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奈落から始まる言霊支配〜スキルなしと切り捨てられた俺は、邪神と共に女神を殺す〜  作者: 黒海苔


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三話:礎と奈落

「待ってください」


 声を上げたのは、白石ミナトだった。


 広間の視線が彼女に集まる。白石は一瞬だけ怯んだように見えた。けれど、すぐに背筋を伸ばした。


「黒瀬くんにはスキルがないんですよね」

「はい」

「なら、戦わせなければいいだけです。私たちと一緒にいて、後方支援とか、雑用とか、できることを探せば――」

「それは不可能です」


 女神セレスティアは、白石の言葉を最後まで聞かなかった。微笑んだまま。当然のように。


「なぜですか」

「恩寵を持たぬ異界人は、魔王の瘴気に侵されやすいのです。遠征に同行させれば、足手まといになるばかりか、魔物化する危険すらあります」


 魔物化。その言葉に、クラスがざわついた。


「さらに、スキルを持たぬ者は成長もしません。訓練しても意味は薄く、戦場に出せば即死。城に置けば資源を消費し、保護すれば他の勇者の負担になります」


 丁寧な説明だった。だからこそ、逃げ場がなかった。

 俺は役に立たない。俺を守る価値もない。俺を置いておくことすら損になる。

 女神はそれを、感情を交えずに並べていく。


「でも……だからって、見捨てるんですか」


 白石の声が震えた。


「見捨てるのではありません」


 女神は、そこで初めて少しだけ表情を柔らかくした。


「適切な場所へ送るのです」

「適切な、場所?」

「奈落です」


 広間が静まり返った。


 奈落。言葉の意味を知らないやつでも、響きだけで分かる。まともな場所ではない。


 女神はゆっくりと階段を降りた。白い衣が揺れる。青白い炎が、その姿を照らす。


「エルディア聖王国の地下には、古き時代に封じられた大穴があります。名を、奈落の底。そこには、地上に出してはならない魔物、呪われた獣、狂った魔導生命が封じられています」


