第31話:疑念と嫉妬
あれからイージスは、煽情的なファルカスの姿を思い出す自身を持て余している。
あの夜の事は、ファルカスの本意ではない。だから、絶対にあの夜の話をしないと決めていた。
あれは、本当のファルカスじゃないのに。
この間は、向こうもそんな自分に気づいたのかもしれない。途中で帰られてしまった。
このままの気分で会うのは、気まずい。できることなら、会うまでに一言だけでも話しておきたい。
今夜は、ファルカスと約束した「3日後」だ。
約束の時間までは、いつも通り商会の仕事をこなす。馬預かり所へ向かう途中、通りの向こうで、昼を教える鐘が鳴った。
思わず顔を上げると、少し先の人ごみの中を歩いているのが、目に飛び込んできた——漆黒の髪。
黒い団服は見えない。今夜は約束の日だから、ファルカスも休みのはず。
速足で追いかけるが、ファルカスの後ろの奴らが邪魔でよく見えない。ここから呼ぶか。
後ろの方から呼びかけようとして、挙げかけた腕を下す。ファルカスの顔が左下を向いていた。切れ長の目を細くして笑っている。誰かと一緒なのか。
ファルカスの後ろの奴らが脇道に入っていき、後ろ姿が見えてきた。
隣には、青いドレスの女性。
ファルカスの腕に手をかけた女が、ファルカスを見上げている。見上げた女に向けるファルカスの笑顔が、いつになく優しい。
女の顔は——見たくないな。仕事じゃないんだよな。団服じゃないから……。
ぎゅっと握りしめた手の中で、爪が食い込んでいく。唇を引き結んでいたことに気が付き、口元を緩めると、大きめの息が吐き出された。
今日は何だか熱い気がする。行きかう馬車のガタガタという音が耳につく。
「運び屋の旦那!」
後ろから聞こえた呼びかけに振り向くと、アルの副官が走ってきた。ファルカスに気づかれたくなくて、背中を向ける。
「仕事中ですか?」
「ああ……」
自分の前に立つ副官へ向かって、片頬を緩めようとしたのに、何だかうまくいかない。
自分が見ていたモノに気づかれたようで、自分の肩越しにひょいっと顔を動かされた。
「あの二人、お似合いですよね。で、も……」
「——悪い。急いでいる」
聞きたくない。副官の声に自分の声を被せた。
「ちょっと、運び屋の旦那!」
今まで来た道を戻る。後ろの声は無視して、歩く速度を上げた。
商会の仕事を終えたイージスは、先に酒場で待っていた。めったに噛まない親指の爪を噛みながら。
あの女は誰なんだろ。あの後、何をしていたんだろうか。
頭を振って、妄想を追い出す。時計の長い針が一周してしまったのが良くなかったんだ。
今日は休みだから、そんなに遅くならないはず。そう思っていたのに、約束の時間を過ぎても、ファルカスが現れないから。
休みでも急な仕事で遅れることなんかよくあることじゃないか。でも、仕事じゃなかったら……。
肩肘をついた方の指で眉間を擦ると、深い皺に触れる。本当に良くないな。
「お兄さん一人?」
女性客が声色を変えて、近づいてくる。思わず、女のドレスを凝視してしまった。昼間の女と同じ青い色のドレス。口元が引きつっていく。
本当に仕事なのか……。
「あれ、全然飲んでないじゃない?」
女の声で、引き戻される。カウンターの上に置かれた水を見られたようだ。
「ああ、連れを待ってるんだ。悪いな」
それからも、何度か女性客に声をかけられた。相手が消えると、見えないように息を吐いた。
はあー。ファルカスの来るのが遅いせいだな。
何人目かの女性が離れて、入れ替わりにファルカスが近づいてくる——昼間と同じ服だ。
「待たせたな」
ファルカスの上がり気味の眉が、少し下がっていた。
「すまんな。仕事が終わらなくて」
隣に座ったファルカスから、微かに香水の香りがする。今までコイツから嗅いだことない、なんか可憐な感じの匂いのやつだ。花の名前なんか知らない。
「一体何の仕事なんだか……」
「何の話だ?」
毒づいてしまった自分に、ファルカスは眉を顰めた。
「別に……」
カウンターの木目が目に入る。顔を上げて隣を見る気にはならない。
「まだ、頼んでなかったんだな? 麦酒で良いか?」
「麦酒で!」
自分の態度を気にしない感じにも、何だか苛立ちを感じて大きな声を出してしまう。
ドンドンと、カウンターに麦酒の入ったジョッキが置かれ、ゴツ、ゴツと雑にジョッキを合わせる。
隣から勢いよく飲み込む音が聞こえる。きっと、喉ぼとけがすごく動いているはずだ。でも、見ない。
「うまいな?」
こっちを見てきた。俺のは、苦い。うまく返したいが、何だかギクシャクしている。自分のせいなのは、分かっている。
コツコツコツと複数の高い靴音が近づいてきた。
「お兄さん達、一緒に飲まない?」
若い女性の二人組だ。何かよく分からん香水の臭いがきつくて、こめかみがひくつく。
「仕事中だ」
ファルカスは、不愛想に一言だけ答えた。
コツコツコツとカウンターを叩く自分の指が止まらなかった。何だよ、仕事って。
