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奈落から始まる言霊支配〜スキルなしと切り捨てられた俺は、邪神と共に女神を殺す〜  作者: 黒海苔


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五話:先人の記録

 暗い通路に入ってすぐ、俺は後悔した。


 さっきまでの通路も十分暗かった。だが、ここは違う。

 闇が濃い。ただ光がないだけじゃない。闇そのものが、粘ついた液体みたいに肌へまとわりついてくる。


「……なぁ」

「なに?」

「この道、本当に合ってるんだよな?」

「たぶん」

「その"たぶん"を禁止にしたい」

「じゃあ、きっと」

「言い換えただけだろ!」


 ノアはくすくす笑いながら、俺の少し前を浮かんでいる。

 腹立たしいことに、こいつは暗闇の中でもよく見えた。銀紫色の髪。宝石みたいな紫の瞳。黒と紫のドレス。

 奈落の闇の中で、こいつだけが妙に綺麗に浮かび上がっている。


「……便利だな、お前」

「でしょ?」

「非常灯としては」

「扱いが雑!」

「邪神として扱われたいなら邪神らしく役に立て」

「やだ。非常灯の方がかわいいし」

「かわいくはない」

「ひどい。ユウの目、節穴?」

「節穴でいいから安全な道を見つけたい」


 そんなやり取りをしながら歩いていると、足元の感触が変わった。

 石畳ではない。柔らかい。踏むたびに、ぐに、と沈む。


「……おい」


 俺は足元を見下ろした。

 黒い苔のようなものが、床一面に広がっている。いや、苔じゃない。微かに蠢いている。


「……これ、何だ」

「影苔だね」

「名前からして嫌なんだけど」

「暗い場所に生える奈落産の苔。踏むと足音を吸ってくれるよ」

「お、便利じゃん」

「その代わり、長く踏んでると体温も吸う」

「先に言え!」


 慌てて足を上げる。確かに、靴越しなのに足先が冷えていた。


「どれくらい踏んだらやばい?」

「今のユウなら、五分くらいで足の感覚なくなるんじゃない?」

「短すぎるだろ!」

「でも足音消えるよ」

「メリットとデメリットが釣り合ってない!」


 俺は壁際の石が露出している場所を選んで歩く。

 だが、通路の先へ行くほど影苔は広がっていた。避けきれない。


「……面倒だな」

「命令してみたら?」

「苔に?」

「うん」

「苔に命令って効くのか?」

「さっき水に命令したじゃん」

「あれは……まあ、そうだけど」


 俺は影苔を見下ろした。黒く、薄く、呼吸するみたいに震えている。

 こいつに何を命令する?


