第七話 輝壤の王太子
「王太子殿下、砂絹から早馬が到着いたしました」
「早馬?」
日課である剣の鍛錬を終え、自室に戻ろうとする輝壤の王太子――アルサラーンの二歩後ろから遠慮がちな声がかかる。
砂絹からの早馬となると国王崩御の報がまっさきに頭に浮かぶが、それであればもっと騒ぎになっているだろう。
アルサラーンは汗を拭きながら文を受け取ると、封蝋の紋章に何とも言えぬ苦い顔をした。
「なんだ、またアレの癇癪か」
「第九妃殿下からの火急のご用件とのことでして……」
「候補だ。まだ妃殿下ではない」
ぞんざいに封筒を破って開け、ざっと目を通す。
小さく舌打ちをして従者の手に押し戻した。
「シリンには決して独断で動くなと伝えろ。それで通じる。たかが第九妃候補の分際で気位だけは高くて面倒くさい。いいか、絶対に勝手に動くなと言え」
「姫君は何と仰せで?」
「ノルシエ殲滅戦をご所望だとよ。まったく冗談にもならない」
「ノルシエを……⁉ どうしてまた」
「義姉上が極北の蛮族に嫁いだのが気に入らんらしい。ノルシエを滅ぼして義姉上を保護しろとのことだが馬鹿馬鹿しい。龍王と事を構えれば金と兵がいくらあっても足りない。ジジイどもが死んで、やっとこさ安全な距離感で付き合ってるんだ。砂絹の血がいかに古く高貴だろうと知ったことか。ノルシエ殲滅戦など俺は絶対にやらん」
アルサラーンはシリンの気の強そうな顔を思い浮かべる。
たしかまだ十五、六だったか。
何度か会っているが、年よりも幼い印象が強く、あまり食指のそそられない娘だった。砂絹の王女でなければ側妃としてもお断りだ。
そも正妃に据える気などさらさらなかったが、この早馬で才のなさがますます露呈してしまった。
輝壤は西域ではそれなりに広い国土と安定的な地位を築いているが、温暖な気候と各国との交易あってのこと。
世界最大最強を誇る極北の雄を落とすとなれば、莫大な金と人を使う。
ノルシエの厳寒の地を往くだけで精一杯で、いかな策略と準備をもってしてもまともな戦いになどなりはしない。
国境付近の街をいくつか落とせれば御の字。
ノルシエの王都には遥か届かず無駄死にを出すばかりだろう。
輝壤は先々代まで領土拡大路線をいっていた。
ノルシエとも何度も刃を交え、大敗を喫したこともあれば、領土奪取に成功した戦もある。
だが、戦に明け暮れたツケとして、現在の輝壤は労働力となる若い男が少なく、交易で回復基調とはいえ国庫も潤沢に潤っているとは言えない。
だからこそ現女王は非戦を掲げている。
そこへきて、妃が戦を仕掛けようという浅薄さ。
身分の高い低いに関わらず、妃として国や民が見えていないことが問題である。
しかもシリンの益体もない我儘はこれが初めてではない。
件の義姉上とやらは、シリンが輝壤に嫁ぐと決まった際に「一緒に連れて嫁ぎたい」と地団駄を踏んでねだった人物だろう。
砂絹の長姫だが母の身分が低いので不遇である、自分の侍女として輝壤で楽な暮らしをさせてやりたい、と騒ぎ立てていたはずだ。
腹違いといえども古豪・砂絹の高貴な血を持つ姉姫を侍女とするなどできるはずもないので、両国ともに黙殺した案件だったがノルシエに嫁いでいたとは。
シリンにかしずいて暮らすよりよっぽどいい。
アルサラーンは顔も知らぬ姉姫の幸運に安堵した。
アルサラーンは知らず知らずのうちに強ばっていた眉間を揉みほぐす。
自分はまだ王位を継いではいないが、大国の一角として同年代の龍王とは交流がある。齢十七で玉座に座った男は、物腰は柔らかいが甘くはない男だった。
ノルシエには金山や鉄鉱山、油田など金になる豊富な資源がいたるところにある。