 俺の喉が鳴った。嫌な予感が、形を持っていく。


「待ってください」


 今度は神崎が言った。


「まさか、黒瀬をそこに送るつもりですか」

「はい」


 即答だった。神崎の表情が険しくなる。


「それは処刑と同じじゃないですか」

「いいえ。奈落には出口があります」

「出口?」

「たどり着ければ、地上に出られます。過去にも、そう説明して送り出した者はいます」

「出られた人は?」


 白石が聞いた。女神は微笑んだ。


「記録上、一人もいません」


 空気が凍った。それはもう、答えだった。

 生きて出られる可能性なんてない。俺を殺すと言っているのと同じだ。


「ふざけんなよ……」


 自分の声だと気づくのに、少し時間がかかった。

 俺は女神を見ていた。


「俺は、勝手に連れてこられただけだろ。頼んでもない。勇者になりたいなんて言ってない。なのに、スキルがないから奈落に捨てる? そんなの、あんたらの都合だろ」


「その通りです」


 女神はあっさり頷いた。


「ですが、世界を救うためには必要な判断です」


 必要。その一言で片づけられた。

 俺の恐怖も。怒りも。これから殺されるかもしれないという現実も。


「黒瀬くんは人間です!」


 白石が叫んだ。


「道具みたいに扱わないでください!」

「もちろん、人間として扱っています」


 女神は白石を見る。


「だからこそ、慈悲として生存の可能性を残します。その場で殺すのではなく、奈落に送る。これは処刑ではなく試練です」


「詭弁です」


 白石の声が低くなった。

 俺は驚いた。白石が、こんなふうに怒るところを初めて見た。

 彼女は俺のために怒っている。


 俺は、さっきまでほんの少し嬉しかった。ノアから解放されたかもしれない。異世界でも、何か変われるかもしれない。そんな甘い期待をした。

 でも今、俺は白石に庇われている。何も持っていないから。自分では何もできないから。


 情けなかった。嬉しいのに、悔しかった。


「ミナト」


 神崎が白石の横に立った。


「俺も反対です。黒瀬に力がないなら、俺たちが守ればいい」


 その言葉に、周囲がざわつく。


「おい、アオイ」


 レンが不機嫌そうに言った。


「マジで言ってんのかよ。俺ら、魔王倒せって言われてんだぞ? 足手まとい抱える余裕あんの?」

「足手まといかどうかは、これから決めればいい」

「スキルなしって出ただろ」

「だからって捨てていい理由にはならない」

「綺麗事じゃね?」


 レンは鼻で笑った。


「俺、黒瀬が嫌いってわけじゃねぇよ? でもさ、現実見ろよ。ここ日本じゃねぇんだろ? 化け物がいて、魔王がいて、俺らも死ぬかもしれねぇ。そんな状況で、何もできないやつ守って全滅したら意味ねぇじゃん」


