第35話:一つの影
目を覚ますと、天幕に寝かされていた。臨時の天幕か……。
微かに、雨が上がった後の匂いが鼻をくすぐる。
久しぶりに力を使ったせいで気を失ったんだろう。
背中の下では、ギシギシっと簡易ベッドが音を立てる。
天幕に入ってこようとしたアルが、こっちを見た。
「兄さんを呼んできます」
「忙しいから、今は、いい」
体を起こしながら、引き留める。
「ダメです。兄さん、けが人を下ろすと、すごい勢いでイージスさんのところへ戻ったんですから」
眉を顰めて、怒った顔を作ろうとするアルは、ファルカスにそっくりだ。何も言い返せない。
天幕を離れかけたアルが振り返った。
「そうだ、兄さんの字を叫びましたよね?」
「ああ」
そういえば、人前で呼ぶなって言われていたんだった。右手の中指が、耳の後ろを擦る。
「聞こえちゃったか?」
呼んでしまった恥ずかしさに、アルの方を見ることができそうにない。
「はい。大きな声なんで聞こえちゃいました」
はっきりとした返事に思わず顔を向けると、誰かさんにそっくりな切れ長の目が、少し細くなった。真っすぐこちらを見つめてくる。
「特別な人しか呼んじゃいけないと言いましたよね?」
切れ長の目を目いっぱい細くして、フフッと息を漏らす。
「人前で呼ぶという事は、自分たちの関係を公にするということなんです」
一息で言葉を出すと、パタパタパタと走って行く。アルの声が、気持ち弾んでいたように聞こえた。
自分の頬を押さえてしまった。秋なのに、まだ暑いな。
「字は、二人の時だけ呼べ」と言った時のファルカスはどんな顔をしていただろうか……。
「イージス!」
勢いよく天幕に入ってきたファルカスに、そのままの勢いで抱きしめられる。膝をつき、腰の辺りを離してくれない。今にも泣きだしそうだ。
口の端を持ち上げ、漆黒の髪を漉いてやる。
「せっかくの男前が……台無しだぞ」
こちらを見上げたファルカスは、煤で少し顔が汚れていたが、大丈夫そうだった。
漆黒の髪に口づけを落とす。煤けた匂いと汗のにおいが入り混じる。
「なあ、俺の髪……どうなっている?」
恐る恐る尋ねてみると、ファルカスが立ち上がった。
チュッと軽い音を立て、自分の頭に口づけてきた。そのまま覗き込まれる。
「綺麗な——銀髪だ」
目の前の漆黒の髪に、はっと息をのむ。
心臓が高鳴る。はあっと息を吐くと全身の血が流れ出した。
髪の色が戻った……じゃあ、加護も戻ったのか。
恐る恐る自分の髪をひと房つまんで見てみると……銀色。
髪を摘まんだまま見ていると、落ち着かない様子のファルカスが目に入った。
顔を近づけて、目を開いたり、体を反って目を眇めたり。
「どうした?」
「今は……キラキラしていないな……?」
「何だって?」
「前からお前は、時々キラキラ光っていたんだ。助けに来た時もキラキラ光っていたんだが……」
ファルカスは、頭を捻りながらぶつぶつと呟いた。
「前からって、いつ?」
ファルカスを見上げると、顎を撫でながら、こっちの頭を見下ろしてきた。
「はっきりと見たのは、猟師小屋の時だな。初めて出会った時も、何か見えた気がしたんだが……その時はよく分からなかった」
あの頃……あの頃は、竜の加護を使えなかった。
「他には?」
こっちの質問に、肩をすくめて下を向いている。答えにくそうだ。
「いや、それは……その……」
「いつ?」
「それって?」
強めに訊いてみるが、答えない。重ねて問うと、うーっと小さく唸ってきた。
「媚薬にやられた時だよ!」
やけくそ気味に答えて、そっぽを向いた。少し厚めの下唇を手の甲で押さえている。
「やっぱり、そうか!」
俺は元から、竜の加護を失っていたわけじゃないんだ。ただ、受け入れようとしなかっただけで……。
ファルカスがまだ、下唇を押さえているのが見える。
「俺が寝ている間、雨、降ったよな?」
ファルカスが、軽く眉を顰めた。
「あの後、急に雨が降って完全に鎮火したが?」
ファルカスの答えに、勝手に頬が緩んでいく。
「ぷはっ!」