ほしくないとは言わない。
だが安易に手を出せば龍の逆鱗に触れ、ただでは済まないだろう。
今は穏当な外交関係を築いているが、下手をすれば輝壤こそ龍王に乗っ取られかねない。
あの男は知力も胆力も、事を実現する武力も兼ね備えている。
世間では野心家と呼ばれるアルサラーンだが、分の悪い賭けはしない。
そうしたことでノルシエとだけは刃を交えないと決めているのだ。
欲を出しすぎれば身を亡ぼす。
砂絹の王が死んだらシリンをだしに少し裏で糸を引いて操り、自分の治世の間、交易が有利に進めばそれで充分である。
「………………」
やかましいのを嫌ってシリンとの婚儀は先延ばしにしてきたが、こうなってくると自分の後宮で囲っておいた方が色々と都合がよい気がしてくる。
アルサラーンはしばし考えて筆を執った。
前略、シリン姫――
その手紙がシリンの『冒険』にさらなる火をくべるとは思いもよらず。
***
アルサラーンからの手紙には第九妃として正式に輝壤の後宮に入ってはどうか――端的に言えば砂絹とは違う文化の中に入るために花嫁修業を輝壤で積んではどうかというようなことが少し癖のある字で記されていた。
シリンは葡萄酒色の髪と目をした青年を思い浮かべる。
才気煥発、革新派と言われる王太子だが、実のところ石橋は叩いて渡る男だとシリンは知っている。
――……やはりノルシエ殲滅戦には尻込みするか。
一朝一夕に倒せる相手ではないとわかっているが、碌な検討もせずシリンを後宮に押し込めることで黙らせようというのが透けて見えて腹立たしい。
別にシリンとて、本気でノルシエ全土を焦土にしたいとは思っていない。
ただひたすら姉を奪った蛮族の王の首を落とし、姉を救い出したいだけなのだ。
方法はいくらでもあるだろうに、第九妃だからと、位の低い妃だと侮っているのだ。正妃であれば、王に代わって正規軍を派兵することだってできるのに。
だいたい砂絹の王族を迎えようというのに既に八人も妃を置いているのはどういう了見なのか。
正妃の座はまだ空位だがつくづく舐められたものだ。
「砂絹の血の高貴さがわからぬ下賤が。ちんたら王太子の寵など争っている場合ではないのよ。シリンは一刻も早くお姉さまをお助けしなくてはならないのに」
姉へ宛てた手紙には輝壤もノルシエ殲滅戦に乗り気だと書いてしまった。
姉はきっとそれを心の支えにシリンの到着を待ちわびているだろう。
気分を落ち着かせるように強く息を吐いた。目を閉じてゆっくり呼吸を整える。
瞼の裏に荒れ果てた庭が映る。
修繕が行き届かず色の剝げた縁側には、静かに書をはぐる姉がいた。
着古して色の抜けた衣は、胴はぶかぶかなのに袖が寸足らずで細い腕が見えていた。
母や兄たちからはそっとしておくように、と言われていた。
あの宮の母娘はおかわいそうな立場なのだからと。関わらないことが最大限の優しさなのだと。
初めは好奇心だった。
腫れ物に触れるように遠巻きにされて暮らす姉はどんな人物なのか見てみたかった。女が力を持たぬ砂絹で、さらに見えぬ者とされる生活がどれぐらい悲惨なものなのか知りたかった。
毎日しくしくと泣いているのか、すべてを諦めてただ無為に過ごしているのか。
ただ、見てみたかった。
そうしてもぐりこんだ庭で、姉は凜と涼しげな面差しで書を読んでいた。
身に纏うものや宮こそみすぼらしかったけれど、不思議と不潔な印象はなく、清貧や慎ましやかという言葉が頭をよぎった。
草を踏む音に目を上げた姉の聡明でまっすぐな視線がシリンを射抜いた。
「う……あ、えっと……」
