞こえないくらいの小さな声で、何かをつぶやいた。
翻訳の魔法が、その言葉を、そのまま俺の耳に運んできた。
「……ごめんなさい」
誰に謝っているのか、俺には分からなかった。
アイシャが顔を上げた時には、もういつもの笑顔に戻っていた。
「ミナト! 広場の商人、すごく変わった物を売ってるって!」
広場には、確かに店が出ていた。
店といっても、荷車の上に布を広げて、雑多なものを並べただけだ。乾いた果物、塩、ナイフ、色のついた石、よく分からない干物、古びた本。
その荷車の前で、一人の女の子が、村の老婆と値段の言い合いをしていた。
「だーかーら、これは南の塩湖の塩なの。この辺のしょっぱいだけの塩とは違うの。はい、銅貨三枚」
「二枚にしとくれ」
「おばあちゃんの笑顔がかわいいから、二枚と半分!」
「半分ってなんだい」
「半分は半分だよ」
小柄な子だった。俺より頭一つ低い。日に焼けた肌に、麦わら色の髪を後ろで一つにくくって、くりくりした茶色の目がよく動く。年は、アイシャと同じくらいだろうか。
その子が、ふとこちらを見た。
俺たちの服を見て、装備を見て、銃を見て。
茶色の目が、星みたいに光った。
さっきまで老婆と話していたのが嘘みたいに、彼女は荷車を飛び越えてこっちへ駆けてきた。
「ねえ、お兄さんたち! 噂の異界の戦士でしょ!」
アイシャの魔法のおかげで、言葉は全部分かった。分かりすぎるくらいに分かった。
「その腰の黒い棒、何? その目に着けるやつ、何? ねえ、何か売ってくれない? 見たことない道具なら、何でも高く買うよ。たぶん」
「たぶん、かよ」とノアが言った。
「値段は物を見てから決めるの。商売の基本!」
女の子は、胸を張って笑った。
――――――――――
ピッパ(たぶん)
商才:S
愛想:S(ただし営業用)
信用:測定中
備考:笑顔のまま、値段を倍にできる人間を、俺は初めて見た。
――――――――――
「あたしはピッパ。旅の商人やってるの。で、あっちがあたしの相棒」
ピッパさんが振り返って、荷車の陰に向かって手を振った。
荷車の陰から、小さな人影が出てきた。
背丈は、子どもくらい。厚手のフードを目深にかぶって、顔は見えない。背中が少し曲がっていて、歩き方が、どこかぎこちなかった。
「ニクス、挨拶!」
人影は、ため息をつくように肩を落とした。それから、ゆっくりとフードを下ろした。
緑だった。
肌が、くすんだ緑色をしていた。
耳は大きく、横に向かって尖っている。目は黄色くて、瞳が細い。鼻は低く、口が大きい。しわの多い顔は、年を取っているように見えた。
俺の頭の中で、何度も見てきた画像が、勝手に重なった。
ゴブリンだ。
本物の、ゴブリンだ。
心臓が跳ねた。ファンタジー好きなら、誰だって一度は想像したことがある。もし本物に会えたら。
その興奮は、すぐにしぼんだ。
ゴブリンが、外套の内側に、すっと手を入れたのだ。
がちゃり、と金属の音がした。
マーカスの銃口が、まっすぐゴブリンの顔に向いていた。
考えるより先に、体が動いたのだと思う。見たことのない、人間でない何かが、目の前で懐に手を入れた。武器を抜く動きと、同じ動きだった。この人たちは、そういう動きを一瞬も見逃さない訓練を受けてきた人たちだ。
「うわ、マジでゴブリンじゃん!」
アダムが叫んだ。ゲームの中でしか聞いたことのない名前が、本当に口から出ていた。その声は、驚いているのに、どこか興奮していた。
正直に言うと、そのとき俺は、アダムに少しだけ仲間意識を感じた。
「次はドラゴンかよ」
ノアだった。ガムを噛むのを止めていた。
「人間とは違う種だ」エヴァンが、低い声でつぶやいた。「骨格も、皮膚の色素も、耳の形も。どこかで分岐した、別の……」
理屈で、目の前のものを何とか飲み込もうとしている声だった。
サムだけが、少し違うところを見ていた。ゴブリンの腕に巻かれた、汚れた布。その下から、血がにじんでいた。
隊長は、一歩も動いていなかった。ゴブリンの手と、目だけを見ていた。武器を持っているか。こちらに向かってくる気があるか。
広場の村人たちが、悲鳴を上げて散っていく。誰かが「魔物だ」と叫んだ。
その全部の真ん中に、ピッパさんが飛び込んできた。
ゴブリンの前に立って、両手を、いっぱいに広げた。
「うちの相棒に、何すんのさ!」
