第八話 高貴なる砂絹の血
大陸文明の祖――シャフリの末裔が誰か、というのはまだ議論されつくしていない。
けれど昔語りでは必ず中央の砂絹から人々は四方八方へ旅立っていき、遠方から目指す桃源郷もまた大陸中央に位置する砂絹である。
今はほぼ枯れてしまったが、砂絹は黄金が湧き出る地であった。
そして分裂と併合を繰り返す大陸の強国とは違い、砂絹は有史以来ずっと砂絹であった。
一途に血脈を保ってきた国として他国とは学問的にも宗教的にも政治的にも少し異質な扱いをされる。
決して国土は広くない。黄金の産出量は年々目減りし、乾いた土地はもはや豊かでもない。それでも矜持はどの国よりも高い。
最大最強を誇るノルシエも、交易で莫大な財を成す輝壤も、飛ぶ鳥を落とす勢いの南の新興国も、鎖国し独自の文化を築く東国も、砂絹の高貴な血に比べれば下等民族――それは各国共通の『常識』である。
金も武力もない歴史だけ古いお高く留まった国、とアルサラーンは唾棄する。
特に脅威にはならぬ過去の遺物、と龍王は笑みを含んで評する。
それでも龍王といえど急に嫁いできたライラを拒むことはできなかったし、様々思うところはあれどアルサラーンもシリンを受け入れざるを得ない。
その名尊き砂絹の血。
その血をどう使うのか。それこそが砂絹の王族に求められる器だった。
***
「……ねぇ、馬を代えるくらいもっと早くできないの」
シリンが閉じた扇子で従者の手をピシリと叩いた。
シリンが馬を休ませることを許さないので、走り潰してしまい、もう何回目かの交代だった。
ノルシエの領土に入り、みぞれまじりの雨が降ってくる。
馬だけじゃなく、付き合わされている御者や従者たちも限界だったが、シリンはよしとしない。
「はやく……はやくライラ姉さまのところにいかなくちゃ……」
熱に浮かされたように呟くシリンは従者たちの疲労などどこ吹く風で馬車の窓から荒涼としたノルシエの雪山をうっとりと眺めている。
「文によれば、ライラ様はノルシエのご正妃としてつつがなくお過ごしとのこと。そう焦らずともシリン様が無事にご到着されることのほうが大事ですよ」
年嵩の侍女が努めて穏やかに言うと「お前は愚かね」シリンは吐き捨てるように言った。
「ライラ姉さまが下賤の王妃になったことをシリンが喜ぶとでも思っているの? 姉さまだって早く抜け出したいに決まっているわ。無理強いをされているのよ。だからシリンに助けを求める手紙を出した。違う?」
王族に届く他国からの文はよっぽどのことがないかぎり侍女や侍官によって検閲されている。
だからこの年嵩の侍女もライラからの手紙の内容は知っていた。
だが、ライラが助けを求めているようにはどうにも読めなかった。
シリンからの手紙に対して宥めるような……もっと言えば、輝壤の動向を警戒して窺うような文面がいくつか見られた。『ノルシエの正妃』として正しい反応の手紙だったように思う。
言えばシリンは烈火のごとく怒るだろうから使用人たちは誰も口には出さないけれど、ライラは砂絹にいた時よりノルシエで上手くやっているんじゃないだろうか、というのが下々の見立てであった。
正式な華燭の典はまだ迎えていないが、誰からも見えないことになっていた姫君が大国の正妃として他国の王太子とその妃を茶会に招くというのは、きちんとした身分が保証されているということだ。
龍王から正妃に相応しい扱いを受けていて、ある程度の自由がきくということ。
少なくともシリンの救出が必要な立場にはいないだろう。
けれど、シリンは決してその事実を見ようとはしない。
「もうじき山に入ります。その前に麓の町でアルサラーン殿下と合流する予定です」
「そう。殿下はちゃんとノルシエ攻略の兵を連れてきてくれるかしら」
「…………どうでしょうか。輝壤とてノルシエを落とすには苦労なさるでしょうから、そう簡単に派兵とはいかない気がいたしますが」
「誰も彼も不甲斐ないことね。あの国は龍王さえ仕留めれば脆く崩れるはずなのに。下賤の血で汚れるのは嫌だけれど、やはり刺し違えてでもシリンがやるしかないのかしら」
窓の外にちらつく雪を見つめたままシリンが言う。
