三話:礎と奈落
「待ってください」
声を上げたのは、白石ミナトだった。
広間の視線が彼女に集まる。白石は一瞬だけ怯んだように見えた。けれど、すぐに背筋を伸ばした。
「黒瀬くんにはスキルがないんですよね」
「はい」
「なら、戦わせなければいいだけです。私たちと一緒にいて、後方支援とか、雑用とか、できることを探せば――」
「それは不可能です」
女神セレスティアは、白石の言葉を最後まで聞かなかった。微笑んだまま。当然のように。
「なぜですか」
「恩寵を持たぬ異界人は、魔王の瘴気に侵されやすいのです。遠征に同行させれば、足手まといになるばかりか、魔物化する危険すらあります」
魔物化。その言葉に、クラスがざわついた。
「さらに、スキルを持たぬ者は成長もしません。訓練しても意味は薄く、戦場に出せば即死。城に置けば資源を消費し、保護すれば他の勇者の負担になります」
丁寧な説明だった。だからこそ、逃げ場がなかった。
俺は役に立たない。俺を守る価値もない。俺を置いておくことすら損になる。
女神はそれを、感情を交えずに並べていく。
「でも……だからって、見捨てるんですか」
白石の声が震えた。
「見捨てるのではありません」
女神は、そこで初めて少しだけ表情を柔らかくした。
「適切な場所へ送るのです」
「適切な、場所?」
「奈落です」
広間が静まり返った。
奈落。言葉の意味を知らないやつでも、響きだけで分かる。まともな場所ではない。
女神はゆっくりと階段を降りた。白い衣が揺れる。青白い炎が、その姿を照らす。
「エルディア聖王国の地下には、古き時代に封じられた大穴があります。名を、奈落の底。そこには、地上に出してはならない魔物、呪われた獣、狂った魔導生命が封じられています」
俺の喉が鳴った。嫌な予感が、形を持っていく。
「待ってください」
今度は神崎が言った。
「まさか、黒瀬をそこに送るつもりですか」
「はい」
即答だった。神崎の表情が険しくなる。
「それは処刑と同じじゃないですか」
「いいえ。奈落には出口があります」
「出口?」
「たどり着ければ、地上に出られます。過去にも、そう説明して送り出した者はいます」
「出られた人は?」
白石が聞いた。女神は微笑んだ。
「記録上、一人もいません」
空気が凍った。それはもう、答えだった。
生きて出られる可能性なんてない。俺を殺すと言っているのと同じだ。
「ふざけんなよ……」
自分の声だと気づくのに、少し時間がかかった。
俺は女神を見ていた。
「俺は、勝手に連れてこられただけだろ。頼んでもない。勇者になりたいなんて言ってない。なのに、スキルがないから奈落に捨てる? そんなの、あんたらの都合だろ」
「その通りです」
女神はあっさり頷いた。
「ですが、世界を救うためには必要な判断です」
必要。その一言で片づけられた。
俺の恐怖も。怒りも。これから殺されるかもしれないという現実も。
「黒瀬くんは人間です!」
白石が叫んだ。
「道具みたいに扱わないでください!」
「もちろん、人間として扱っています」
女神は白石を見る。
「だからこそ、慈悲として生存の可能性を残します。その場で殺すのではなく、奈落に送る。これは処刑ではなく試練です」
「詭弁です」
白石の声が低くなった。
俺は驚いた。白石が、こんなふうに怒るところを初めて見た。
彼女は俺のために怒っている。
俺は、さっきまでほんの少し嬉しかった。ノアから解放されたかもしれない。異世界でも、何か変われるかもしれない。そんな甘い期待をした。
でも今、俺は白石に庇われている。何も持っていないから。自分では何もできないから。
情けなかった。嬉しいのに、悔しかった。
「ミナト」
神崎が白石の横に立った。
「俺も反対です。黒瀬に力がないなら、俺たちが守ればいい」
その言葉に、周囲がざわつく。
「おい、アオイ」
レンが不機嫌そうに言った。
「マジで言ってんのかよ。俺ら、魔王倒せって言われてんだぞ? 足手まとい抱える余裕あんの?」
「足手まといかどうかは、これから決めればいい」
「スキルなしって出ただろ」
「だからって捨てていい理由にはならない」
「綺麗事じゃね?」
レンは鼻で笑った。
