第8話:眠れた夜
先に起きてしまったイージスは、自分の身支度を終わらせ、猟師小屋の外に出た。
朝の冷たい空気と、雨上りの土の匂いが鼻を通り、くすぐったい。草の上では、陽光が雨の残りを煌めかせている。雲一つない空は、もう雨を落とさない。
2頭の馬たちの世話も済ませておいたし、いつでも出立できてしまう。小屋の扉を開ける気にもなれず、ただ馬たちを撫で続けていた。
キーッという音に振り返ると、漆黒の髪が朝陽に輝いている。
「早かったな」
「まあな……」
身なりを整え小屋から出てきたファルカスは、自分の馬を撫でると、ベルの方を向き目を細めた。
「……いい馬だ」
ファルカスは、ベルの腰回りを撫でてやっている自分の隣に立つと、ベルが見つめている間は動かない。一つ頷くと、関節だけが太い、形の良い指をベルの首まで伸ばす。掌をふわりとベルの首筋に着地させると、隣からふわりと匂い立つ気がする。
ベルの首筋を往復するファルカスの手に触れないよう、体をずらす。半歩だけ。
明るい陽の下で改めて隣に立つ男を見てみる。漆黒の髪だけでなく、今は、目尻の先までもくっきり見える。眩しさで眉間に皺を寄せているのに……。
——こいつって、やっぱり美形なんだな。頭からつま先まで黒一色で揃えているからか、男ぶりも上がっている気がする。これは、女がほっとかないだろう。
「そうだろう……」
隣で応えながら、ベルの腰回りを撫でる手が止まらない。今朝は、いつもより多めにベルを撫でることになってしまった。
こっちと馬たちを見比べたファルカスは、口の両端を持ち上げた。
「準備をさせてしまって、すまなかった。悪いが、すぐに出れそうか?」
「ああ」
答えてから、気が付いた。
「早く戻って、あの子の父親を帰してやりたいよな」
すぐに付け足し、ベルに跨る。
「ああ」
漆黒の髪が軽く上下するのを目にとめた。
なるほど。こいつの事が分かってきた気がする。こちらを軽く見上げて、強く頷き返してくるファルカスの顔に目を向ける。朝陽のせいだろう。まぶしくてうまく見ることができない。
「よし、戻るか」
ベルの首筋を軽く叩き、都市の方角を見上げると、青い空が広がっていた。
二人で馬を並べて帰路を急ぐ途中、砂塵を巻き上げながらやってくる軍用馬車が見えた。馬車に翻るのは、金糸で縁どられただけの真っ黒な旗——黒の団だ。
ファルカスが前に出ると、向こうもこちらを見とめたのか、軍用馬車の速度が落ちてくる。
ギギーッと車輪が止まり始め、馬車がゴトンと音を立てた。
黒い騎士服姿の馭者とファルカスが話すのを見ていたはずだった。
胸の辺りに締め付けを感じ、シャツの首元を緩める。視界に入ってくる黒い団旗が、目から離れない。
「運び屋」
呼ばれて視線を下げると、見覚えのある栗毛が、幌の中から手を振ってきた。ベルを数歩進ませる。
娘の誕生日に間に合ったことを伝えると、依頼人は、大きく目を見開いて手を叩いた。後ろに置かれた袋からたくさんの菓子が飛び出ているのが見える。黒の団から謝罪があり、娘への土産をたくさん持たされたらしい。眉尻を大きく下げている。
「今回は、いろいろとありがとうございました」
ゆっくりと下がった栗毛が持ち上がると、頬には赤みもさしていた。
「こちらこそ。我が商会をご利用いただき、ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております」
もったいぶって頭を下げると、笑い声が聞こえて、肩の力が抜ける。今度は、約束を守れたんだ。
ファルカスが馭者に指示を出すと、ガラガラッと車輪が回り出し、馬車がその場を離れ出した。空気に砂ぼこりが混じるが、嫌な感じはしない。
次第に黒い団旗が、風をはらんでバタバタと鳴り始めた。
青い空の下、翻る団旗は、そのまま自分たちの誇りを表す――黒い狼と銀の盾が刺繍された団旗。左手がギュッと、胸のあたりを掴む。
隣では、ファルカスがまだ馬車を見送っていた。頭を軽く振る。
「先行くわ」
先に馬首を巡らせると、後ろからも砂埃が舞い始めた。
急いで帰る必要は無くなった。馬車と別れた後は、どちらともなく速度を落とす。