口の端を思いっきり持ち上げて、女性たちを見上げる。
「こいつは一見、真面目で堅苦しそうに見えるだろ? 本当は、女たらしなんだ。近づいたらダメだよ」
立てた親指を隣に向けると、眉を歪めてこっちを見返してきた。
「だから、じゃあね」
肩肘を付いた方の掌を女性達に向けて、ひらひらと動かす。
「つまんないの」とか言いながら女性達は、離れていった。
「おい!」
隣から、きつめの声が耳に入ってくるが、答えない。そっちは見ない。
「お前だよ。誰が女たらしなんだ。お前の方がよっぽど……だろう」
「はあ? よく言うよ。自分は昼間、女と歩いていたくせに」
隣に顔を向け、顎を上げる。目を眇めると、向こうの眉が歪んでいる。
「何のことだよ?」
こっちは分かってんだよ。質問には答えてやらない。
「それに、お前。俺と飲んでいるのは仕事の一環なんだろう。どおりで、平気で約束に遅れてくるわけだよな」
「断る口実だろうが!」
ファルカスのこめかみが引きつっていた。ガターンと椅子を倒しながら、立ち上がる。そのまま、右腕を後ろに引くと、左ほほを殴りつけてきた。
「知らねーよ!」
こっちも立ち上がり、同じように拳を返してやる。
立ち上がった勢いで、椅子が倒れ、近くの席から「きゃっ!」と声が上がる。
ハアハアと自分の息だけが耳に入ってきて、殴り返した拳が固く握り込まれていく。
何で、何でなんだよ。何でお前は——。
「ハッ、せっかくの美人も台無しだな!」
——しまった。
音を立てずに息が吸い込まれる。
ファルカスを見ると、持ち上がった両肩が小刻みに揺れ、こちらへ顔を上げようとしなかった。
遅かった。口からはファルカスの最も嫌う言葉が出ていた。
「お前が。よりにもよって……お前がそれを言うのか! お前には、がっかりだ!」
顔を上げて、こちらを向いたファルカスの顔には、怒りというよりも悔しさがにじみ出ていた。
「何だよ。こんな事なら仕事してた方が良かった!」
吐き捨てると同時に、背を向けて店を出て行こうとするファルカス。
漆黒の髪が遠くなって行き、バンという音と共に酒場の扉がしまった。
痛ってえ。何をやっているんだか。
あれだけは、口にしちゃいけなかったのに。
熱を持った左頬を擦る。熱の理由は、殴られたからじゃない。
自分にはもう、さっきのイラつく気持ちの原因が分かりかけていた。
「喧嘩なんて珍しいね」
いつもの店員が、水で濡らしたリネンを渡してくる。
「そうだな……」
自分の掌に置かれたリネンをじっと見る。その濡れたリネンを使う気にはなれなかった。
詫びの代わりに、周りの客に一杯ずつ酒をおごる。多めに金を置いて出て行っても良かったが、かえって気を遣わせてしまう。店に金を落とした方が、まだマシだ。
ファルカスと別れた後も、そのまま一人で飲み続けていた。飲みすぎたせいか、自分から漂ってくる酒の臭いが甘ったるい。
「運び屋の旦那!」
今日聞いたばかりの声が後ろから聞こえ、ちらりと顔だけを向ける。アルの副官の腕と、その腕に巻きつく細い女性の腕が目に入った。
いい気なもんだよな。美人と腕を組んでやがる。
さっと顔を正面に戻す。これ以上、そっちを見る気は無かった。
美人……。
さっきファルカスに言ってしまった言葉が、胸を締め付けてくる。
「旦那、それ、どうしたんです?」
顔の横から覗き込んできてトントントンと自分の頬を叩くところを見せつけてくる。
「うるせえな。どうでもいいだろう」
左肘を付き、掌に左頬を乗せる。ふうっと自分の吐いた息が、掌を滑っていった。
「兄さんと約束していませんでしたか?」
頭の斜め上から、聞き覚えのある声がして、勢いよく振り返る。見上げると、誰かさんとよく似た切れ長の目と合った。
「アル! アルじゃねーか!」
アルの着ていた青いドレスには、見覚えがあった。
だんだんと体が冷えてきて、頭まで冷えると、ふんわりと可憐な感じの香りが届いてくる。
「アル、アル、ひょっとして……」
アルの顔と青いドレスを何度も見比べると、だんだん体が熱くなっていく。
「昼間、ファルカスと歩いていた? あー!」
掌を向けて、アルが口を開きかけていたのを止めさせる。
「お前、あの時二人がお似合いだって言わなかったか?」
思わず、副官に詰め寄ろうとしてしまった。
「だから。あの時、俺が話を続けようとしていたのに、聞かなかったのは旦那ですよね?」
アルの副官は、目を細めてこっちを見てきた。
「やっぱり誤解していましたね」
アルは、抑揚のない声でそれだけを言ってきて、切れ長の目を逸らそうとしない。
「アルは、俺の恋人……」
「——知らねえよ!」
副官の言葉を遮る。立ち上がると同時に、カウンターに金を置いた。
「親父、ここに置いとくわ」
酒場を飛び出すと、むわっとした熱気に顔を顰める。アイツが一番大切にしているのは……。
馬預かり所まで走り、ベルに跨る。
「ベル。分かるよな」
アイツが一番大切な場所を目指した。




