第34話:護る覚悟
夏の残暑が和らぎ、澄み切った空気が肌を撫で始めた。深呼吸すると、鼻の奥に微かな冷たさと、湿った落ち葉の匂いがそっと漂う。
ファルカスは、一人きりの執務室で着替えるところだった。
涼しくなってきたといっても、早朝の訓練後は、汗の匂いでいっぱいになった服を交換する必要がある。
クンクンと鼻を動かすと、自分の匂いしかしない。寝起きは、アイツの匂いもしていたのに。今朝も訓練の前に、一緒に過ごした宿屋で別れたばかりだった。
汗の匂いがする時のアイツの肌は、少ししっとりとして、苦悶の表情を見せる……。
目を細めると、ふっと息が漏れる。
最近では、アルに「楽しそうですね?」と聞かれることが増えた。そんな時のアルは、一杯に目を細めてこっちを見てくる……。
「そうか?」と、取り合えず返事をしているが、あの顔は、何か気づかれてそうだ。
上着に手をかけ、首を抜く。右胸の脇の方がうっすらと赤く見える。両腕も抜いてしまうと、体のあちこちにイージスの痕跡が見え隠れした。どこか自分で気づかない場所に、残っていたりしないだろうか。
汗は引いたのに——体が熱い。
イージスは、一緒に寝る時には、必ず自分の字を連呼する。コクロウ、コクロウ……と。耳の奥で木霊していく。
「そんなに字を呼ぶんじゃない」と抗議しても聞き入れない。
字を連呼されると、アイツの求めに応えたい気持ちが抑えられなくなって、自分が自分ではないように感じてしまう。
思い出すと、手の甲が下唇へと近づいた。
ダッダッダッと、こちらを近づいてくる足音が大きい。急いで替えに袖を通す。頭を通し、ぐっと裾を引っ張り下ろす。
部屋の扉が勢いよく開いた。
「大変です。火事です!」
バンという音と、部下の叫びが重なった。窓の外からは、カンカンカンと半鐘の音が鳴り響く。
グンっと扉へ顔を向け、椅子の上に掛かった黒の上着を手に取った。
ガシャンと音を立てて倒れた椅子をそのままに、部屋を出る。
「続けろ」
走りながら、報告を聞く。
「団長と、アルには?」
「知らせを飛ばしています」
建物の外に出ると、詰所のはずれの倉庫で煙が出始めていた。ウルスは、アルを伴って朝から市中の視察に出向いている。
現場に駆け付けると、消火活動が始まっていた。
パチパチと爆ぜる音。辺りが真っ赤で、目を開けていられない。焦げた臭いが鼻につき、喉が痛む。
「中に残っている者はいるか?」
「分かりません」
「俺が入って確かめる。誰も入れるな」
ファルカスは水桶を手に取ると、水を被って炎の中に飛び込んだ。
「副団長!」
* * *
イージスが、ベルから荷物を下ろした時だった。街の人々が何だか騒がしい。
「やだね、火事かしら」
話題の方向を見ると、屋根の向こうで、煙が見え始めた。煙はどんどん高くなっていく。
あっちは、詰所の方だな。
右手がぐっと胸のあたりを掴んだ。嫌な感じだ……。
下ろした荷物を乱暴に、積みなおす。ベルに跨ると、首のあたりを軽く叩いた。
「急いでくれ、ベル」
追い風が味方となって、目の前を走る荷馬車や辻馬車を次々と追い越す。「速い!」と言う声が遠くに聞こえていた。
コクロウ、コクロウ、コクロウ……。
ベルに跨ったまま詰所へ乗り込み、そのまま煙の方向へ向かう。
現場に到着すると、団員が、消火に走り回っていた。手近な団員を捕まえる。
「イージスさん!」
「だれか中にいるのか?」
「副団長が……残っている奴が……」
途中、話がうまく耳に入ってこない……副……団長……。
「水だ! もっと水を持ってこい!」
「団長には連絡がついたのか?」
「口元を覆え!」
団員達の叫びが、耳の奥で小さくなっていく。赤い色の中、動き回る団員達が遠くなった。
——天幕がドンと揺れた。野営地に怒号が響き渡った。鼻には、焦げた嫌な臭いが入って、口に入ってくる空気が熱かった。各所から火の手が上がっていた……。