 何もできないやつ。その言葉が刺さった。反論できないのが、余計に痛かった。


「……でも、黒瀬くんを奈落に送るのは違う」


 日向マコトが、小さく言った。意外だった。俺は日向を見た。

 彼は震えていた。でも、俺を見ていた。


「だって、それは……ひどい、と思う」

「マコトまで何言ってんだよ」


 レンが睨むと、日向はびくりと肩を震わせた。でも、引っ込まなかった。

 それだけで、少し胸が熱くなった。


 俺は日向を助けたわけじゃない。ノアに命令されて、仕方なく動いただけだ。

 なのに今、日向は俺のために声を出している。


「皆さま」


 女神の声が広間に響いた。不思議と、その一言だけで空気が鎮まった。

 女神は困ったように微笑んでいた。


「優しさは尊いものです。仲間を思う気持ちは、勇者に必要な資質でしょう」


 それから、俺を見た。


「ですが、優しさだけでは世界は救えません」


 女神が指を鳴らす。すると、広間の床に光の地図が広がった。大陸。国境。黒く塗りつぶされた地域。赤い点滅。


「現在、北方の砦は三日以内に陥落します。東の森では魔物化した獣が村を襲い、南部では瘴気病により千人以上が床に伏しています。魔王復活まで、猶予は長くありません」


 映像が次々と浮かぶ。傷ついた兵士。泣いている子供。焼けた村。黒い霧に飲まれる森。

 誰も何も言えなくなった。


「あなた方が一日遅れれば、救えたはずの命が失われます。訓練も、装備も、知識も、すべて急がねばなりません」


 女神は白石と神崎を見る。


「その中で、恩寵なき一人を守るために、貴重な時間と人員を割きますか?」

「それは……」


 神崎が言葉に詰まった。白石も唇を噛む。


 女神は優しく続けた。


「これは冷酷な判断ではありません。全体を救うための選択です。あなた方は勇者です。これから何度も、少数を切り捨て、多数を救う選択を迫られるでしょう」


 俺は理解した。

 この女神は、俺を殺そうとしているだけじゃない。

 クラス全員に教え込もうとしている。


 切り捨ててもいい人間がいる。その判断をするのが勇者だ。それが世界を救うということだ。

 その最初の教材が、俺なのだ。


「……俺を、練習台にするのかよ」


 俺の声は、かすれていた。


「いいえ」


 女神は微笑む。


「あなたにも役割があるのです」

「役割?」

「他の勇者たちに、現実を知っていただく役割です」


 女神は、まるで祈りを捧げるように両手を重ねた。


「あなたが消えることで、他の勇者たちは自分が選ばれた意味を理解できます。自分たちは守られる側ではなく、守る側なのだと。弱き者は淘汰され、力ある者が世界を救うのだと。あなたの退場は、彼らにとって最初の教訓になるでしょう」