さっぱりとした口調だった。
それが逆に彼女の本気を表しているようで侍女は口を噤む。
いかに砂絹の姫とはいえノルシエの王に刃を向けて無事ではいられまい。
どうか幸せに暮らす姉姫を見て思い直してくれまいか。
どうか上手くライラがシリンを宥めてはくれまいか。
祈る侍女の心中を知ってか知らずか、シリンは小声で歌いはじめた。
***
ぼろぼろに使い潰された馬を見て「ずいぶん残酷なことをする」とアルサラーンは独り言ちた。
ノルシエの急峻で雪深い山に、温暖な地である輝壤や砂絹の馬は適さない。
だから山の麓で北方の馬に乗り換えていくのだが、ここまでだいぶ無理をさせたのだろう。
シリンたちの馬はまた走れるかどうかも怪しいほど酷使されていた。
宿の厩舎で見かけた御者はぐったりと身を投げ出し横たわる馬に声をかけながら涙を落としていた。――元よりあまりいい感情のないアルサラーンだが、ノルシエを取り巻く今回の件でシリンに対する気持ちはすっかり苦いものとなった。
わざわざ龍王のもとに出向かなくてはいけなくなったことも、軽々しく戦を望むことも、高貴な血に甘んじて妃として必要な資質を蔑ろにすることも、すべてがアルサラーンの胃の腑を重くする。
「――つくづく人の上に立つのに向いていない女だ」
第九妃候補とはいえ妃は妃。
本来ならば同衾するのが慣例だが、正式な輿入れ前だからと無理やり宿の部屋を分けさせた。
疲れた身体でシリンと相対すれば嫌味のひとつは零してしまうかもしれない。
高貴な血にこだわるシリンは輝壤……砂絹から見て下民であるアルサラーンの失言を許しはしないだろう。下手に機嫌を損ねて龍王の前で爆発するのは避けたい。
憂鬱ではあるが、シリンが暴走しなければ龍王との酒宴は交易を拡大する契機でもある。
ここ数年、輝壤とノルシエは当たらず触らず、長きにわたる敵対関係を解消し、戦を起こさないことに尽力してきた。だがアルサラーンはもう一歩踏み込みたい。
鉱物や石油はもちろん、長い冬を部屋の中で過ごすノルシエの民が作る手工芸品は精緻で美しく、高値での取引が期待できる。
アルサラーンの治世ではこうしたノルシエの経済的価値を活かした関係値を築きたい。それには龍王と親交を深めるのが一番手っ取り早く、茶会はアルサラーンにとっても悪くはない話だった。
つくづくシリンの「ノルシエ殲滅戦」発言さえなければ。
茶会では『殲滅戦』の真意を、無い腹を探られるかもしれない。
血気盛んな輝壤と言われがちだが、それは祖父の代まで。
女王である母とアルサラーンには戦の才がない。
高祖父の代に領土を急拡大した名残で弱くはないが、現女王は民草をこれ以上死なせてはならないと、各国と『慈母協定』と呼ばれる非戦路線をいっており、今や大陸最大最強に匹敵する軍ではない。
だからアルサラーンにも戦端を開くつもりは毛ほどもないが、長年交戦してきた歴史が邪魔をする。
アルサラーンは龍王が玉璽ではなく、狼の封蠟印を捺してきたことに思いを馳せる。
ごく限られた親しい人間にだけ贈る御印。
どういう駆け引きかはわからないが、文面通り腹を割って話せる仲になれれば両国にとって利となるはずだ。
「本当の友になれればよいのだがな……」
少し離れた部屋からシリンの罵声と何かが割れる音がした。
宿泊などせず一刻も早く王都に向かえと癇癪を起こしているのが漏れ聞こえてくる。
夜の雪山がいかに危険かわからないわけはなかろうに。
アルサラーンは暗澹とした気分で事を治めるべく妃の部屋へと向かった。
***
龍王の機嫌が至極いい。
いつものことながら政務を終えた夜半すぎに南の宮までやってくると、ライラをぎゅうぎゅうと抱きしめ寝台に寝転がる。
そこまでは嫁いだばかりのときと変わらない。
最近はそこに睦言が追加された。
ライラが寝物語を始めると、合いの手を打つように龍王が甘い声で囁くのだ。
側妃たちと「陛下はきっとこんなこと言わないわね」ときゃらきゃら笑い転げた恋愛絵巻の台詞を、真顔で耳元に吹き込んでくる。
「お前の黒玻璃の瞳には僕しか映してはいけない。輝壤から王太子がきてもお前は僕だけのものだからね。僕以外の男に微笑んではいけないよ」