「ここに来てはいけませんよ、お母上に叱られます」
「あ、シリンのことしってるの」
「妹を知らぬ姉はいません」
きっぱりと言われて、背筋がびりびりと痺れる思いがした。
シリンは今の今まで姉がどんな人だか知らなかったのに。
どんな風に暮らしているのか物見遊山で近づいたのに。
姉はシリンのことをひと目でわかってくれた。
シリンのすべてを知っていると優しく頷いて、早く庭を出ろと心配してくれた。
水のように清く透明で、野花のように凛と静謐でたくましい。
姉がこんなにも気高い気質の人だと誰も教えてくれなかった。
シリンはたちまち夢中になった。
こんなところで埋もれていていい人じゃない。
もっと輝く場所にいなくてはいけない人だ。
そしてその輝く場所にはシリンが連れ出してあげなければ。
「なんてきれいなの」
「………………」
「かわいそうなねえさま。シリンがきっとたすけだしてあげますからね」
「いいの、どうぞお気遣いなく」
愛想笑いすらなく間髪入れずに断ると、話は終わりだと言わんばかりに姉の視線は書に落ちた。
シリンはぽかんとしてしばらく黙って立っていた。
姉は気にするでもなく黙々とシリンにはわからない難解な図が書いてある書を読み進めていく。
「なんで……? だって……かわいそうなのは……いやでしょ?」
姉は何も答えなかった。
もう視線ひとつシリンにはくれなかった。
きれいに澄んだ黒曜石の瞳がシリンを見てくれないことが悲しくて悲しくて、どうにかして姉を救いたいのだと言葉を尽くした。湧き出る正義感の行方を失くし、途方に暮れて、地団駄を踏んだ。
シリンの脳裏に、東の国へ嫁いでいった叔母の後ろ姿が蘇る。
まだ幼児だったシリンは勇者に、兵士になりたかった。
いずれ父の跡を継ぐ兄や民草を守るのだと信じて疑わず、兄の剣稽古についてまわっては母を呆れさせた。
「女はどうやっても兵士にはなれませんよ」
諫める母に、子どもなのだから自由にさせてあげてといつも庇ってくれたのが叔母だった。
艶やかな黒い髪をすっきりと纏め、きりりとした面持ちの聡明な人だった。
血の繋がりはないが、今思えばライラと雰囲気が似ていた。
そんな叔母が東の国へ嫁ぐことになった。
長い歴史のほとんどを鎖国し、独自の文化を築く彼の国の情報はなく、誰一人味方のいない国へ何の後ろ盾もなくポンと放り出される。
そんな婚姻だった。
「きっとあちらは素晴らしい桃源郷でしょう。砂絹と彼の国の鎹となれるよう、わたくしも努力するわ。シリン、あなたもあなたの夢を諦めないで。きっとよ」
手紙を書くわね、と笑って手を振った叔母の後ろ姿は今も忘れない。
叔母からの手紙は届かなかった。
そうして二年と経たないうちに叔母は変わり果てた姿で帰郷した。
叔母はなかなか子が成せない体質だったらしい。
『尊い血を気取るくせに役に立たぬ』と蔑まれ、家畜に対するよりむごい嗜虐的な扱いを受け、慣れない土地、慣れない文化に心身を壊した。
帰郷した時には中毒性の高い薬と酒に溺れ、病的に痩せこけた身体には散々な扱いを受けた証明のようにみみず腫れや火傷の跡が無数に散らばり、髪はごっそりと抜け落ち、目は虚ろで、口から涎を垂らし、ときには絶叫しながら失禁して衣装も部屋もたちまち汚物にまみれる有り様だった。
シリンが憧れた知の光を宿した叔母は見る影もなかった。
会話もままならない叔母を「かわいそうだから」と父王と母は早々に殺した。
帰郷できただけまだマシとでも言うように、僅かな慰謝料で父王は手を打ったようだ。シリンの知る限り、彼の国の責を問うことすらしていない。
