第32話:コクロウ
* * *
イージスに一発お見舞いしてやった後、ファルカスは自分の執務室に戻っていた。
棚から、蒸留酒の瓶とグラスを取り出すと、トン、ダンと執務机の上に置く。トプトプトプという音で、グラスに琥珀色が注がれる。
乱暴に注いだせいで、グラスから少し溢れた。慌てて周りの紙類をどかす。危なかったな。
これ以上零れないようグラスの縁に口だけを付ける。ズッと吸い込んでから、手についた酒を嘗めしゃぶる。
はああ。ドカッと椅子に座ると一気にグラスを煽った。
頭に血が上っていたせいだろう。喉が渇いていた。自分の飲み込むゴクッ、ゴクッという音だけが、耳に入ってくる。強い酒に喉の奥どころか胸の奥までカーッと焼け、思わず目が開く。
手の中のグラスに目を落とすと、琥珀色が半分にまで減っていた。
何て馬鹿みたいな飲み方しているんだ。
ため息とともにグラスを机に置き、反故にした紙類をかき集めゴシゴシと机を拭いた。
目を通す必要がある書類を目の前に置き、ペンを右手に持つと、処理をした書類を左の山に積んでいく。
シャー、シャーっとペンが走る音だけが聞こえる。
ふと、ペンを持った手を顎に沿わせる。
アイツは、俺が遅れてきたことが気に食わなかったみたいだった。確かに、それは、俺が悪かったが……。
「そうじゃない」と頭を振る。
——でも、俺が着いた時は、女に囲まれてたんだ。
止めてしまったペンを握る力が強くなっていく。
女が途切れたところで、声を掛けようと思ったのに、次から次へとやってくるし。
そもそも、アイツが無駄に女に優しいのが悪い。声をかけてくる女が全く減らん。
そういえば、あいつダンスもやけに慣れていたな……。
しかも、あいつは俺が一番嫌がることを言ってきた……。
くそっ、謝ってきても、絶対に許さん。
右手はペンを持ったまま、左手でグラスを掴む、残りを一気に煽り、空いたグラスを机に置いた。ゴンという音と共に、机が震える。
廊下を歩くコツコツという足音が近づいてきた。書く手を止め、顔を上げると部屋の扉が目に入る。部屋の前で足音が止まり、ノックされた。
俺は、留守だ。誰とも話さないし、したくもない——無視だ。
緊急事態なら、構わず開けるだろう。
扉が開くかを見ていたが、相手は諦めたようで、足音が遠ざかっていった。
扉の外から音が聞こえてこないのを確認して、2杯目を注ぐ。
少し気分が落ち着いてきたのか、酒は適度な量でグラスに収まった。
また、廊下を歩くコツコツという足音が近づいてきた。
部屋の前で足音が止まり、コンコンコンとノックされる。
「ファルカス。俺だイージスだ……開けるぞ」
何で。イージス……。
急いで、頭を下げる。扉が開いて、壁にぶつかるガンという音が室内に響いた。
絶対に。絶対に、顔を上げてなんかやらない。ペンを動かす振りをする。
* * *
やっぱり。
詰所に着いて建屋を見上げると、2階の執務室に明かりがついている。
夜の詰所で、音を立てないよう早歩きを心掛け向かう。
部屋の扉を開きかけ、一度手を引っ込める。深呼吸を2度ほどしてからノックしたが、中から声が帰ってこない。呼びかけても返事がないので、覚悟を決めて扉を開けた。
開いた扉が、止まらず壁にぶつかってしまい、ガンという音が響く。
ファルカスは執務机の前に座り、書き物をしていた。大きな音を立てたのに、自分の方に顔を上げてくれない。
窓には扉の前に突っ立っている自分とファルカスの後ろ姿が映るだけだ。
机を挟んで立つと、机の上には、琥珀色が揺蕩うグラスと瓶。飲んでたのか。
思わず唇を噛みしめた。
「何だ?」
顔を上げずに、平坦な声を突き付けてくる。
「あ、いや、悪かったと思って」
右手を頭の後ろに添え、斜め上の掛け時計を見ていると、針がゆっくり進んでいる気がする。
「何が?」
顔を上げてくれないファルカスの方を向いて、姿勢を正す。思いっきり息を吸い込んだ。
「すみません! 勘違いして……お前が一番嫌いな言葉を言いました!」
腰から体を曲げ、思い切って頭を下げる。
「勘違いってなんだ」
頭を下げたままでいると、頭の上からシャッシャッとペンの走る音が耳に入る。
「昼間女と歩いてたから、付き合っているのかと思って……」
ファルカスを見ながら、恐る恐る体を起こしてみる。
「付き合っている女なんかいない」
ペン先を見つめたまま手を止めず、きっぱりと否定してきた。
「付き合っている女がいたらなんかあるのか?」
ペンを走らせていた手を止め、視線だけをこちらに向ける。相変わらず顔は上げないまま。
どちらも声を出さないので、廊下を通る足音だけが聞こえる。コツコツという音が近づいてきて、また遠ざかった。
コトン。
机にペンを置く音が聞こえた。初めて、ファルカスが顔を上げて、こっちの顔をじっと見つめてくる。
「俺に付き合っている女がいないと嬉しいのか?」
