第六幕のすぐ後ろ いいもの
翌日の朝。
わたしは菖蒲の作業場を訪ねた。
昨日までの大騒ぎが嘘みたいに、村にはいつもの雨音が戻っている。
屋根を叩く雨。
軒先から落ちる水。
濡れた道。
雨季はまだ終わっていない。
戸口まで行って、中へ声をかける。
「おはようさん、起きてるかい」
「あ、おはようございます、女将さん」
奥から菖蒲が顔を出した。
……あら。
「あら、寝てないね」
「まあ、時々は寝てます」
時々ってなんだい。
目の下にはうっすら疲れが残っている。
髪も少し乱れている。
まったく。
「せっかくのかわいい顔が台無しだよ。ほら、見といてあげるから顔洗って直してきな」
「はい、お願いします」
素直に奥へ引っ込んでいった。
やれやれ。
作業場の奥を見る。
昨日、隣村から連れて帰ってきた男の子。
あの若い子が横になっている。
まだ眠っているようだ。
しばらくすると、菖蒲が戻ってきた。
髪を整えて。
顔も洗って。
さっきより随分まともになっている。
「どうでしょう?」
「うん、これなら起きた時に惚れ直すだろ」
「?! ち、違います! 彼の様子です!」
「彼ね」
「もう! 女将さん!」
ふふ。
やっといつもの顔になった。
「うん、少しは元気になったかね。菖蒲はそうでないと」
「もう……」
その時。
「んん……」
小さな声。
「?!」
菖蒲が振り返る。
「女将さん!」
「起きたかね。おばあちゃん呼んどいで」
「はい!」
そう言ったくせに。
菖蒲はすぐには動かなかった。
心配そうに男の子を覗き込んでいる。
やがて。
ふっと目が開く。
ゆっくりとまぶたが持ち上がる。
ぼんやりと天井を見て。
「……ここは?」
「わたしの家」
菖蒲が答える。
「?! え! なんで?! おれ、死んだ?!」
ぽかん。
菖蒲の手が男の子の頭を叩いた。
「死ぬわけないでしょ! わたしが看病したのに!」
「え? え? なんで?」
まだ頭が追いついてないらしい。
「あんた、水路の作業中に倒れたんだよ」
わたしが教えてやる。
男の子がゆっくり反対側へ首を回した。
「あ、ども……宿屋の女将さん?」
「あら、覚えてたんだ」
「おれ、倒れたの?」
「そうだよ。最後まで水の中で防壁を支えてね」
「あ、村!」
勢いよく身体を起こそうとして、
「あ痛ててて!」
「まだ、起きないで!」
菖蒲が慌てて押さえる。
「村は大丈夫だから、ゆっくり寝てな」
「でも……」
「うちの村から応援に行ってね。直して、あんたを連れて帰って来たのさ」
「村、無事?」
わたしは大きくうなずいた。
「無事だよ」
「よかったー……」
力が抜けたように、また身体を横にする。
自分のことより村かい。
「だから、あんたは大人しくわたしに看護されときなさい」
菖蒲が言う。
「ここは?」
「だから、わたしの家だって」
「あ、菖蒲」
「はい?」
「この子、うちの二階に連れてくから」
「え? うちじゃなく?」
「起きたらね、ちゃんと寝るところにね」
「あ、ここ作業場……」
「あんたの部屋に置くわけにはいかないからね」
「あ、はい」
男の子が目をぱちぱちさせる。
「え? 俺、もう退院ですか?」
「後は体力戻るまで休むことだね」
「はあ」
さて。
「籐吾! 籐吾や!」
外へ向かって声を張る。
少しして。
「んー?」
のそのそと籐吾が顔を出した。
男の子が目を見開く。
「わ、でか!」
そりゃそうだ。
「この子、宿屋に連れて行くから用意しておくれ」
「はいよ」
それから、ちょうどやって来たばあちゃんにも診てもらう。
「ばあちゃん、この子どうだい?」
「どれ。ほら、手を出して。上がるかい? ほら、立って」
男の子が手を借りて身体を起こす。
ゆっくり立ち上がる。
ふらっ。
「大丈夫?」
さっと菖蒲が身体を支えた。
「まあ、なんとか」
「無理しちゃだめだよ?」
「大丈夫!」
「ちぇっ」
「ん?」
「なんでもない!」
ばあちゃんが様子を見ながら、うなずく。
「大丈夫そうだね。なら後はしっかり食べて体力を戻すことだね。しばらくは大人しくしときなさい」
「はい」
「じゃ、大丈夫そうだね!」
わたしもひと安心。
「菖蒲もぶうたれない。かわいい顔が台無しだよ」
「ぶうたれてません!」
はいはい。
こうして男の子――蓮は、宿屋へと連れ去られた。
食堂へ戻り。
蓮を二階の部屋へ入れて。
しばらくして。
「女将さん」
「あら、菖蒲。速いねー、もう来たのかい?」
「いえ、あの……」
「あいつは二階の一番手前の部屋だよ」
「そんなんじゃ……」
「ないのかい?」
「いえ、そんなんです」
素直だね。
「行っといで。あ、ついでに水、持って行ってあげて」
「あ、はい」
コップに水を用意してやる。
「理由欲しいだろ?」
「あ……ありがとうございます」
水を持って、いそいそと階段を上がっていく。
その後ろ姿を見送る。
――あの菖蒲がねえ。
しかし。
――でも、なんであの格好してるんだ?