小さな体だった。マーカスの銃口が、ちょうど彼女の胸の高さにあった。それでも、ピッパさんは一歩も引かなかった。
マーカスの指は、引き金から外れていた。でも、銃口はまだ下がっていなかった。
そのとき、ゴブリンが口を開いた。
低い、しわがれた声だった。
「人間は、みんな最初に、その顔をする」
しゃべった。
いや、ゴブリンがしゃべること自体は、異世界ものなら珍しくもない。でも、俺の背中を冷たくしたのは、その声の調子だった。
怒っていなかった。怯えてもいなかった。
ただ、慣れていた。銃を向けられることに。いや、きっと、剣や槍や石を向けられることに。ずっと昔から。
ニクスは、外套の内側から、ゆっくりと手を出した。握られていたのは、角のすり切れた、分厚い帳簿だった。挨拶の代わりに、商売の帳簿を見せようとしただけだったのだ。
それを見て、マーカスが、ゆっくりと銃を下ろした。
しばらく黙ってから、マーカスは、ゴブリンに向かって、一言だけ言った。
「……すまない」
ゴブリンは、少しだけ目を細めた。それが笑ったのかどうか、俺には分からなかった。
――――――――――
ニクス
目利き:S
口数:E
年齢:不明(ピッパいわく「すごいおじいちゃん」)
備考:銃を向けられても、懐の手を止めただけで、一歩も動かなかった。動かないことに慣れている、という感じだった。
――――――――――
騒ぎが落ち着いても、村人たちはニクスを遠巻きに見ていた。さっきの老婆も、塩を買わずにどこかへ行ってしまった。
「いつものことだよ」
ピッパさんは、肩をすくめた。
「人間って、見た目で決めるでしょ。ゴブリンは魔物と同じだ、って。でもね」
彼女は、ニクスの背中を軽く叩いた。
「人間より、ゴブリンの方がよっぽど約束守るもん」
そう言って、また笑った。
その笑顔が、さっきの営業用の笑顔とは、少しだけ違って見えた。
そこから先は、完全にピッパさんのペースだった。
干し肉、乾いたパン、塩、乾燥した豆。食料を一通り並べて、彼女が告げた値段に、アイシャが目を丸くした。
「えー、それ、町で買うよりずーっと高いよ」
「ここは町じゃないもーん。運ぶ手間賃込み」
「で、こちらには、この世界の金がない」と隊長が言った。
ピッパさんの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……え、一銭も?」
「一銭も」
ピッパさんは、腕を組んで、うーんとうなった。それから、ふと、足元に目をやった。
地面に、金色の小さな筒が転がっていた。誰かのポケットから落ちたらしい、空の薬莢だった。
ピッパさんは、それを拾い上げて、日にかざした。
その目が、また、星みたいに光った。
「ねえ、ちょっと。これ何?」
「撃ち終わった弾の殻だ」とノアが言った。「ただのゴミだよ」
「ゴミ!? この金色の筒が!? こんなに綺麗で、こんなにきっちり同じ形してて、こんなにぴかぴかなのに!?」
「ぴかぴかなのは、さっき落としたばっかだからだ」
「これ、高く売れる。絶対売れる。職人が見たら目の色変えるよ。仕入れ値がゴミなら、丸儲けじゃん」
ピッパさんは、くるりと隊長の方を向いた。
「これで払って。この筒、あといくつある?」
隊長が答えるより先に、ニクスが動いた。
黙って荷車に近づいて、ピッパさんが書いた値札を一枚ずつ外し、新しい値札に書き直していく。
「ちょっと、ニクス!」
ニクスは、手を止めなかった。書き直された値札の数字は、さっきの三分の一くらいになっていた。
「何よ、命の恩人に商売するなってこと?」
ニクスが、小さくうなずいた。
「まだ何もしてもらってないけど!?」
ニクスは、隊長たちを見て、それからピッパさんを見て、短く言った。
「これから、する」
ピッパさんは頬をふくらませて、それから、しぶしぶうなずいた。
結局、俺たちは、ポケットとポーチの底に残っていた空薬莢と引き換えに、数日分の食料を手に入れた。ノアが、袋を抱えて、天を仰いでいた。
「これで、虫は卒業だ」
「まだ分かんねえじゃん」とアダム。
「分かる。俺には分かる」
商談が終わりかけたころだった。
「あ、そうだ!」
ピッパさんが、荷車の奥から、布にくるまれた何かを取り出した。
「お兄さんたち、珍しいもの好きでしょ。とっておきの掘り出し物、見せてあげる。見るだけならタダだよ」
布の中から出てきたのは、握りこぶしほどの石だった。