「俺、黒瀬が嫌いってわけじゃねぇよ? でもさ、現実見ろよ。ここ日本じゃねぇんだろ? 化け物がいて、魔王がいて、俺らも死ぬかもしれねぇ。そんな状況で、何もできないやつ守って全滅したら意味ねぇじゃん」
何もできないやつ。その言葉が刺さった。反論できないのが、余計に痛かった。
「……でも、黒瀬くんを奈落に送るのは違う」
日向マコトが、小さく言った。意外だった。俺は日向を見た。
彼は震えていた。でも、俺を見ていた。
「だって、それは……ひどい、と思う」
「マコトまで何言ってんだよ」
レンが睨むと、日向はびくりと肩を震わせた。でも、引っ込まなかった。
それだけで、少し胸が熱くなった。
俺は日向を助けたわけじゃない。ノアに命令されて、仕方なく動いただけだ。
なのに今、日向は俺のために声を出している。
「皆さま」
女神の声が広間に響いた。不思議と、その一言だけで空気が鎮まった。
女神は困ったように微笑んでいた。
「優しさは尊いものです。仲間を思う気持ちは、勇者に必要な資質でしょう」
それから、俺を見た。
「ですが、優しさだけでは世界は救えません」
女神が指を鳴らす。すると、広間の床に光の地図が広がった。大陸。国境。黒く塗りつぶされた地域。赤い点滅。
「現在、北方の砦は三日以内に陥落します。東の森では魔物化した獣が村を襲い、南部では瘴気病により千人以上が床に伏しています。魔王復活まで、猶予は長くありません」
映像が次々と浮かぶ。傷ついた兵士。泣いている子供。焼けた村。黒い霧に飲まれる森。
誰も何も言えなくなった。
「あなた方が一日遅れれば、救えたはずの命が失われます。訓練も、装備も、知識も、すべて急がねばなりません」
女神は白石と神崎を見る。
「その中で、恩寵なき一人を守るために、貴重な時間と人員を割きますか?」
「それは……」
神崎が言葉に詰まった。白石も唇を噛む。
女神は優しく続けた。
「これは冷酷な判断ではありません。全体を救うための選択です。あなた方は勇者です。これから何度も、少数を切り捨て、多数を救う選択を迫られるでしょう」
俺は理解した。
この女神は、俺を殺そうとしているだけじゃない。
クラス全員に教え込もうとしている。
切り捨ててもいい人間がいる。その判断をするのが勇者だ。それが世界を救うということだ。
その最初の教材が、俺なのだ。
「……俺を、練習台にするのかよ」
俺の声は、かすれていた。
「いいえ」
女神は微笑む。
「あなたにも役割があるのです」
「役割?」
「他の勇者たちに、現実を知っていただく役割です」
女神は、まるで祈りを捧げるように両手を重ねた。
「あなたが消えることで、他の勇者たちは自分が選ばれた意味を理解できます。自分たちは守られる側ではなく、守る側なのだと。弱き者は淘汰され、力ある者が世界を救うのだと。あなたの退場は、彼らにとって最初の教訓になるでしょう」
その声は、どこまでも穏やかだった。だからこそ、吐き気がした。
「俺を……見せしめにするってことかよ」
「言葉を選ぶなら、礎です」
セレスティアは微笑んだ。
「世界を救う勇者たちの、尊い第一歩です」
視界が歪んだ。怒りなのか恐怖なのか、自分でも分からない。
「ふざけんな……」
女神は俺に近づいてきた。兵士たちが左右を固める。
「黒瀬ユウ。あなたはスキルを持たない。魔王討伐には不要です。ですが、あなたの存在によって他の勇者たちは覚悟を学べます」
「俺は、教材じゃない」
「はい。あなたは人間です」
女神はそこで、ほんの少しだけ首を傾けた。
「ですが、役に立たない人間です」
その瞬間。何かが、胸の奥で折れた気がした。
今まで、何度も自分で思ってきた。
俺は空気だ。いてもいなくても変わらない。中心にはなれない。誰かに期待される人間じゃない。
でも、それを他人に。しかも、こんな場所で。こんな形で。
はっきり断言されると、思っていたより痛かった。
痛いどころじゃなかった。息ができない。
「黒瀬くん!」
白石が駆け寄ろうとした。だが、兵士が槍を構えて彼女を止める。
「下がりなさい、聖女候補」
「どいて!」
「ミナト!」
神崎が白石を止める。白石は悔しそうに俺を見た。
その顔を見て、俺はなぜか謝りたくなった。
ごめん。俺が弱いから。俺にスキルがないから。俺が、こんなふうに庇われるしかない人間だから。
「黒瀬」
