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第3話 二つの月の下で

異世界転移ものの一日目といえば、相場は決まっている。


ステータス画面が開く。スキルが手に入る。可愛い女の子か、しゃべる魔物か、気のいい村人に出会う。


俺の一日目に開いたのは、ステータス画面ではなく、副隊長のマーカスの冷たい目だった。


「火を消せ」


俺は、拾い集めた枯れ枝の前で固まった。


ライターは、サムに借りた。手伝えることを探して、探して、ようやく見つけた仕事だった。夜は冷える。火があれば、みんな助かる。そう思ったのだ。


「え、でも、寒いですし」


「この森に何がいるか分からない。火は、ここに獲物がいますと看板を出すのと同じだ」


マーカスはそれだけ言って、ブーツの先で、俺の小さな火を踏み消した。


一瞬だけ照らされた彼の横顔は、怒っているというより、疲れているように見えた。


「……すみません」


返事はなかった。



デルタの六人は、目を覚ましてから一度も止まっていなかった。


二人ずつ組になって、交代で見張りに立つ。周りの地形を確かめる。水の音がする方を探す。倒木の陰に、外から見えない寝床を作る。


誰も「次は何をする」とは聞かない。全員が、もう次にやることを知っている。


俺だけが、知らなかった。


立っていると邪魔になる。座っていると、自分だけ休んでいるみたいで落ち着かない。結局、木の根元に膝を抱えて座り、できるだけ小さくなっていることにした。


ゲームなら、こういうときのNPCは、隅で同じ動きを繰り返している。今の俺は、まさにそれだった。



「ミナト、腹が減ってるだろう」


顔を上げると、サムが目の前にしゃがんでいた。手に、茶色い袋を持っている。


戦闘糧食。いわゆるレーションだ。ゲームではただの回復アイテムだけど、本物は思ったより重そうな袋だった。


「全員の分を確かめてきた」サムは静かに言った。「みんなで一日一食に切り詰めても、長くて二日半だな」


思っていたより、ずっと短い。


「お前は長いこと、まともに食ってないんだ。先に少し腹に入れておこうな」


「いや、でも、それじゃ皆さんの分が」


「医者の言うことは、聞いてくれよ」


サムは袋を開けて、中身の一つを俺の手に押しつけた。クラッカーと、チーズのようなペースト。


一口かじった瞬間、涙が出そうになった。


味は、正直、たいしておいしくない。でも、缶詰とコードしかなかった四か月のあとで、誰かに「食え」と差し出された食べ物だった。


「……ありがとうございます」


サムは何も言わずに、俺の肩を一度だけ叩いて、見張りに戻っていった。


あとで気づいた。その夜、袋を開けたのは、俺だけだった。


髭面で、腕はタトゥーだらけで、どう見ても町で目を合わせちゃいけない人なのに。この人は、本当に優しい。



その夜、俺は、生まれて初めて虫を食べた。


正確に言うと、虫を食べる人たちを、一番近くで見ることになった。


「食料は、すぐに尽きる」


見張りの交代の合間に、マーカスが言った。そして、朽ちた倒木の皮を手で剥がした。


中から、親指ほどの白い幼虫が、ころりと転がり出てきた。


見たことのない虫だった。地球の何かに似ているようで、どこか違う。


「サム」


「待て」サムが懐中電灯を手で覆い、指の隙間からの細い光で幼虫を確かめた。においを嗅ぎ、潰して中を見る。「毒っぽい色はないな。だが、見た目で分かるのはそこまでだ。ここの虫は、俺たちの知ってる虫じゃない。生なら寄生虫も怖い。本当なら火を通したいところだな」


「火は使えない」マーカスは言った。「だが、食料が尽きてから全員で初めて試すより、今のうちに一人で試しておく方がいい」


サムは髭の奥で顔をしかめた。それから、一つずつ噛んで含めるように言った。


「どうしても試すなら、手順は守ろうな。まず腕の内側に汁をつけて、しばらく待つ。腫れもかゆみも出なければ、唇に当てて、また待つ。それでも何もなければ、ほんの少しだけかじって、数時間様子を見る。一匹丸ごとはそれからだ。途中で少しでも異変が出たら、そこでやめるんだぞ」


