第33話:俺だけのメランリュクス
——あれから数日。
キスはした、恋人になったと思う。あれ以来、二人だけの時は「コクロウ」と呼んでいる。
でも、ファルカスから明確な言葉をもらったことはまだ、ない。
「コクロウ」と呼ぶ度に、真っ赤になりながらも、必ず返事をしてくれる。
その姿が見たくて、意味もなく「コクロウ」と呼んでしまう。
「コクロウってどういう意味だ?」と尋ねると、首を振るばかりで教えてくれない。
今日は、ファルカスの仕事が休みなので、日暮れから一緒に呑む約束をしている。
ファルカスと呑むと知ったダリアに用を頼まれ、約束の前に団長執務室を訪ねることにした。
念の為に副団長執務室も覗いてきたし、ファルカスは私室にいるはず。
団長執務室の扉を開けると、ちょうど3人だけだった。
茜色の室内には、ソファではウルスと、アルの副官兼恋人の地味な男が向かいあって座り、アルは本棚を片付けている。
なるべく、何でもないように言えば、大丈夫なはず……多分。
ウルスの前に、ダリアから預かった書類を置く。
「これ、ダリアに頼まれてたやつ」
「おお。ありがとな。ちょっと座っていくか?」
勧められて地味な男の隣に腰を下ろす。ウルスが淹れてくれたハチミツ色のお茶からは、爽やかな香りが届けられる。
いつ切り出そうか。3人の様子を目だけで確認していく。隣を見て、向かいを見て、本棚のほうを見る。
商会やレナのことに「ああ」とか「うん」とか答えていた。
「旦那、冷めちゃいますよ」
隣からの声に、出されたお茶を一気に口に含んでしまった。
薄くなってしまった香りが、鼻を駆け抜ける。
空のカップとソーサーが小さく音を立てると、ウルスが直ぐに次を注ごうとした。
注ぎ口の傾きをじっと見て、頃合いを見計らう。
ハチミツ色がティーポットに吸い込まれていくのを見届けると、膝の上に置いた拳を軽く握った。
「なあ、『コクロウ』ってどういう意味なんだ?」
思い切って訊いてみた。極力、視線や顔を動かさずに。
「それって、副団長の字のことですか?」
地味な男が反対に自分へ質問してきた。
「あざな?」
あざな……確かギルベルトだけがダリアを「リオン」と呼んでいた、あれだ。
本棚の整理をしていたはずのアルが急に振り返る。
「字というのは、私たちの故郷の習慣です。成人したら、特別な人だけが呼べる名前を、自分自身で決めるんです」
手に持った本が、少し震えている様に見えた。
「アルの字を呼べるのは、僕だけなんですよ」
地味な男が頭を搔きながら、自慢げに言ってきた。
俺だけが呼んで良いファルカスの字。つまり、あれがアイツの答えって事か……。
首元を緩め、目の前のお茶を煽った。お茶が熱いな。
「やっぱり……。兄さんがイージスさんには教えたんですね?」
いつも冷静なアルが、本棚から近づいてきて確認してくる。しかも、前のめりだ。
「ファルカスが呼んで良いって言ったのか!?」
ウルスが、立ち上がりながら叫んだ。
「ファルカスに教えてもらったんだが……」
勢いに押されて、体が後ろへ倒れそうになる。
うんうんと頷いたり、ほおっと息を吐いたり、うーんと腕を組んで、3人は何かを理解したようだった。
「俺たちからは詳しい事は言えん。本人に訊け、本人に。ただ、人前では呼ぶな。まだな!」
掌をこちらに見せながら、念を押すウルス。
3人を順に見回してみる。
「言葉の意味位教えて欲しいんだが……」
「そうですねえ。意味位なら、教えて差し上げても良いかと思うのですが」
本を胸の前に抱えたまま、アルはウルスを見上げていた。
「頼む。教えてくれ」
勢いよく頭を下げると、上の方でアルが、フフッと息を漏らす。
「コクロウと言うのは、故郷の古い言葉で『黒い狼』という意味です」
顔を上げると、よく似た切れ長の目が細くなってこちらを見下ろしていた。
体の底から何かが沸き起こるようだ。
コクロウ、黒い狼。俺だけの黒い狼。俺だけのメランリュクス。
自分の心臓が血液を送り出す。指先が、頬が熱い。思わず、右手で胸を押さえる。動きを速めた心臓が手を押し退けそうで、押さえ続けることができない。
「ありがとな」
立ち上がって礼をつげると、部屋を出た。後ろでは扉がバーンと閉まる音がする。