「なぜ……なぜ叔母様がこのような目にあわなければならなかったのですか。尊き砂絹の血をこんな形で辱めた彼の国をなぜ許すのですか」
「尊い血を残せなかった、子を成せなかったあの子にも非があるでしょう。わたくしたちは砂絹の女なのですから。女には女の戦いがあるのです。あの子は負けた。それだけのこと。あなたもいつまでも兵士になりたいなどと世迷言を言っていないで、しゃんとなさいね。あの子のようになりたくなければ」
血を分けた妹の死に、母はどこまでも冷淡だった。
子ども、それも女であるシリンには何も言い返せなかった。
砂絹の女に王位継承権はない。
政に口を出す権利もなければ、学問をする権利もここ十数年で認められ始めたことで、市井の女は文字も読めないことがほとんどだ。
砂絹の女は、嫁ぎ、産み、その尊い血を繋ぐためだけに使われる。
十で七十の老王に嫁いだ姫もいた。尊い血だけが取り柄だと嫁ぎ先で辱めを受け辛酸を舐めた姫の数は何百になるだろう。王子が、跡継ぎの男が産めねば役立たずだと、見知らぬ後宮の影にひっそり消えた姫は何百人だろう。
砂絹が砂絹として連綿と存続するためにどれだけの涙が流れただろう。
砂絹の王室にとって女は都合のいい交易品である。
それを姉も重々わかっていた。
だから従者に引きずられて自分の宮に連れ戻されるシリンを無視し続けた。
――……今は違う。
大人と呼んで差し支えない歳になったし、輝壤の後宮に入れば今よりも動かせる駒は増えるだろう。
きっと今ならノルシエから、砂絹から解放してあげられる。今度こそ。
ゆっくりと目を開く。
ライラ姉さまの『自由』になりたかった。
そうすればもう一度シリンを見てくれる。きっとシリンだけに優しく微笑みかけてくれるだろう。
王太子からの文と入れ違いに侍従がもう一通、文を持ってきた。
封蝋にはアネモネの御印――姉からだ。
奪い取るようにして読めば、とろりとシリンの表情が蕩ける。
シリンが送った手紙への礼と、華燭の典に先がけ、ノルシエで茶会でもどうかという打診の手紙だった。
「ほらね。姉さまをお救いできるのはシリンだけなのよ」
***
「シリンのやつ、シリンのやつ、シリンのやつ……!」
アルサラーンは冷静さを欠いていた。葡萄酒色の髪をかきむしり、ああっ! と時折苛立たしげに叫ぶ。
ノルシエから、シリンを茶会に招いたのでシリンの婚約者であるアルサラーンもぜひ一緒に龍王と酒を酌み交わさないかとざっくばらんな誘いが届いたのだった。
龍王直筆の書面で、ご丁寧に玉璽ではなく、親しい人間に贈る狼の封蝋印。「何の下心もありません」という体を装った社交の誘いだ。
時期が悪すぎる。アルサラーンは大いに舌打ちした。
シリンがノルシエ殲滅戦などとほざいた直後のこの手紙だ。ノルシエに何かしらが伝わって牽制を入れてきていると考えていいだろう。巨大な国土を支えるノルシエの諜報部隊は尋常ではなく優秀で、どんなに秘した情報であろうとほぼ筒抜けと思った方がいい。
だからといって龍王直々の『親しい友人へのお誘い』を無下に断るわけにもいかない。粛々と赴いてご機嫌伺いをし、輝壤には何の薄暗いところもないと見せなければならない。アルサラーンには事を構えるつもりなど砂粒ほどもないのだから。
それにつけても不安なのはシリンだ。
ノルシエ王室に堂々と入れる、龍王に拝謁できるとなれば、どんな厄介事を口にするかわからない。最悪、龍王に刃を振りかざしかねない危うさがあの娘にはある。
「どうなさいますか、殿下」