神崎が言った。彼も苦しそうな顔をしていた。
「俺は……」
その先が出てこない。
助ける、とは言えない。女神に逆らってまで、世界を敵に回してまで、俺を救うとは言えない。
それは当然だ。分かっている。神崎は悪くない。白石も、日向も悪くない。
でも。
それでも。
心のどこかで、ほんの少しだけ期待してしまった自分がいた。
誰かが助けてくれるんじゃないか。誰かが手を伸ばしてくれるんじゃないか。
俺も、完全には見捨てられないんじゃないか。
そんな期待を。だから、余計に苦しかった。
「準備を」
女神が告げる。広間の奥にある扉が開いた。
そこから、さらに大きな魔法陣のある部屋が見えた。床一面に刻まれた複雑な紋様。中央に開いた黒い円。まるで、床に穴が空いているみたいだった。
兵士が俺の腕を掴む。
「来い」
「離せ」
「抵抗するな」
腕を強く引かれる。痛い。
その痛みが、現実をはっきりさせた。本当に送られる。奈落へ。死ぬ場所へ。
俺は振り返った。
クラスメイトたちが見ている。
泣きそうな顔。気まずそうな顔。目を逸らす顔。安心した顔。
安心した顔。
それを見た瞬間、胃の奥が冷えた。
ああ、そうか。俺が選ばれたことで、安心しているやつがいる。
自分じゃなくてよかった。スキルなしが自分じゃなくてよかった。奈落に送られるのが自分じゃなくてよかった。
そう思っている顔。
責められない。俺だって、逆の立場ならそう思ったかもしれない。
でも、だからこそ。
人間って、こんなに簡単に誰かを切り捨てられるんだなと思った。
「ユウくん!」
白石の声がした。初めて、彼女に名前で呼ばれた。こんな時に。
俺は笑いそうになった。何もかも、間が悪い。
兵士に引かれながら、俺は魔法陣の部屋へ入った。床の黒い円を見下ろす。底が見えない。闇そのものみたいだった。
女神セレスティアが俺の前に立つ。
「最後に、何か言い残すことはありますか」
穏やかな声。慈悲深そうな顔。そのすべてが、気持ち悪かった。
俺は唇を噛んだ。
怖い。死にたくない。奈落なんて行きたくない。助けてほしい。誰かに、やめてくれと言ってほしい。
そんな情けない言葉が、喉の奥で暴れていた。
でも。女神の目を見た瞬間、それだけは言いたくないと思った。
こいつにだけは、縋りたくない。こいつにだけは、泣いて命乞いしたくない。
「……あんた」
声が震える。それでも、俺は言った。
「女神なんかじゃない」
セレスティアの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
「そうですか」
「人を道具みたいに見て、役に立つかどうかで捨てるやつを、俺は女神だなんて思わない」
怖かった。兵士たちが槍を握る音がした。神官たちが息を呑む気配がした。クラスメイトたちがざわつく。
それでも、止まれなかった。
「もし生きて戻ったら」
俺は女神を睨んだ。
「絶対に、あんたを許さない」
セレスティアはしばらく黙っていた。やがて、微笑んだ。今までで一番、冷たい笑みだった。
「生きて戻れたら、考えておきましょう」
魔法陣が光り始める。足元が浮く。世界が揺れる。
「黒瀬くん!」
白石の声。
「ユウ!」
日向の声も聞こえた気がした。神崎が何か叫んでいる。レンの声は聞こえなかった。
俺は最後に、女神を見た。
美しい顔。冷たい金の瞳。作り物みたいな微笑み。
そして、視界が黒に飲まれた。
◇
落ちる。
ひたすら、落ちている。
上下の感覚なんて、とっくに消えていた。風もない。光もない。音すらない。
あるのは、ただ"落下している"という事実だけだった。
「――っ!」
叫んだはずなのに、声は出なかった。口を開いている感覚はある。でも、音がない。
無音の奈落。それが、余計に恐怖を増幅させた。
どれくらい落ちているのか分からない。一秒なのか。一分なのか。一時間なのか。
時間の感覚も壊れていく。頭がおかしくなりそうだった。
このまま地面に叩きつけられて終わるのか。それとも、永遠に落ち続けるのか。
どちらにせよ、ろくな結末じゃない。
「……ふざけんなよ」
声にならない声で、俺は呟いた。
女神セレスティア。あいつの顔が頭に浮かぶ。
綺麗で、優しくて、完璧で。そして――最低な存在。