 その声は、どこまでも穏やかだった。だからこそ、吐き気がした。


「俺を……見せしめにするってことかよ」

「言葉を選ぶなら、礎です」


 セレスティアは微笑んだ。


「世界を救う勇者たちの、尊い第一歩です」


 視界が歪んだ。怒りなのか恐怖なのか、自分でも分からない。


「ふざけんな……」


 女神は俺に近づいてきた。兵士たちが左右を固める。


「黒瀬ユウ。あなたはスキルを持たない。魔王討伐には不要です。ですが、あなたの存在によって他の勇者たちは覚悟を学べます」


「俺は、教材じゃない」

「はい。あなたは人間です」


 女神はそこで、ほんの少しだけ首を傾けた。


「ですが、役に立たない人間です」


 その瞬間。何かが、胸の奥で折れた気がした。


 今まで、何度も自分で思ってきた。

 俺は空気だ。いてもいなくても変わらない。中心にはなれない。誰かに期待される人間じゃない。


 でも、それを他人に。しかも、こんな場所で。こんな形で。

 はっきり断言されると、思っていたより痛かった。

 痛いどころじゃなかった。息ができない。


「黒瀬くん!」


 白石が駆け寄ろうとした。だが、兵士が槍を構えて彼女を止める。


「下がりなさい、聖女候補」

「どいて!」

「ミナト!」


 神崎が白石を止める。白石は悔しそうに俺を見た。

 その顔を見て、俺はなぜか謝りたくなった。


 ごめん。俺が弱いから。俺にスキルがないから。俺が、こんなふうに庇われるしかない人間だから。


「黒瀬」


 神崎が言った。彼も苦しそうな顔をしていた。


「俺は……」


 その先が出てこない。

 助ける、とは言えない。女神に逆らってまで、世界を敵に回してまで、俺を救うとは言えない。


 それは当然だ。分かっている。神崎は悪くない。白石も、日向も悪くない。


 でも。

 それでも。

 心のどこかで、ほんの少しだけ期待してしまった自分がいた。


 誰かが助けてくれるんじゃないか。誰かが手を伸ばしてくれるんじゃないか。

 俺も、完全には見捨てられないんじゃないか。


 そんな期待を。だから、余計に苦しかった。


「準備を」


 女神が告げる。広間の奥にある扉が開いた。

 そこから、さらに大きな魔法陣のある部屋が見えた。床一面に刻まれた複雑な紋様。中央に開いた黒い円。まるで、床に穴が空いているみたいだった。


 兵士が俺の腕を掴む。


「来い」

「離せ」

「抵抗するな」


 腕を強く引かれる。痛い。

 その痛みが、現実をはっきりさせた。本当に送られる。奈落へ。死ぬ場所へ。


 俺は振り返った。


 クラスメイトたちが見ている。


 泣きそうな顔。気まずそうな顔。目を逸らす顔。安心した顔。


 安心した顔。


 それを見た瞬間、胃の奥が冷えた。


 ああ、そうか。俺が選ばれたことで、安心しているやつがいる。

 自分じゃなくてよかった。スキルなしが自分じゃなくてよかった。奈落に送られるのが自分じゃなくてよかった。

 そう思っている顔。


 責められない。俺だって、逆の立場ならそう思ったかもしれない。

 でも、だからこそ。

 人間って、こんなに簡単に誰かを切り捨てられるんだなと思った。


「ユウくん!」


 白石の声がした。初めて、彼女に名前で呼ばれた。こんな時に。

 俺は笑いそうになった。何もかも、間が悪い。


 兵士に引かれながら、俺は魔法陣の部屋へ入った。床の黒い円を見下ろす。底が見えない。闇そのものみたいだった。


 女神セレスティアが俺の前に立つ。


「最後に、何か言い残すことはありますか」


 穏やかな声。慈悲深そうな顔。そのすべてが、気持ち悪かった。


 俺は唇を噛んだ。


 怖い。死にたくない。奈落なんて行きたくない。助けてほしい。誰かに、やめてくれと言ってほしい。

 そんな情けない言葉が、喉の奥で暴れていた。


 でも。女神の目を見た瞬間、それだけは言いたくないと思った。

 こいつにだけは、縋りたくない。こいつにだけは、泣いて命乞いしたくない。


「……あんた」


 声が震える。それでも、俺は言った。


「女神なんかじゃない」


 セレスティアの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。


「そうですか」

「人を道具みたいに見て、役に立つかどうかで捨てるやつを、俺は女神だなんて思わない」


 怖かった。兵士たちが槍を握る音がした。神官たちが息を呑む気配がした。クラスメイトたちがざわつく。

 それでも、止まれなかった。


「もし生きて戻ったら」


 俺は女神を睨んだ。


「絶対に、あんたを許さない」


 セレスティアはしばらく黙っていた。やがて、微笑んだ。今までで一番、冷たい笑みだった。


「生きて戻れたら、考えておきましょう」


 魔法陣が光り始める。足元が浮く。世界が揺れる。


「黒瀬くん!」


 白石の声。


「ユウ!」


 日向の声も聞こえた気がした。神崎が何か叫んでいる。レンの声は聞こえなかった。


 俺は最後に、女神を見た。

 美しい顔。冷たい金の瞳。作り物みたいな微笑み。


 そして、視界が黒に飲まれた。


挿絵(By みてみん)



