第29話:自分の気持ち
* * *
——3日後。
イージスは、昼前に目を覚ました。
階段を下りていると、ダリアとエドの話し声が聞こえてくる。
「だからね。相手を褒める時は、具体的に褒めるの!」
ソファに腰かけたダリアが、その隣に座るエドに詰め寄っていた。エドが背中を反っている。あんなに……。
「朝からうるさいな。休みなのに眠れない。俺は2人の分まで仕事したんだぞ」
頭に手を添え、大きすぎるくらいの欠伸をしてやった。
「丁度良いわ、イージス。アンタもここに座るのよ」
こっちの主張をまるっと無視したダリアが、向かいに座るよう示した。もう、何だよ。
自分用のお茶を淹れてから、ソファへ向かう。
「レナは?」
「朝からアルと買い物に行っているわよ」
「ふうん……」
ソファに腰かけると、目の前のテーブルに置かれた新聞が目に入る。
——清廉なるドミヌス、国家反逆罪で逮捕。
ダリアとギルベルトは、昨夜遅くになってやっと帰ってきた。
3日前、血相を変えて飛び出したまま、留守にしていた理由は、聞かない。
カップに唇を付けながら目線だけを上げると、目を細めたダリアが、エドの頭をかき回している。
はしゃぐダリアの目の下には、隈——そういうことだろうな。
「それで、2人は何の話をしてたんだ?」
こっちを向いたダリアは、「ああ、そうだったわね」と手を叩く。
「イージス。アタシのことを褒めるのよ」
「はあ?」
こっちへ両腕を広げたダリアを見て、唇からカップを離す。危うく吹き出すところだった。
「何で?」
「良いから!」
何を言っても無駄か。頭をグシャグシャにかき回した後、両肩を下げる。
「はあ……」
思いっきり息を吐いた後、ぐっと、顔を上げた。顎に指を添え、目を眇める。
「……金髪でなんか強そうだ。あと、女みたいな顔してるけど、ガッシリしていて強そう?」
2人からは、何の反応も返ってこなかった。
何だ、その顔は。
組んだ脚の上に片肘をつき、掌に顔を乗せながら二人を見る。
「はあ……。分かってたけど、アンタひどすぎるわ……」
頭を抱えたダリアの横では、エドが目を眇めてこっちを見ている。
「エド、悪い見本よ。真似しちゃだめよ」
「分かりました」
何だよそれ。
片眉を持ち上げ、重ねた脚の先をブラブラさせてみせた。
「レナを褒める練習よ!」
こっちを向いてきたダリアが、口を大きく開けて笑う。
「楽しそうですね」
近づいてきたギルベルトが、ダリアの向かいに座れるようにずれてやる。
自分の隣に腰かけたギルベルトの頬が、少しこけているように見えた。
じっと隣を見ていると、いいことを思いついた。口の端を引き上げる。
「ギルベルト、ダリアのことを褒めてみろよ」
ギルベルトは軽く息を吸うと、眉を下げた。
「豪奢な金髪が風をはらんで立つ姿は、まるで剣神。二重の大きな瞳は、軽く目じりが下がっていて、大変可愛らしい。真っ白な肌は、赤子のように汚れなく、大きめの唇はとても美味しそうで……」
「ぎゃー!」
ギルベルトの言葉は、ダリアの叫び声で中断される。立ち上がったダリアは、顔を真っ赤にしながら出て行った。
部屋中に、バシーンと扉を閉める音が響く。
「残念です。まだ、心根を褒めていないのに」
本気なのか冗談なのか、ギルベルトは、がっくりと両肩を落とす。
エドは、「あれで……?」と声を漏らすと口元を手で覆った。
「分かったか?」
ギルベルトを指さし、エドの方を見る。エドは肩を持ち上げ、背中をぴんと真っすぐにしながら、こくこくと頷く。
まあ、こんなに悪乗りするギルベルトも珍しいか。
「好きな人のことは、目を閉じていても詳しく思い出せるものですよ」
ギルベルトは悪びれずに、目を細めながらフフッと笑った。
「もし、詳しく思い出せる人がいたら、その人が自分の『好きな人』ですよ」
人差し指をピンと立てて、自分達を見てくる。
目を落とすと、さっきの新聞——お手柄黒の団、国家を揺るがす陰謀を暴く。
