シェリ、やっちゃいました…
シェリィはもうずっと何も食べていない。
常人ならば、いつ餓死してもおかしくない状態である。
「はぁ…はぁ…シェリにだって…シェリにだって、何かに怒る権利くらいはある筈だもん!」
シェリィは、類稀なる胆力のみを杖にそこに立っていた。
「ふぅん。たかだが人間の奴隷の分際で、私に楯突こうってのね?」
周囲の気温が、シェリィを中心に下がって行く。
然しシェリィの体温はどんどんと上昇していき、傷から流れ出るフラックスの量も増えていく。
「あら。確かにあちこちからブラックフラックスが出てるわね。バルフェアの言う通りね。」
(でも変ね。普通だったら気温は高くなって行く筈だけど…どう言う事かしら。)
ビルジライミは椅子から立ち上がる。
「はぁ…バルフェアの奴、案の定調教不足みたいね。ま、ああ見えて結構怠惰な所あるからねぇ。」
ビルジライミの瞳が、赤く輝く。
「《マインドキル》」
ボタリ、と、一際大きなブラックフラックスが床に零れ落ちる。
起こった事は、それだけだった。
「…?」
シェリィは首を傾げる。
その足元では、フラックスのプールが広がり続けている。
「どう言う事…?まさか人間の分際で、この私の邪眼に抵抗したって言うの!?もう許さない…今だったらまだ植物状態にしてバルフェアのとこに送り返すくらいの気遣いはしてあげようと思ってたのに!」
ビルジライミは、持っていたナイフとフォークを構える。
「もう許さないわ!先ず貴女をバラバラにして、次にこんな不良品を掴ませたバルフェアにも思い知らせてやるんだから!」
ビルジライミがそう言った瞬間、シェリィの首輪がビルジライミの所に一瞬だけ引き寄せられる。
シェリィは直ぐにその意図を理解した。
首輪はシェリィに、主人の為に戦えと言っていた。
「この死に損ないが!」
ビルジライミはナイフとフォークを投げる。
それは音速を超えて、シェリィの元まで飛来する。
二つの食器はシェリィの胸部に当たると、石か何かに衝突した時の様な軽い金属音をたてながら、シェリィの足元に落下し、フラックスのプールに沈んだ。
当たった瞬間に全ての推力を失い落下するその様子は、硬いものに当たった時と言うよりも、クッションか何かと衝突した時の様だった。
「ど…どうなってんの…!?盾も鎧もスキルも無しに、そんな事って…」
ボタボタと、ブラックフラックスの塊がプールに落ちる。
これで充填完了である。
「まさか…お前…!」
ビルジライミには、今目の前で起こっている事象に心当たりがあった。
受けた魔法、物理攻撃、更には外気温までもをエネルギーとして取り込み自身の魔力に変換するスキルは、確かにこの世界に存在した。
だとしたら一つ、おかしな点がある。
「二種の魔法だと!?」
「シェリはバルフェア様の奴隷。あなたのじゃないよ。《魂操化身:奇臧羅カの帝。」
プールより現れた黒いタコ足がシェリィに巻き付き、シェリィを昏き泉の底へと沈める。
代わりにそのプールからは、巨大なタコ足が一本ずつ生えてくる。
「しかもシェイプシフト型だと!?バルフェアの奴、一体こいつに何食わせて育てたんだよ!」
ビルジライミは変身の際の破壊に巻き込まれぬ様、窓から脱出する。
1本目の足が8分の1ほど出てきた時点でその部屋はキャパシティーオーバーとなり、破壊される。
2本目の半分でタコ足の総体積が建物全体の容量を超え、屋敷が破壊される。
降臨した奇臧羅カの帝は、かつてそこにあった屋敷の数十倍の体積を誇っていた。
「は…はは…そうか…そう言うことか…」
タコ足が1本、ビルジライミに向けて振り下ろされる。
ビルジライミはそれを、跳躍して回避する。
そこに直ぐ2本目の足が伸び、ビルジライミを巻き取った。
「私が思ってる以上に、私とバルフェアには格位の差があったんだな。」
ビルジライミを捕らえたタコ足が、天高く掲げられる。
「奴隷の首輪は、弱すぎるこいつの事を許したんじゃない。」
ビルジライミを捕らえたタコ足が、勢い良く振り下ろされる。
「ただ単純に、私の方が下だったから作動しなかっただけか…はははははははは!こりゃとんだ笑いば」
高度数百メートルから地面に叩きつけられたビルジライミは、跡形も残らず“粉砕”した。