俺を不要だと切り捨てた。役に立たないからと、奈落に捨てた。
あの時の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『役に立たない人間です』
胸が、焼けるように痛い。悔しい。怖い。死にたくない。
でも、それ以上に。
「……絶対、許さない」
その感情だけが、はっきりと残った。
直後。衝撃が来た。
「がっ――!」
背中から、硬いものに叩きつけられた。肺の中の空気が全部押し出される。
息ができない。痛い。痛い。痛い。
骨が折れたのかと思った。視界が白く弾け、次に黒く沈む。
しばらく、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなかった。
「……っ、は……っ」
喉が勝手に空気を求める。吸うたびに胸が痛んだ。それでも、息ができる。
生きている。俺はまだ、生きている。
ゆっくりと目を開けた。そこは、巨大な地下空間だった。
天井は見えない。頭上にはただ、底なしの闇が広がっている。俺が落ちてきた穴も、もう分からない。
足元には黒い石畳。ところどころ砕け、苔のような黒いものが張りついている。
周囲には崩れかけた柱。朽ちた階段。壁に埋もれた巨大な扉。古代の神殿か、墓場か、牢獄か。
どれにも見える。そして、どれよりも悪い場所に思えた。
空気が重い。吸うだけで体の内側が汚れていくような、濁った空気。
ここが、奈落。ここが、俺の捨てられた場所。
「……くそ」
立ち上がろうとした。けれど、足に力が入らない。膝が震える。
手のひらを見ると、石で擦り切れて血が滲んでいた。制服も破れている。肩が痛い。背中が痛い。喉が焼ける。
俺は本当に、ただの高校生だった。
剣もない。魔法もない。スキルもない。水も食料もない。助けも来ない。
それを理解した瞬間、体の芯が冷えた。
「……誰か」
声が掠れる。返事はない。
「誰か、いないのかよ……」
自分でも情けないと思った。でも、言わずにはいられなかった。
こんな場所で一人。何の力もないまま。生き延びられるわけがない。
その時だった。
ぴちゃり。
音がした。水滴の音ではなかった。もっと重く、粘ついた音。
ぴちゃり。ぴちゃり。
暗闇の奥で、何かが動いている。
「……っ」
俺は息を止めた。動くな。音を立てるな。そう思った。
なのに、体が震える。歯が鳴りそうになるのを必死で噛み殺す。
暗闇の奥に、赤い光が浮かんだ。
一つ。二つ。四つ。八つ。
違う。目だ。
大量の目が、こちらを見ている。
それは、ゆっくりと闇から姿を現した。
狼に似ていた。けれど、狼なんて可愛いものじゃない。
体は牛ほどもある。背中からはねじれた角のような骨が突き出している。口は耳元まで裂け、牙の隙間から黒い唾液が糸を引いていた。
そして、その周囲に。同じ化け物が、何匹もいた。
三匹。五匹。十匹。奥にもまだ、いる。
「……嘘だろ」
声が震えた。足が動かない。逃げなきゃ。そう思うのに、動けない。
化け物の一匹が、低く唸った。その音だけで、腹の底が凍る。
勝てない。逃げられない。隠れる場所もない。
俺は、こいつらの餌になる。その現実が、あまりにもはっきりしていた。
「や、めろ……」
無意味な言葉が漏れた。化け物たちは止まらない。
赤い目が、俺を品定めするように細まる。
俺は後ずさろうとして、足をもつれさせた。尻もちをつく。手のひらに石の破片が食い込む。
痛い。でも、その痛みすら遠かった。
化け物が跳んだ。巨大な影が、俺の視界を覆う。
牙。爪。黒い唾液。死。全部が、一瞬で迫ってくる。
「――っ!」
終わった。そう思った。
その瞬間。
「邪魔」
甘ったるい声がした。
次の瞬間、俺に飛びかかっていた化け物の体が、空中で弾けた。音はなかった。血も飛ばなかった。ただ、黒い砂みたいに崩れて消えた。
「……は?」
思考が止まる。
続けて、周囲の化け物たちが一斉に動いた。だが、遅かった。
「伏せ」
その一言で、すべての化け物が地面に叩きつけられた。石畳が砕れる。巨大な体が潰れる。
化け物たちは抵抗しようと脚を震わせた。けれど、立ち上がれない。
「消えて」
また一言。化け物たちの体が、まとめて黒い塵になった。
十匹以上いた化け物が。俺を殺そうとしていた絶望が。瞬きする間に、消えた。
