第2話 その「全員」に、俺は入っているか
監禁されて四か月。俺の一日は、だいたいコードと缶詰でできている。
異世界転生ものなら、そろそろ神様が出てきてチート能力をくれるころだ。現実の俺の前に出てくるのは、白衣の中年と、銃を持った警備員だけだった。
早瀬湊、二十七歳。ドローンとセンサーの制御ソフトを書くのが仕事で、趣味はミリタリーと異世界もの。どちらも画面の向こうにある限り、最高に楽しいジャンルだ。
画面のこっち側に来てしまうと、ぜんぜん楽しくない。今の俺が、その証拠だ。
あの日は、海外の学会の帰りだった。空港へ向かうはずのタクシーは、空港へ向かわなかった。
白衣の中年は、警備員たちから「ドクター・クロウ」と呼ばれていた。
彼は俺に、一つだけ仕事を与えた。
「制御プログラムを書け、ハヤセ」
何を制御するのかは、教えてくれなかった。
でも、教えてもらえなくても分かってしまうことはある。毎日送られてくるセンサーの数値。食う電力の桁。そして夜になると地下の奥から響いてくる、低いうなり。
あれは、何かに穴を開けようとしている。
どこに開けるのかまでは、分からない。分かりたくもなかった。
施設には、もう一人、妙な男がいた。
警備の連中が「司令」と呼ぶ、背の高い男だ。短い髪に、左の頬の古い傷。英語の端々に、軍隊の匂いがした。ゲームのキャラなら、間違いなく途中で裏切るか、最後に主人公と一騎打ちをするタイプの顔だ。
一度だけ、その男が俺の部屋に来たことがある。
彼は黙ってモニターを覗き込み、しばらくスクロールしてから、言った。
「お前のコードは、きれいだな」
「……どうも」
「きれいなコードを書く奴は、たいてい嘘が下手だ」
それだけ言って、出ていった。
俺はその夜、一睡もできなかった。
なぜなら、俺は嘘をついていたからだ。
三週間前、俺はプログラムの奥深くに、小さな鍵を仕込んだ。装置の出力が、ある値から上に上がらなくなる鍵。誰にも気づかれないように、何重にも包んで隠した。
それが、銃も腕力もない俺にできる、たった一つの抵抗だった。
その夜、午前二時を少し過ぎたころ。
遠くで、何かが爆ぜる音がした。
続いて、乾いた破裂音が、短く、規則正しく。映画の銃声よりずっと軽くて、ずっと現実的な音。
部屋の外が、急に騒がしくなる。走る足音。怒鳴り声。そして、ぴたりと止む。また音がして、また止む。
撃つ音より、撃ち終わった後の静けさの方が怖いということを、俺はその夜初めて知った。
扉の鍵が、外から開いた。
暗い廊下の非常灯を背にして、影が立っていた。
四つの目。
暗視装置のレンズが、かすかに光を跳ね返している。四眼の暗視ゴーグル。ゲームで嫌というほど見た装備だ。画面の中では、あれを着けているのはいつも自分の方だった。
向けられる側に立つと、ただの怪物にしか見えなかった。
「ハヤセ・ミナトだな」
影がしゃべった。低くて、落ち着いた声だった。
俺はうなずいた。うなずくことしかできなかった。
「アメリカ陸軍だ。迎えに来た」
アメリカ陸軍。この装備。この動き。この人数。人質の救出。
頭の中で、オタクの知識が勝手に答えを組み立てていく。
いや、まさか。でも、たぶん。
「……本物だ」
声に出ていた。
「何がだ」
「あ、いえ、なんでもないです」
言えるわけがない。「あなたたち、たぶんデルタフォースですよね、ゲームで見ました」なんて。
大きな男が、俺の前にしゃがみ込んだ。髭面で、腕はタトゥーだらけ。どう見ても助けに来た側の顔ではない。
なのに、俺の目を覗き込む手つきは、驚くほど優しかった。
「脱水、栄養不足。外傷はなし。歩けるか、ミナト」
「歩けます。たぶん」
「たぶんで十分だ。立とうな」
たぶん、の一言で済ませてくれる大人に、俺はここに来て初めて会った。
肩を借りて立ち上がったとき、モニターの一つが目に入った。