勝負を終えた奇臧羅カの帝は直ぐに崩壊を始め、そのまま倒壊する。
「…けほっけほ…ごほ…」
溶けた頭部から、シェリィが這い出てくる。
「…あ…ああ…あああああああああ!」
そこでシェリィは漸く、自身が何をしでかしたかに気が付く。
「おい、今死んだのってまさかビルジライミか!?」
「あのシェイプシフターは何者だ?何処の家の奴だ?」
「ねえよく見て。あれって人間じゃない?」
犯行現場は、魔族の支配する街のど真ん中。
屋敷の破壊によって大勢の野次馬も集まってきており、最早言い逃れはできそうにない。
「ごごごごごごめんなさいぃ!ままままさか本当に死んじゃうなんて…ゲホッゲホ…」
シェリィは吐血しながら謝る。
きっとそのうち警察がやって来て、自分は殺魔罪にでも問われてまた酷い目に逢うんだ。
シェリィはそう確信していた。
(うう…シェリってもしかしたら、とんでもない怒りんぼうなのかな…だったら牢屋に入れられても当然だよね…)
然し、そんなシェリィの心配事は全て、杞憂に終わる事となった。
「っぷ…あっはっはっはっは!」
「ひーはっはっはっは!」
「あはははは!あーっはっはっはっはっは!」
「うふふふふふ。きゃはははははは!」
野次馬の魔族は皆、大声で笑い出した。
腹を抱えて転がり回る者もちらほらいた。
「え…?」
シェリィは困惑する。
「あいつ、マジで人間に殺されたのか!冗談だろ!あははははは!」
「弱いのか馬鹿なのか知らねえけど…ップ…ックックックックック…普通死ぬかよ!」
「あははははは!あっはっはっはっは!おい地面にこべりついてんの全部ビルジライミか!?こいつぁ傑作だぜ!ぎゃははははははは!」
現場は、爆笑の渦に包まれる。
普段であれば、誰かの笑い声を聞けば自然と楽しい気持ちになっていたシェリィだったが、今回ばかりは全くそんな気にはならなかった。
得体の知れない、大きな大きな狂気を前に、ただただ萎縮し怯える事しか出来なかった。
少しして、何事かとこの街の警官が駆けつける。。
然し警察もまた、飛散したビルジライミを見てひとしきり笑った後、何もせずに帰って行ってしまった。
やがて野次馬達も次第に飽き始め、ちらほらとその場を後にする者が現れる。
最終的には野次馬も警察も居なくなり、壊れた屋敷の前の道路はいつも通りの日常を再開した。
何も知らない魔族がビルジライミを見つけると、雨上がりの水たまりの容量で飛び越えたり、或いは無視して踏んで行ったりして通過した。
「え…?え…?」
シェリィはその場で一部始終を見ていたが、遂にここで何が起こったかを理解する事は出来なかった。
かつて屋敷だった物の前の通りを、先程とは別の警官が通る。
なのでシェリィはクラーケンの骸から飛び出し、自首すべくその警官まで近付いた。
「あ…あの!」
「ん?何かお困りですか?お嬢さん。」
「あの、シェリ、魔族の方を殺しちゃいました…」
「成程。それで?」
「え?えっと…」
シェリィは不思議そうに首を傾げる。
そんなシェリィの様子が不思議で、警官もまた困り果てる。
この子は一体どうして困っているのだろうか。
何か手掛かりは無いかと、警官は周囲を見回す。
すると道の真ん中に、真新しい血溜まりを発見した。
「あ、もしかして道が汚れちゃったってこと?いやぁ、わざわざ言ってくれるなんて気が利くねぇ。解った。本官が掃除の人を呼んでおいてあげるから、君はもう帰っていいよ。」
「…?」
「気に入らない奴を殺せるだけでなく周りにも気を遣えるなんて、君は将来立派な淑女になれるよ。」
「???」
そうして狂った会話は終わり、シェリィは再び取り残される。
魔族の社会に、殺しを裁く法律は存在しない。
気に入らない奴が居れば殺せば良いし、死にたくなければ己の力を磨くなり逃げるなりすればいい。
協調を前提とした人間の社会とは、根本的な所で考え方の違いがあった。
首輪がちょいちょいとシェリィを引っ張る。
ご主人様からのお呼び出しだ。
(そうだ、ビルジライミ様はご主人様のお友達だったんだよね。だったらご主人様にも、この事を伝えないと…)
自身の中でその場を離れる言い訳を成立させたシェリィは、そそくさとその場を立ち去った。
この場所から屋敷までは、徒歩二時間の距離だ。