黒かった。
いや、黒というより、濁っていた。墨を溶かした水を、そのまま固めたような色。光にかざすと、奥の方で、何かがゆっくりと渦を巻いているように見えた。
綺麗だった。でも、なぜか、見ていると胸の奥がざわついた。
「魔石だよ。たぶん、ものすごくいいやつ。こないだ東の古い遺跡の近くで、拾ったって人から買ったの。ほかじゃ絶対手に入らないよ」
魔石。異世界ものなら、杖にはめるのも、武器に埋めるのも、全部これだ。胸のざわつきも忘れて、俺は身を乗り出しかけた。
その時、横にいたアイシャが目に入った。
顔から、血の気が引いていた。
さっきまで、ピッパさんの商売にくすくす笑っていた顔が、紙みたいに白くなっていた。唇が、何かを言いかけて、止まった。
アイシャは、すぐに目をそらした。そして、何でもないふりをして、干し肉の袋の口を結び直し始めた。
紐を結ぶ指が、少しだけ震えていた。
聞けなかった。
あの夜の手帳と同じだ。聞けば、きっと彼女は答えに困る。そして、人に隠し事を聞く資格なんて、俺にはない。
日が傾きはじめたころ、最初に気づいたのは、ニクスだった。
荷車の脇で荷物をまとめていたニクスが、ふと手を止めて、顔を上げた。大きな耳が、ぴくりと動いた。
「……鳥が、鳴きやんだ」
言われて、気づいた。昼間はあれほどうるさかった森の鳥の声が、いつの間にか、一つも聞こえなくなっていた。家畜小屋の羊たちが、落ち着きなく柵の中をぐるぐる回っている。
ニクスは、ピッパさんの荷物の中の、布の包みに目をやった。あの黒い石の包みだった。
それから、まっすぐ、隊長のところへ歩いていった。
「来る」
しわがれた声だった。
「魔狼じゃ。群れで来る。日が沈んだら、すぐじゃ」
隊長は、ニクスの顔を見た。疑う顔ではなかった。それから、ノアに目で合図した。
ノアは、物置の屋根に駆け上がって、暗視ゴーグルを下ろした。まだ夕暮れで、ゴーグルの出番には早い。それでも、ノアはしばらく森を見て、それから、短く言った。
「いるな。森の縁の奥だ。まだ遠いが、目が光ってるのがいくつか見える」
隊長の顔つきが、変わった。
隊長は、アイシャとニクスを連れて、村長の家へ向かった。ピッパさんも、ニクスにくっついてきた。俺も、なぜか、その後ろについていっていた。
村長の家の前には、村の男たちが集まっていた。昼間の騒ぎを聞いて、俺たちを見張るために集まっていたのかもしれない。
「魔狼の群れが来る」
隊長は、前置きなしに言った。翻訳の魔法で、言葉はそのまま通じているはずだった。
「日が沈んだら、すぐだ。数が多い。柵だけでは持たないかもしれない。村の人を、一番頑丈な建物に集めてくれ。子どもと年寄りを先に」
村長は、白いひげの、痩せた老人だった。隊長の顔を見て、それから、その後ろのニクスを見て、眉をひそめた。
村長が何か言うより先に、男たちの一人が、鼻で笑った。
「魔狼の群れ? 誰がそんなことを」
「このゴブリンが気づいた。俺たちの仲間も、森の縁で目を見た」
男たちの間に、ざわめきが広がった。
「ゴブリンの言うことを、信じろってのか」
「異界の化け物と、魔物の言うことを聞けるか」
「この村には柵がある。魔狼なんぞ、これまで何度も追い返してきた」
「俺たちを家から追い出して、その間に何をする気だ」
ピッパさんが、我慢できないというように前に出た。
「ちょっと! ニクスは四十年も行商してるんだよ! 魔物のことなら、あんたたちより――」
ニクスが、ピッパさんの腕をつかんで、止めた。
黙って、首を横に振った。
いつものことだ。たぶん、そう言いたかったのだと思う。
村長は、困ったように隊長と男たちの間で目を泳がせていた。何か言いかけて、男たちの顔を見て、口をつぐんだ。
「……お引き取りを。今夜は、あなた方も、借りた家から出ないでいただきたい」
それが、村長の答えだった。
隊長は、しばらく村長の顔を見ていた。それから、何も言わずに、背を向けた。
「勝手にやるしかない」
物置に戻ると、隊長は短く言った。
「村人は、俺たちの言うことを聞かない。なら、聞かないまま守る。全員、屋根に上がれ。柵を越えてくるものは、片っ端から撃つ」
「村人が、俺たちに銃を向けられたと思ったら」とマーカス。
「その時は、その時だ」
隊長は、サムを見た。
「サム、お前はここに残れ。ミナトとアイシャと、商人の二人を守れ」
