第4話 最初の接触
煙までは、歩いて半日かかった。
道なき森を、七人は一列で進んだ。先頭はマーカス、最後尾はアダム。真ん中にサムとミナト。ノアは一人で先へ出て、木々の間から前を確かめては、無線で短く知らせてくる。
「前方二百、異常なし」
「川を渡る。浅い。足跡なし」
「道がある」
ダニエルは手を上げて、列を止めた。
「どんな道だ」
「舗装はなし。踏み固めた土の道だ。轍がある。車輪の幅は狭い。馬車か、荷車だろ」
人がいる。それも、車輪を使う程度の文明がある。
ダニエルはそれを、頭の中の地図に書き込んだ。
道の手前の茂みで、七人は伏せた。
ノアの声が、いつもより低くなった。
「隊長。前方三百。道の上で揉めてる」
ダニエルは双眼鏡を構えた。
荷馬車が四台、道の真ん中で止まっていた。引いているのは馬に似た生き物だが、首が妙に長い。その周りで、二十人ほどの男たちが入り乱れている。
剣。槍。斧。
どちらも似たような革の鎧を着ていて、遠目には区別がつかない。
「なあ、どっちが敵だよ」アダムが小声で言った。
「分からない」
ダニエルは双眼鏡を動かした。一人ずつ、動きを見る。
荷馬車の陰に、子どもを抱えた女がいた。老人がいた。武器を持たない人たちが、身を寄せ合ってうずくまっている。
その一人に、斧を持った男が近づいていくのが見えた。男は笑っていた。
「荷馬車の側が襲われている。武器を持たない者を斬っている側が、敵だ」
それが、ダニエルがこの世界で最初に引いた線だった。
「隊長」
マーカスが、ダニエルの横に這い寄ってきた。
「関わるべきじゃない」
声は低く、静かだった。
「俺たちはここがどこかも分からない。誰が誰の味方かも分からない。あの荷馬車の連中が、明日俺たちに剣を向けない保証もない。それに撃てば音が出る。ここに俺たちがいると、この森中に知らせることになる」
正しい、とダニエルは思った。
教本どおりなら、ここは見送る場面だ。弾には限りがある。補給はない。仲間を危険にさらす理由も、ここにはない。
双眼鏡の向こうで、斧の男が、子どもを抱えた女の前で足を止めた。
「マーカス」
ダニエルは双眼鏡を下ろさずに言った。
「お前の言うことは全部正しい」
「なら」
「でも、俺は、あれを見て見ぬふりをする方法を、訓練で習ってない」
マーカスは一瞬黙った。それから、短く息を吐いた。
「……了解。指示を」
「ノア、斧の男。アダム、エヴァン、右から回り込め。マーカス、俺と正面。サム、ミナトとここに残れ」
ノアの最初の一発で、斧の男が崩れ落ちた。
男たちの動きが一瞬止まる。何が起きたのか分からない、という顔で、辺りを見回す。
その一瞬の間に、ダニエルとマーカスは茂みを出て、道の脇の岩陰まで走っていた。
二発目、三発目。乾いた音が森に響くたびに、荷馬車を囲んでいた男たちが一人ずつ倒れていく。
野盗たちは、ようやく音の方を向いた。だが、どこから撃たれているのかが分からない。弓の届かない距離から、見えない何かに一人ずつ倒されていく。
半分が逃げ出しかけた、そのときだった。
荷馬車の陰で、何かが光った。
透明な膜だった。
シャボン玉のように薄く揺らめく光の壁が、荷馬車と、その陰の人たちを包むように広がっていた。
膜の内側に、一人の少女が立っていた。
まだ若い。色の白い顔に、まっすぐな前髪。二本の三つ編みを、頭の後ろで輪にして結っている。長い杖を両手で握りしめて、唇を必死に動かしている。聞き取れない言葉が、途切れずに、長く続いていた。
逃げ遅れた野盗の槍が、膜に突き立てられた。膜はたわみ、波打ち、それでも破れなかった。
「遮蔽物を確認。透明だ」
ダニエルの無線に、右から回り込んでいたエヴァンの声が入った。
「強化ガラスか何かの防護板か。いや、それにしては」
声が、途中で止まった。
「……光ってる。何もない空間が光ってる」
「隊長、奥だ」
ノアの声が鋭くなった。
「荷馬車の向こう。一人、毛色の違うのがいる」
ダニエルは岩陰から目だけを出した。
野盗の後ろ。他の男たちより一歩下がったところに、灰色の外套を着た男が立っていた。剣も槍も持っていない。代わりに、片手を前に突き出して、何かを唱えている。
その手のひらの上で、光が生まれていた。
最初は火の粉ほどの大きさだった。それが、男の声に合わせて、ふくらんでいく。拳の大きさ。頭の大きさ。赤く、熱く、渦を巻く火の玉。
離れた岩陰にいても、熱が頬に届いた。
「おい、マジかよ」
アダムの声が、無線に漏れた。
エヴァンは何も言わなかった。言えなかったのだと、ダニエルは思った。
火の玉は、まだふくらみ続けていた。その先にあるのは、少女の張った光の膜だった。
あれをまともに受けたら、膜ごと、荷馬車の陰の人たちが焼かれる。
ダニエルは、考えるより先に、一つのことに気づいていた。
男は、まだ撃っていない。
あれだけの火を作るのに、もう何秒もかかっている。唱え続けなければ、火は大きくならない。そしてその間、男は一歩も動けていない。
「ノア」
「見えてる」
「あの男は、唱え終わるまで撃てない。今が一番無防備だ」
「了解。黙らせる」
風が止んだ。
ノアの一発が、灰色の外套の肩を撃ち抜いた。
男の声が途切れた。