 消えろ? いや、床全部に広がっているものを消すのは重そうだ。代償が怖い。

 なら、もっと小さく。


「……道を空けろ」


 言った瞬間、影苔がざわりと揺れた。

 俺の目の前から、細い一本の道ができる。黒い苔が左右へ逃げるように退いたのだ。


「おお……」

「いいね。今の命令は軽い」

「代償は?」

「眠気くらい?」

「地味に嫌だな」


 確かに、少しだけまぶたが重い。だが、歩けないほどではない。


 俺は慎重に、苔のない道を進む。


「ユウ、意外と使い方うまいね」

「意外とって何だ」

「もっと"消えろ!"とか叫んで倒れると思ってた」

「俺を何だと思ってる」

「勢いだけの復讐者」

「評価が低い」

「でも成長枠だから」

「勝手に枠を作るな」


 しばらく進むと、通路の先が広くなった。

 そこは円形の空間だった。中央には、壊れた石像が立っている。

 人の形をしているが、頭がない。両腕も欠けている。背中には翼のようなものがあった。


「……女神像か?」

「かもね」

「壊れてるな」

「壊したくなる顔だったんじゃない?」

「頭ないから顔分からねぇよ」


 円形の空間には、三つの出口があった。左。右。正面。

 どれも暗い。どれも嫌な気配がする。


「……三択か」

「楽しいね」

「楽しくない。こういう時は普通、正解ルートが一つで、他は罠だろ」

「全部罠かもよ」

「最悪のこと言うな」


 俺は石像に近づいた。台座に文字が刻まれている。読めない。


「ノア」

「読む?」

「お願いします」

「素直でよろしい」


 ノアは得意げに胸を張る。小さいくせに態度がでかい。


「えーっと。"飢えた者は左へ。渇いた者は右へ。帰りたい者は正面へ"」


「……」


 俺は三つの道を見る。


「帰りたい者は正面へ、か」

「分かりやすいね」

「分かりやすすぎて罠だろ」

「かもね」

「お前、さっきから"かもね"しか言ってないぞ」

「だって断言したら面白くないし」

「命懸けの場面でエンタメ性を優先するな」


 俺は考える。

 飢えた者。渇いた者。帰りたい者。

 今の俺は全部当てはまる。腹は減っている。喉も渇く。帰りたい気持ちも、ないと言えば嘘になる。


 だが、正面はあからさますぎる。帰りたい者。そう言われて正面に進むやつは多いだろう。

 つまり、処理するならそこだ。


「……右だな」

「理由は?」

「水場があった。渇いた者って言葉が繋がる。たぶん右は水に関係する道だ」

「ふむふむ」

「左は飢えた者。たぶん餌か、食う魔物か、食われる道」

「うんうん」

「正面は帰りたい者。絶対にろくでもない」

「なんで?」

「人間は帰りたい時ほど判断力が鈍る」


 言ってから、自分で少し驚いた。妙に冷静だった。

 奈落に落とされた直後なら、きっと正面に走っていたかもしれない。帰れる。地上に出られる。そんな言葉に縋っていたかもしれない。


 でも、今は違う。女神の言葉も。この奈落の誘導も。簡単には信じない。


「おお」


 ノアがぱちぱち拍手した。


「ユウ、ちょっと賢そう」

「ちょっと余計だ」

「じゃあ、かなり賢そう」

「言い直せばいいってもんじゃない」


 俺は右の通路へ進んだ。

 通路は狭く、湿っていた。壁から水が染み出している。足元にも小さな水たまりがある。

 だが、さっきの泉と違って、この水は濁っていた。黒い。そして、時折、水面に泡が浮かぶ。


「……飲みたくない水だな」

「飲んだら?」

「飲まねぇよ」

「成長したね」

「最初から飲まない」


 奥へ進むにつれて、水音が大きくなった。ざああ、と流れる音。川だ。地下に川がある。


 通路を抜けると、そこには黒い川が流れていた。

 幅は五メートルほど。向こう岸には、さらに上へ続く階段が見える。


「……あそこか」

「上に行けそうだね」

「問題は川だな」


 橋はない。水面は黒く、底が見えない。流れは速い。落ちたら終わりだ。


「泳ぐ?」

「泳げるわけないだろ」

「ユウ、水泳苦手?」

「普通。だが黒い地下川を泳ぐ授業は受けてない」

「学校って不便だね」

「そんな授業がある学校の方が嫌だ」


 川の周囲を調べる。壊れた橋の跡があった。石の柱が二本、川の中に残っている。

 昔は橋があったのだろう。だが、今は渡れない。


「言霊でどうにかするか……」


 川そのものに命令する? 止まれ。いや、流れ全部を止めるのは重そうだ。

 なら、渡るための一点だけ。


 俺は足元の小石を拾い、川へ投げる。


「浮かべ」