「どうもこうも受けるしかないだろう。おおかたシリンが義姉上に会いたいとねだったんだろうよ。殲滅戦などと迂闊なことを書いてなきゃいいがな。勝手なことをしやがって……! 血筋しか取り柄のない物知らずが! 万が一戦になってみろ砂絹人から順に最前線に送り込んでやる……!」
アルサラーンは龍王の青銀色の瞳を思い浮かべた。一見すると柔和で何を考えているか掴みにくい、けれどこちらの隙を見逃すことのない冷たい光を帯びた眼差しを。
あの視線の先で酒を酌み交わしても、ひとつも酔った心地がしないだろうということだけはわかっている。実に憂鬱な宴だ。
「殲滅戦、ノルシエもですが我が国内でも噂が立ったら少々厄介ですな」
「貴族院のお歴々にはまだ国土拡大・富国強兵路線の生き残りもいる。母上――女王陛下が非戦を掲げている以上、戦になることはそうそう無いとは思うが、ノルシエの国土をほしがる者も出てくるだろう。あそこの埋蔵資源はとにかく金になる」
「砂絹のご長姫の奪還戦……と言えば世論にも言い訳が立つ。良くも悪くも高貴なお血筋ですからな。ノルシエで過酷な境遇だったとすれば、我が国が砂絹に手を貸してお救いするという筋立てはできます」
「シリンのやつが狙っているのはその筋立てだろう。だが重大な問題を貴族院の老害どももシリンも見落としている」
「と言いますと」
「輝壤に以前ほどの軍事力はもはやない。過去の栄光だ。それだって国境近くの村を落としただけで王都には到底及ばなかった。つまり、だ」
「戦になれば負ける」
「ああ、ご長姫を救い出すどころじゃない。下手したら輝壤が滅ぶ。だから俺は決して戦などしない。母上の非戦路線を利用して交易路を拡大し、経済で潤し輝壤を西方の雄として保っていく。無為に血を流さずとも大陸を牛耳る術はあるのだと貴族院どもに知らしめてやる」
「ではある意味で龍王との茶会は渡りに船ということですな」
「まあな。先だって大規模な交易路が開通したおかげでノルシエとの交易がかなり円滑になった。龍王と密に親交が深められれば、関税や輸出品目で有利な交渉ができるかもしれん」
「交易に関しても一筋縄ではいかなそうですが……」
「まったく億劫だが、上手くいくと信じて会うしかあるまいよ」
アルサラーンはため息をひとつ。
ぜひ我が親友たる王にお会いできる日を心待ちにしている――他に書きようもなく、茶会の誘いに快諾の返事を出した。
***
ライラが冰蝶のところに駆け込んでくることは二度とないと思っていた。
瑞雪は潔癖な性格なので冰蝶が一服盛ったことによる己の痴態を許せなかったのだろう。季節ごとに行われる龍王への挨拶の場でもよそよそしくされている。香露も龍王の影という立場からか冰蝶と距離を詰めようとはしない。後宮の非公式な側妃たちはお互いに干渉しないことで暗黙の了解が取れていた。
それは正妃も同じことと冰蝶は思っていたのだが、ライラはこの数日、足繫く冰蝶の部屋に通ってくる。『完璧なお茶の淹れ方と茶会での立ち振る舞い』を習いに。
「なぜ冰蝶に聞きにいらっしゃったの? なかなかひどい仕打ちをしたと思うのにお妃ちゃんは冰蝶がお嫌ではないの?」
「わたくし、きちんとしたお妃教育を受けていなくて……何もかもが付け焼き刃なのです。妹だけならまだしも、陛下が輝壤の王太子殿下までお招きになってしまわれたので、正式な茶会のしきたりを大急ぎで学ばなければならないのですわ」
「それは最初に聞いたわ。その大事なお役目の指南役が冰蝶でいいの? お妃ちゃんは冰蝶が怖くはないのかと聞いているのよ」
「? また一服盛るおつもりですか? これでも用心はしているのですが」
「もう何も盛らないわよ。龍王くんがお妃ちゃんには何を置いても会いに行くんだってわかっちゃったし……。理由がないもの」
