第5話 翻訳の魔法
「……あなたたち、どこから来たの?」
その言葉が分かった瞬間、俺は、サムの背中の陰で、声にならない声を上げていた。
翻訳の魔法だ。
異世界ものなら、だいたい転移した瞬間に、なぜか言葉が通じている。都合のいい加護とか、スキルとか、そういうものが勝手に面倒を見てくれる。
この世界は、そこまで親切じゃなかった。森をさんざん歩いた末に、ようやく、目の前の女の子が、杖を振って、汗だくになって、言葉を通じさせてくれた。
親切じゃない分、ありがたみが段違いだった。
「アメリカだ」
隊長が答えた。
少女は、首をかしげた。
「あめ……りか?」
「国の名前だ」
「聞いたことないなあ。それって、アルヴェインより西? それとも天龍帝国より東?」
今度は、隊長が黙る番だった。
「……どちらも、聞いたことがない」
少女と隊長は、しばらく見つめ合っていた。お互いに、相手がふざけているのかどうか、確かめるような顔で。
少女が先に、ふっと肩の力を抜いた。
「まあいいや。私はアイシャ。サーラヤ王国から来た、見習いの魔導士だよ。それと、助けてくれてありがとう!」
そう言って、彼女は、ぺこりと頭を下げた。
それから顔を上げて、隊長の手の中の銃を、まっすぐ指さした。
「で、それって何?」
俺は、心の中でステータス画面を開いた。
異世界に来たのに、ステータス画面は一向に開かない。誰も見せてくれないなら、仕方がない。俺の頭の中で勝手に開くことにした。
――――――――――
アイシャ
魔法:たぶん高い(比較対象がない)
好奇心:S
危機感:C
見た目:S(測定者の主観。……いや、たぶん誰が測ってもS)
備考:銃を見て、怖がるより先に目が輝いた。
――――――――――
たぶん、俺と同じ種類の人間だ。
それにしても、と俺は思った。
大きな琥珀色の瞳。まっすぐな前髪の下で、その瞳がよく動く。黒い髪は二本の三つ編みにして、頭の後ろで輪にして結っている。編み目の間で、小さな銀の輪と色の糸が揺れている。色の白い肌は、旅の埃で汚れているのに、なぜか光って見えた。旅のために短く仕立て直した学者の上着に、短いケープ。ひざ上のスカートに黒いタイツ、編み上げのブーツ。腰のベルトには、色とりどりの小さな薬瓶。笑うと、右の頬にだけ、小さなえくぼができる。
画面の中の女の子なら、いくらでも見てきた。でも、現実の女の子に、こんな近くで笑いかけられたのは、何年ぶりだろう。
落ち着け、早瀬湊。お前は助けられた人質で、彼女は通訳をしてくれる旅の道連れだ。それ以上でも、それ以下でもない。
……備考欄だけ、こっそり書き足しておいた。
備考:笑うと、右の頬にえくぼができる。それを見ると、測定者の心拍数が上がる。
アイシャの体が、ふらりと揺れた。サムが慌てて腕を支える。
「……ごめん。これ、すごく疲れるの。一日一回が限界なんだ」
「無理するな、アイシャ」とサム。
エヴァンは、さっきから、手元の端末の画面をにらんでいた。
「GPSが使えない」
アイシャは、首をかしげた。
「じー、ぴー、えす?」
「衛星からの電波で、自分の位置を知るための仕組みだ」
「えいせい?」
「空のはるか上を回っている機械だ」
「空の上に機械が? ねえ、誰が置いたの? どうやって?」
エヴァンが、口を開けたまま固まった。
説明しようとした言葉が、全部、意味を持たない音のまま、アイシャに届いているのだ。機械の説明で、エヴァンが言葉に詰まるのを、俺は初めて見た。
その日だけで、通じなかった言葉は、ドローン、アメリカ、ヘリコプター、電池、インターネット、チーズ味のクラッカー。
最後のは、アダムが袋を見せて説明しようとして、なぜか一番時間がかかった。
「ここはね、灰の辺境っていうの。三つの国の境目にあって、どこの国のものでもないんだ。だから、法も騎士団も来ない。いるのは、野盗と、魔物と、国にいられなくなった人くらいかな」
