一話:邪神と空気
俺には、秘密がある。
誰にも言えない秘密だ。
言ったところで信じてもらえないし、信じられたところで困る。
たぶん病院を勧められる。
あるいは、もう少し優しいやつなら「疲れてるんじゃない?」と気を遣ってくれるかもしれない。
でも、違う。
俺は疲れているわけじゃない。
頭がおかしくなったわけでもない。
……そう信じたいだけかもしれないが。
「ユウ。ねぇ、ユウってば」
耳元で、甘ったるい声がした。
俺は黒板を見つめたまま、シャーペンを握る指に力を込める。
無視だ。反応するな。授業中だぞ。
「無視? へぇ。ボクを無視するんだ?」
声の主は、窓際の空間に腰かけていた。
銀紫色の長い髪。宝石みたいな紫の瞳。黒と紫のドレス。小さな角のような髪飾り。
人形みたいに綺麗で、悪魔みたいに楽しそうな少女。
名前は、ノア。
本人いわく、自称"邪神"。
そして――俺にしか見えない。
「……頼むから、授業中くらい黙っててくれ」
俺は声を出さず、唇だけを小さく動かした。
周りから見れば、ただ授業を聞いているだけの普通の生徒に見えるはずだ。たぶん。
「えー。つまんない」
ノアは机の端に腰かけ、足をぶらぶらと揺らした。
俺のノートに足が触れているように見えるが、紙は揺れない。
彼女は、物に触れられない。
少なくとも、普段は。
なのに、俺にだけは触れる。
肩を叩き、耳を引っ張り、首筋に冷たい指を這わせる。
最悪だ。理不尽だ。意味が分からない。
「黒瀬」
先生の声が飛んできた。俺は反射的に顔を上げる。
「はい」
「今のところ、読んで」
「……はい」
教科書を見る。まずい。どこだ。ノアに気を取られて、まったく聞いていなかった。
「ここだよ」
ノアが白い指で、教科書の一文を指した。
腹立たしいことに、正解だった。
俺はその部分を読み上げる。先生は何事もなかったように頷き、授業を続けた。
助かった。
助かったが、感謝はしたくない。
「ね? ボクって役に立つでしょ?」
「お前が邪魔しなければ最初から困ってない」
「細かいなぁ」
ノアはくすくすと笑う。
俺はため息を飲み込んだ。
◇
俺の名前は、黒瀬ユウ。
星見坂高校二年三組。
成績は普通。運動も普通。顔も普通。
性格は……自分では分からない。
クラスでの立ち位置は、たぶん"空気"に近い。
いじめられているわけではない。嫌われているわけでもない。
ただ、中心にはいない。誰かの一番の友達でも、誰かの憧れでも、誰かの敵ですらない。
いても困らない。いなくても困らない。そんな存在。
俺はそれでよかった。
空気は楽だ。誰にも期待されない。誰にも嫉妬されない。誰にも強く踏み込まれない。
波風を立てずに生きられるなら、それが一番いい。
……ノアさえいなければ。
◇
昼休み。
教室は一気に騒がしくなった。机を寄せて弁当を広げる女子。購買へ走る男子。スマホゲームのログインボーナスに一喜一憂するやつ。寝不足なのか、机に突っ伏して動かないやつ。
どこにでもある昼休みだ。
その中心にいるのは、神崎アオイだった。
黒髪で、背が高くて、顔がいい。勉強もできる。運動もできる。教師からの信頼も厚い。
名前だけ見ると女子っぽいが、男だ。
たぶん、このクラスを物語にしたら、主人公はあいつになる。
「アオイ、今日カラオケ行こうぜ」
「お前、昨日も行っただろ。課題は?」
「課題は未来の俺がやる」
「未来のレンに同情するよ」
アオイの隣で笑っているのは、荒谷レン。
茶髪。制服は少し崩している。声が大きく、態度も大きい。いわゆる陽キャ不良。
ただし、誰にでも噛みつくわけではない。
教師にはそこそこ愛想がいい。女子には軽いが、露骨に嫌われるほどではない。
そして、下に見た相手には容赦がない。
俺が一番関わりたくないタイプだ。
「神崎くんってほんと面倒見いいよね」
「レンくんの保護者みたい」
「いや、俺は保護者じゃないから」
アオイが苦笑すると、周囲の女子たちが笑う。
その光景を横目に、俺はコンビニの焼きそばパンを開けた。
安い味がする。でも、嫌いじゃない。
「ねぇ、ユウ」
机の端に、ノアが頬杖をついた。
「命令」
その一言で、俺の手が止まった。焼きそばパンの味どころではなくなる。
「……やめろ」
「やめない」
ノアは楽しそうに笑う。
「三十秒以内に、白石ミナトの髪留めを褒めてきて」
「は?」
俺は思わず声が出そうになった。
視線を動かす。
教室の前方、窓際の席で文庫本を読んでいる女子――白石ミナト。
クラス委員。黒髪ショート。成績優秀。運動もできる。教師からの信頼も厚い。
女子側の中心人物といえば、たぶん彼女だ。
今日の白石は、いつもと違う髪留めをしていた。淡い青色の、小さなピン。
確かに似合っている。