闇の中に、紫が揺れる。
銀紫色の長い髪。宝石みたいな紫の瞳。黒と紫のドレス。小さな角のような髪飾り。
人形みたいに綺麗で、悪魔みたいに楽しそうな少女。
「おー、いい顔してるねぇ」
「……ノア?」
「うん。ノアだよ」
にこっと笑う。いつもの、あのふざけた笑顔で。
「お前……」
言葉が出てこなかった。混乱が追いつかない。
「お前もこの世界に来てたのかよ……」
やっと出た言葉が、それだった。
ノアは肩をすくめる。
「まぁね。でもあの女神にバレたら面倒だから隠れてたんだよ」
「隠れてた……?」
「うん。ボクとあの子、ちょっとした"取り決め"があってさ。お互いに直接干渉しないってやつ」
ノアはくるくるとその場で回る。奈落の闇の中で、その紫だけがやけに鮮やかだった。
「だから、あの子が近くにいる間は姿を見せられなかったんだよね。つまんなかった」
「……ふざけんなよ」
俺は睨んだ。
「じゃあ、最初から全部見てたのか?」
「見てたよ?」
「俺が奈落に落とされるのも?」
「もちろん」
「助けようとは思わなかったのかよ」
ノアは一瞬、きょとんとした。それから、楽しそうに笑った。
「助けたじゃん。今」
「そういう意味じゃねぇよ!」
声が震えた。怒りなのか、恐怖の反動なのか、自分でも分からない。
「もっと前に助けられただろ! あの女神に捨てられる前に! 落とされる前に!」
「それは無理」
ノアはあっさり言った。
「あの子の近くでボクが派手に動いたら、すぐバレるもん」
「バレたら何なんだよ!」
「面倒なことになる」
「俺は死にかけたんだぞ!」
「でも死んでない」
ノアは俺の目の前まで近づいてきた。
「それにさ」
紫の瞳が、愉快そうに細まる。
「いい感じに絶望してるし」
「……お前」
殴れるなら、殴っていた。でも、できない。
俺の体はまだ震えている。さっきまでの化け物の気配が、皮膚にこびりついている。
ノアが魔物を瞬殺した。助かった。助かったはずなのに。
こいつが味方だとは、少しも思えなかった。
「まぁまぁ、そんな顔しないでよ」
ノアは俺の頬に指を当てた。冷たい感触。
「ちゃんと"本題"があるからさ」
「本題……?」
「うん」
ノアは楽しそうに笑った。あの、命令を出す時の顔だ。嫌な予感しかしない。
「ユウさ」
紫の瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
「さっきの女神、どう思った?」
「どうって……」
答えは一つしかなかった。
「最低なやつだ」
「だよねぇ」
ノアは満足そうに頷く。
「ボクもそう思うんだよね。あの子、機械みたいでつまんないし」
くすくすと笑う。
「完璧で、正しくて、無駄がなくて……でも面白くない」
「……何が言いたい」
ノアは、にやりと笑った。今までで一番、悪意のある笑みだった。
「殺してよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……は?」
「だからさ」
ノアは俺の耳元で囁いた。
「ボク、あの女神に直接干渉できないんだよね。取り決めがあるから。だから代わりにさ」
少しだけ間を置いて。
「君が殺してよ」
心臓が、大きく跳ねた。
「……無理に決まってるだろ」
「えー?」
「俺はスキルなしだぞ。戦う力もない。奈落に落とされてる時点で終わってるんだよ」
「ほんとに?」
ノアが首を傾げる。
「ほんとに"何もない"と思ってる?」
「……は?」
ノアはくすっと笑った。
「ユウさ。あの女神に言われたこと、全部信じてる?」
「全部って……スキルがないってやつか?」
「うん」
ノアは俺の胸に指を当てた。
「正確には、スキルが"なかった"んじゃないよ。あの女神の鑑定に"見えなかった"だけ」
「……どういう意味だよ」
「この世界に召喚された時、ユウにもちゃんと恩寵は宿った。異界の魂がこの世界の理に触れたことでね」
ノアは楽しそうに笑う。
「でも、そのまま見つかったら面倒でしょ? あの女神、使えるものは全部自分の駒にするタイプだし」
「まさか……」
「うん。ボクが隠した」
思考が止まった。
「隠した……?」
「そ。鑑定晶にも、女神の目にも映らないようにしたの。だからユウは"スキルなし"として捨てられた」