アイシャが、何か言いかけた。隊長は、首を横に振った。
「君の魔法は、いざという時のために取っておけ」
デルタの五人が、物置を出ていった。
扉が閉まると、急に、物置の中が狭く感じた。
俺と、サムと、アイシャと、ピッパさんと、ニクス。それだけだった。
日が、沈んだ。
物置の窓は、板を打ちつけただけのものだった。その隙間に目を当てると、村の柵と、その向こうの暗い森が、かろうじて見えた。
森の縁に、光があった。
緑色の、小さな光が、二つずつ並んでいる。
二つ。四つ。十。
数えるのを、途中でやめた。
遠吠えが聞こえた。長く、低く、腹の底に響く声。それに答えるように、あちこちから、短い唸り声が上がる。
村の家々から、明かりが一つ、また一つと消えていった。誰かが、慌てて扉に閂をかける音がする。
村の人たちも、今になって、気づいたのだ。
「……魔狼」
ピッパさんが、小さくつぶやいた。いつもの明るい声じゃなかった。
「群れだよ。あんな数、あたし初めて見た」
ニクスは、大きな耳を窓の方へ向けて、黄色い目で、じっと外を見ていた。そして、ピッパさんが抱えている布の包みに、ちらりと目を落とした。
あの、黒い石の包みだった。
最初の銃声が鳴った。
乾いた、短い音。遠くで、何かが柵から落ちる音。
続けて、二発目、三発目。
隊長の声が、外から切れ切れに聞こえる。何を言っているのかは分からない。でも、その声がいつもより少しだけ速いことは、分かった。
窓の隙間から、影が見えた。
狼だった。でも、俺の知っている狼じゃない。大きすぎる。肩の高さが、人間の腰くらいある。黒い毛が、背中に沿って逆立っている。
それが、何匹も、柵に飛びかかっていく。
銃声のたびに、一匹が落ちる。でも、その横から、次の一匹が柵に爪をかける。
一匹に、二発。三発かかる時もある。
俺は、いつの間にか、心の中で数えていた。
ゲームなら、弾は拾える。敵を倒せば落ちるし、弾薬箱はあちこちに置いてある。でも、ここには何もない。あの人たちが撃っている一発一発は、二度と戻ってこない。
銃声は、途切れなかった。
途切れないことが、怖かった。
昨日の戦いのあと、エヴァンが読み上げた弾の数を思い出す。補給のない、減るだけの数だ。あの群れがどれだけいるのか、俺には分からない。でも、このまま撃ち続けていたら。
「……足りなくなる」
声に出ていた。
アイシャが、こちらを見た。暗くて、表情は分からなかった。
ニクスが立ち上がった。
「おい」
扉の脇のサムに向かって、しわがれた声で言った。
「頭は、どこにおる」
サムが振り向いた。翻訳の魔法は、まだ効いている。ニクスの言葉は、そのまま意味を持って届いていた。
「頭?」
「群れには、頭がおる。一番でかくて、一番後ろで吠えとるやつじゃ。前に出てくるのは、そいつに追い立てられとる若いのだけじゃ。若いのを何匹撃っても、頭がおる限り、群れは引かん」
サムは、一瞬だけニクスを見た。それから、無線のスイッチを押した。
「隊長、こちらサム。ニクス爺さんの話だ。群れには頭がいるそうだ。一番後ろで吠えてるやつだな。そいつを倒せば、群れは散る」
無線の向こうで、少しだけ間があった。
「……了解。探す」
隊長の声だった。
遠吠えが、また上がった。
さっきより、近い。
いや、違う。遠吠えの方は、まだ森の奥だ。近づいてきているのは、唸り声の方だった。柵の、すぐ向こう。何十もの、低い唸り声が、一か所に集まっていく。
みし、と音がした。
丸太がきしむ音だった。
みし。みし。
何かが、柵に体重をかけている。一匹じゃない。何匹もが、同じところに、同時に。
銃声が、そこへ集中した。乾いた音が、立て続けに鳴る。
それでも、きしむ音は、止まらなかった。
アイシャが、杖を握りしめて立ち上がった。ピッパさんが、ニクスの腕をつかむ。サムが、拳銃を構えて、扉の前に立った。
俺は、何もできなかった。窓の隙間から、ただ見ていることしか。
めきり、と、何かが折れる音がした。
柵が、内側に倒れた。
その向こうから、黒い影の群れが、村の中へなだれ込んできた。
閂をかけた家々の中から、村人たちの悲鳴が上がった。
残弾 小銃弾812/拳銃弾225
爆薬 二個
戦闘糧食 残り十食(ほかに干し肉、パン、塩、豆など数日分)
ドローンのバッテリー 51%
(第6話 了)