 小石が水面に落ちる。沈む――直前。止まった。黒い水の上に、小石が浮いている。


「……いける」

「おお。発想がせこい」

「賢いと言え」

「せこ賢い」

「悪化した!」


 俺は周囲の瓦礫から、踏めそうな石をいくつか拾った。一つずつ川へ投げる。


「浮かべ」「浮かべ」「浮かべ」


 石が水面に留まる。即席の足場。ただし、長くは持たない。

 すでに最初の石が震え始めている。


「急げってことか……」

「落ちたらどうなるかな」

「楽しそうに言うな」

「想像力は大事だよ」

「今はいらない!」


 俺は息を吸った。石から石へ。渡る。失敗したら黒い川に落ちる。たぶん、ただでは済まない。


「ノア」

「なに?」

「落ちたら助けろ」

「考えとく」

「助けろ!」

「じゃあ、落ちないように頑張って」

「こいつ……!」


 文句を言っている暇はない。俺は一歩目を踏み出した。


 石が沈みかける。「っ!」 すぐに次の石へ跳ぶ。二歩目。三歩目。

 足元が不安定だ。黒い水が靴の裏を舐めるように揺れる。心臓がうるさい。


「ユウ、右足震えてる」

「実況するな!」

「左足も」

「黙れ!」

「でも顔は必死で面白い」

「帰ったら覚えてろ!」


 中央の柱までたどり着く。そこで一度、息を整える。残り半分。


 その時。川の中で、何かが動いた。黒い水面が盛り上がる。


「……は?」


 長い影。蛇のようなもの。いや、違う。水面から、白い骨のような口が現れた。

 丸呑みにするための口。牙が円形に並んでいる。


「ノア!」

「奈落ウナギだね」

「名前はどうでもいい!」

「触ると痺れるよ」

「情報が遅い!」


 奈落ウナギが跳ねた。俺の足場ごと喰らおうと、口を開ける。逃げ場がない。


「閉じろ!」


 奈落ウナギの口が、ばちんと閉じた。だが勢いは止まらない。

 巨大な体が柱へぶつかる。


「うわっ!」


 柱が揺れた。俺の体が傾く。落ちる。


「踏ん張れ!」


 自分に向かって叫んだ。足が石に張りつくように止まる。

 だが、その代償で足首に鋭い痛みが走った。


「っ、痛ぇ!」

「自分に命令するのもできるんだ」

「今知ったよ!」

「便利だね」

「痛いんだよ!」


 奈落ウナギが再び水面下へ潜る。次が来る。

 俺は迷わず、残りの石へ跳んだ。


「浮かべ! 沈むな! 崩れるな!」


 連続で命令する。頭が痛む。喉が焼ける。それでも走る。


 最後の石。向こう岸まであと少し。背後で水が爆ぜた。


「ユウ、後ろ」

「分かってる!」


 振り返らない。振り返ったら遅れる。俺は最後の一歩を踏み出し、向こう岸へ飛び込んだ。


「届かない!」


 背後で、奈落ウナギの口が空を噛んだ。牙が、俺の靴のすぐ後ろを掠める。

 俺は向こう岸の石床に転がった。


「っ、はぁ……はぁ……!」


 生きている。渡った。渡り切った。


「おめでとう、ユウ」


 ノアがふわりと隣に降りてくる。


「川渡り成功。点数は八十二点」

「……今回は高いな」

「最後の"届かない"はよかったよ。相手にじゃなくて、状況に押しつけた感じ」

「状況に……」

「言霊は命令だけじゃない。ユウが本気で世界に押しつけられる言葉なら、少しだけ現実が曲がる」

「……便利だけど、怖いな」

「うん。だから面白い」

「お前は本当にそればっかだな」


 俺は仰向けになったまま、天井を見上げた。

 黒い闇。だが、川を渡った先の階段は、確かに上へ続いている。


 少しだけ、地上に近づいた。そう思えた。



   ◇



 階段を上がると、踊り場に古い扉があった。

 表面には、壊れた翼と閉じた目、そして鎖の紋章。


「……また嫌な感じの扉だな」

「開ける?」

「開けないと進めないだろ」


 ぎぎぎ、と嫌な音を立てて、扉が開いた。

 その先には、小さな部屋があった。魔物はいない。代わりに、壁一面に古い文字が刻まれている。


 床には、壊れた鎧。錆びた剣。空の水袋。誰かが、ここで休んでいたような痕跡。

 いや。ここで生き延びようとしていた痕跡だ。


「……ここ、誰かいたのか」

「昔はね」


 ノアの声が、少しだけ静かだった。


 俺は部屋の奥へ進む。壁際に、小さな木箱があった。半分腐っている。触れると崩れそうだ。

 俺は慎重に蓋を開けた。


 中には、乾いた布。錆びた短剣。そして、革紐で縛られた薄い手帳が入っていた。


「……手帳?」


 俺はそれを手に取った。表紙は汚れている。だが、中身はまだ読めそうだった。


