第1話 全員で帰る
午前二時を、少し回ったところだった。
山の稜線の向こうに、研究施設の灯りが小さく浮かんでいた。
地図の上では、ここには何もないことになっている。三年前に閉鎖された鉱山会社の倉庫。それが、半年前から夜通し電気を食いはじめた。
「最終確認だ」
ダニエル・リースは、岩陰にしゃがんだ五人を見回した。
「目標は施設の地下。救出対象は日本人の技術者、ハヤセ・ミナト。四か月前に学会の帰りに拉致された。生きている可能性は高い。連中はまだ彼を使っている」
「まだ使われてるってことか。ひどい話だな」
衛生兵のサミュエル・オルティスが、髭の奥で顔をしかめた。
「交戦規定はいつもどおり。武器を持った者だけを撃て。白衣は撃つな」
ダニエルは一人ずつ顔を見た。最後に、少しだけ声を落とす。
「全員で帰る。いつもどおりだ」
「出た、隊長のそれ。それ聞かなきゃ始まんないじゃん」
最年少のアダム・ウォーカーが、爆薬の入ったポーチを叩いて笑った。
「始まらなくても誰も困らないだろ。俺は帰って寝たい」
狙撃手のノア・ブルックスが、ガムを噛みながら言う。
「黙れ二人とも」
副隊長のマーカス・ショウが、それだけで場を締めた。
ダニエルは、胸の内ポケットにある絵の感触を、装備の上から一度だけ確かめた。八歳の娘が描いた、へたくそな父親の絵。それから、何も考えないことにした。
「行くぞ」
ノアが一人、稜線を回り込んで闇に消えた。
残る五人が斜面を下りはじめると、通信担当のエヴァン・コールが手のひらほどの小型ドローンを放った。蜂の羽音のような小さな音が、夜空に吸い込まれていく。
「熱源、外周に四。屋上に二。正面ゲートの詰所に一」
エヴァンが眼鏡の奥で端末を睨む。
「地下は映らない。電波が通らない造りだ」
「じゃあ地下は行ってみてのお楽しみじゃん」アダムが言った。
「楽しくはない」エヴァンが即座に返す。
無線に、ノアの声が入った。
「位置についた。屋上の二人、見えてる」
「やれ」
ダニエルの短い一言のあと、空気を押し出すような乾いた音が二度、遠くで鳴った。屋上の熱源が二つ、端末の上から消える。
「屋上クリア。あいつら、タバコ吸ってたぞ。夜勤でも健康には気をつけないとな」
「お前が言うな」マーカスが低く言った。
戦う前に、すべてを知っておく。見張りの位置、交代の時間、逃げ道、増援が来るまでの時間。撃ち合いが始まったときには、もう勝負の半分は終わっている。ダニエルたちの仕事は、ほとんどがその「半分」のためにある。
外周の四人は、巡回の死角を縫って一人ずつ静かに眠らせた。誰も声を上げなかった。
裏手の搬入口。鉄の扉の前で、アダムが手早く爆薬を貼りつける。
「ノックの時間だ」
「普通のノックって知らないのかよ」ノアが無線越しに言った。
「なあ、中の人が寝てたら悪いじゃん? だから元気よく起こしてあげんの」
アダムが指を三本立てた。二本、一本。
轟音と同時に、扉が内側へ吹き飛んだ。
煙が晴れる前に、五人はもう中にいた。
緑色の世界。暗視ゴーグルの視界の中で、廊下が細長く伸びていく。マーカスが先頭で角を取り、ダニエルがその背中に重なるように続く。
「左、クリア」
「右、クリア」
「前進」
声は短く、動きに迷いがない。何千回と繰り返してきた手順は、もう考える前に体が動く。扉を開け、角を確かめ、部屋を確かめ、次へ。
二つ目の部屋で、銃を構えた男が振り向きかけた。振り向き終わる前に、マーカスの銃口が二度、短く光った。
三つ目の部屋は、実験室だった。
並んだ機材の陰で、何かが動いた。
ダニエルの指が引き金にかかる。暗視の緑の中で、人影が机の下から這い出そうとしている。手元に何かを持っている。
撃つか。
〇・五秒。
ダニエルは撃たなかった。
人影が持っていたのは、銃ではなくクリップボードだった。白衣を着た中年の女が、両手を上げて震えていた。
「伏せていろ。動くな」
女は何度もうなずいて、床に額をつけた。
部屋を出たところで、アダムが小さく息を吐いた。
「今の、マジで危なかったな」
「危ないのは、撃つ方だ」
ダニエルはそれだけ言って、前を向いた。撃つのは一瞬で済む。撃たなかったことを後悔するのも一瞬だ。だが、撃つべきでない相手を撃った後悔は、一生残る。
地下へ続く階段の先に、鍵のかかった扉があった。
エヴァンが端子をつなぎ、あっという間に開ける。
中は、狭い部屋だった。壁一面にモニター。床に散らばった空の缶詰。そして、机にしがみつくように座っている、痩せた東洋人の男。
男は、暗闇から現れた五人を見上げて、目を見開いた。
「ハヤセ・ミナトだな」