……漆黒の髪。背丈は俺くらい。体の厚みは俺の方が少しある。上がり気味の眉に、切れ長の目。少し厚めの下唇。下唇に甲を当てる癖……。
結構、詳しく思い出せるな。
思わず下を向き、掌でばっと口を覆う。隣のギルベルトが覗き込んでくる。
「イージス?」
これって、そうなのか……。
ギルベルトの言葉が耳の奥で反響する。指先が触れた頬は、熱を持っていた。
今夜会うのに……。
夕方、約束した酒場へ出向く。
昼前からずっと、熱く湿った空気が纏わりついて離れなかった。
酒場の前で、一度深呼吸をしてから扉に手をかける。
扉を開けると、女性客に話しかけられているファルカスが目に入った。
女性を見ずに、面倒くさそうに口だけを少し動かしている。
女性はすぐに離れて行くが、またすぐに別の女性がやってきた。
いい加減にしろよ。
両手を握りこんでいると、片方の唇だけがひき上がっていく。
胸がざわつく——近づけない。
ファルカスがこっちを向いた。酒に酔っているのか、少し顔が赤い。
軽く手をあげると、向こうも小さく手を挙げた。
テーブルの上には、底のほうに琥珀色を残したグラスが置いてある。
いつもは、「先にやってろよ」って言っても、待っているのに。
飲みたいくらいに忙しかったんだな。
「先に一杯やってるなんて珍しいな」
椅子を引き、隣に座る。
「忙しいのに、大丈夫だったか?」
「……ああ。報告したいこともあるしな」
横から覗き込んでみると、瞳が少し潤んでいるように見える。
潜入の後から2人とも忙しくて、間が10日も開くのは初めてだった。
「……そういえば、あの子はどうしてる? 今日もアルが会っていたみたいだが」
ファルカスが正面を向いたまま口を開いた。
「レナは、楽しそうにやっているよ」
「そうか……」
隣からほっと吐かれる息が聞こえる。
空のグラスに目を落とすファルカスの耳が赤い。思ったより飲んでたか。
「お姉さん、コイツと同じの2つ頂戴」
店員に向かって手を挙げた。
ファルカスが、次のグラスをくるりと回す。
「あの子の証言をきっかけに、ダリアさん達の人脈を活かせたのが大きかった」
そのまま、手の中でグラスを回し続けている。
「……取引内容や顧客。かなり詳細な記録の写しを持っている奴がいてな」
「詳細な記録? そんなもの足がつくだろう?」
眉を顰めて、ファルカスを見ると、唇をきゅっと噛んでいた。
「アイツの場合は多分——支配欲だ」
「支配欲?」
予想できない言葉に、切れ長の目をじっと見る。ファルカスの濡れたまつ毛が瞬いた。
「ああ。薬の流通量を支配すること自体に喜びを感じる。万能感とかな」
ファルカスは手の中のグラスにじっと目を落としている。
「例えば……50位流通させたいのに、70流通しているとする。そういう時は、俺たちに捕まえさせる」
「わざとか!?」
目を開き、思わず隣を見ると、綺麗な顔が歪んでいた。
「黒の団や犯罪組織、行政府や被害者……統制することで恍惚感を味わうらしい」
手が、胃の辺りを軽く抑えた。口の中に酸っぱさが広がっていく。
「……気持ち悪いな」
口の中どころか、胸の奥底からむかついて仕方がなかった。
眉間に力が入り、グラスを一気に煽る。
喉に流れ込んでしまって酒の味がしなかったが、今はただ、胸を引き絞る何かが欲しかった。
「そういう奴は、一旦『支配が崩れる』と、精神に影響が出て、後は勝手に自滅していく」
「やらなくても良い証拠隠滅を始めるとかか?」
「ああ。あの日も黒の団を探りに来ていた」
ファルカスは、大きく頷くと、グラスを傾ける。厚目の下唇が濡らりとするのが目に入った。
「実際、捕まった直後から、ドミヌスの精神が壊れ始めている。泣いたり喚いたり……。金が目的なら多分、今頃逃げられていた」
「……理解できないな」
支配欲に万能感……そういうのが動機になるのか。
西の大陸では考えられない。竜は悪意のある事には力を貸してくれないから。
