第26話:助ける覚悟
10年前——。
天幕を飛び出したイージスの鼻には、焦げた嫌な臭いが入り、口に入ってくる空気が熱かった。
各所から上がる火の手。あちこちで胃の内容物をもどし、地面を転がり回る騎士達。
頭が猛烈に痛くて割れそうで、吐き気もした。自分の内で湧き上がる衝動と、それを抑えようとする複数の力が拮抗していた。
「団長。火竜がいうことをききません。こんなことしたくないのに」と言った直後に燃え上がった部下は、今の自分と同じくらいの若者だった。
「団長、お願いですから、もう殺してください」そう涙を流しながら頼んできた部下は、自分よりも経験豊富な部下だった。
護ってやることと、絶ってやることが、同じだなんて……耐えられない。
「お前がいれば、メランリュクスは大丈夫だ」
そう言って笑ったオルニス兄さん。
「イージス、メランリュクスの銀の盾……我は、オルニス=シルフィード=ナイアス、今こそ授かりし風竜の加護をすべて返そう」
「何をするつもりだ、オルニス兄さん」
「ゼピュロス! イージスを連れて行け」
叫ぶイージスには構わず、ゼピュロスに命じた——自分の呼びかけには応えてくれなかった。
「離せ、放せ。ゼピュロス!」
大声で喚いても風竜ゼピュロスは決して放してくれなかった。
俺には五竜の加護があったが、風竜の加護だけでいえば、オルニス兄さんの方が強かった。
ゼピュロスが、俺よりオルニス兄さんの言う事を選ぶなんて、分かり切ったことだったのに。
全ての竜の加護が暴走するなか、強い加護を使おうと思ったら、加護を返すしかなかったんだ。
——分かっていたのに……託されていたのに。
カツッ——。
ファルカスの歯が自分の首元に当たり、引き戻される。
フーフーと自分の顔にかかる熱い吐息。自分の腕に伝わる震え。
切れ長の目は開かれることなく、厚めの下唇は閉じられることがない。
あの嫌に甘い匂い……そして、ふり乱れる漆黒の髪。
——助けたい……助けてやりたい。
ファルカスの上体をそっとベッドに下す。
水差しの奥の壁には、鏡が掛けられていた。
意を決して目をやると、鏡に映る自分の髪の毛は——濃い茶色。
髪の色もすっかり変わってしまった……。
東の大陸に来てから加護が使えなくなったせいだろう……ずっとそう思っていた。
呼ばなかったら、ずっとそう思えるのに。
呼んでも来なかったら……。
五竜の中では水竜の加護が一番強い。水竜で駄目なら多分……。
顔を下げると、ファルカスの苦しそうな吐息がかかる。
息苦しかった。
視界の果てまで火柱が立ち並んでいた。
護る力と滅ぼす力が、同じだなんて……耐えられなかった。
両脇に垂らした拳が固くなり、爪が手のひらに食い込む。
ドンドンという音に、目を向けるとファルカスが、背中を大きく反らし、拘束を解こうとしていた。悩んでいる暇は無い。このままでは、怪我をさせるかもしれない。
ファルカスを拘束しているものを全部解く。ベッドに腰を下ろし、正面から両腕でしっかりと抱きしめた。
あの嫌な匂いが、自分の中にも流れ込んでくる。
「もうすこしだけ、辛抱してくれ」
体の中から息を吐き切る。それからゆっくりと息を吸い込んだ。
「我は、イージス=ナイアス=メランリュクス。五竜の加護を授かりし者。我の求めに応えよ。来てくれ! 水竜アクア!」
ファルカスの体が、水色の細かい粒に包まれ始める。その周りを青と蒼の光の層が輝く。
その中で煌めく漆黒の髪が、とても綺麗だった。
ぎゅっと抱きしめると、腕の中の熱が下がっていく。
胸にあたる呼吸がゆっくりになっていき、顎を少し持ち上げると、顔の赤みも無くなっていた。
水竜の加護により、浄化されたようだ。
気が付いたのか。少しこっちを見上げて、パチパチパチッと瞬きする。
何やら唇を動かしてから、目を閉じた。
ベッドに横たえると、静かな寝息を立て始めていた。
音をたてないように、ベッドに腰かけ直すと、頭と頬を撫で、首元から髪を梳いてやる——何度も何度も。
ファルカスの上で、水色と青の光がきらりと光る。
(——やっと呼んでくれたね、イージス)
「ごめんね、アクア」
10年ぶりだというのに、水竜は呼びかけに応えてくれた。
(この子も、もう大丈夫だね)
水色の光が漆黒の髪を撫でるように、動いていく。
「……ん……」
光に髪を撫でられたファルカスの唇が動く。
「ありがとう、アクア」
(ねえ、イージス。スルトは、イージスが怒っていると思ってるよ)
「いや。あれは、スルトのせいじゃない」
ファルカスの上で輝く蒼い光に向かって首を振る。
(ねえ、思い出して、イージス。イージスが受け入れてくれないと、私たちも力を貸せないよ)
青い光が、きらきらっと点滅したように光る。
(もう行くね。東の大陸だと、これが精いっぱいみたい。ねえ、イージス。次は、スルトのことも呼んであげてね)
固く唇を引き結んでいたせいか、応える言葉が口から出せなかった。
(またね……)
パチパチパチと光が消えていき、アクアも消える。
頭がひどく重たい。俺も少しだけ眠い……。
朝になったのか。
頭の後ろの方から、チッチッチという鳥の鳴き声が聞こえてくる。
頭の上に、何か温かい物が置いてあった気がしたんだが……。
額の下で何かがモゾモゾと動き、目を開ける。
「……ん?」
額を上げると、切れ長の目を細くしたファルカスの顔がすごく近い。
「起きてたのか?」
とりあえず、訊いてみたが、何でファルカスの顔がここにあるのか。
「あっ!」
勢いよく上体を跳ね上げる。ベッドには、仰向けのままのファルカス。
あの後、ファルカスの肩口に額をあてたまま寝入ってしまったようだった。
ファルカスの顔を見ると、漆黒の髪は張り付いたままだが、形の良い眉も、切れ長の目も……いつも通りだった。
「ファルカス。もう、大丈夫だ」
大きく息を吐くと肩から力が抜けていく。
「イージス……助かった」
ファルカスが、厚めの下唇に手の甲をあてながら俯いている……元に戻った。
ひょっとして……竜の加護も……。
——眩しいな。
目を眇め顔を上げると、窓の外から朝の光が差し込んでいた。
昨日の夕方には、湿り気を含んでいた空気も、今朝は気にならない。
朝の光に煌めく漆黒の髪を見つめる。
「いや。お前が助かってくれたおかげで、俺も助けられたんだ」
開いたままのファルカスの目が、「訳が分からない」と言っていたが——それでいいと思った。
ここから、二人がどう向き合っていくのか。どうか、静かに見届けていただけたら嬉しいです。