「お前……」
喉の奥が熱くなる。
「じゃあ俺が奈落に落とされたのは、お前のせいでもあるってことかよ」
「うん」
ノアは悪びれもせず頷いた。
「だって、あの女神の近くに置いておくより、こっちの方が都合よかったから」
「ふざけんな!」
怒鳴った。だが、ノアは笑うだけだった。
「怒っていいよ。むしろ怒って。今のユウには、その感情が必要だから」
「何が必要だよ……!」
「ユウのスキル」
ノアの紫の瞳が、闇の中で光った。
「この世界でユウに宿った恩寵は――言霊」
「言霊……?」
「言葉に強制力を持たせる力。命令した言葉を、現実に押しつける力」
背筋が冷えた。
命令。その言葉だけで、日本にいた頃の記憶が蘇る。
「そしてボクが、それを隠した」
「なんでだよ」
「女神からユウを引き離すため」
ノアは笑った。
「それと、ユウがちゃんと絶望するまで待つため」
「最低だな」
「知ってる」
ノアは嬉しそうだった。
「でも、万能じゃないよ。言霊には制限がある」
「制限?」
「まず一つ。ユウ自身が本気で信じられない命令は弱い。"世界を消えろ"とか"女神は今すぐ死ね"みたいな、ユウが心の底で無理だと思っている言葉は通らない」
ノアは指を一本立てた。
「二つ目。命令が大きいほど、代償が大きい。体力、魔力、血、記憶、寿命……何を削られるかは命令次第」
「寿命……?」
「うん。雑に使えば普通に死ぬよ」
軽く言うな。
「三つ目。相手が強いほど抵抗される。格上相手には、短い命令しか通らない。せいぜい一瞬止めるとか、視線を逸らさせるとか、その程度」
「じゃあ女神を殺すなんて無理じゃねぇか」
「今はね」
ノアは否定しなかった。
「だから育てるんだよ。スキルも、ユウ自身も、殺意も」
ぞくりとした。
「……殺意を育てるってなんだよ」
「そのままの意味」
ノアは笑う。
「あの女神を本気で殺せると思えるくらい、ユウが強くなる。その時、言霊は初めて届く」
「俺に、そんなことができると思ってるのか」
「思ってるよ」
ノアは即答した。
「だってユウ、今すごくいい顔してる」
嬉しそうに。残酷に。邪神は言った。
「捨てられて、踏みにじられて、でもまだ死にたくない。許せない。殺したい。そういう感情はね、世界を動かす燃料になるんだよ」
俺は何も言えなかった。
怖かった。この力も。ノアも。そして、女神を殺したいと思っている自分自身も。
「さぁ、ユウ」
ノアが手を差し出す。
「まずは生き延びよう」
紫の瞳が細くなる。
「女神を殺すのは、そのあとでいい」
ノアの手が、目の前に差し出されていた。
白くて、細くて、現実感のない手。
悪魔みたいに笑っているくせに、その手は確かに"救い"の形をしていた。
――ふざけてる。本当に、全部。
この世界も。女神も。奈落も。そして、目の前の邪神も。
全部が理不尽で、全部が狂っている。
でも。それでも。
俺は、まだ生きている。死んでいない。終わっていない。
なら。やることは一つしかなかった。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
ノアの手を――掴む。
「……やってやるよ」
声は、震えていた。恐怖も、怒りも、全部混ざっている。それでも、はっきりと。
「生き残って」
一度、息を吐く。胸の奥で燃えているものを、言葉にする。
「強くなって」
そして、顔を上げた。奈落の闇の奥を、真っ直ぐに見据える。
「――あいつを殺す」
その言葉に、空気がわずかに震えた。
ノアが、くすっと笑う。
「いいね」
紫の瞳が、楽しそうに細まる。
「それでこそ、ユウだよ」
闇の奥で、何かが蠢いた。新たな気配。新たな敵。
だが、もう足は止まらなかった。
恐怖は消えていない。でも、それ以上に。
俺の中には、確かな意志があった。
――殺す。
ただ、それだけが。俺を前に進ませる理由だった。
こうして。何も持たないはずだった一人の人間は、奈落の底で、すべてを奪われたその瞬間に。
世界に牙を剥くことを決めた。
これは――捨てられた少年が、神を殺すまでの物語。
黒瀬ユウの復讐は、ここから始まった。
面白いと感じましたら、ブクマ、評価、コメント等をよろしくお願いします。