「了解。実験台は俺がやる」


マーカスは、まるで弾倉の点検でもするような顔で、腕の内側に幼虫の汁をなすりつけた。


そこからの数時間が、俺には一晩より長く感じた。


腕は腫れなかった。唇も痺れなかった。ほんの少しかじってからも、何も起きなかった。見張りの交代の時間になって、サムが小さくうなずいた。


マーカスは、残りの幼虫を口に放り込み、顔色一つ変えずに噛んで、飲み込んだ。


全員が、黙ってマーカスの顔を見た。


「どうだ、マーカス」とサム。


「ナッツに近い。少し土臭い」マーカスは淡々と言った。「腹を壊したら、明日の朝お前に言う」


「マジかよ副隊長、最高じゃん」


アダムが目を輝かせて、もう一本の倒木の皮を剥がし始めた。


「アダム、お前の耳は飾りかよ。サムの手順、聞いてなかったのか」


ノアが、本気で嫌そうな顔をして後ずさった。


「俺は食わないからな。絶対に食わない。餓死する方がましだ」


「なあ、お前、前の訓練で蛇は食ってたじゃん」


「蛇は肉だろ。あれはどう見ても、うごめく何かだ」


二人の言い合いを聞きながら、俺は、膝の上で手を握りしめていた。


あの茶色い袋が、全部空になったら。


俺も、あれを食べることになるのか。


泣きそうな顔をしていたのだと思う。アダムがこちらを見て、ニヤッと笑った。


「安心しろって。お前の分も、ちゃんと取っといてやるから」


「……結構です」


本当に、結構です。



翌朝。


霧の中で、エヴァンが小さなドローンを手のひらに乗せていた。


研究施設で使っていた、あの偵察用ドローンだ。手のひらに乗るサイズで、静かで、軽い。俺が仕事で毎日のように設計図を眺めてきた種類の機体だった。


「バッテリー、残り六十パーセント」


エヴァンは画面を睨みながら、誰に言うでもなくつぶやいた。


「充電手段はない。一回の飛行で十五パーセント食う。飛ばせるのはあと四回だ」


たった、それだけ。


「高く上げて、一気に周りを見る。それで地形を全部頭に入れる」


それを聞いた瞬間、口が勝手に動いていた。


「あの、高度、そこまで上げなくてもいいかもしれません」


エヴァンの手が止まった。眼鏡の奥の目が、ゆっくりとこちらを向く。


「……何だって?」


しまった、と思った。でも、もう止まらなかった。好きな分野の話になると、俺の口はいつもこうだ。


「その機体、上昇が一番電池を食うんですよ。高く上げるより、木のちょっと上をまっすぐ飛ばして、映像の画質を一段落とす。つまり、同じ電池で倍くらいの範囲が見られるってことです。あと冷えると電池の持ちが落ちるんで、飛ばす直前まで服の中で温めておくのが――」