アイシャは、なんでもないことのように言った。
「地球」という言葉も、アメリカも、日本も、ここでは誰も知らない。
六人は、しばらく誰もしゃべらなかった。
隊長は、地面の一点を見つめていた。マーカスは、腕を組んだまま目を閉じていた。ノアのガムを噛む音だけが、やけに大きく聞こえた。
「地図に載っていない未開の地域だ。それで説明がつく」
最初に口を開いたのは、エヴァンだった。
「人が足を踏み入れていない場所は、地球にまだいくらでもある。言語が違うのも、国の名前を知らないのも当然だ。孤立した地域なら」
エヴァンはそこで言葉を切って、空を見上げた。
昼間の空に、月が、二つ、薄く浮かんでいた。白い月と、小さな青い月。
エヴァンは、それ以上、何も言わなかった。
――――――――――
エヴァン・コール
電子機器:S
射撃:A
魔法への理解:測定不能(本人が拒否)
備考:「思います」は数字じゃない、らしい。
――――――――――
拒否するのは、たぶん、怖いからだ。説明できないものの中で、どうやって仲間を守ればいいのか分からないから。
俺は、少しだけ、この人のことが分かった気がした。
それから先のことは、正直、あまり覚えていない。
気がついたら、俺とアイシャは、荷馬車の車輪にもたれて、ずっとしゃべっていた。日が暮れても、夕飯を食べ終えても、隊商の人たちが寝静まっても、まだしゃべっていた。
「じゃあ、そのドローンっていうのは、魔力じゃなくて、でんちっていうので飛ぶの? ねえ、そうなの?」
「そうです。電気っていう、雷のちっちゃい版みたいなものを、箱の中に貯めておくんです。つまり、持ち運べる雷ってことです」
「雷を箱に貯めるの!?」
アイシャの目が、星みたいに光った。
「それを言うなら、さっきの光の膜ですよ。あれどうやってるんですか。槍を突き立てられても破れなかったですよね」
「はりのとばり。防護の術式の一つ。魔力で空気を、こう、ぎゅって固めるの」
玻璃の帳。玻璃はガラスで、帳はカーテン。頭の中で字が当てはまった瞬間、俺は思わず拳を握った。技名がある。本物の魔法には、ちゃんと技名がある。
「でもね、張ってるだけで、魔力がどんどん減っちゃうの。さっきは、本当にぎりぎりだったんだよ」
「張ってるだけで減る。あ、それ、つまり魔力ってバッテリーみたいなものってことですね」
「ばってりー?」
「あ、それも通じないのか」
二人で頭を抱えて、それから、なぜか二人で笑った。
話しても話しても、知りたいことが減らなかった。彼女が一つ答えると、俺は次が聞きたくなる。俺が一つ答えると、彼女は質問を山ほど返してくる。
背後で、アダムの声がした。
「なあ、あの二人、何語でしゃべってんだ?」
「翻訳の魔法だろ」とノア。
「いや、そうじゃなくて。全然話についていけねえんだけど」
「オタク語だ」とノアが言った。「俺たちには一生分からない言語だ」
ひどい言われようだったけど、否定はできなかった。
話が一番盛り上がったところだった。
アイシャが身を乗り出して、何か言いかけた。
「それでね、ミナト、その雷の箱、もし魔石と組み合わせたら――」
そこで、彼女の言葉が、急に、意味を失った。
聞いたことのない、柔らかい響きの音だけが、耳に流れ込んでくる。
アイシャも、俺の顔を見て、気づいたらしい。琥珀色の目を丸くして、それから、空を見た。
いつの間にか、青い月が、空の高いところまで昇っていた。
時間切れ。魔法が、切れたのだ。
アイシャは何か言いながら、悔しそうに地面を叩いた。何を言っているのかは分からない。でも、たぶん、俺が言いたいことと同じだ。
一番いいところで。
俺たちが話し込む前に、隊長は、アイシャと取引をすませていた。
