虹、あるいは浮遊する音楽 §10‐2 |〈孤狼の領域〉|
§10‐2
ものごころついたときから家もなかった。血のつながった家族もいなかった。
エイダの豪華なマンションにあったものは、ほとんどエイダのもので、ゾエにあてがわれたのはみな借り物のようなものだった。
〈領域A〉に来てからはそのわずかな私物すら奪われ、日常のこまかな物資にすら不自由する毎日を送らされている。
「あぁ、やっぱり、あたしには何もないんだぁ」
弱々しい声音で吐き出したゾエを見てエンマもちょっとは何とかしなくてはと思う気持ちになった。
「どうせなら、いいほうに考えましょう。
もしセリナさんって人が、保存期限を延長するために、いちど削除したデータを新たに預け直してくれてるんだとしたら、日付が変わっても”蛇さがし”は続けられるんです」
ゾエは濡れたまつ毛をまたたいてエンマの顔を見た。
芹那がデータをストレージに預け直している可能性……思いもよらなかったことだった。
「レターリングのIDと初期パスコードは、初期設定のものから、利用者が任意に変更することもできるんです。
もしも預け直したなら、受け取り相手のゾエさんが思い浮かべやすい座標を設定してるんじゃないかと思います」
ゾエは涙を拭って考えた。
IDは削除済のデータに芹那が設定していたのと同じ、「CERINA7210」だろう。
芹那が今もゾエに楽曲データを渡すつもりでいるならこれは変える理由がない。
そして、新たな初期パスコード。ゾエと芹那がどちらも思いつきそうな座標。
あの日の芹那の歌声を思い出す。
街の喧騒に邪魔されないように
きらめく明かりをふりまく夜に紛れて
ならば答えは一つしかない。
それなら、あの日、ゾエと芹那がいた場所に決まっている。
「わたしの住んでいたマンションの座標だと思う。首都B1N区画」
エンマは聞いて即座に首都全図の立体地図を開き、さっきの3次元グラフに重ね合わせた。
縮尺は初期設定から変えずにゾエが言った区画の箇所を拡大表示し、グラフの座標軸から該当箇所の座標を確かめる。
芹那が新規に預けたデータの初期パスコードにされているとしたら、この座標。
「これでよし。次は開封パスコードです。
データが預け直された日から今日までの日数を知る必要があるんですけど、いつだと思いますか?」
「わたしが〈領域A〉に連れて行かれた日からすぐなら、去年の11月30日か12月1日ごろ」
「パスコード変更は多くて50回以上ですか。
でも、これでおおよそはわかりました」
地図とグラフを閉じるとまた入力フォームを開き、開封パスコードと見積もった座標を9桁の数字で打ち込んでいく。
画面には何度もあったパスコードの誤りを示すメッセージが表示される。
はずれ、またはずれ。
やはりだめかとゾエが肩を落としかけたとき、エンマが快哉を叫んだ。
「やったぁ、ダウンロードページに入れました」
ファイル名の記された球形のアイコンと、下にはバー形状のダウンロードボタンが表示されていた。
Happy_Birthday_For_Zoe--.mpg
踊り場には静かに、芹那の歌が流れた。
心地よくて、どこか切ないような音楽。
空像幸波が生まれて初めてもらった自分のための歌。
とくべつな贈り物は
とくべつな時にしかない
けれど どんなときにでもある
あなただけの不思議な力
眩しいような陽だまりの雫
エイダではなく、エンマとこれを聞いているのが妙な気もした。
それも本当の誕生日でもなんでもない日に。
でも、今までどこにも「わたしの場所」がなかった自分にとってはもう、いつどこでだれといるのも同じことになっている、という気もした。
それなら隣にいるのがエンマなのはぜんぜんおかしなことじゃない。
むしろ、いちばん、この歌をいっしょに聴くのにふさわしい相手だ。
ゾエの願いを聞き入れ、芹那のデータを取得するために協力してくれたのはエンマなのだから。