ファルカスの私室へ急ぐ。誰かに声を掛けられた気がするが、立ち止まって応えることができない。足元では何かが転がる音がする。
コクロウ、コクロウ。黒い狼——俺だけのメランリュクス。
勢いよくファルカスの部屋の扉を叩くと、扉を開けたファルカスが、驚いた顔で立っていた。
「どうした? 約束には少し早いだろう?」
上がり気味の眉を下げたファルカスが、心配そうに見てくる。
両腕を広げ、ファルカスを腕の中に入れた。
「コクロウ」
ファルカスを抱きしめたまま、ずんずんと部屋の奥へと入る。
ボスン。
ベッドの端まで押し込まれたファルカスは、勢いに押されてベッドへ腰かける形になっていた。
床に自分の膝をつくと、ファルカスの顔に両の掌を添える。
「聞いたんだ、『コクロウ』って、『黒い狼』って意味だって。俺だけが呼んでいい名前だって。本当か?」
じっとファルカスを見る。
「ああ」
顔を包み込まれたまま、答えるファルカスの目が、細くなっている。
両頬に添えた手に少し力を加えると、ファルカスの身体がぴくっと動く。首元に鼻を寄せてやると、少し汗ばんできた時のファルカスの匂い——緊張してる。
「コクロウ」
自分の唇をファルカスの唇に重ねると、ファルカスの体をそのままベッドに深く沈めた。
ファルカスは抵抗することなく、深く沈んでいく。
ああ、黒狼……俺の、俺だけのメランリュクス。
俺の護るべきものなんて、もう、どこにも無いと思っていたのに。
あの日失ってしまったと思っていたものは、この腕の中にある。
もう二度と失うことがないように、己を刻み付けるように。
貪るようにコクロウを求め続けた……。
窓の外では陽が沈んでいき、茜色の室内が藍色に沈んでいく。
藍色がコクロウと同じ漆黒になってもまだ足りない。
漆黒が再び藍色に変わる頃、腕の中で静かな寝息が聞こえ始めた。
黄金色の朝陽が部屋を塗り替える。
目を覚ますと、ファルカスは自分の腕の中でよく眠っていた。
そっと体を起こすと、朝陽にきらめく漆黒の髪を手ですいてやる。
ファルカスの瞼が、ぴくっと動き目を開けた。
「どうした?」
下から自分を見上げてきて尋ねられる。
「寝顔が綺麗すぎて、見惚れていた」
「そうか」
一言だけ答えると、こっちに向けてベッドの上で腕を広げてきた。
「ん」
ファルカスの腕にこっちの頭を乗せるよう、顎で示してきた。
「さすが、副団長は男前だな」
口の端が持ち上がって、胸が掴まれたようにきゅっとなる。遠慮なく、ファルカスの腕を枕にさせてもらう。ドクンと聞こえるファルカスの心臓の音が近い。
「俺だって、男だからな。お前の前では、かっこつけたい」
天井を向いたままのファルカスの耳は、真っ赤に染まっていた。
すうっと、ファルカスが息を吸い込んだので、こっちの頭が軽く持ち上がる。
「俺が昔、荒んだ生活をしていたと話した事があるな」
「ああ」
逞しい腕に頭を乗せていると、ファルカスの形の良い顎が見えている。自分を受け入れてくれた唇が開いた。
「……コクロウというのは、黒の団へ入る時に自分で決めた字だ」
自分の吐息で、ファルカスの声を聞き洩らさないようじっとする。
「クロエは、『黒い河』、ファルカスは『狼』……だからまあ、同じ名前で、生き直す覚悟を決めるというか……」
お前は自分で選んだんだ、それを。
目を細めて見つめ続けていると、ファルカスは、自分の頭の下から腕をそっと抜いた。
そのまま反対側へと寝返りを打ち、横向きに少し丸くなった。
こちらへ向けられた背中にそっと唇を押し付ける。
俺の……メランリュクス……。
フッと漏れてしまった息が、ファルカスの背中にあたって、背中がびくっと波打つ。
背中しかこっちに見せてないけど、絶対に顔を真っ赤にしているな。容易に想像できてしまい、唇を噛み、笑いを堪える。
知ってる。恥ずかしいから背中を向けるんだよな。でも、知らないだろう。背中も赤くなるんだぞ。
ファルカスの背中から片腕を回すと、ぐっと自分の方に引き寄せる。ぐるんと向きを変えられたファルカスと目が合った。
やっぱりな。赤いじゃないか、耳も頬も。
掛け時計を目の端で確認する。時間は、まだある。
そうしてまたベッドへ潜り込んだ——二人一緒に。
次のお話からクライマックスに入ります。