俺たちには、道案内と通訳が要る。アイシャは、旅の護衛が要る。隊商は次の町まで行くが、アイシャは途中で別れて、一人で旅を続けるつもりだったらしい。
「この辺境を一人で歩くの、正直ちょっと怖かったんだよね」
彼女はそう言って、それから、条件を一つだけ足した。
「その代わり、あなたたちの武器、調べさせてくれる? ね?」
マーカスが眉をひそめた。隊長は、少しだけ笑った。
「見るだけなら、好きにしろ。触るのは、マーカスの機嫌が直ってからだ」
「それで十分!」
アイシャは、本当に嬉しそうに笑った。
取引がまとまった後で、隊長は一つだけ聞いた。
「アイシャ。君はなぜ、こんな場所を一人で旅している」
アイシャの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……学院の課題なの。古い遺跡の調べもの」
「野盗と魔物しかいない土地を、一人でか」
「見習いだもん。護衛を雇うお金なんてないよ」
彼女はそう言って、また笑った。
隊長はそれ以上聞かなかった。ただ、その目が、彼女の顔から少しも離れなかったのを、俺は見ていた。
これだけの土地を、本当に一人で。そう思ったのは、たぶん俺だけじゃなかった。でも、誰も口には出さなかった。
こうして、七人の旅に、八人目が加わった。
隊商の長は、白髪まじりの太った男で、何度も何度も頭を下げていた。お礼にと、干し肉の束と、固く焼いたパンを、袋いっぱいに分けてくれた。
食料が増えた。
その瞬間、一番ほっとした顔をしたのは、ノアだった。
「これで、虫は食わなくて済む」
「いやいや、まだ分かんねえじゃん」とアダム。
「済む。俺は済ませる」
隊商の人たちは、俺たちのことを、ずっと遠巻きに見ていた。子どもが母親の陰から、こちらを指さして、何か小さな声で言う。母親が、慌てて子どもの口をふさぐ。
アイシャが、魔法が切れる前に教えてくれた。
あの人たちは、俺たちのことを、こう呼んでいたらしい。
異界の戦士。
遠くから、音だけで人を倒す、見たことのない服の男たち。
その呼び名は、きっと、この隊商と一緒に、次の町へ運ばれていく。
その夜。
俺は、なかなか寝つけなかった。
今日一日で、聞きたいことが多すぎた。魔法のこと。魔石のこと。三つの国のこと。言葉が通じない今、全部、明日まで持ち越しだ。
水を飲もうと起き上がったとき、少し離れた岩陰に、小さな明かりが見えた。
アイシャだった。
杖の先に、ろうそくほどの淡い光を灯して、膝の上の手帳に、何かを書き込んでいた。
昼間とは、まるで違う顔だった。笑っていなかった。眉を寄せて、真剣に、ほとんど怖いくらいの顔で、ペンを走らせている。
手帳には、見たことのない文字が並んでいた。アイシャたちが普段使っている文字とも、少し違う気がした。もっと角ばった、古い感じの文字。
俺が一歩近づいた瞬間、アイシャが顔を上げた。
そして、ぱたん、と手帳を閉じた。
一瞬だけ、ひどく慌てた顔をした。それから、すぐに昼間と同じ笑顔に戻って、何か明るい調子で言った。
言葉は分からない。
でも、ごまかされたことだけは、分かった。
アイシャは手帳を胸に抱えたまま、おやすみ、と言うように小さく手を振って、毛布にもぐり込んでしまった。
俺は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
何を書いていたんですか。
明日、言葉が通じたら、聞いてみようか。
そう考えて、すぐに打ち消した。
人に隠し事を聞く資格なんて、俺にはない。
俺だって、この人たちに、一番大事なことを隠しているのだから。
残弾 小銃弾841/拳銃弾231
爆薬 二個
戦闘糧食 残り十食(ほかに干し肉とパン、数日分)
ドローンのバッテリー 51%
(第5話 了)




