第36話:新生
自分の隣に、漆黒の髪が見える光景は、当たり前になってきた。
頬を撫でる西風に、冷たさが混じり始め、黄色や赤に色づいた木々たちが揺れる。もうすぐ秋が終わる。そうしてまた、冬を迎える。あの日と同じ冬を。
休日の午後、イージスが「出かけよう」と商会の扉を開くところだった。
「いってらっしゃーい」
振り返ると、カウンターに片肘を付いたダリアが、反対の手をひらひらと振っている。
口を開きかけると、トントントンという音が聞こえ、ギルベルトが階段を下りてきた。
「イージス。この書類にサインをしてからにして下さい。『イージス』で良いので」
ギルベルトからペンと書類を受け取り、書類をテーブルに置く。ペンの頭で軽く額を叩くと、立ったままサインした。少しだけゆっくりと。
「ほら、これ……」
書き上げると、カウンターに座るダリアの手の中に押し込む。
「何?」
訝し気に少し金髪を揺らすと、書類に目を落とそうとしていた。
ダリアの問いには答えず、少しだけ、ゆっくりと扉へ向かう。
「何なのよ、もう……」
後ろから聞こえた不満げな声が、途中からすっと消えた。振り向くと、左手に書類を握りながら、右手で口を覆っているダリア。
「……やっと……」
一言だけ呟くと、顔だけをギルベルトに向ける。少し肩を丸めた体が、いつもより小さい。
「どうかしましたか? これは……」
書類をのぞき込んだギルベルトは、すぐに顔を上げ、こっちを見てきた。じっと見てくる目が、いつもより大きい。
二人に向かって片頬を少し緩める。できるだけいつも通りに。
「ダリア。俺、ダリアがくれた名前もちゃんと気に入っているよ」
書類には、イージス=アルギュロスのサインをしておいた。じゃあな、と今度は自分が手を振る番だ。
「アンタ、今夜の事、忘れてないわよね!」
強い口調とは逆に、指で目元を拭っている。豪奢な金髪は、ギルベルトに口づけられていた。
「ああ、コクロウを連れてくるよ」
キーっという音とともに扉を開くと、秋の澄んだ空気が、肺に入り込んでくる。陽の明るさに目を眇める。ほんの少しだけ。
歩き出すと、窓ガラスに映る自分の姿が目に入ってきた——茶色の髪が。
足元を見ずになるべく足を早める。
馬小屋ではエドとレナが馬たちの世話をしていた。
「ベルを連れていく」
二人に声をかけると、両腕に飼い葉を抱えたレナが隣にやってくる。エドに気づかれないように声をひそめてきた。
「今夜は、ごちそうですって」
「ああ」
「イージスさーん。僕、明日から一人で都市の外に出ても良いって」
少し離れたところからエドが、ブンブンと腕を振ってきた。
「もう、今夜の事は、本人にばれているみたいだけどな」
レナに囁くと、俯きながら肩をすくめる。
「そうみたいです」
馬たちに飼い葉を運ぶエドが目に入った。少し呼吸を整える。なるべくなんでもないように。でも、ちゃんと聞こえるように。
「エド。明日から剣の稽古をするぞ」
「イージスさんと?」
こっちを見たエドに向けて頷いてやると、肩を弾ませながら、駆け寄ってきた。
「17だからな」と、エドの頭をこつんと小突くと、目を見開く。
「やったー!」
「そんなにかあ?」
飛び上がって駆け回る様子に、頭の後ろを搔いてしまった。
今度は、エドが隣にやってくる。レナに気づかれないように声をひそめてきた。
「レナは、ダリア商会で働くって。良かったですよね」
「お前だろ?」
もう一度、エドの頭をこつんと小突くと、エヘヘと眉を下げた。
「後でな」
にぎやかな二人を後にして、ベルに跨った。途中で待ち合わせたファルカスと、都市の外れにある丘へ向かう。
頂上の手前で、少し道を逸れる。ザッツ、ザッツ、ザッツと、馬で落ち葉を踏みしめながら奥に進むと、少し開けた場所に出た。
「向こうの方までよく見えるな」
隣から、驚いたような声が上がった。
「穴場なんだ。まあ、ダリア達にはバレているんだけどな」
馬を降りて、丘の際に立つと、眼下には都市が広がっている。
隣を見ると、切れ長の目を細くして、空を見上げていた。
「東の大陸では俺の加護も弱まるから、あいつらの姿までは見えないかもしれないが……」
空に向かって呼びかける。
「火竜、水竜、緑竜、風竜、地竜。僕のメランリュクスを紹介するよ」
握りこんだ拳が少しだけ震える。今なら、多分……。
こっちを向いたファルカスの眼が開いていく。
「髪が……それに、いつもより光っている……赤、青、緑、金、鋼色……」
唇を震わせながらこっちへ腕を伸ばしてくると、形の良い指で周りの光を撫でている。
「やっぱり。ちゃんと見えるんだな」
口元が緩んで、息が漏れた。
「五色の光の中で、銀髪が……本当に綺麗だな」
ほおっと息を吐くファルカスに、聞きたくなった。
「銀髪の方が良いか?」
