虹、あるいは浮遊する音楽 §10‐1 |〈孤狼の領域〉|
§10‐1
「ありがとう、エンマさん」
うれしくなったゾエは思わずエンマの首ったまにかじりついた。
「ぐえ」
エンマは変な声を出した。
身じろぎされて無理やり引き離され、あらためて顔を見ると赤くなっている。
「お嬢さま気質というやつは、まったく理解しがたいですよ……
〈領域A〉まで来て、一曲の歌のために、わざわざこんな手間をかけるとは」
「だって、ただの歌じゃないわ。
この世で一曲きりの、あたしのために作られた誕生日祝いの歌なのよ。
エンマさんにだって一つくらいあるでしょ、宝物」
「あるかと問われれば、あると答えましょう。
体操着のポケットに隠してあるソーダ味のガム」
「んもう。でも教えて、エンマさん。
いったいどうやって今日のパスコードを探り当てたの?」
〈領域A〉から出られないゾエのように、特殊な状況に置かれているわけではないレターリング利用者であっても、データを預けた時点で自動的に取得できる初期パスコードと開封日のパスコードの二つを何かの事情で使いそこねれば、それ以外の日に開封するためのパスコードは何らかの方法で調べなくてはならなくなる。
ただし、ふつうの利用者であれば、ちょっとした電話かメールで済むこの方法が、今のゾエたちには利用できない。
通信内容や通信記録から情報が洩れ、〈領域A〉規則の違反が施設側に伝わるのはなんとしても避けたかった。
しかし、エンマはレターリング社への問い合わせを行わずに開封パスコードを明らかにしたという。
昨日の午前中、仮病でこっそりと講義を抜け出し、借りたペッパーポットを使ったのだとエンマは話した。
「空間モデルの座標軸を参考に、同じものを用いた座標空間をよそに再現すれば、3次元グラフを作成してデータのたどる道筋はえがけると考えたんです。
開封パスコードと初期パスコードの座標である2点を通る3次元グラフ。
その再現ができれば、本来の開封予定日から13日後の今日の座標がわかりますから、開封パスコードもわかりますよね」
ゾエはただうなずいて聞いていた。本当はちんぷんかんぷんだったが。
エンマはかまわずに説明を続けた。
「空間の再現とグラフの作成には、グラフ作成ソフトを使いました。
ネット上で無料公開されてるんです」
言いながら空間モデルを閉じ、スクリーン上に3次元グラフの画像データを広げてみせる。
「まぁいいわ、パスコードがわかってるなら早くデータの開封をしてちょうだい」
放っておくとまだ長くなりそうな説明を止めてゾエは急かした。
生返事をしながらエンマはサイトのダウンロードメニューへ進んだ。
IDと開封パスコードの入力フォームが二人の前にぷかりと浮かび上がる。
「急いで急いで。今夜12時までに捕まえないと、蛇は消えてしまうのよ」
「蛇……」
紙片を見ながらIDとパスコードの入力をしかけていたエンマの手がふと止まった。
ゾエの耳に呟きが聞こえた。
「なに?」
「あの、ゆうべ魅羅の〈喫茶〉で聞いたミーナンって子の話は本当のことだったんでしょうか」
湯気の立つ飲み物は匂いで見つかりやすいからという理由で、飲み物は水で作る粉末飲料ばかり出す形ばかりの〈喫茶〉。
魅羅が〈領域A〉のあちこちで、不定期に短時間だけ秘かにオープンしている〈喫茶〉は、それでもちゃっかり客としての入所者を何人か集めていた。
ゆうべの開催場所は深夜の8号棟リネン室。
「食堂のメニューにはない飲食物がある」、「表立っては交流できない入所者どうしの密会に使える」という理由で、長い入所者たちには夜市同様によく知られた存在だとか。
不足分の貸し出し料の代わりとして、ゾエとエンマはゆうべ一晩だけその店で給仕をした。
――〈領域A〉には凶暴なヤマイヌの亡霊が出没する
――いつのまにか消えている入所者は、本当は退所したのではなく、そのヤマイヌに襲われて殺されている
客の少女たちがそんな出所不明の噂話を不安げにささやきあっているのを、注文待ちのゾエとエンマが聞いていると、隅の席から一人の少女が「わたしはオオカミなら見たことがある」を奇妙なことを言い出したのだ。
3号棟のポー・ミーナンと名乗ったその少女は、〈領域A〉に来る前に故郷で見た”オオカミ”について、少しぎこちない日本語でそのとき店に集まっていた入所者たちに話し聞かせた。
獣人を思わせる見た目の、小型軽量の機甲装具を身にまとった、超人的存在。
守備隊の”蜘蛛”とともに現れたその”オオカミ”が、自身よりずっと大きな装甲車を何台も吹き飛ばすほどの謎の力を発現してみせたこと。
そして、”オオカミ”出現の場で”エッキョウシャ”という謎の単語を耳にしたこと――……
ゾエは「さあ」と肩をすくめた。
「守備隊の機密にかかる話なら、あんまり多くを知りたいと思わない、あたしは。
それに今は蛇でしょ、狼のことはあと、あと。
さあ早くパスコードを打ち込んで、エンマさん」
「やたら急かさないでください」
エンマは再び文字入力を始めた。が、すぐに沈黙したまま指の動きを止めた。
「ERROR?」
ゾエはがっかりした声で言った。
後ろから覗き込んでみると、入力フォームに代わって表示されたウインドウのメッセージには確かに「ERROR」と表示されている。
*
エンマはさらに複数回同じパスコードを打ち込んだが、結果はなんどやっても同じことだった。
ERROR表示はパスコードの誤りではないか、解析をしなおしてほしいと詰め寄るゾエに、エンマは表示をよく見てみるように言った。
下に小さな文字でさらに細かい注意書きが出ている。
〔該当のお預けデータは存在しないか、削除されています〕。
エンマは言った。
「何者かがゾエさんに渡されるはずのデータを削除したみたいですね。
今までのゾエさんの話に嘘偽りがなかったというなら、ですが」
「ぜんぶ本当のことよ。お友だちに嘘吐いたりしないわ」
「では、データは削除されたんです。ゾエさん以外の相手に思い当たる人物はいますか?」
ゾエはペッパーポットから目を逸らし、床に目を落とした。
「……わからない。セリナさんかも」
ゾエが〈領域A〉に送られたことを聞いたなら、保存期限までの開封は不可能だと思っても無理はないだろう。
そのような理由でアップロードした本人である芹那がデータを消してしまった……ということは充分に考えられる。
データじたいがないのでは、芹那の歌も聞きようがない。
スクリーン下の時刻表示は「19:45」。保存期限まであと4時間15分だが、データが消えた今、それも関係がなくなった。
「消えちゃった。あたしの歌。
宝物になるはずだった歌……」
ゾエの瞳からは涙が零れはじめた。