朝の澄んだ空気が鼻を通り抜けるからだろうか。自分の中の淀んだ何かが、入れ替わっていくようだ。
体が熱を持つ気もするが、風が熱を奪っていく気もする。
こんなに気持ちが良いんだ。誰だって、もっと馬に乗っていたいだろ。
「ベルも楽しいよな?」
ベルの耳も後ろに傾いている。
隣をちらりと見るが、自分より先に行く気配は無い。こいつも同じか。
都市の門が視界に入る。もう少しだけ乗っていたい。
速度を落としてみると、やはり、隣で綱を引くのが見えた。
昨日騒ぎを起こしてしまった検問所に着くと、ファルカスが馬を下りた。
「……俺は、このまま任務がある」
「そうか。またな……」
ベルを走らせようとして、背を向けた。
「運び屋」
背中に声がぶつけられる。
振り返ると、太陽に煌めく漆黒の髪があった。
「……今度、一緒に飲まないか?」
誘ってきたファルカスは、少し厚めの下唇に手の甲をあてている。
「ああ! あっ……」
自分でも驚くほど大きい声で返事をしてしまった。ファルカスの顔が、陽の光のせいで輝いていた。
「ベル、母さんが待っている。急ごう」
必要もないのにベルを勢いよく走らせる。
——約束した。「いつ」も「どこで」も決まっていないけど……。
ベルを馬小屋に戻し、商会の扉を開くと、腰に両手を当てたダリアが待ち構えていた。思わず宙を仰ぐ。ベルの足音が聞こえたあたりから、この格好だったに違いない。
「アンタ一人の体じゃないんだからね!」
大声で非難し、こっちの両頬を同時に引っ張ってくる。
「ダリア、ほおが伸びる……やめてくれ」
「黒の団の人が追いかけたって聞いたんですけど、心配したんですよ」
置いていった後輩エドも追い打ちをかけてくる。二人とも口調は怒っているが、眉を大きく下げて泣きそうな顔をしていた。
「だから、一人じゃなかったって……」
2人の厳しい視線から逃れ、壁を向いてぶつぶつ呟く。
どうにも分が悪く、助けを求めギルベルトの方にちらりと目をやった。
ギルベルトは、ダリア達の様子に目を細めていたが、口の端をゆっくりと持ち上げた。そのまま、両手を開いて肩をすくめた後、大げさに、はあっと息を吐く。
「依頼はリオンの指示でしたから。ご自分に腹を立てていらっしゃって、大変でしたよ」
「ギル! アンタは一言多いのよ」
ダリアが、今度はギルベルトの両頬を引っ張る。ギルベルトは、首の後ろに手を当てると、為されるがままになっていた。
ソファに体を沈め、2人を見ていると、目が勝手に細くなり、口元が緩む。ダリアには、自分が「誕生日に弱い」と見透かされている。幾つになっても、自分はダリアにとって、エドと同じようなものかもしれない。
エドが、2人のやり取りを横目に見ながら近づいてきた。
「何でギルベルトさんだけ、『リオン』って呼ぶんですか?」
口に手を添えている。2人に聞こえないようにしているつもりらしい。
「あいつら、昔なじみだろ。『リオン』は、ダリアの男性名だよ」
ああ、そうだ。あれを教えておいてやらないとな。
耳元をこちらへ寄こすよう、手招きしてやり声を潜める。
「冗談でも、『リオン』って呼ぶなよ。昔、ギルベルトにものすごく怒られた。『人の嫌がることをしてはいけません!』って」
「……呼びませんよ。ギルベルトさんって怒らない人でしょう」
「ダリアの事では絶対怒るぞ」
「そりゃそうですよ。恋人なんですから……」
エドは両肩を下げ、項垂れると、はあっと長めの息を吐いてくる。
2階にある居室へ戻る機会を失して、何となくソファに座ったまま、右手を顎に添え、宙を見ていた。
「昨夜、他人と一緒では眠れていないのではないですか?」
眉間にしわを寄せたギルベルトが、声をかけてきた。
「アンタは、今日休みにしてあるから。休みなさいよ」
ダリアもギルベルトに続けてくる。
組んでいた脚を床に下ろし、同時に両手を膝に置いた。トントンという弾むような音がする。
「——眠れた」
二人を見ずに一言だけ応えた。
「ええ!」
大きな声が揃う。口を押えるダリアと、目を見開くギルベルト。――それもそうだ。2人の前でも眠らないのだから。