ダニエルが言うと、男は口を開けたまま、ゆっくりうなずいた。
「アメリカ陸軍だ。迎えに来た」
男はしばらく固まっていた。そして、かすれた声で、なぜか小さくつぶやいた。
「……本物だ」
「何がだ」
「あ、いえ、なんでもないです」
サムが男の前にしゃがみ、手早く目と脈と腕を見ていく。
「脱水、栄養不足。外傷はなし。歩けるか、ミナト」
「歩けます。たぶん」
「たぶんで十分だ。立とうな」
サムが肩を貸して男を立たせた、そのときだった。
男が、モニターの一つを指さした。
「あ、あの、待ってください。奥の装置が、あれ、止めないと――」
「話は外で聞く」エヴァンが言った。
その瞬間、施設中に警報が鳴り響いた。
赤い警告灯が回りはじめる。廊下の先から、怒鳴り声と足音が近づいてくる。
「隊長、外に車両二台。増援だ、十二人以上」
ノアの声に、緊張が混じった。
「ノア、下りてこい。搬入口を押さえろ。合流して全員で出る」
「了解。全員で、な」
廊下の角から、銃を持った男たちがなだれ込んできた。
「伏せろ!」
マーカスが叫ぶのと同時に、アダムが閃光弾を投げた。白い光と破裂音が廊下を満たし、男たちの悲鳴が上がる。その隙に、ダニエルとマーカスが左右に分かれて撃ち込む。サムはミナトを壁際に押しつけ、自分の大きな体で覆った。
「後退する。エヴァン、退路は」
「搬入口側は増援が回り込んできてる。もう一本ある。中央ホールを抜ければ、北の非常口に出られる」
「中央ホールには何がある」
エヴァンが一瞬だけ言葉に詰まった。
「……不明だ。そこだけ、熱源の反応が異常だった」
ダニエルは迷わなかった。
「中央ホールを抜ける。マーカス、先頭。アダム、最後尾。サム、ミナトから離れるな」
撃ち、下がり、撃ち、また下がる。誰かが弾倉を替えるとき、別の誰かが必ず撃っている。六人目のノアが搬入口の方から合流し、背後の敵を黙らせた。
「待たせたな」
「待ってねえよ」とアダム。
「泣いて喜べよ」とノア。
軽口を叩きながら、二人の銃口は一度も同じ方向を向かない。互いの死角を、言葉より先に体が知っている。
中央ホールの扉を蹴り開けた瞬間、全員の足が止まった。
天井の高い、がらんとした空間。その真ん中に、巨大な金属の輪が立っていた。人の背丈の三倍はある。輪の内側で、青白い光が、水面のように揺れている。
輪の脇の制御盤に、白衣の男がしがみついていた。痩せた顔に、熱に浮かされたような目。
そして、その前に。
銃を構えた男たちが、横一列に並んでいた。
真ん中に立つ男だけが、銃を下げていた。
背の高い男だった。短く刈った髪。顔の左側に古い傷。その立ち方を、ダニエルは知っていた。重心の置き方。銃の持ち方。十年前、同じ部屋で、同じ扉を、何十回も一緒に越えてきた男の立ち方だった。
「久しぶりだな、ダニエル」
男が言った。
「マーカスもいるのか。相変わらず、怖い顔だ」
隣で、マーカスが息を呑む音が聞こえた。この男が息を呑むのを、ダニエルは初めて聞いた。
「……ギデオン」
マーカスの声が、かすれていた。
「お前は、死んだはずだ」
「ああ」
ギデオン・クロスは、薄く笑った。
「お前らの国に、殺されたよ」
銃口が、互いに向き合ったまま止まった。誰も撃たない。誰も動かない。ホールに響くのは、輪の中の光がうなる低い音だけだった。
「隊長」
ノアが、ほとんど唇を動かさずに言う。
「指示を」
ダニエルは答えられなかった。
撃つべき相手だ。頭では分かっている。だが、引き金にかけた指が、十年前の記憶に引っかかって動かない。
そのとき、制御盤の白衣の男が叫んだ。
「出力が上がらない! ハヤセ、お前、何をした!」
サムの背後で、ミナトがびくりと肩を震わせた。
輪の光が、急に明るさを増した。うなりが、悲鳴のような高音に変わっていく。床が震え、天井から埃が降ってくる。
「だめだ」
ミナトが叫んだ。
「その数値で起動したら、だめなんです! 止めて、早く止めて――!」
光が、輪からあふれ出した。
白い。何もかもが白い。
ダニエルは、とっさに叫んでいた。
「全員、離れるな!」
誰かの手が、誰かの装備をつかむ。アダムがノアの肩を、サムがミナトの腕を、マーカスがダニエルの背中を。
光の向こうで、ギデオンがこちらを見ていた。笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
胸の内ポケットで、娘の絵がかさりと鳴った気がした。
全員で帰る。
その約束を、ダニエルは心の中でもう一度だけ繰り返した。
そして、世界から音が消えた。
(第1話 了)




