第22話:潜入前夜
あれから潜入する日はすぐに決まり、イージス達は準備に追われていた。
今日もベルに跨り詰所へ向かうと、風をはらんだ団旗が見えてくる。
夏の爽やかな風が、団旗を泳がせ、汗を引かせていった。
団長執務室の前に立つと、扉の向こうからファルカスの大きな声が聞こえてくる。
「絶対に嫌だ」
「仕方ないですよ」
構わず扉を開けると、ソファには、ムスッとしたファルカスと、眉を少し下げたアル。
「珍しいな。何を揉めているんだ?」
ファルカスは一度言い出すと、絶対に引かない所がある。二人はこちらに構うことなく続けていた。
「兄さん。多少のダンスはできないと問題かと思います」
「いや、別に問題ないだろう」
ファルカスの声が、さっきより少し大人しい。どうやら、晩餐会のダンスを回避しようと駄々を捏ねているようだ。
仕事中は自制しているアルの「兄さん」呼びは貴重だ。いつもは効果があるのに、珍しい。
「リードする方、される方。どっちでも良いからできないと話にならないぞ」
横からつい口を出してしまった。
ソファの背もたれに手をつくと、ファルカスが黙って横にずれてくれる。
隣に腰を下ろそうとしたところで、こっちを見上げてきた。
「そういうお前は、どうなんだ?」
「俺? 俺は踊れるぞ」
「え?」
形の良い眉が引き上がって、口が少し開いた。
「何なら、今からやるか?」
訓練場に場所を移して、ダンスを披露することになった。
「言っとくけど、俺はリードする方しかできないぞ」
ウルスと、アルの副官もやってきて、数人の団員達も見学に回っている。
アルを相手にダンスを披露すると、「ほお!」とか「おお!」とかいう声が耳に入ってきた。
ファルカスが頑なに抵抗していた理由も分かった。
アイツが踊っているのを見ていると、周りからは「ああ……」という低い声が漏れ聞こえる。
ウルスが、腕を組んで頭を捻っていた。
「何で、あんなに踊れないもんかなあ」
「副団長、照れ屋ですからねえ」
副官の声に、皆が「あー」と低く長い声を出す。
アルと踊ってきたファルカスが、立ったままの自分の隣に腰を下ろした。
見下ろすと、頭を下げて床を見ている。
「お前、リードする方は、諦めろ」
「な……」
突きつけた指を見上げながら、口をはくはくさせている。
「男女で役割が決まっている訳じゃないし、男女で踊るわけでもない。『晩餐会は初めてだから、あまり踊れません』っていうのは、大事なんだ」
「じゃあ、踊らなくて良いだろう」
不貞腐れたように口をとがらせてくるが、頭を振ってみせる。
「参加希望の体なんだぞ。『踊らない』のが問題なんだ」
まだ、納得のいかないような顔に頭を掻く。仕方がない。
「任務だぞ」
一言だけ口に出すと、ファルカスが肩を落とした。
「今からでも、リードされる方なら間に合う」
顎をしゃくって、立つように促してやる。
ファルカスの手を取り、背中に右手を回す。
こちらを握ってくる手が少し湿っている気がする。緊張しすぎだな。
「肩の力を抜け」
「抜いてるだろう!」
両肩がしっかりと持ち上がっているのに、なかなか認めようとしない。眉をそんなに顰めて。
力が入りすぎると、双方が消耗してしまう。すぐに休憩することになった。アルからタオルを受け取って、2人で立ったまま汗を拭く。
アルと並んで見学していたウルスが、自分たちをじっと見てきた。
「そういえば、お前達。互いに何て呼んでいるんだ?」
突然のウルスの質問に、眉間に力が入る。何でそんなこと訊くんだ。
「特に呼んだことない。なあ?」
「必要ないからな」
ファルカスに同意を求めると、アイツの眉間も皺が寄っていた。
ウルスの太い眉がピクッと動いた。
「ちょっと、いいか? アルと俺とファルカス。こうやって並んでたら、何て呼ぶ? イージス!」
ウルスがこっちに指を突き付けてきた。
「……副団長かなあ?」
「じゃあ、今度はお前だ、ファルカス! お前は、俺達が一緒にいたら何て呼ぶんだ?」
ウルスは、手のひらを見せながら自分とアルの前に腕を広げた。
「運び屋だろ」
自分たちの答えが気に食わなかったらしく、はあっと深いため息を吐かれる。
ファルカスと顔を見合わせる。意味が分からない。
「お前たち全く駄目だ! そんなんじゃ、潜入にならんだろ。名前で呼べ、名前で!」
大声を出しながら、ウルスが勢いよく両腕を挙げていた。
「あ!」
「ああ……」
自分たちも納得の声が出る。確かにそうだ。
「とりあえず、今からは2人の時も『お前』じゃなくて、名前でお願いします」
こちらを見るアルの声には、抑揚がなかった。
「はい、すみません」
「ああ……」
いつもより厳しめのアルに、一緒に小さく応える。
「特に兄さん。そういう所がダンスにも繋がっているんですよ」
アルは両肩を下げると、長く深い息を吐いた。
ファルカスの手を取り、背中に右手を回す。まずは、姿勢からやり直そう。
「肩の力を抜けって言っているだろう? 剣を振る時と同じだよ」
今度は、反論してこなかった。自覚はあるらしい。
「お前、踊れるんだな……」
ぼそっと呟くファルカスの耳が少し赤い。片手が空いていたら、いつもの癖が出ていただろう。
自分の片頬が緩んでいく。
「昔、必要に駆られてな。10年ぶりだけど、意外に踊れるもんだな」
背中に回した右手を腰までずらすと、軽く力を込める。こっちが腰を近づけると、腰を引いてしまうファルカス。
「腰を引くな。腰を」
位置を直す度に、ビクッとされてしまう。
「それよりもファルカス。また『お前』って言ったな? アルに怒られるぞ」
緊張しているのか、恥ずかしいのか、ちっともこっちを見ない——まあ、両方だな。
「両方は無理だ……」
精一杯顔をそらしているが、形の良い唇が引きつっているのが目に入る。
「両方……? ダンスと名前ってことか?」
返答がないのは、肯定ってことだろうな。
繋いだ手はそのままに、腰から離した右手をアイツの頭の上に置く。
「じゃあ今は、俺だけを見とけ」
顔をこっちに向けて回してやった。顔を回されたアイツは、大きく目を開く。
相変わらず、顔を近づけようとしてこなかったが、アイツの匂いだけは、濃くなっていった。