大きく噴き出してしまった。アイツら……わざとだな。俺にスルトを呼ばせようとして。
あの時も、皆怯えていたのに……それでも、スルトの暴走を必死に抑え込んでいて……。
いつも俺を守ってくれていた。全てを失ったわけじゃ……なかった……。
「大丈夫か? イージス」
ファルカスが顔を覗き込んできたので、両掌でファルカスの顔を包み込む。
じっと見ていると、頬に小さな切り傷があった。
「——緑竜……」
呟くと、聞き慣れない単語のせいか、ファルカスの目が細くなる。
両掌の下が、ほんのり暖かくなって傷が薄くなった。頬をなぞってやる。もう、大丈夫だ。
「……キラキラしている」
漆黒の髪の下で、切れ長の目が大きく開いた。
綺麗な顔を、自分の瞳の中から逃がさない。
「コクロウ……愛してる」
ファルカスの背中に腕を回すと、ぎゅっと抱きしめた。
ファルカスの腕が、自分の背中に回されない。
身体が微かに震えて、抱きしめ返すのを少し躊躇っているようだった。
「俺は……きっとまた、お前よりも黒の団を優先する」
目を閉じたまま、ファルカスの言葉を聞いていた。静かに。
ファルカスの体から腕を離すと、両頬に手を添えてやり、こちらに顔を向かせる。
目を細め、唇をゆっくりと開く。
「イージス=ナイアス=メランリュクス。それが俺の本当の名だ」
「メランリュクス……いつかお前が話してくれた国の名前……美しい響きだな」
ファルカスが、濡れた睫毛を瞬かせ、ほうっと息を吐いた。
「美しいだろう? ……お前のことだ」
口元を緩ませる自分を不思議そうに見つめている。
漆黒の髪に手を滑らせた。
「メランリュクスというのは、俺の故郷の言葉で『黒い狼』という意味なんだ」
漆黒の髪の下で目を見張るファルカス。頬も耳もどんどん赤く色づいていく。
「コクロウ。俺は、大事なものを護るために生きているお前が好きだ——だから、いざというときは、黒の団を優先しろ」
上がり気味の眉が少し下がり、こちらをじっと見た。
一度下げた眉をキッと持ち上げると、頷いてくる。
「分かってる。だから、あいつらを護った後は——必ず、お前を護る」
力強く言うファルカスに大きく頷き返す。お前は、それでいい。
こちらに顔を引き寄せると、微かに震える唇に口づけた。
ファルカスの唇の震えが収まると、吸い付くような頬にも口づけを落としてやる。
こっちの唇を頬に少し押し付けると、少ししょっぱかった。
天幕の外では日が沈み、夜を迎えようとしていた。
「イージス、立てるか?」
「ああ、大丈夫だ」
「ちょっとついてきてくれ」
ファルカスは自分を立たせると袖を掴んで、天幕の外へ引っ張っていった。
天幕の外では、パチパチと爆ぜる音がしている——かがり火だ。
かがり火の前では、大勢の団員の無事が確認できる。
火事の後始末をしながらも、黒の団らしく、いつも通り騒がしかった。
胸が締め付けられるが、体も温まっていく。
火は闇から守るために、ヒトを温めるために、いつもそこにあった。
「ちょっといいか、皆」
ファルカスが団員に声をかけると、団員達が手を止め、こちらを向いた。
袖は掴まれたままだった。隣で大きく息を吸う音が聞こえ、ぐいっと引っ張られた。
「こいつは、俺の字を呼んでも良い奴なんで。今後はそのつもりで頼む。以上だ」
一気に口にすると、ファルカスは、くるりと向きを変え、こっちを引っ張ろうとしてきた。そのまま、連れて行く気だ。
皆は、黙ってこっちを見ている。
ファルカスの表情は、こっちから見えないけど、知っている。絶対、真っ赤な顔してる。
その証拠に、こっちを掴んでいない方の手の甲を、少し厚目の下唇に押し当てている。
脚に力を入れ、ファルカスの引っ張る力に抵抗する。大きく息を吸い込んだ。
「コクロウ」
こっちを向いたファルカスが目を大きく見開いている。そのまま、ぐっと引き寄せる。
二人の顔が重なり、二つの影が一つになっていく……かがり火の作った一つの影だけが長く伸びていた。
次話、喪失から始まったイージスの旅も、護りたいものとともに確かな救済にたどり着きます。




