二話:異世界召喚と選別
翌日の四限目。現代文の授業中だった。
黒板には、教師が書いた「境界」という文字が残っている。
日常と非日常。現実と幻想。自分と他人。そんなテーマの文章だったと思う。
正直、内容はほとんど頭に入っていなかった。理由はいつも通りだ。
「ユウ」
ノアが俺の机に寝転がっていた。頬杖をつき、退屈そうにこちらを見ている。
「ねぇ、命令していい?」
「駄目に決まってる」
「えー」
「授業中だぞ」
「授業中だから面白いんじゃん」
本当に最悪だ。
昨日の件で、俺はまだ荒谷レンに睨まれている。休み時間も、妙に視線を感じた。
白石は普通に接してくれた。日向は、昨日より少しだけ俺を見る目が柔らかくなった。
それが逆に困った。
俺は別に、日向の味方になったわけじゃない。白石に好かれたいわけでもない。荒谷に喧嘩を売りたいわけでもない。
ただ、命令された。だから動いた。それだけだ。
なのに教室の中で、俺の立ち位置がほんの少しズレた気がした。
空気でいられなくなる。それが怖かった。
「ユウってさ」
ノアが俺の顔を覗き込む。
「ほんとは、ちょっと嬉しいんでしょ?」
「何が」
「ミナトちゃんに認められて。マコトくんに感謝されて」
胸の奥が少しだけ跳ねた。
「違う」
「違わないよ」
ノアは笑う。
「人間って、誰にも見られたくないふりをしながら、本当は誰かに見つけてほしいんだよね」
「知ったようなこと言うな」
「知ってるよ」
ノアの紫の瞳が細くなる。
「だって、ずっと見てるもん」
ぞくり、とした。
いつから。どこから。どうして俺なのか。
何度聞いても、ノアは答えなかった。
『面白そうだったから』
それだけ。人生を壊す理由としては、あまりに軽すぎる。
その時だった。
教室の床に、光が走った。
最初は、窓から反射した光かと思った。けれど違う。
白い線が床に浮かび上がっていた。円。文字。見たことのない紋様。
教室全体を包むほど巨大な、魔法陣のようなもの。
「……は?」
誰かが声を漏らした。次の瞬間、教室がざわめく。
「なにこれ?」
「え、ドッキリ?」
「床、光ってね?」
「スマホ撮れスマホ!」
「いや、なんかヤバくない?」
俺も立ち上がりかけた。
その瞬間、ノアが机の上で身を起こした。いつもの退屈そうな顔ではない。
紫の瞳が、珍しく真剣に輝いていた。
「へぇ」
ノアが笑う。
「面白いことになったね」
「ノア?」
「ユウ」
ノアが俺を見る。その顔は、いつもよりずっと愉快そうだった。
「これ、逃げられないよ」
「何言って――」
言い終える前に、光が爆発した。
視界が白く染まる。
耳鳴り。
浮遊感。
教室の悲鳴が遠ざかる。
俺は反射的に手を伸ばした。机を掴もうとしたのか、椅子を掴もうとしたのか、それとも何かにすがろうとしたのか。分からない。
ただ、最後に見えたのは――
白い光の中で、ノアが楽しそうに笑っている姿だった。
そして。世界が、反転した。
◇
目を開けた時、最初に思ったのは。
静かだ、ということだった。
さっきまで教室にあったはずの声がない。教師の怒鳴り声も、クラスメイトの悲鳴も、椅子が倒れる音も、ノアの笑い声も。
何もない。
いや、違う。完全な無音ではなかった。
遠くで水が滴るような音がする。石の壁を風が撫でるような音がする。誰かが息を呑む音がする。
俺は床に手をついた。冷たい。教室の床じゃない。石だ。
顔を上げると、そこは巨大な広間だった。
天井は高い。壁も床も、古びた灰色の石でできている。壁際には青白い炎を灯した燭台が並び、広間の中央には俺たちが倒れていた。
二年三組。全員、いる。たぶん。
机も椅子もない。黒板もない。窓もない。
代わりに、鎧を着た兵士たちが俺たちを囲んでいた。
槍。剣。盾。本物にしか見えない武器。
そして、広間の奥。白い階段の上に、一人の女が立っていた。
白銀の髪。金色の瞳。薄いヴェールのような白い衣。背後に浮かぶ淡い光の輪。
絵画で見る天使や女神を、そのまま現実に引きずり出したような姿だった。
綺麗だった。けれど、その綺麗さに体温がなかった。
人間の美しさではない。氷で作った花みたいな、触れた瞬間に指が切れそうな美しさだった。