 ◇



 落ちる。


 ひたすら、落ちている。


 上下の感覚なんて、とっくに消えていた。風もない。光もない。音すらない。

 あるのは、ただ"落下している"という事実だけだった。


「――っ!」


 叫んだはずなのに、声は出なかった。口を開いている感覚はある。でも、音がない。

 無音の奈落。それが、余計に恐怖を増幅させた。


 どれくらい落ちているのか分からない。一秒なのか。一分なのか。一時間なのか。

 時間の感覚も壊れていく。頭がおかしくなりそうだった。


 このまま地面に叩きつけられて終わるのか。それとも、永遠に落ち続けるのか。

 どちらにせよ、ろくな結末じゃない。


「……ふざけんなよ」


 声にならない声で、俺は呟いた。


 女神セレスティア。あいつの顔が頭に浮かぶ。

 綺麗で、優しくて、完璧で。そして――最低な存在。

 俺を不要だと切り捨てた。役に立たないからと、奈落に捨てた。


 あの時の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


『役に立たない人間です』


 胸が、焼けるように痛い。悔しい。怖い。死にたくない。

 でも、それ以上に。


「……絶対、許さない」


 その感情だけが、はっきりと残った。



 直後。衝撃が来た。


「がっ――!」


 背中から、硬いものに叩きつけられた。肺の中の空気が全部押し出される。

 息ができない。痛い。痛い。痛い。


 骨が折れたのかと思った。視界が白く弾け、次に黒く沈む。

 しばらく、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなかった。


「……っ、は……っ」


 喉が勝手に空気を求める。吸うたびに胸が痛んだ。それでも、息ができる。

 生きている。俺はまだ、生きている。


 ゆっくりと目を開けた。そこは、巨大な地下空間だった。


 天井は見えない。頭上にはただ、底なしの闇が広がっている。俺が落ちてきた穴も、もう分からない。


 足元には黒い石畳。ところどころ砕け、苔のような黒いものが張りついている。

 周囲には崩れかけた柱。朽ちた階段。壁に埋もれた巨大な扉。古代の神殿か、墓場か、牢獄か。

 どれにも見える。そして、どれよりも悪い場所に思えた。


 空気が重い。吸うだけで体の内側が汚れていくような、濁った空気。


 ここが、奈落。ここが、俺の捨てられた場所。


「……くそ」


 立ち上がろうとした。けれど、足に力が入らない。膝が震える。

 手のひらを見ると、石で擦り切れて血が滲んでいた。制服も破れている。肩が痛い。背中が痛い。喉が焼ける。


 俺は本当に、ただの高校生だった。

 剣もない。魔法もない。スキルもない。水も食料もない。助けも来ない。


 それを理解した瞬間、体の芯が冷えた。


「……誰か」


 声が掠れる。返事はない。


「誰か、いないのかよ……」


 自分でも情けないと思った。でも、言わずにはいられなかった。

 こんな場所で一人。何の力もないまま。生き延びられるわけがない。


 その時だった。


 ぴちゃり。


 音がした。水滴の音ではなかった。もっと重く、粘ついた音。


 ぴちゃり。ぴちゃり。


 暗闇の奥で、何かが動いている。


「……っ」


 俺は息を止めた。動くな。音を立てるな。そう思った。

 なのに、体が震える。歯が鳴りそうになるのを必死で噛み殺す。


 暗闇の奥に、赤い光が浮かんだ。

 一つ。二つ。四つ。八つ。


 違う。目だ。


 大量の目が、こちらを見ている。


 それは、ゆっくりと闇から姿を現した。

 狼に似ていた。けれど、狼なんて可愛いものじゃない。

 体は牛ほどもある。背中からはねじれた角のような骨が突き出している。口は耳元まで裂け、牙の隙間から黒い唾液が糸を引いていた。


 そして、その周囲に。同じ化け物が、何匹もいた。

 三匹。五匹。十匹。奥にもまだ、いる。


「……嘘だろ」


挿絵(By みてみん)


 声が震えた。足が動かない。逃げなきゃ。そう思うのに、動けない。

 化け物の一匹が、低く唸った。その音だけで、腹の底が凍る。


 勝てない。逃げられない。隠れる場所もない。

 俺は、こいつらの餌になる。その現実が、あまりにもはっきりしていた。


「や、めろ……」


 無意味な言葉が漏れた。化け物たちは止まらない。

 赤い目が、俺を品定めするように細まる。


 俺は後ずさろうとして、足をもつれさせた。尻もちをつく。手のひらに石の破片が食い込む。

 痛い。でも、その痛みすら遠かった。


 化け物が跳んだ。巨大な影が、俺の視界を覆う。

 牙。爪。黒い唾液。死。全部が、一瞬で迫ってくる。


「――っ!」


 終わった。そう思った。


 その瞬間。


「邪魔」


 甘ったるい声がした。


 次の瞬間、俺に飛びかかっていた化け物の体が、空中で弾けた。音はなかった。血も飛ばなかった。ただ、黒い砂みたいに崩れて消えた。


「……は?」


 思考が止まる。


 続けて、周囲の化け物たちが一斉に動いた。だが、遅かった。


「伏せ」


 その一言で、すべての化け物が地面に叩きつけられた。石畳が砕れる。巨大な体が潰れる。

 化け物たちは抵抗しようと脚を震わせた。けれど、立ち上がれない。


「消えて」


 また一言。化け物たちの体が、まとめて黒い塵になった。

 十匹以上いた化け物が。俺を殺そうとしていた絶望が。瞬きする間に、消えた。


 闇の中に、紫が揺れる。


挿絵(By みてみん)