だが――だから何だ。
「無理だろ」
「二十六秒」
「急にそんなこと言ったら変だろ」
「二十二秒」
「ノア」
「十九秒」
胸の奥が冷える。
ノアの命令は絶対だ。冗談ではない。
一度だけ、逆らったことがある。たった一度だけ。
コンビニの前で、知らないおじさんに「百円ください」と言え、と命令された。
俺は嫌だった。恥ずかしかった。そんなことをしたら変人だと思われる。
だから無視した。
十秒後。
心臓を握り潰された。
比喩ではない。
胸の内側を冷たい手で直接掴まれたような痛み。息ができない。視界が黒くなる。地面が近づく。
死ぬ。本気で、そう思った。
その時、ノアは耳元で笑っていた。
『次、逆らったら本気で殺すからね?』
それ以来、俺は逆らえない。
「十二秒」
俺は立ち上がった。
足が重い。白石の席まで、たった数メートル。なのに、処刑台まで歩いているような気分だった。
「白石さん」
声が少し裏返った。
白石が本から顔を上げる。
「黒瀬くん? どうしたの?」
周囲の何人かが、こちらを見る。
やめろ。見るな。
俺は何もしたくない。いや、今からする。かなり変なことを。
「その……」
喉が乾く。ノアが俺の席の上で、にやにや笑っている。
「今日の髪留め、似合ってると思う」
言った。言ってしまった。
「え?」
白石は少し驚いた顔をした。
終わった。絶対に変だと思われた。明日から俺は"急に女子の髪留めを褒めるキモいやつ"として扱われる。
そう覚悟した。
けれど。
「……ありがとう」
白石は、ほんの少しだけ笑った。
「これ、新しく買ったやつだから。気づいてくれて嬉しい」
「そ、そうなんだ」
「うん」
「じゃ、じゃあ……」
俺は逃げるように自分の席へ戻った。
戻る途中、荒谷レンがこちらを見ていた。
ニヤニヤしている。
「黒瀬ぇ。お前、意外と攻めるじゃん」
「違う」
「何が違うんだよ」
「違うんだよ」
説明できない。できるわけがない。
俺にしか見えない邪神に命令されました、なんて。
席に座ると、ノアが満足そうに拍手していた。
「えらいえらい」
「殺すぞ」
「できないくせに」
ノアは笑う。悔しいくらい、楽しそうに。
「でもよかったじゃん。ミナトちゃん、嬉しそうだったよ?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「俺の意思がないって問題だよ」
ノアは一瞬、きょとんとした。それから、楽しそうに目を細める。
「人間って、意思とか好きだよね」
「お前には分からないだろ」
「うん。分からない」
ノアはあっさり頷いた。
「だってボク、邪神だし」
自称だろ。そう言いかけて、やめた。どうせ笑われるだけだ。
俺は冷めかけた焼きそばパンをかじる。
味は、もうしなかった。
◇
これが俺の日常だ。
普通の高校生に見える俺の日常。
自称邪神に付きまとわれ、命令に逆らえず、普通のふりをして生きる毎日。
俺はその日常が、心底嫌だった。
でも――まさか翌日、その嫌な日常すら失うことになるなんて、この時の俺はまだ知らなかった。
◇
五限目が終わる頃には、昼休みの件はそれなりに広まっていた。
俺が白石ミナトの髪留めを褒めたこと。
たったそれだけ。なのに、俺みたいな空気が普段しないことをすると、教室では小さな事件になるらしい。
「黒瀬、お前さぁ」
放課後、帰る準備をしていると、後ろから荒谷レンの声がした。
「白石狙いなの?」
「違う」
「即答じゃん。逆に怪しいわ」
レンがニヤニヤ笑う。近くにいた男子も笑った。
「いや、マジで違うから」
「じゃあ何? 急に髪留め褒めるとか、普通しなくね?」
普通はしない。俺もそう思う。でも、命令だった。逆らえば死ぬ命令だった。
そんな説明ができるわけもなく、俺は曖昧に視線をそらした。
「……なんとなく」
「なんとなくで白石に話しかけられるなら、黒瀬って実はメンタル強くね?」
「強くない」
むしろ弱い。かなり弱い。
その証拠に、今も胃が痛い。
教室の前方では、白石ミナトが友達と話していた。こちらの騒ぎに気づいたようだったが、特に何も言わなかった。
それがありがたい。
変に庇われても困るし、変に反応されても困る。何もなかったことにしてほしい。
空気は、空気に戻るのが一番いい。
「黒瀬くん」
そう思った矢先、横から声がした。
振り向くと、そこにいたのは日向マコトだった。
小柄で、少し猫背。前髪が長く、目元が隠れがち。声はいつも小さい。
二年三組で一番"下"に置かれている男子。
はっきりいじめと言えば、たぶんいじめになる。けれど、本人も周囲もそれを曖昧にしている。
冗談。いじり。ノリ。空気。そういう言葉で薄く包まれているだけだ。
「何?」