「ようこそ、異界の勇者たち」
女が言った。声は柔らかい。けれど、その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
優しい声なのに、慈悲深そうなのに。
なぜか、機械の音声みたいに聞こえた。決められた文章を、決められた表情で、決められた順番に読み上げている。そんな違和感があった。
「ここは、エルディア聖王国。あなた方の世界とは異なる理の上に成り立つ世界です」
クラスがざわついた。
「は?」
「異世界?」
「嘘だろ?」
「なにこれ、夢?」
「スマホは!? スマホ動かないんだけど!」
「先生! これ何ですか!?」
担任の佐伯先生が慌てて立ち上がる。
「み、みんな落ち着いてください! まずは状況を確認して――」
その声は震えていた。先生も分かっていない。
大人も頼りにならない。その事実が、教室とは違う形で俺たちを不安にさせた。
俺は周囲を見回した。
神崎アオイは、すでに立ち上がっていた。眉を寄せながらも、周囲を見て状況を整理しようとしている。
荒谷レンは苛立った顔で舌打ちしていた。
白石ミナトは女子たちを落ち着かせようとしている。
日向マコトは床に座り込んだまま、青ざめていた。
そして。
「……ノア?」
俺は小さく呟いた。
いない。
どこにもいない。
いつもなら、こんな時こそ俺の肩に座って笑っているはずなのに。
机の上にも。床にも。俺の背後にも。
あの銀紫の髪も、紫の瞳も、悪趣味な笑顔も。
どこにもなかった。
「……いない」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
信じられなかった。でも、いない。本当に、いない。
耳元で声がしない。首筋に冷たい指が触れない。"命令"という一言が降ってこない。
俺は異世界に召喚された。常識で考えれば最悪の状況だ。
けれど。
その瞬間だけ、俺は笑いそうになった。
解放された。やっとだ。やっと、あいつから離れられた。
恐怖より先に、そんな感情が湧いた。
不謹慎だと思う。狂っているとも思う。
でも、仕方ないだろ。
俺にとってノアのいない世界は、それだけで少し息がしやすかった。
たとえそこが、見知らぬ異世界だったとしても。
「ご安心ください」
階段の上の女が微笑んだ。
「私はこの世界を守護する女神、セレスティア。あなた方を召喚した者です」
女神。誰かがその言葉を繰り返した。
「女神……?」
「本物?」
「いやいや、コスプレだろ」
「でもここ、どう見ても日本じゃないし……」
セレスティアと名乗った女神は、騒ぎが収まるのを待つように、静かに微笑み続けた。
急かさない。怒らない。困らない。まるで、俺たちが混乱することも最初から手順に含まれているみたいだった。
やがて、神崎が一歩前に出た。
「質問してもいいですか」
その声で、少しだけ空気が締まった。
やっぱり、こういう時に前へ出られるのは神崎だ。
クラスの中心。物語の主人公。
俺なら、喉が詰まって何も言えない。
「もちろんです、異界の勇者よ」
「俺たちは、元の世界に戻れるんですか?」
いきなり核心だった。騒いでいたクラスメイトたちが静まる。
「戻れます」
その一言で、広間に安堵が広がった。
泣きそうになっていた女子が息を吐く。男子の何人かが「なんだよ、戻れるのか」と声を漏らす。佐伯先生も、露骨に肩の力を抜いた。
俺も、少しだけ安心した。
戻れる。それなら、まだ何とかなる。
もしかしたら、俺の人生はここから少しだけマシになるのかもしれない。
そんな甘いことを、ほんの一瞬だけ考えた。
「ただし」
女神の声が続いた。
「帰還の儀には条件があります」
広間の空気が、また固まった。
「この世界には今、深き闇が満ちています。魔王ゼルガディア。かつて神々によって封じられた破滅の王が、千年の眠りから目覚めようとしているのです」
女神の背後に、光の幕が浮かび上がった。映像。まるで映画のスクリーンみたいに、別の場所の景色が映る。
黒い空。赤く染まった大地。崩れた城壁。逃げ惑う人々。巨大な影。獣とも人ともつかない異形の群れ。
誰かが「うそ……」と呟いた。
女神は淡々と説明を続ける。