「あ、えっと」
「お前の鈴の声も僕だけのものだ。ほら、僕だけを愛していると囁いて。その声で僕を安心させておくれ。お前の心は僕にあると」
「ひゃ、」
蕩けるような龍王の声がくちづけとともに耳元、頬、首、胸元と降ってくる。
ライラが真っ赤になって身を竦めると「――……はい、やり直し。まったくいつになったら慣れるんだろうね。もう時間がないよ、ライラ」呆れたように鼻の頭をかじられる。
堂々と『寵愛を一身に受ける正妃』の芝居ができるよう、香露が龍王に成り代わって恋愛絵巻の睦言をライラに囁いて慣らしていると知ると、龍王は「それは僕の役目だろう」と大真面目な顔で言った。なぜだか少し不機嫌な気配すらあった。
その夜から物語の中でしか聞かないような睦言が寝物語の合間に挟みこまれるようになった。
龍王はいたって上機嫌だが、聞かされる方のライラはうまく処理しきれず眠るどころか寝物語も途切れ途切れだ。
龍王からの柔らかな愛撫と睦言に翻弄されず、寝物語を一本通して語れるまで夜は続く。
何度も何度も「はい、やり直し」と無情な制止を受けて、ライラの真っ赤だった顔は焦りでだんだんと白くなっていく。
このままではシリンや王太子を欺けないとわかっているのだが、龍王の声がいつもより深く甘く艶やかになるものだから頭が真っ白になって何も言えなくなってしまうのだ。とてもじゃないが「聞き飽きたわね」といった澄まし顔なんてできない。
もう少し手心を加えてくれないかと龍王に直訴したものの、「別に普段と何も変わらないだろう。ただお前を愛でているだけだよ」などと躱されて今に至る。
「どこからやり直すかな。なんだったか……。縁遠い者の方が運命の恋に落ちやすいという話だったか」
「正確には血が近すぎると不具合が生じる、というお話です。砂絹も近親婚を繰り返していたのですが、血が濃くなるにつれ短命の者や病がちの者が増えたそうでして」
「たしかにノルシエにも代替わりの激しい時代はあった」
「まだ国の形が今ほど定まっていなかった群雄割拠の時代には、地位の正当性を示すために純血主義が好まれましたが、純血であればあるほど、生きる道は狭くなりました」
「遠戚同士でくっついた方がお互いの長所を受け継いだ者を選び、短所を受け継いだ者を切り捨てていけるからな。人もまた動物のはしくれということだな」
「そうですね……。けれど純血主義からいきなり転換するわけにもいかないのが人の道理。そこで吟遊詩人を使って、縁遠い者たちにこそ運命の恋が待っているという物語を各国にばら撒き民衆の意識に根付かせたのです」
「その意識が根付くか根付かないかのところで、他国との婚姻を結ぶ。さぞかし祝福されただろうな。内政的にも外交的にも有効な賢君の手腕だ」
「各国で起こった話ですから、どなたが最初に成されたのかはわかりません。いくつかの婚姻には本当に運命の恋があったかもしれませんし」
「僕たちのように」
「ええ、わたくしたちのように」
「ふふ。これは照れないのか」
「わたくしたちを運命の恋と呼ぶかはさておき、わたくしをお選びになられても政略結婚の効果は薄いですし、陛下には本当によくしていただいておりますもの」
「『よくしてくれる』、ね。まったく。いつになればお前は僕の真心を認めてくれるんだか」
龍王はため息をついた。「狼の牙を立ててやろうにも無垢すぎて気が引ける。お前はいつまで白い結婚のままでいるつもりなんだい」
「いつまでとは?」
わざと眉根を寄せてみせる龍王の腕の中でライラはきょとんとする。
一切手を出されなくて悩んでいるのは寧ろライラの方なのだが、龍王の口ぶりはライラが彼を焦らしているような口ぶりだ。
「――その、陛下がお抱きにならないので、わたくしに対してそのような気にはなられないのだと。いずれお世継ぎのお話はしなければと思っていたのですが……」
「……僕は戦に出たこともある」
「? ええ、ノルシエは勇猛果敢なお国柄ですから」
「人を殺したことも、殺せと命じたこともあるという意味だ」
「……? はい、戦とはそういうものです」