 銀紫色の長い髪。宝石みたいな紫の瞳。黒と紫のドレス。小さな角のような髪飾り。

 人形みたいに綺麗で、悪魔みたいに楽しそうな少女。


「おー、いい顔してるねぇ」


「……ノア?」

「うん。ノアだよ」


 にこっと笑う。いつもの、あのふざけた笑顔で。


「お前……」


 言葉が出てこなかった。混乱が追いつかない。


「お前もこの世界に来てたのかよ……」


 やっと出た言葉が、それだった。


 ノアは肩をすくめる。


「まぁね。でもあの女神にバレたら面倒だから隠れてたんだよ」

「隠れてた……?」

「うん。ボクとあの子、ちょっとした"取り決め"があってさ。お互いに直接干渉しないってやつ」


 ノアはくるくるとその場で回る。奈落の闇の中で、その紫だけがやけに鮮やかだった。


「だから、あの子が近くにいる間は姿を見せられなかったんだよね。つまんなかった」


「……ふざけんなよ」


 俺は睨んだ。


「じゃあ、最初から全部見てたのか?」

「見てたよ?」

「俺が奈落に落とされるのも?」

「もちろん」

「助けようとは思わなかったのかよ」


 ノアは一瞬、きょとんとした。それから、楽しそうに笑った。


「助けたじゃん。今」

「そういう意味じゃねぇよ!」


 声が震えた。怒りなのか、恐怖の反動なのか、自分でも分からない。


「もっと前に助けられただろ! あの女神に捨てられる前に! 落とされる前に!」

「それは無理」


 ノアはあっさり言った。


「あの子の近くでボクが派手に動いたら、すぐバレるもん」

「バレたら何なんだよ!」

「面倒なことになる」

「俺は死にかけたんだぞ!」

「でも死んでない」


 ノアは俺の目の前まで近づいてきた。


「それにさ」


 紫の瞳が、愉快そうに細まる。


「いい感じに絶望してるし」


「……お前」


 殴れるなら、殴っていた。でも、できない。

 俺の体はまだ震えている。さっきまでの化け物の気配が、皮膚にこびりついている。


 ノアが魔物を瞬殺した。助かった。助かったはずなのに。

 こいつが味方だとは、少しも思えなかった。


「まぁまぁ、そんな顔しないでよ」


 ノアは俺の頬に指を当てた。冷たい感触。


「ちゃんと"本題"があるからさ」

「本題……?」

「うん」


 ノアは楽しそうに笑った。あの、命令を出す時の顔だ。嫌な予感しかしない。


「ユウさ」


 紫の瞳が、真っ直ぐに俺を見た。


「さっきの女神、どう思った?」

「どうって……」


 答えは一つしかなかった。


「最低なやつだ」

「だよねぇ」


 ノアは満足そうに頷く。


「ボクもそう思うんだよね。あの子、機械みたいでつまんないし」


 くすくすと笑う。


「完璧で、正しくて、無駄がなくて……でも面白くない」

「……何が言いたい」


 ノアは、にやりと笑った。今までで一番、悪意のある笑みだった。


「殺してよ」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……は?」

「だからさ」


 ノアは俺の耳元で囁いた。


「ボク、あの女神に直接干渉できないんだよね。取り決めがあるから。だから代わりにさ」


 少しだけ間を置いて。


「君が殺してよ」


 心臓が、大きく跳ねた。


「……無理に決まってるだろ」

「えー?」

「俺はスキルなしだぞ。戦う力もない。奈落に落とされてる時点で終わってるんだよ」

「ほんとに?」


 ノアが首を傾げる。


「ほんとに"何もない"と思ってる?」

「……は?」


 ノアはくすっと笑った。


「ユウさ。あの女神に言われたこと、全部信じてる?」

「全部って……スキルがないってやつか?」

「うん」


 ノアは俺の胸に指を当てた。


「正確には、スキルが"なかった"んじゃないよ。あの女神の鑑定に"見えなかった"だけ」

「……どういう意味だよ」

「この世界に召喚された時、ユウにもちゃんと恩寵は宿った。異界の魂がこの世界の理に触れたことでね」


 ノアは楽しそうに笑う。


「でも、そのまま見つかったら面倒でしょ? あの女神、使えるものは全部自分の駒にするタイプだし」


「まさか……」

「うん。ボクが隠した」


 思考が止まった。


「隠した……?」

「そ。鑑定晶にも、女神の目にも映らないようにしたの。だからユウは"スキルなし"として捨てられた」


「お前……」