その瞬間、ふくらみきる前の火の玉は、手のひらの上で形を失い、ほどけるように散った。火の粉が、男自身の外套に降りかかる。男は悲鳴を上げて地面を転がった。
「……消えた」マーカスが小さく言った。
「唱えるのを止めたら、消えるのか」とダニエル。
「威力は銃より上かもしれん。だが、撃つまでが遅い」
ダニエルは、その言葉を頭の中に刻んだ。
この世界で生き延びるための、最初の一行だった。
だが、それで終わりではなかった。
倒れた灰色の男のそばで、別の野盗が慌てて何かを放り投げた。小さな石だった。地面に落ちた石が割れ、そこから、さっき少女が張ったのと同じような、薄い光の壁が立ち上がった。
壁の陰に、残りの野盗たちが逃げ込む。
マーカスが短く三発撃った。弾は壁に当たり、火花を散らして、斜めに逸れた。
「弾が逸れる」
「撃ち方やめ」ダニエルは即座に言った。「効かないものに弾を使うな」
ダニエルは一瞬だけ周りを見た。そして、もう一つのことに気づいた。光の膜は、自分たちの方を向いて、平たく立っている。正面だけだ。それでも、道の両側は開けた草地で、身を隠せるものがない。回り込む間に、壁の陰の連中は態勢を立て直す。もう一人、あの火の玉を唱えられる者がいないとも限らない。そして荷馬車の陰には、まだ怪我人がいる。
正面から叩き続ければ、いつかは割れるかもしれない。だが、補給の利かない弾が、いくらあっても足りない。
「ノア。上から、壁の内側は見えるか」
一拍の間があって、無線が答えた。
「丸見えだ。気の毒にな」
「時間をやるな。怪我人が増える前に終わらせる」ダニエルは言った。「マーカス、俺と正面から間を空けて撃て。当てなくていい。頭を下げさせておけ。本命は上だ」
正面から、ぽつり、ぽつりと乾いた音が続く。壁の陰の野盗たちは、光の膜に守られていると信じて、身を低くしたまま動かない。
その中で一人、杖を手に、何かを唱えはじめた男がいた。さっきの灰色の男ほどではないが、手のひらに小さな火が灯りかけている。
上から、一発。
男が崩れ落ちた。火は形になる前に消えた。
壁の内側の野盗たちが、一斉に顔を上げた。正面ではない。どこか高いところから撃たれた。光の壁の内側にいても、隠れる場所はない。そのことに、全員が同時に気づいた顔だった。
誰かが、剣を地面に放り出した。それが合図になった。
光の壁の向こうで、野盗たちは次々に武器を捨て、両手を上げた。
戦いは、終わった。
逃げた者も、手を上げた者もいた。ダニエルは追わせなかった。縛り上げる縄も、見張る人手も、今の自分たちにはない。
「残弾確認」
ダニエルが言うと、全員が無言で弾倉を数えはじめた。
報告が上がるたびに、エヴァンが端末に打ち込んでいく。
「小銃弾、合計八百四十一。拳銃弾、二百三十一」
手の中の弾倉が、ずいぶん軽くなっていた。
たった一度の戦闘で、だ。
「割に合わない」エヴァンがつぶやいた。「向こうは石ころ一つ。こっちはそれで足を止められた。ノアが上にいなかったら、補給の利かない弾で叩き割るしかなかった」
「なら、壁の正面に立たないことだ。上を取る。横を取る。壁が向いていない方から撃つ」
ダニエルは静かに言った。誰も、反論しなかった。
茂みの方で、サムが立ち上がるのが見えた。その背中から、ミナトがおそるおそる顔を出していた。青ざめた顔で、それでも、目だけは見開いて、道の方を見つめていた。
光の膜が、ふっと消えた。
荷馬車の陰から、隊商の人たちが一人、また一人と顔を出す。怯えた目で、ダニエルたちを見ていた。野盗を見る目と、ほとんど変わらなかった。
無理もない、とダニエルは思った。
見たこともない服。見たこともない武器。遠くから、音だけで人を倒した連中だ。
その中で、一人だけ、まっすぐこちらへ歩いてくる者がいた。
さっきの少女だった。
杖を胸の前で握りしめたまま、少女はダニエルの数歩手前で立ち止まった。疲れ切った顔で、肩で息をしている。額には汗が光っていた。
その目が、ダニエルの手の中の銃に向けられた。
少女の目が、大きく見開かれた。
恐怖ではなかった。ダニエルには、それが分かった。
あれは、知りたくてたまらない人間の目だった。
少女が何か言った。聞いたことのない言葉だった。英語でも、ダニエルが訓練で習ったどの言葉でもない。
ダニエルは首を横に振った。
少女は唇を噛んだ。それから、杖を両手で掲げ、目を閉じて、何かを唱えはじめた。
杖の先に、淡い光が灯る。
マーカスが銃を構えた。アダムも、エヴァンも。ノアの無線が、短く「照準した」と告げる。
「撃つな」
ダニエルは、少女から目を離さずに言った。
「まだ撃つな」
少女の唱える声が、少しずつ大きくなっていく。杖の光が、ダニエルたちの方へ、霧のように流れてきた。
撃つか。
〇・五秒。
ダニエルは、撃たなかった。
光が、肌に触れた。熱くも、冷たくもなかった。ただ、耳の奥で、何かがかちりと噛み合う音がした気がした。
少女が目を開けた。
そして、言った。
「……あなたたち、どこから来たの?」
聞いたことのない言葉のはずだった。
なのに、その意味が、ダニエルにははっきりと分かった。
残弾 小銃弾841/拳銃弾231
爆薬 二個
戦闘糧食 残り十食
ドローンのバッテリー 51%
(第4話 了)