「血塗られた手で触られて恐ろしくないのかと聞いているんだ。僕はこれからも血なまぐさい判断をすることがあるだろう。人を殺せと、陥れろと命じることもあるだろう。それが最善なら僕は迷わない。僕が龍王である限り、この手は汚れ続ける。お前は高貴な砂絹の血を引く女だろう。こんな夫で本当にいいのか、僕と一緒に血に塗れられるのか」
静かに、けれど斬りつけるように龍王が言って、ライラはその瞬間なぜかとてつもなくほっとした。
やっとこの美しい夫が本当の意味で自分を迎え入れてくれた気がした。
お客様扱いではなく隣を歩く正妃として、国のための汚れを受け入れられるのかと訊かれている。
抱かれたままの腕をそっと抱きしめ返す。すっかり馴染んだ落ち着く温度だった。
「わたくしは何も持たぬ異邦人です。砂絹ではずっと透明でした」
「それは何度も聞いた」
「わたくしは誰にも見えないことが、透明であることが当然だと。大国の後ろ盾を得て、少しでも砂絹の民のために生きる。それだけがわたくしにできる王族としての務めで、女にもできる戦だと思っていました。そんなつまらぬ路傍の石だったわたくしを陛下は磨いて世界に知らしめると仰りました。そしてほしがれ、と。陛下に手を伸ばしてよいのだとお許しくださいました」
「僕は今もお前が僕の手を取るのを待たされている」
「ずっと怖かったのです。陛下にいつか飽きて放り出されることが。けれどこうして陛下が手を伸ばしてくださるから、わたくしはもう透明ではないと、ノルシエの皆様の御為に戦いたいという気持ちが、妹と対峙する勇気が持てました」
「うん、少し意外だった。お前は臆病だから」
「もし陛下の御手が血に濡れていて、その手でわたくしをお抱きになると言うのならば、そこにわたくしの輪郭ができるでしょう。透明ではなくきちんと見える形が。きっとそのとき初めてわたくしはノルシエの王妃になるのだと思います」
「…………」
「陛下、舜龍さま。あなたが選んでくださるのなら。わたくしはノルシエの王妃になりとうございます」
「!」
龍王がライラをきつくかき抱き、首筋に痕が残るほど強く歯を立てた。
「……お前の妹と輝壤の件が片付いたらお前を抱く。そのときになって逃げるなよ」
「陛下お好みのむちむちではないのですが、よろしいでしょうか」
「そんなのどうだっていい。ノルシエには――……ちがうな。僕にはお前だ」
龍王の手がライラの前髪を梳きやって頬を包む。平静と同じく白い顔に、熱を孕んだ視線がライラだけを映していた。
「お前にも僕だけだと。これが運命だと言ってくれ、ライラ」
「初めての雪山のときから、きっとずっと、わたくしには陛下だけでした」
穏やかなライラの声に、ちがう、そうじゃないんだと龍王は掠れた声で呟いた。
そんな理性的な言葉がほしいんじゃない。
今このとき、自分と同じだけの熱に浮かされた言葉がほしい。
「あなたの手で、わたくしを形作ってくださいまし。血塗られていたとしても何ら構いません。あなたが非道な人ではないとわたくしは最初から知っておりますから」
ぐっと息を呑み、そうして龍王は知る。
出会いの雪山では多少興味を駆り立てただけの少女が、今自分の心の中心に座していることを。
歩むべき道はひとりで切り拓いてきた龍王が、自分の手には余る運命に縋らなければ不安なほど、この娘の身も心も渇望していることを。
「その目に映すのも、語らうのも、微笑むのも、もうぜんぶ僕だけにしてくれ」
「陛下、耳元はおやめくださいまし。どうにも恥ずかしくって」
「慣れてくれ。やめる気はない」
「……精進いたします……」
いつも通り困り果てて眉を下げるライラの顔が可愛くて、紅潮する頬を食んだ。鼻先を擦り合わせて、こそばゆく笑う。
「ノルシエと陛下の御為に、わたくしきっとがんばりますから」
「いい茶会になるとよいな」
シリンとアルサラーンが王都入りしたという一報が届いたのは、それから一昼夜後のことだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
ようやくライラと龍王の白い結婚にも終止符が……?
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