 喉の奥が熱くなる。


「じゃあ俺が奈落に落とされたのは、お前のせいでもあるってことかよ」

「うん」


 ノアは悪びれもせず頷いた。


「だって、あの女神の近くに置いておくより、こっちの方が都合よかったから」


「ふざけんな!」


 怒鳴った。だが、ノアは笑うだけだった。


「怒っていいよ。むしろ怒って。今のユウには、その感情が必要だから」

「何が必要だよ……!」

「ユウのスキル」


 ノアの紫の瞳が、闇の中で光った。


「この世界でユウに宿った恩寵は――言霊」


「言霊……?」

「言葉に強制力を持たせる力。命令した言葉を、現実に押しつける力」


 背筋が冷えた。

 命令。その言葉だけで、日本にいた頃の記憶が蘇る。


「そしてボクが、それを隠した」

「なんでだよ」

「女神からユウを引き離すため」


 ノアは笑った。


「それと、ユウがちゃんと絶望するまで待つため」


「最低だな」

「知ってる」


 ノアは嬉しそうだった。


「でも、万能じゃないよ。言霊には制限がある」

「制限?」

「まず一つ。ユウ自身が本気で信じられない命令は弱い。"世界を消えろ"とか"女神は今すぐ死ね"みたいな、ユウが心の底で無理だと思っている言葉は通らない」


 ノアは指を一本立てた。


「二つ目。命令が大きいほど、代償が大きい。体力、魔力、血、記憶、寿命……何を削られるかは命令次第」


「寿命……?」

「うん。雑に使えば普通に死ぬよ」


 軽く言うな。


「三つ目。相手が強いほど抵抗される。格上相手には、短い命令しか通らない。せいぜい一瞬止めるとか、視線を逸らさせるとか、その程度」


「じゃあ女神を殺すなんて無理じゃねぇか」

「今はね」


 ノアは否定しなかった。


「だから育てるんだよ。スキルも、ユウ自身も、殺意も」


 ぞくりとした。


「……殺意を育てるってなんだよ」

「そのままの意味」


 ノアは笑う。


「あの女神を本気で殺せると思えるくらい、ユウが強くなる。その時、言霊は初めて届く」


「俺に、そんなことができると思ってるのか」

「思ってるよ」


 ノアは即答した。


「だってユウ、今すごくいい顔してる」


 嬉しそうに。残酷に。邪神は言った。


「捨てられて、踏みにじられて、でもまだ死にたくない。許せない。殺したい。そういう感情はね、世界を動かす燃料になるんだよ」


 俺は何も言えなかった。

 怖かった。この力も。ノアも。そして、女神を殺したいと思っている自分自身も。


「さぁ、ユウ」


 ノアが手を差し出す。


「まずは生き延びよう」


 紫の瞳が細くなる。


「女神を殺すのは、そのあとでいい」



 ノアの手が、目の前に差し出されていた。

 白くて、細くて、現実感のない手。

 悪魔みたいに笑っているくせに、その手は確かに"救い"の形をしていた。


 ――ふざけてる。本当に、全部。

 この世界も。女神も。奈落も。そして、目の前の邪神も。

 全部が理不尽で、全部が狂っている。


 でも。それでも。

 俺は、まだ生きている。死んでいない。終わっていない。


 なら。やることは一つしかなかった。


 俺は、ゆっくりと手を伸ばした。

 ノアの手を――掴む。


「……やってやるよ」


 声は、震えていた。恐怖も、怒りも、全部混ざっている。それでも、はっきりと。


「生き残って」


 一度、息を吐く。胸の奥で燃えているものを、言葉にする。


「強くなって」


 そして、顔を上げた。奈落の闇の奥を、真っ直ぐに見据える。


「――あいつを殺す」


 その言葉に、空気がわずかに震えた。

 ノアが、くすっと笑う。


「いいね」


 紫の瞳が、楽しそうに細まる。


「それでこそ、ユウだよ」



 闇の奥で、何かが蠢いた。新たな気配。新たな敵。

 だが、もう足は止まらなかった。


 恐怖は消えていない。でも、それ以上に。

 俺の中には、確かな意志があった。


 ――殺す。


 ただ、それだけが。俺を前に進ませる理由だった。


 こうして。何も持たないはずだった一人の人間は、奈落の底で、すべてを奪われたその瞬間に。

 世界に牙を剥くことを決めた。


 これは――捨てられた少年が、神を殺すまでの物語。


 黒瀬ユウの復讐は、ここから始まった。

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