だから、竜たちは、人の悪意には不慣れだ。
はああ。自分が大きく吐いた息に、ファルカスの息も重なった。
2つの透明なグラスが下げられ、新しい琥珀色のグラスが2つ置かれる。
お互いが、グラスを軽く持ち上げた。
「ダリアさん達にも世話になった。改めて礼を言っといてくれ」
「ああ」
チリン。軽く当たった2つのグラスが涼しげな音を立てる。
目を落とすと、晴れ渡った琥珀色が、いつもより澄んでいる。
昼の金髪と赤毛の様子を思い出すと、ふっと息が零れた。礼を言いたいのは寧ろ……あの二人の方だろうな。
ふと、隣に目をやると、伏せた睫毛が濡れたように光っている。
「そういえば、『急がないから、顔出してくれ』って伝えたら、2人とも血相変えて飛び出していくだろ? 驚いた」
「ああ!」
ファルカスがグラスを持ったまま、こっちに指をさしてくる。形の良い唇の両端が持ち上がっていた。
「あれな。『急がない』っていうのは、黒の団の隠語なんだよ。『大至急』ってな」
言われたことに目と口が同時に開く。
「お前。それ、俺に言って良いやつか?」
こっちを見ていたファルカスが怪訝そうな顔をしている。
ぷはっ。突然大きく息を吐いてきた。
「考えても無かったな」
「何で……」
「お前、もう黒の団みたいなもんだろう」
少し考えて、得心する。ああ、なるほど。
「ダリア達がいるからな」
カウンターの木目が数えられそうなほど、顔が下がる。
「ああ? ダリアさん達は関係ないだろ。お前自身の事だろ」
首を傾けると、少し膨れた頬が見えた。
酒のせいか、自分の血液がどんどん流れていく。心臓が跳ねたかと思った……。
ファルカスは、喉ぼとけをゴクリと動かすと、はあっと息を吐く。
隣で吐き出された息を吸い込むと、甘い香りが届く。
「まず、俺が魔獣を倒すのを助けてくれたし、小屋で、食料もくれた。次に黒の団の団員を助けてくれて。そして、違法魔法薬の捜査協力。俺が捕まっている間は、詰所にいてくれて……あと、ダンスの練習に付き合ってもらって……それから……」
ファルカスは、1つずつ指を折りながら話す。右手から指を折り始め、折る指が左手に移ると黙り込んだ。どうしたんだ。
隣から動く気配も感じられず、酒場の喧騒だけが耳に入ってくる。この静けさに堪え切れなくなってきた。
「……お前、ダンスは苦手だったんだなあ」
「あっ、ああ。ああ」
隣を向いて、努めて揶揄うように言うと、勢いよく頷いてくる。
「あれだな、お前は、すごく上手かったな」
こっちを見ながら、うん、うん、うんと頷くファルカス。頷くごとに赤みを増していく。
「俺が来るまでに結構飲んでたのか?」
「1杯だけ……いや、麦酒も飲んだから2杯か……」
何やらごにょごにょ言っていた。
見ると、目もさっきより潤んでいるし、唇が半開きで、何だかハクハクさせている。大丈夫か。
目を凝らしてじっと見る。
天井から落ちる光が、漆黒の髪を照らす。綺麗だな……。
慌てて顔をそらし、両手で鼻と口を覆い、顎を下げる。
ああ——しまった。
もう遅い。思い出してしまった。あの夜を。
自分の手の中に吐き出す息が熱い。自分が息を吐く音が、意外に大きい。
体の内側から波打ち、背中がぞわぞわする。
だめだ、だめだ、だめだ。
顔を上げることができない。
ガタッと音を立てて、隣のファルカスが立ち上がった。
グラスの残りを一気に煽ると、ゴクッ、ゴクッと喉を鳴らす。
グラスをコトンと置くと、中で氷がカランと回った。
「あれだ、本当。いろいろ助かった。仕事が残っていたから帰る。またな」
ファルカスは一息で喋ると、立ち去ろうとする。
「次は、3日後で大丈夫か?」
見える背中に投げかける。
「大丈夫だ」
こっちを振り向きもせずに、扉へ向かう。
いつもの癖が出ているのか、ここからは見えない。
「それから」の続きは、何だったったのか。
あの夜のことが2人の間で話題になったことは、まだ——ない。