「その……昨日の数学のプリント、見せてもらってもいい?」
「ああ、いいけど」
俺は鞄からプリントを出して渡した。
「ありがとう」
日向はほっとしたように笑う。その瞬間だった。
「おーい、マコトぉ」
レンの声。日向の肩が、びくりと跳ねた。
「お前さ、黒瀬にまで頼ってんの?」
「え、いや、その……」
「黒瀬も困ってんじゃん。なぁ?」
やめろ。こっちに振るな。
俺は何も言わなかった。言えなかった。
レンは日向の手からプリントをひょいと抜き取った。
「あっ」
「お前、まず自分でやれよ。な? 努力しようぜ?」
「す、すみません……」
「謝ればいいって話じゃねぇだろ」
周囲が少し静かになる。こういう時の教室は嫌いだ。
みんな見ている。でも、見ていないふりをする。俺もその一人だ。
何か言えば、空気が動く。空気が動けば、矛先がこっちに来る。だから黙る。
黙っていれば、自分は傷つかない。
「ねぇ、ユウ」
机の上に、ノアが座っていた。いつの間に。
紫の瞳が、きらきらしている。
嫌な予感がした。
「命令」
心臓が冷えた。
「やめろ」
「レンくんに言って」
「何を」
ノアは笑った。
「弱い者いじめって、見ててダサいよ、って」
終わった。本気で、そう思った。
「無理だ」
「十秒」
「ノア」
「九」
「頼む。これは本当にまずい」
「八」
胸が痛くなる。まただ。命令が、俺の首を締める。
「七」
日向は俯いている。レンはプリントをひらひらさせている。周囲は見て見ぬふり。
「六」
俺も、本当ならその一部でいたかった。情けないけど、それが本音だ。
「五」
死にたくない。
「四」
目立ちたくない。
「三」
でも、逆らえば死ぬ。
「二」
俺は立ち上がった。
「一」
「荒谷」
声が出た。教室が静まる。レンが振り向いた。
「あ?」
その一文字だけで、膝が震えそうになる。怖い。本当に怖い。
でも、もう逃げられない。
「弱い者いじめってさ」
喉が乾く。ノアが楽しそうに見ている。日向が目を見開いている。白石もこちらを見ている。
「見てて、ダサいと思う」
言った。言ってしまった。
空気が止まった。レンの顔から笑みが消える。
「……黒瀬。今なんつった?」
死んだ。たぶん死んだ。
いや、ノアに殺されるよりはマシなのか? いやいや、レンに殴られるのも普通に嫌だ。
俺の頭は、どうでもいい計算を始めていた。
「いや、その……」
どうする。命令は達成した。あとは生き残る言い訳だ。
「ダサいっていうか、今ってすぐ動画とか撮られるだろ。変なふうに広まったら、荒谷だけじゃなくて神崎にも迷惑かかると思って」
俺は神崎アオイの名前を出した。
ずるい言い方だ。でも、レンはアオイの評判に関わることには少し弱い。
レンはしばらく俺を睨んだ。心臓がうるさい。
「……チッ」
レンはプリントを日向に投げ返した。
「萎えたわ」
それだけ言って、鞄を肩にかける。
「行くぞ、アオイ」
「……ああ」
アオイは少しだけ俺を見た。何か言いたそうな顔。けれど、結局何も言わず、レンについて教室を出ていった。
張り詰めていた空気が緩む。
俺は椅子に座り込んだ。足に力が入らない。
「黒瀬くん……」
日向が小さく言った。
「ありがとう」
「いや、別に」
違う。俺は助けたかったから動いたわけじゃない。命令されたから動いた。逆らえば死ぬから。それだけだ。
なのに、日向は少しだけ救われたような顔をしていた。
その顔が、妙に胸に刺さった。
「よくできました」
ノアが拍手する。
「ユウ、ちょっと主人公っぽかったよ」
「ふざけんな」
「えー、褒めてるのに」
「お前のせいで寿命が縮んだ」
「でも死んでないよ?」
ノアは無邪気に笑った。
「よかったね」
俺は何も言えなかった。
こいつにとって、俺の恐怖も、日向の惨めさも、レンの怒りも、全部娯楽なのだ。
俺の日常は、ノアの遊び場。
そして俺は、その中で一番よく動く玩具。
悔しい。でも、逆らえない。
それが一番、悔しかった。
◇
その日の帰り道、スマホが震えた。
白石ミナトからだった。
『今日のこと、私はよかったと思う』
短い文章。たぶん、クラスのグループから俺の連絡先を見つけたのだろう。
俺はその画面をしばらく見つめた。
よかった。そう言われても困る。
俺は正義感で動いたわけじゃない。勇気を出したわけでもない。命令に従っただけだ。
でも。
少しだけ、嬉しかった。
「ユウ」
電柱の上に、ノアが座っていた。夕焼けを背に、足を揺らしている。
「君ってさ」
紫の瞳が、楽しそうに細まる。
「命令されると、けっこう面白いことするよね」
俺は返事をしなかった。ただ、スマホを握りしめて歩いた。
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