「日記っぽいね」

「……誰のだ」

「読めば分かるかも」


 白骨死体はない。けれど、この部屋には確かに誰かがいた。

 ここで息を潜め、魔物から逃げ、地上を目指した誰かが。

 そして、たぶん。その誰かは、もういない。


「読むぞ」

「うん」


 ノアは笑わなかった。珍しく。本当に珍しく、黙って俺の隣に立っていた。


 俺は、手帳の最初のページを開いた。



   ◇



「古い聖王国語だね」


 ノアが小さく言った。


「読めるのか?」

「読めるよ」

「じゃあ読め」

「命令?」

「お願いです」

「よろしい」


 ノアは満足そうに頷くと、手帳を覗き込んだ。そして、最初の一文を読み上げる。


「"私は、勇者ではなかった"」


 その言葉に、指が止まった。


「……勇者ではなかった?」

「続けるよ」


 ノアは、珍しく茶化さずに読み進めた。


「"正確には、勇者として召喚された。だが、鑑定晶は私に何の光も示さなかった。女神セレスティアは微笑みながら言った。あなたには恩寵がありません、と"」


 心臓が、嫌な音を立てた。


 同じだ。俺と同じ。


「……そいつも、スキルなしだったのか」

「みたいだね」


 ノアは次の行へ視線を落とす。


「"仲間たちは私を庇った。だが、女神は言った。恩寵なき者は足手まといになる。魔王の瘴気に侵され、いずれ魔物になる危険がある、と"」


「……」


 俺は何も言えなかった。

 女神の言葉。俺に言った言葉と、ほとんど同じだ。

 あいつは初めて俺を切り捨てたわけじゃない。前にも、同じことをしている。

 いや。きっと一度や二度じゃない。


「"私は奈落へ送られた。慈悲として、生存の可能性を残すと言われた。出口はある、と。過去に出た者はいないが、可能性はゼロではない、と"」


「……完全に同じじゃねぇか」

「うん」

「台本かよ」

「たぶん台本だよ」


 ノアはあっさり言った。


「ユウに言った言葉も、この人に言った言葉も、きっとずっと前から使い回してる」


「最低だな」

「神様って効率好きだからね」

「その言い方、嫌いだ」

「ボクも好きじゃないよ。面白くないし」

「そこかよ」


 少しだけ、いつもの調子が戻る。だが、笑えなかった。


「続き」

「はいはい」


 ノアが読み上げる。


「"奈落の第一層。魔物の群れを逃れ、黒い川を越えた。川には骨の魚が潜んでいた。同行者はいない。水も少ない。だが、まだ生きている"」


「黒い川……さっきのところだな」

「同じルートを通ってるね」


「"私はこの部屋を一時の避難所とする。もし、この手帳を読む者がいるなら伝えたい。正面の道を選んではならない。帰りたい者を誘う道は、帰れない者を呑み込む口だ"」


「……正面、やっぱり罠だったか」

「ユウ、正解」

「褒められても嬉しくない」


 だが、背筋は冷えていた。もし正面を選んでいたら。その言葉に縋っていたら。

 俺は今、ここにいなかったかもしれない。


「"左の道は飢えの獣が巣を作っている。右の道は黒き川へ続く。川を越えれば、上へ向かう階段がある。だが、これは出口ではない。奈落は登るほどに、人の心を試す"」


「登るほどに、心を試す……?」

「嫌な文だね」

「お前が言うな」

「ボクは人の心を試す側だから」

「自覚あるならやめろ」

「やだ」

「知ってた」


 俺は壁にもたれた。疲労が一気に来た。


 奈落はただの地下遺跡じゃない。封印。罠。試練。

 そして、過去に同じように捨てられた人間の痕跡。


「この人、地上に出られたのか?」


 聞くまでもない。だが、聞かずにはいられなかった。


「少なくとも、この手帳はここで終わってない」

「つまり、この部屋からは出たんだな」

「たぶんね」

「じゃあ、俺たちも行ける」

「前向き」

「そうでも思わないとやってられない」


 俺は手帳を閉じようとした。だが、その前に、ノアが「あ」と声を漏らした。


「なに?」

「後半、筆跡が変わってる。最初とは別の場面で書いたみたい」

「……読め」


 ノアは一瞬、俺を見る。


「……いいの?」

「ここまで来てやめるな」

「うん」


 彼女は、手帳の後半を開いた。


「"女神は嘘をついた"」


 部屋の空気が、一段冷えた気がした。


「"奈落は処刑場ではない。処分場だ。役に立たない者を捨てる場所ではない。知ってはいけない者を消す場所だ"」


「……知ってはいけない者?」


「"私は見た。奈落の壁に封じられた名を。女神セレスティアが消した神々の名を。彼女は世界を守っているのではない。世界を自分の形に整えている"」