「この世界、エルディアは七つの王国によって成り立っています。人族、獣人族、森精族、鉱人族、竜人族。多くの種族が争い、手を取り合い、長い歴史を築いてきました」
映像が変わる。緑の森。白い城。砂漠の都市。山脈に築かれた要塞。空を飛ぶ竜の影。
綺麗だった。本当に、別世界だった。
でも、その綺麗な景色の上に、黒い染みのようなものが広がっていく。
「しかし魔王の復活により、魔物は凶暴化し、瘴気は大地を腐らせ、国々は少しずつ滅びへ向かっています。私たち神は直接この地上の争いに干渉できません。だからこそ、異界より勇者を招く古き盟約を用いました」
「つまり」
神崎が言った。
「俺たちに、その魔王を倒してほしいってことですか」
「はい。あなた方には、この世界の民を救う力があります」
荒谷レンが舌打ちした。
「勝手に連れてきて、魔王倒せって? ふざけんなよ」
何人かが同意するように声を上げる。
「そうだよ!」
「私たち高校生なんだけど!?」
「戦うとか無理だし!」
「警察呼んでよ!」
「いや警察いねぇだろ!」
女神は、それでも表情を変えなかった。
「恐れるのは当然です。ですが、あなた方はただの人間として召喚されたわけではありません。異界の魂は、この世界の理に触れることで特別な恩寵を得ます」
「恩寵?」
白石が問い返す。
「あなた方の世界の言葉で言えば、スキル。あるいは才能、祝福、職業適性と呼ぶべきものです」
その言葉に、男子の一部が反応した。
「スキル?」
「ゲームみたいな?」
「え、マジで?」
「ステータスとかある系?」
女神が片手を上げる。
「確認しましょう」
兵士たちが大きな水晶を運んできた。台座に置かれた透明な水晶。中には、星屑のような光が渦巻いている。
「この鑑定晶に触れることで、あなた方の魂に宿る恩寵を確認できます。力の性質、成長適性、固有スキル。すべてが示されます」
クラスがざわめく。
怖がっていたはずなのに。帰りたいと言っていたはずなのに。
スキル。
その言葉一つで、空気が変わった。怖い現実が、急にゲームみたいな形を持つ。そうなると、人は少しだけ恐怖を忘れるらしい。
「順番に触れてください」
最初に呼ばれた男子が、おそるおそる水晶に触れる。青い光が灯り、水晶の上に文字のようなものが浮かんだ。
「B級。水属性適性。治癒補助スキルあり」
ローブを着た神官らしき男が声を上げた。
「おお、素晴らしい! 初めからB級とは!」
触れた男子が目を丸くする。
「え、俺すごいの?」
「もちろんです。戦い方を学べば、多くの人を救えるでしょう」
女神が微笑む。男子の顔が、恐怖から高揚へ変わっていく。
次々と鑑定が進んだ。C級。B級。A級。光の色が変わるたび、歓声や落胆の声が上がる。
自分の価値が目の前で判定される。
その光景を見て、俺は嫌な気分になった。
学校でもそうだった。成績、運動能力、顔、コミュ力、家柄、友達の数、クラスでの発言力。
数字になっていないだけで、俺たちはいつも比べられていた。
ここでも同じだ。世界が変わっても、序列は消えない。ただ、今度はそれが水晶に映るだけ。
「神崎アオイ」
神崎が呼ばれた。広間の空気が少し変わる。
みんな、なんとなく分かっている。神崎はすごい結果を出す。そういう人間だからだ。
神崎が水晶に触れた。
瞬間。金色の光が爆発した。
「なっ――!」
神官たちが後ずさる。水晶が激しく震える。台座に亀裂が走る。天井まで届くほどの光の柱が立ち上がる。
「S級……!」
神官の声が震えた。
「剣聖適性、光属性最大値、固有スキル【天剣の王】……!」
広間が沸いた。
「神崎すげぇ!」
「やっぱアオイじゃん!」
「主人公かよ!」
「マジで勇者じゃん!」
神崎は困ったように眉を寄せた。
「いや、俺はまだ何もしてないんだけど……」
その反応すら、周囲には謙虚に映ったらしい。女子たちが目を輝かせる。男子たちも興奮している。佐伯先生まで、どこか安心したような顔をしていた。
女神セレスティアは、満足そうに微笑んだ。
「素晴らしいです。あなたはまさしく、この世界を救うために選ばれた勇者です」
神崎は返答に困っていた。でも、否定はしなかった。否定できる空気でもなかった。