——メランリュクス……。
肩が持ち上がり、ハアハアと荒い自分の息が耳につく。顔が上がらない。
「イージスさん?」
隣から聞こえる声にハッとすると、パチパチという音が耳に届く。
そうだ。こんな暇は無い。
アクア、アクア……。アクア。
自分の内側にいるはずの水竜に呼びかけるが、応えない。この前は、大丈夫だったのに。何で……。正式な詠唱が要るのか……。
「クソッ!」
近くにあった桶を手に取り、水を被った。
「俺が入るから、他は絶対に入れるな、絶対にだ。分かったな」
言い残すと燃えさかる建物に向かい、走りながら正式な詠唱を唱える。
アクア、アクア……。
灰と火の粉が乱舞する中、建物内を進む。
詠唱を唱え続けているため、灰が入ってきて口がざらつく。
唾液を飲み込むと、喉の奥に苦みが広がった。
「誰か、いないか? ファルカス!」
奥に進むと、炎に囲まれているファルカスが目に入った。周りには、倒れている団員も見える。
「ファルカス!」
「イージス!」
ファルカス一人なら、助けられる。ファルカスを助けるには……。
「何とか団員を助けてやってくれ!」
ファルカスの叫びが、炎の向こうから飛び越えてきた。
——「団長、殺してください」と懇願する部下。
「こんなことするのは嫌だ」と泣き叫ぶ部下。
あちこちでもだえ苦しむ部下達。
ファルカス一人助かったとしたら、あいつは自分を許せない。
あいつを俺みたいにするわけには……。
あいつには、護らせてやりたい……。
悪夢を追い出すかのように頭を振る……何度も呼んでいるのに。何で来てくれない。
「くそ!」
拳を握って地面に向かうと、大声が出た。
こうなったら、他の竜を呼び出すしか……しかし、アクアでさえ応えないのに、他の竜が応えるのか。
どこからかミシミシという音も聞こえてくる。目がかすんで前も見にくい。
時間はない。
顔を上げ、呼びかける。
ごめん、風竜。お願いだ、緑竜。頼む、地竜……呼びかけても、どの竜も応えない。
炎の作る壁に阻まれ、声も聞こえず、姿も見えない。
何で……両掌で顔を覆うと、頭が下がっていく。
コクロウさえいてくれれば、他には、俺は……。
あいつを……護ってやりたい。護りたい。
ゴォォォ……。
足元から熱風が立ち昇り、灰と火の粉が舞い上がる。乾いた塵の匂いに、煤臭さが混じる。
「お前がいれば、大丈夫だ」と最後に言った時のオルニス兄さんは——笑顔だった。
そうか、オルニス兄さんも、そうだったのか……。
ずっと、託されたんだと思っていた。
お前がいれば、大丈夫だ。
俺さえいれば、大丈夫。
俺が、俺自身が——メランリュクス。
下げていた顔が、持ち上がった。
アクアは何と言った——(スルトも呼んであげて)
視界の果てまで火柱が立ち並んでいた。
護る力と滅ぼす力が、同じだなんて……。
でも……あの夜。
「——竜の加護なら、怖くないと思わないか?」
あいつにそう言った。
目の前の炎を見据えると、肺の奥まで息を吸い込む。
「コクロウ!」
覚悟を決めた。
「我はイージス=ナイアス=メランリュクス。五竜の加護を授かりし者。我に応えよ、火竜スルト!」
灰と火の粉が舞い上がり続ける——火竜は応えない。
何が、何がダメなんだ……。
——(スルトは、イージスが怒っていると思ってるよ)
アクア……。
俺は、あの時オルニス兄さんに何て言った——火竜はまだ幼い。
足元に目を落とすと、揺れる小さな炎。
ああ、何で、こんな当たり前のことを俺は忘れてしまっていたんだ。
あいつに、こんな言い方したことないじゃないか。
両手に力を込め、空に向かって顔を上げる。
「スルト、ごめんね。イージスだよ。怒ってないよ。僕を助けて!」
「スルト!」
——ボンッ。
* * *
ファルカスは、部下を背負ったまま火に囲まれてしまっていた。身動きが取れない。そっと、部下を下ろす。