自分の口の端が勝手に持ち上がり、目が細くなる。
「嬉しいよ……」
自分の答を聞いた途端、ファルカスの顔がみるみる赤くなっていく。ファルカスが、手の甲で口の端を抑えている。
もう知っている……照れた時の癖だ。
漆黒の髪の下で、切れ長の目がすうっと細くなって、こちらを見ていた。
息を吸い込んで、止める。真っすぐ切れ長の目を見る。
「好きだ、ファルカス」
——ガシャン。
机の上で、文房具がひっくり返る。ファルカスが机に手をついて、椅子から立ち上がった。胸の辺りを掴まれ、ぐっと引っ張られる。
「ん……」
自分の唇が、ファルカスの形の良い唇によって塞がれた。突然のことに目が大きく開いてしまう。すうっと息を吸い込むと、可憐な花の香りが入り込んできた。さっきは、あんなに嫌だったのに。
唇を離したファルカスは、そのままストンと腰を落とし、勢いでキーっと椅子が軋んだ。
「コクロウ」
ファルカスは、頬を赤らめながら短く言うと、顔をそむける。
「コクロウ?」
「今後、二人の時だけ、俺のことをそう呼んで良い」
聞き返すと、ファルカスは、そっぽを向いたまま答えた。
ファルカスの後ろでは、風に揺れた窓がカタカタと鳴っている。
何だか分からないが、胸の奥からじんわりと熱くなる。
「二人の時だけ……?」
「そうだ」
確認すると、まだ、そっぽを向いている。呼んでみようか……。
「コクロウ」
「何だ」
顔をこちらに戻したファルカスの唇が、少しだけ震えている。
「コクロウ……何だろう。初めて口にした気がしないな」
口元の緩みが抑えきれず、掌で口を覆う。
「そうか。それはそうと……お前のその口は、何のためについているんだ?」
ファルカスは、椅子に座ったままじっとこちらを見上げてくる。
漆黒の髪、切れ長の目、赤く染まった頬、少し厚めの下唇……息をのむ。
——綺麗だ。
執務机に左手をつくと、ファルカスの前に身を乗り出した形になった。
「良いのか?」
ファルカスは答えずに、黙って少しだけ顎を上げ目を閉じる。閉じられた瞼がぴくっと動いた。
右手でファルカスの頭を支え、自らの唇を重ねた。
重なりが深くなっていくごとに右腿は机に沈み、左足はつま先立ちになっていく。
ファルカスがこちらの首に腕を回してきたので、そのまま自分の上体を起こす。
こっちに引き寄せられたファルカスは、スッと立ち上がった。
切れ長の目と自分の目の高さがそろう。
唇が触れたまま軽く引くと、追いかけようとしてくる——受け入れて、少し厚めの下唇を軽く食んでやる。
まず1歩。机に沿って左へ半歩動くと、つられたファルカスが、机の方へ小さく踏み出してくる。ファルカスの上着と机が擦りあい、音を立てる。
お互いに天板の端を探りながら、机に沿って足を運ぶ2歩目。互いの腰が机の角に引っかかり、机が揺れた。机から流れ落ちる書類も、ひっくり返った椅子もそのままに。
3歩目で、2人を隔てていた机がなくなり、互いの胸と胸が衝突する。
ファルカスの左腕を掴み、自分の左腕は、アイツの腰に回してやった。
惜しむように一度唇を離し、ファルカスの両頬に掌を添える。
左頬が……少し赤くて……そこから目が離せない。
そのまま、右手の指先で左頬を撫でる。固く抱きしめ、ファルカスの左肩に顔をうずめた。
「ごめんな……二度と言わない」
はあっと息を吐くと、ファルカスの匂いをいっぱいに吸い込む。
ファルカスが自分の頭の上に頬をくっつけてきた。ファルカスの肩と、頬に挟まれながら、額ではファルカスの体温を感じていた。
頭の上からフフッと息がかかり、髪を撫でられる。
「次は——殺すぞ」
穏やかな声に顔だけを向けると、目に入ったのは、赤くなった首筋。
自分の頭を持ち上げ、惜しむようにして、ファルカスの肩から離れた。
こちらを向くファルカスの両頬に掌を添えると、開かれた目が少し潤んでいる。
右手はそのまま頬に、左手だけを漆黒の髪に差し込んだ。そのまま瞼の上に唇を落とすと、戦慄く瞼。
額に、こめかみに、耳に。口づけを落とすと、手の中で、漆黒の髪がイヤイヤと乱れていく。
緩く開く唇にまた、自らの唇を重ね、唇に付いている琥珀色を味合う……甘い。
コツコツコツ……。
巡回だろうか。廊下を通る足音が聞こえてくる。ファルカスがハッとして体を離した。
そのまま動かずに、2人で音が去るのを待つ。音が去った後で、ファルカスの腕をぎゅっと掴んだ。
「まだ……」
望みに対して、漆黒の髪が左右に振られる。
「今日は、終わりだ……」
それっきり、下唇に手の甲を押し付ける例の癖が、引っ込む気配がない。仕方がないな。今日のところは帰るか。
部屋を出ようとして、振り返る。
「おやすみコクロウ」
ファルカスが慌ててシーっと指を立てる……かわいい。
扉が閉じられる寸前、ファルカスが口だけで「またな」の形を作った。