 俺は息を呑んだ。


 世界を守っているのではない。世界を自分の形に整えている。


 女神の冷たい笑顔が脳裏に浮かぶ。世界を救うため。必要な判断。少数を切り捨て、多数を救う。

 全部、正しそうな言葉だった。


 けれど。正しそうな言葉で、人を捨てるやつを、俺はもう信じない。


「"もしこの記録を読む者がいるなら、地上へ戻れ。そして伝えろ。女神の言葉を信じるな。あれは慈悲ではない。管理だ。あれは救済ではない。選別だ"」


 ノアが、そこで読むのを止めた。


「……続きは?」

「あるよ」

「読めよ」


 ノアは少しだけ目を細めた。それから、最後の数行を読んだ。


「"私はもう長くない。だが、まだ進む。せめて、私の死が次の誰かの道標になるように。この手帳を残す。名も知らぬ後続者よ。もし君が私と同じように捨てられた者なら――生きろ。女神に、君の結末を決めさせるな"」


 静寂。


 俺は手帳を見つめた。

 名も知らない誰か。俺より前にここへ落とされ、俺より前にこの道を進み、俺より前に女神の嘘に気づいた人間。

 そいつは、きっと死んだ。でも、言葉は残った。


 生きろ。女神に、君の結末を決めさせるな。


「……くそ」


 喉の奥が熱くなる。怒りなのか。悔しさなのか。それとも、別の何かなのか分からない。


「なぁ、ノア」

「なに?」

「この人も、女神に捨てられたんだよな」

「うん」

「俺だけじゃないんだな」

「うん。たくさん、捨てられたんだろうね」

「……そうか」


 俺は手帳を閉じた。そして、制服の内ポケットに入れる。


「持っていくの?」

「ああ」

「荷物になるよ」

「知ってる。読めるやつが隣にいる」

「ボクを便利翻訳機扱い?」

「非常灯兼翻訳機」

「邪神の尊厳が!」

「最初からないだろ」

「あるよ。ちょっとだけ」

「ちょっとかよ」


 ノアはふっと笑った。俺も、ほんの少しだけ息を吐いた。


 重いものを読んだ。けれど、不思議と足は止まらなかった。むしろ、進む理由が増えた。


 この手帳を書いた誰かの言葉を、地上へ持っていく。女神が消したかったものを、消させない。


「行くぞ」

「うん」

「次の階層へ」

「お、かっこいい」

「茶化すな」

「でも本当にちょっとかっこよかったよ」

「……うるさい」


 俺は部屋を出た。手帳の重みが、胸の内側に残っている。


 階段はまだ続いていた。上へ。上へ。

 暗い石段を登るたび、奈落の空気が少しずつ変わっていく。



   ◇



 さらに進むと、階段の終わりに巨大な門が見えた。

 獣の顔を模した石の門。大きく開いた口。牙のように並ぶ石柱。喉の奥へ続く、赤黒い通路。


「……これか」

「っぽいね」

「獣の腹って、比喩じゃなかったのかよ」

「奈落、意外と素直だね」

「素直な見た目が一番嫌なんだよ」


 門の奥から、生ぬるい風が吹いた。まるで、本当に獣が呼吸しているみたいだった。


「……入るしかないんだよな」

「うん」

「中に何がいると思う?」

「獣の腹っていうくらいだから」

「言うな」

「消化されるかも」

「言うなって言っただろ!」


 ノアは楽しそうに笑う。


「行くぞ」

「うん」


 俺は深く息を吸った。手帳を胸にしまい直す。

 言霊の反動はまだ残っている。足も痛い。腹も減っている。それでも、進む。


 獣の口のような門へ、俺は一歩踏み入れた。


 瞬間。門が、背後で閉じた。ごうん、と重い音。退路が消える。


「……おい」

「閉じたね」

「見れば分かる」

「いよいよ本番って感じ」

「楽しそうだな」

「うん」


 赤黒い通路の奥で、何かが脈打った。壁が動いている。床も、わずかに上下している。

 石ではない。肉だ。


「……最悪だ」


 奥から、低い唸り声が響いた。いや、唸り声ではない。腹の音。

 巨大な何かが、俺たちを呑み込んだまま、消化しようとしている音。


 俺は拳を握る。


「……いいだろ。俺を食えると思うなよ」


 ノアが隣で笑う。


「おお、言うねぇ」

「黙ってろ」

「じゃあ採点だけするね」

「するな」


 俺は前を見据えた。


 奈落の道はまだ続く。でも、後戻りはできない。

 手帳を書いた誰かも、きっとここを通った。

 なら。俺も通る。


「行くぞ」


 俺と邪神は、脈打つ奈落の奥へ進んだ。

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