ファルカスが、形の良い指を自分の髪に差し込んできた。ふっと息を吐かれる。そのまま、こちらに向けた切れ長の目を細め、口角を上げた。
「馬鹿だな……関係ないだろ。お前は、お前だろ」
加護の光が何だか眩しくて、ファルカスをまっすぐ見ることができない。
最初はそっと光に触れていたファルカスも、慣れてくると指を回したり、腕を回したりで忙しい。お互いに気に入ったらしい。
鋼色の光が、キラキラと瞬いた。
「ああ、うん……『竜の眼』……そうなんだ?」
自分の頬にそっと手を当てると、少し熱い。傾いた太陽が顔を照らしてくる。
「何だ?」
ファルカスが怪訝そうな顔をして訊いてきた。
「竜の眼……コクロウが持っているのは『竜の眼』だって、地竜が」
「竜の眼?」
「竜の加護が視えるんだって!」
思わず大きな声が出て、ファルカスの腕を掴んでしまった。
「そうか。俺にも竜たちが視えると良いな」
「そうなると、良いよな。竜たちもコクロウの事が気に入っているんだ」
鋼色の光が大きく瞬き、ファルカスが目を凝らしている。
「地竜がな。自分だけコクロウの役に立てなかったって言って。だから、『竜の眼』のことは絶対に自分が教えるって」
「そうか、竜の眼……」
ファルカスは、腕を組みながら頭を下げると、フッと息を吐いた。
「折角教えてくれたのに、お前の役にしか立たないな。実に、残念だ」
隣で、うんうんと頷きながら、下を向いて口の端を緩めてくる。
「何だよ、それ」
抗議を込めて軽く肩を押してやった。
「止めろよ」
ファルカスもこっちを押し返してくるので、二人で声を出して笑う。
笑った後、顔を上げたファルカスの口の緩みが止まっていた。こっちをじっと見てくる。
二人の間を、さあっと風が駆け抜け、落ち葉が舞い上がった。
「——仕方ない。お前がどこで迷っていても、どこに隠れていても、俺が必ず見つけてやる」
告げられた言葉に、息を吸ったきり、唇が震える。だけど、体の奥からは、熱い何かがあふれ出しそうで……。
夕陽に照らされて輝く漆黒の髪が、うまく見えない。
ぷはっとファルカスが噴出した。
「それにしても、お前。『僕』って似合わないな」
「しかたないだろう、竜たちは『僕』っていう俺しか知らないんだから。心外だ」
わざと口を膨らませると、ファルカスが、上がり気味の眉を一段と上げた。じっと動かずに。少し厚めの下唇だけが開いていく。
「お前、メランリュクスの名前は、良いのか?」
夕陽の中で佇む漆黒の髪に、輝く五色の光が降り注いでいた。
正面に向き直すと、自分の眼には、沈んでいく夕陽。
「……お前だけが覚えておいてくれれば良いよ」
スーッと吹いた風が、黄色い秋の花の匂いを届け、青と水色の光が、静かな雨のように降り注いでいる。
「——俺だけのメランリュクス……だな」
呟かれた言葉に、ハッとして隣を見ると、自分と同じ夕陽を見ていた。
頬をなぞる髪が、ほんの少し短い。
隣に手を伸ばし、頭の後ろに手を滑らせる。
漆黒の髪がこちらを向き、そのまま、好きに撫でられてくれている。
髪を撫でる手の上にファルカスが手を重ねてくる。その手を取ってやり、指を絡めた。
二人並んで歩き出す。
「綺麗だな」と言うファルカスが夕陽を見ている。
「ああ、綺麗だ」と言う自分も同じ夕陽をみている。
夕陽の輝きは、己の命を燃やしているからではなく、明日を迎えるためにある。
夕陽の美しさはずっと変わらないのに、ただ一つ変わってしまっていたのは……。
冷たさを伴う風が、爽やかに頬を撫でる。また冬がやってくる……あの日と同じ冬が。
夕陽に照らされて黄金色に輝く枯草。沈んでいく美しい夕陽。
あの向こうにメランリュクスがあった。
「護るべきものなんか、どこにもない」
あの時は、そう思っていた——でも違ったんだ。
大丈夫だよ、オルニス兄さん。
見つけたんだ、俺のメランリュクスを。コクロウは見つけてくれたんだ、俺を。
あの日見た夕陽とは、もう違う。
俺の護るべきものは、もう、ここにある——。
―― 完 ――
◆――あとがき――◆
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
イージスとファルカスの二人の旅路に、最後までお付き合いいただけたことを、とても嬉しく思います。
初めての長編小説で、初めてのウェブ投稿だったので、最終話のPVを確認できた時は、「読んでくれた人がいるんだ」と本当に嬉しかったです。
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お礼の代わりと言っては、何ですが、「後日談」を掲載しております。
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