まあ、いいか。
その日のお昼。
「こんちわー!」
聞き慣れた声と一緒に、御形が店へ入ってきた。
「ありゃ、御形じゃないか。どうした?」
「菖蒲来てるか?」
「ああ、上にいるよ」
「あいつ、狩りに連れてけって」
「この雨の中に?」
「防護林で鳥獲りたいらしい」
「へえ、鳥ね」
「まあ、今なら行けるけどなって」
「ふーん、なんでだろうね?」
御形がちらっと二階を見る。
「そりゃ、あの男だろ。美味いもん食わせるつもりじゃね」
「だろうねー」
やっぱりそうかい。
「あんた、手伝うのかい?」
「そりゃ、妹の頼みだからね」
「そうかい」
二階へ向かって御形が声を張る。
「菖蒲! 行くぞ!」
少しして。
「はい!」
菖蒲が二階から降りてきた。
「あ、ありがとうございます、御形姉さん」
「用意は?」
「大丈夫ですよ」
御形が菖蒲を上から下まで見る。
「ふーん。で、その格好なんだ」
「え? なにが?」
「なんでもないよ」
なるほどね。
朝からそのつもりだったのかい。
二人はそのまま店を出ていく。
雨の中。
傘も差さず。
狩りの格好をした二人が、並んで歩いていく。
「やれやれ、あの菖蒲がねえ」
思わず口から出た。
「あの?」
「ん?」
二階の階段から声がする。
蓮だ。
「お昼なんかは?」
「ちょいと待っときな。もう少ししたらいいもんが届くはずだから」
「はあ? いい物?」
「ああ、とんでもなくいい物だね。ほら、降りてきな」
「あ、はい」
ゆっくり階段を降りてくる。
まだ少し足元がおぼつかない。
カウンターの席に座らせる。
さて。
「で、あんた何が出来る?」
「何って? 仕事ですか?」
「そうだね。働かないとね。いい体してるし」
蓮が自分の身体を見る。
「まあ、力仕事は大丈夫です」
「なんか、覚えたこととか。どこかに弟子入りとかは?」
「あ、まだです」
「そうかい。じゃあ、まったくなんもなしだねー」
「まあ、はい。そこはまだまだですね」
「なんか得意なことは?」
「んーー」
しばらく考えて。
「あ、こう見えて手先は器用です」
「へえ、そうなんだ」
「裁縫なんかも自分でしますし」
「見かけによらないねー」
「でも、なんですか? なんかの面談みたいですけど」
「ん? なに、ちょっとしたお節介なだけさ。気にしない」
「はあ、そうですか?」
――ふん。
真面目ないい子だね。
自分が倒れたってのに、起きて最初に村の心配。
力仕事も出来る。
手先も器用。
受け答えも悪くない。
後は。
――どうするかだねえ。
「お腹空きました」
「待ってな。きっといいことあるから」
「はあ」
しばらくして。
外から足音。
「ただいまー!」
「あいよ、おかえりー」
戸が開く。
御形と菖蒲。
「まあ、濡れたねー。ほら、拭きな」
大きな布を二枚渡す。
二人ともびしょ濡れだ。
御形が蓮を見る。
「あれ、蓮起きてるんだ」
「はい、なんとか」
菖蒲がこちらへやって来る。
その手には。
「はい、これ」
「え? これ……」
鳥。
「お昼ご飯」
蓮が自分を指差す。
「俺に?」
「あんたしかいないじゃん」
鳥を見る。
菖蒲を見る。
また鳥を見る。
また菖蒲を見る。
「女将さん! 料理お願いします!」
「はいよ。みんな一緒に食べて行くよね」
「はい。でも一度帰って着替えて来ます」
「はいよ。それまでに作っとくよ」
「お願いしまーす」
御形と菖蒲は、また店を出ていった。
雨の中へ消えていく二人を見送る。
それから。
カウンターに座っている蓮を見る。
「ほら、いいことあっただろ?」
「まあ、確かに」
鳥を見て。
扉を見て。
また鳥を見る。
「でも、なんで?」
「……お前もそっちのやつか!」
思わず額を押さえる。
「え?」
わたしを見て。
何がなんだか分からないという顔で、ぽかんとしている蓮がいた。
まったく。
――やれやれ。
あの菖蒲がねえ。