装置の出力の数値が、動いていた。
ありえない。俺の鍵がある限り、あの数値はあそこで止まるはずだ。なのに数値は、鍵の手前で何度も跳ね上がろうとしている。誰かが、無理やりこじ開けようとしている。
クロウだ。
「あ、あの、待ってください。奥の装置が、あれ、止めないと――」
「話は外で聞く」
眼鏡の隊員が、短く言った。
外で聞いてもらえる時間が、あればいいんだけど。
警報が鳴った。
そこから先のことを、俺はほとんど見ていない。
髭の衛生兵――サムと呼ばれていた――が、俺を壁に押しつけて、自分の大きな体で覆ったからだ。俺に見えたのは、彼の背中の装備と、その向こうで明滅する赤い光だけだった。
閃光。耳を突き抜ける破裂音。誰かの悲鳴。そして、あの軽い銃声が、何度も何度も。
その合間に、無線の声が聞こえた。隊長らしい人の、あの落ち着いた声。
「合流して、全員で出る」
全員で。
その全員に、俺は入っているのだろうか。
たぶん、入っていない。俺は隊員じゃない。救出対象だ。荷物だ。荷物を「全員」とは数えない。
それでいい、と思った。荷物は荷物らしく、黙って運ばれていればいい。
外から戻ってきた隊員が一人加わって、若い隊員と軽口を叩き合った。こんな状況で冗談を言える人間を、俺はアニメの中でしか見たことがなかった。
中央ホールの扉が開いた瞬間、俺は息を止めた。
金属の輪。その内側で揺れる、青白い光。
四か月間、俺はこれのためにコードを書いてきた。設計図も写真も一枚も見せてもらえなかったのに、なぜか一目で分かった。あれは、俺が動かしていたものだ。
そして、その前に立っていたのは、司令だった。
司令が隊長の名前を呼び、副隊長らしい男が震える声で「死んだはずだ」と言った。この二人は知り合いなのか。死んだはずの男が、この施設を守っていた、あの司令なのか。
頭が追いつかないうちに、制御盤の前のクロウが叫んだ。
「出力が上がらない! ハヤセ、お前、何をした!」
全身の血が冷たくなった。
ばれた。
クロウは制御盤のパネルを力任せに引き剥がし、中の配線に手を突っ込んだ。俺の鍵を、プログラムごと物理的に飛ばそうとしている。
そのとき、俺は気づいた。
気づいてしまった。
俺が仕込んだ鍵は、装置の安定装置と同じところに組み込んである。そうしないと、隠し通せなかったからだ。だから、鍵を無理やり外せば。
安定装置も、一緒に外れる。
「だめだ」
声が勝手に出た。
「その数値で起動したら、だめなんです! 止めて、早く止めて――!」
誰も止めなかった。止められなかった。
輪の光が膨れ上がる。高い音が耳を裂く。床が揺れる。
サムの手が、俺の腕を強くつかんだ。
光に飲まれる直前、俺の頭にあったのは、たった一つの言葉だった。
俺のせいだ。
俺が鍵を仕込まなければ。俺がこの装置のコードを書かなければ。
真っ白な光の向こうで、隊長が叫んでいた。
「全員、離れるな!」
草の匂いがした。
冷たい。背中が湿っている。どこかで、聞いたことのない鳥が鳴いている。耳の奥には、光に飲まれる直前のあの高い音が、まだ細く残っている。
目を開けると、髭面が俺を覗き込んでいた。
「生きてるな、ミナト」
サムだった。俺はうなずいて、ゆっくり体を起こした。
とたんに、胃がひっくり返った。横を向いて、草の上に少しだけ吐く。手足が、自分のものじゃないみたいに遠い。
「大丈夫だ。吐いた方が楽になる。ゆっくり息をしような」
サムの大きな手が、背中を上下にさすった。
森だった。
針葉樹とも広葉樹ともつかない、見たことのない形の木々。その隙間から、夜空が見える。
俺たちが倒れていたのは、木と木の間に小さく開けた場所だった。足元の草が、輪の形に、外へ向かってなぎ倒されている。真ん中から、何かが一度に吹き出したみたいに。
焦げた匂いが、かすかにした。基板がショートしたときの、鼻の奥に残るあの匂いだ。