何かがメリメリと音をたて、ドサッと崩れる音がする。
前も後ろも、赤い炎しか見えず、誰の声も聞こえない。
もう、だめかもしれないな。
「誰か、いないか? ファルカス!」
自分を呼ぶ声を聞いた。
「イージス!」
駆け寄ってきたイージスが、炎の向こうに見える……また、光っている。
炎の隙間からキラキラと光るアイツが見える。アイツなら絶対、何とかしてくれる。
「何とか団員を助けてやってくれ!」
腹の底から声を出すと、開いた喉の中に一気に熱が入り込む。
パチパチと爆ぜる大きな音。乾いた塵の匂いに、煤臭さ。
炎の作る壁に阻まれ、向こうの様子が分からなくなって……光だけが……キラキラと立ち上っている。
いる。あそこにいる。
「コクロウ!」
炎の向こうからイージスの絶叫が聞こえた。
——ボンッ。
突然、ファルカス達の周りに炎が出現した。
「火が!」
出現した炎は、決して近づいてこなかった。それどころか、襲い掛かる炎を阻んでいるようにも見える。そのまま、後ろから吹く風と一緒になって、襲い掛かる炎を押し返してくれていた。
これは……俺たちを護ってくれる……盾……。
炎が遠ざかり小さくなっていくと、とても美しい銀髪の姿が現れた。
小さな炎を従えて、熱風に銀色の髪が舞っている……綺麗だな。
銀色の髪は、そのまま自分に近づいてくる。
「大丈夫か、ファルカス?」
「ああ、大丈夫だ」
「良かった。俺のコクロウ、俺のメラ……クス……」
ゴホゴホっと咳き込みながら、イージスは自分に倒れこんできた。額から汗を流しているが、命に別状はないようで、そっと床に横たえてやる。
「すぐに戻る」
銀色の髪を撫でながら告げると、口の両端が少し持ち上がったように見えた。
部下を背負って立ち上がると、建物の外へと走り出す。
* * *
自分の方を振り向きもしないファルカスの背中を見つめる。
「お前は、それでいい」
呟くと、意識が薄らいでいく。
(いーじすぅ……。イージス。イージス。イージス。イージス!)
竜たちの声が聞こえた。
(ごねんね、ぼく、だいじなもの、こわしちゃった)
スルトの声が少し震えている。
「スルトのせいじゃないよ。僕がちゃんと言わなかったから。ごめんね……怖かったんだ」
(ぼくより、おにいさんなのに?)
「怖いよ。来てくれなかったら……本当に……何もないって分かる……から」
力を失うのも怖いし、力で失うのも怖い。
(でも、よんだから、きたよ?)
「そうだね……勇気がなかったのかな」
不思議がる幼い竜の声に、喉の奥で小さく嗤ってしまう。
(ぼく、また、こわしちゃった?)
スルトの声が小さくなってしまった。今度は、間違えない。
「スルトがいたから、僕の大事なメランリュクスを護れたんだ。ありがとう」
使ったから、護ることができた。
(ぼく、できた)
エヘヘと少し誇らしげなスルト。誰かに似ていると思ったら……。
そうか……気付こうとすらしてこなかった。
締めようとした唇は、なかなか締まってくれない。
緩んでしまってしょうがないじゃないか。
(本当、意地っ張りなんだから)アクアが呆れてる。
(あら、わたくしは『ちゃんとわたくし達を呼んでくれる』って言っていましたよ)穏やかに諭す緑竜。
(ふうう。あんまり遅いから、もう、今生での我の肉体が眠りについてしまうかと思ったわい……)地竜が静かに息を吐いた。
(全く、お前は! 『俺のお気に入りのオルニス』のことが全く分かってない!)風竜は、いつも通りだなあ。
水竜アクアは、僕のお姉さん。緑竜シルヴィーは、僕のお母さん。地竜ラントは、僕のおじいさん。
可愛い、可愛い僕の弟、火竜スルト。
風竜ゼピュロスは……兄さん……。いや、オルニス兄さんの親友……かなあ。
だから風竜は、絶対に僕のことを許してくれないと思っていたのに……。
口の端から笑みが零れる。
自分の上に柔らかな雨が降り注ぐ。
完結まであと2話