続いて白石ミナト。
彼女が水晶に触れると、銀色の光が広がった。
「S級。聖女適性、結界術、浄化術。固有スキル【白銀の聖域】!」
また歓声。白石は青ざめながらも、静かに手を引いた。
「私に、そんな力が……」
「あなたは多くの命を救えるでしょう」
女神の言葉に、白石は唇を結んだ。
逃げたいはずだ。怖いはずだ。でも、彼女はたぶん、そう言われたら背負ってしまう。そういう人間だ。
荒谷レンはA級だった。炎属性。身体強化。固有スキル【爆炎拳】。
「はっ、悪くねぇじゃん」
レンは笑った。
日向マコトも呼ばれた。俺は少しだけ心配した。
日向が低いランクだったら、きっとまた笑われる。そう思った。
けれど、水晶は黒紫の光を放った。
「A級……影魔術適性。固有スキル【影渡り】」
日向は呆然としていた。レンが露骨に顔を歪める。
「マコトがA級かよ……」
日向は、その声を聞いて肩を震わせた。でも、すぐに水晶の光を見つめ直した。
その横顔に、今まで見たことのない感情が浮かんでいた。
喜び。安堵。そして、少しだけ危うい優越感。
俺はその顔を見て、胸がざわついた。
順番が近づいてくる。俺は手の汗を制服で拭いた。
別に、すごい力が欲しいと思っていたわけじゃない。
いや。嘘だ。少しは思っていた。
ここで何か力が出れば、俺もただの空気じゃなくなるのかもしれない。
ノアに命令されるだけの玩具じゃなくなるのかもしれない。
誰かに見下されて黙るだけの人間じゃなくなるのかもしれない。
そんな期待が、ほんの少しだけあった。
「黒瀬ユウ」
呼ばれた。足が重い。
俺は水晶の前に立った。
神崎がこちらを見ている。白石も見ている。レンは腕を組んでニヤニヤしている。日向は、どこか探るような目をしていた。
俺は息を吸った。
触れる。透明な水晶に、手のひらを置いた。
何も起きなかった。
一秒。二秒。三秒。
水晶は沈黙している。
「……え?」
俺は思わず声を漏らした。
神官が眉をひそめる。
「もう一度、強く触れてください」
言われた通りにする。何も起きない。光らない。文字も出ない。
水晶は、ただの透明な石のままだった。
広間の空気が変わった。さっきまでの期待や興奮が、すっと引いていく。代わりに生まれたのは、奇妙な沈黙。
神官が別の神官と顔を見合わせる。女神セレスティアが、初めて俺をまっすぐ見た。
金色の瞳。冷たい。
「……珍しいですね」
その声に、感情はなかった。
「黒瀬ユウ。あなたには、恩寵がありません」
「……恩寵が、ない?」
「はい。スキルなし。適性なし。補正なし。勇者としての資格も、ほぼありません」
言葉が、理解できなかった。いや、理解したくなかった。
スキルなし。適性なし。補正なし。
つまり。この世界に召喚されても、俺は何も変わらない。
いや――何も持っていないことを、全員の前で証明されただけだった。
「は……」
誰かが笑った。それが誰かは分からない。
でも、その一つの笑いが合図みたいに、広間に小さなざわめきが広がっていく。
「スキルなし?」
「そんなことあるんだ」
「逆にレアじゃね?」
「いや、ただのハズレだろ」
「黒瀬らしいっちゃ黒瀬らしいけど……」
レンが吹き出した。
「おいおい、マジかよ黒瀬。異世界来ても空気かよ」
何人かが笑った。
俺は水晶から手を離した。指先が冷たい。心臓が、変な速さで鳴っている。
白石が何か言いかけた。神崎も眉を寄せた。
でも、俺は見ないふりをした。見たら、惨めになる気がした。
女神が微笑む。
「皆さま、ご安心ください。恩寵の差は珍しいことではありません。強い者もいれば、弱い者もいる。それはどの世界でも同じことでしょう」
優しい言葉の形をしている。でも、俺には分かった。
今の言葉は、俺を慰めるためではない。俺以外を安心させるための言葉だ。
自分は黒瀬よりマシだ。自分には力がある。自分は選ばれた側だ。
そう思わせるための言葉。
女神は俺から視線を外した。
その瞬間、俺の価値は決まった。
この世界でも。
俺は、いなくても困らない側の人間だった。
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