そこまで言って、我に返った。


全員が、俺を見ていた。


エヴァンは、ドローンと俺の顔を見比べた。それから、手元の端末を何度か操作して、短く言った。


「数字で言え。画質を一段落として、高度三十。何パーセント持つ」


「え、えっと。正確には分からないですけど、十パーセントかからないと思います」


「思います、は数字じゃない」


「八から十パーセント、です。あ、風がなければ、ですけど」


エヴァンは、ふん、と鼻を鳴らした。


「民間人に機体の飛ばし方を教わるとはな」


それだけ言って、彼は高度の設定を書き換えた。


俺の言った通りに。


ドローンが、霧の中へ静かに飛び上がっていった。



画面の中に、森が広がっていく。


どこまでも続く、見たことのない形の木々。地図にない川。遠くに見える、雪をかぶった山脈。


道らしきものは、一本もなかった。電線も、鉄塔も、飛行機雲も、何も。


「マジでどこだよ、これ」と、アダムが画面を覗き込んで言った。


「少なくとも、地球の衛星写真で見たことのある地形じゃない」エヴァンが答える。


「エヴァン」と、隊長が言った。「月は、どう説明する」


エヴァンはしばらく黙ってから、硬い声で言った。


「……現時点では説明できない。だが、説明できないことと、説明がつかないことは別だ。理屈は必ずある」


異世界転移です、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。


昨日の夜、それを言ったときの、六人の顔を覚えている。この人たちは、ゲームの話をしているんじゃない。ここで生き延びる話をしている。


そのときだった。


画面の端を、何かが横切った。


雲の切れ間。白い霧の向こう。


長い影だった。


鳥ではない。鳥にしては長すぎる。蛇のように身をくねらせながら、雲の中を泳いでいくような、巨大な何か。


一瞬だった。影はすぐに雲の奥へ消えた。


「……今の、見たか」とノアが言った。


「鳥だ」エヴァンが即座に言った。「レンズの汚れか、霧で輪郭がにじんだ大型の鳥だ」


「あんな長い鳥がいるかよ」


「いないなら、レンズの汚れだ」


二人が言い合うのを聞きながら、俺は、画面から目が離せなかった。


あれは、鳥じゃない。


翼がなかった。翼がないのに、空を泳いでいた。


俺の頭の中で、山ほど読んできた物語の知識が、勝手に一つの言葉を組み立てる。


竜、だ。


言わなかった。言えば、また六人に、あの顔をされる。


でも、心臓は、ばかみたいにうるさく鳴っていた。


「隊長」


マーカスの声で、全員が顔を上げた。


彼は、画面のさらに隅を指さしていた。


森が途切れたあたり。ドローンの映像の一番遠くに、細い煙が一筋、空へ立ちのぼっていた。


焚き火の煙だ。


「人がいる」


隊長が言った。



その夜。


見張りの順番がない俺は、また一人で、木の根元に座っていた。


空には、二つの月。


今日一日で分かったことを、頭の中で並べてみる。


ここは地球じゃない。食料は、今日みんなで一食ずつ食べた。残りは、俺が先にもらった分だけ少ない。ドローンは、俺の飛ばし方なら、エヴァンの計算より少しだけ長くもつ。空には、何か大きなものが飛んでいる。そして、遠くに人がいる。


それから、もう一つ。


六人は、誰も俺を責めなかった。


転移が起きた理由を、誰も知らないからだ。


俺だけが知っている。


クロウが鍵をこじ開けたせいで、安定装置まで外れた。その鍵を仕込んだのは、俺だ。止めようとしてやったことが、結果的に、この人たちをここへ放り込んだ。


言わなきゃいけない。そう思う。


隊長の背中が、少し離れたところに見えた。見張りの合間に、胸のポケットから何かを取り出して、月明かりで眺めている。小さな紙だった。


家族の写真だろうか。


あの人には、帰りを待っている人がいる。


その人のところへ帰れなくしたのが、俺かもしれない。


立ち上がりかけて、また座った。


明日、言おう。


そう決めて、俺は膝を抱えた。


そういう「明日」が、たぶんずっと来ないことも、本当は分かっていた。



「おい」


背後から、小声がした。振り向くと、見張りの交代に向かうアダムが、こちらを見下ろしていた。


「なあ、今朝のドローンの話。エヴァンが人の言うこと聞くの、俺マジで初めて見たわ」


「そうなんですか?」


「あいつ、機械のことになると、隊長の言うことすら疑うからな」アダムはニヤッと笑った。「お前、名前なんだっけ。ミナト?」


「はい」


「長え。今日からお前、キーボードな」


「……は?」


「キーボード叩いてそうな顔してるから、キーボード」


「いや、待ってください。キーボードの方が長いですよね」


「英語だとキー・ボードで二音。ミ・ナ・トは三音。こっちの方が短え」


そういう問題じゃないだろ。


「その呼び方、やめません?」


「やめねーよ」


アダムは笑いながら、闇の中へ歩いていった。


ひどいあだ名だ。


ひどいあだ名なのに、なぜか少しだけ、胸のあたりが軽くなった。



残弾 小銃弾912/拳銃弾238

爆薬 二個

戦闘糧食 残り十食

ドローンのバッテリー 51%



(第3話 了)

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