装置も、金属の輪も、ホールの床も壁も、どこにもない。ここにあるのは、俺たちの体と、隊員たちが身につけてきた装備だけ。
どっちを向いても、壁がない。風が、好きな方から吹いてくる。部屋の中でしか暮らしていなかった体が、それだけで縮こまった。
周りでは、隊員たちがもう動いていた。副隊長が手で短く合図すると、草の輪の外へ散って、森に銃を向ける。
暗がりのどこかから、隊長の低い声がした。
「点呼」
隊長が名前を呼び、呼ばれた順に、短い返事が返ってくる。
「マーカス」
「いる」
「エヴァン」
「異常なし」
「アダム」
「生きてる。マジで」
「ノア」
「耳鳴り以外はな」
「サム」
「ここだ」
「ミナト」
自分の名前だと気づくのに、一拍かかった。
「は、はい! います!」
声が裏返った。
荷物の確認だ、と思った。運んできたものが、ちゃんと届いているかどうか。救出対象が生きているかどうかは作戦の結果そのものなんだから、確かめるのは当たり前だ。
名前と顔は、まだ半分もつながらない。暗くて、どの返事がどこから来たのかも、よく分からなかった。
「GPS、捕捉できる衛星はゼロだ」眼鏡の隊員――エヴァン――が、端末を何度も叩いている。
「本部、こちらリース。応答しろ。……応答しろ」
隊長の呼びかけに、無線は砂嵐すら返さなかった。完全な沈黙だった。
「なあ、どこだよここ。カナダじゃね?」と若い隊員。
「カナダに失礼だろ」と、ガムを噛んでいる隊員。
副隊長が低く言った。「ギデオンは」
「分からない」隊長が答えた。「あの白衣の男もだ」
あの白衣の男。
クロウが制御盤の配線に手を突っ込んだときの顔が、まだ目の奥に焼きついている。ああなると分かっていたのは、あのホールで俺だけ。
俺のせいだ。
光の中で思ったことは、目が覚めても、少しも薄まっていない。
言わなきゃいけない。この人たちは、俺のせいで、ここにいる。
口を開きかけて、閉じた。
言ったら、どうなる。俺は、ただの荷物じゃなくなる。この人たちをこんな所へ放り込んだ張本人だ。そんな奴を、わざわざ背負って歩く理由が、どこにある。
足の下で、地面が、一度だけ小さく揺れた気がした。
遠くで、重い戸が閉まったような、低い揺れ。誰も何も言わない。俺の体が震えているだけなのか、地面なのか、自分でも分からなかった。
気のせいだ、と思うことにした。
俺は、逃げるように空を見上げた。
月が、二つあった。
一つは見慣れた白い月。もう一つは、少し小さくて、ほのかに青い。
ああ、と思った。知っている。この展開を、俺は何百回も読んできた。
「これ、異世界転移だ」
六人が、一斉に俺を見た。
「は?」と若い隊員が言った。
言ってしまった。言わなきゃいけないことは、喉の奥に引っかかったままなのに。代わりに出てきたのが、それだった。
笑われると思った。頭を打ったのかと聞かれると思った。
隊長だけは、笑わなかった。
彼は俺の視線をたどって、二つの月をしばらく黙って見上げた。長い時間だった。
そして、こちらに向き直って、言った。
「全員、弾を数えろ」
この人は、二つの月より先に、それを数えるのか。
隊員たちが、黙々と弾倉を外し、数え、報告していく。若い隊員も、ガムの隊員も、もう冗談を言わなかった。
最後に、エヴァンが合計を読み上げた。
「小銃弾、九百十二。拳銃弾、二百三十八。爆薬、残り二。ドローンのバッテリー、六十パーセント」
隊長は、うなずいた。
「それが、俺たちの全部だ」
全部。
六人が持っている、全部。
俺は、自分の手のひらを見た。何も持っていない手だった。
弾は数えられた。
その中のどこにも、俺は数えられていなかった。
残弾 小銃弾912/拳銃弾238
爆薬 二個
戦闘糧食 残り十八食
ドローンのバッテリー 60%
(第2話 了)