「でしたら怖くはございません。それに冰蝶さまはおばあさまの国の文化にも通じていらっしゃる方。ノルシエと西域それぞれの茶会のしきたりを学ぶのにこれ以上の師がおられますでしょうか。ぜひ厳しくご指南くださいまし」
「そうは言ってもねぇ……」
特に教えることはないと冰蝶は重たいおっぱいを卓の上にたゆんと乗せた。行儀が悪いのはわかっているが、支えていないととにかく肩が凝るのだ。
ライラは要領のいい娘だった。学術書が好きなせいもあるのだろう。手順を教えれば頭の中で組み立て、ある程度のことは一度で覚えてこなす。
事あるごとにまともな教育を受けていないと言うけれど、腐っても王宮育ち。仕草に粗雑さはなく丁寧でしなやかだし、逆におどおどとした風でもない。姿勢の良さと穏やかな空気感が相手に居心地の良さを感じさせる。
茶会の主人として大切なことはすでに身についているので、一通りの手順を覚えてしまえば冰蝶から特に何も言うことがないのだ。
「妹ちゃんと王太子殿下のお好みはもうご手配なさったの?」
「星睿さまが抜かりなく。わたくしお買いものが下手なので。頼もしいことです」
「……そうね。しいて言えばそういうところが心配かしらどうかしら」
「え?」
「お妃ちゃんは妹ちゃんを騙すために、ノルシエ最高位のお妃を演じるんでしょう? 正妃……ノルシエ最高位なのは確かだけれど、そんな風にいちいち謙遜していたら権勢を得た強い女には見えないわ。冰蝶たち側妃を従えて、龍王くんの寵愛をほしいままにする、この世で一番幸せな女にならなければならないというのに」
「たしかに。仰るとおりです。わたくし、本当に自分に自信がなくて……でも弱音はいけませんね。ノルシエのために一世一代のお芝居を打つと決めたのですから」
「おやおや、楽しげな話じゃないか。ぼくも混ぜておくれ」
「あら香露。今日はお役目の日じゃないのね。香露がわざわざ冰蝶の部屋に来るなんてどういう風の吹き回しかしら」
戸口から涼やかな声がする。
ライラがこの前見かけた男物の衣服ではなく、深紅の薄絹を纏った麗人が数名の侍女を従えて入ってきた。
今日は龍王の影の役目がなく側妃としての香露ということらしい。
影を演じているときとは違い、艶やかな色香が漂っていてライラはほう、と感嘆の息をついた。
「ごきげんよう、香露さま」
「ごきげんよう、ご正妃様。舜龍から聞いたよ。何やら楽しいお芝居をするそうじゃないか。ぼくも微力ながら手伝わせてもらおうと思ってね。ここ数日は冰蝶のところで茶会の準備中だというから寄らせてもらったんだ」
「まあ。ありがとうございます。楽しいかどうかはわからないのですけれど、一生懸命お芝居しますので見ていてくださいまし」
「でもちょうどよかったわ。冰蝶もそろそろ香露を呼ぶべきだと思っていたところなのよ。その侍女たちが持っているのは化粧道具でしょう?」
香露の侍女たちは軽く膝を折って略式の礼をすると、大きな紅い漆塗りの箱を次々に並べ始める。
「お化粧品、ですか?」
ライラは香露に茶を淹れながら、まったくわかっていない顔でにこにことした。
香露はお茶にも菓子にも手を付けず、一番近くにあった漆塗りの箱を開ける。
「衣装や宝石で飾るのも大事だけれどね、女が一番変わるのは化粧だよ。今の君のままでも素敵だけれど、化粧は武装。戦装束をぼくに指南させておくれ。側妃の中ではぼくが一番化け上手だと思うからね」
「うふふ、お妃ちゃんがどんな怖い女になっちゃうのか楽しみだわ。今からここでやるの? 冰蝶も見ていていいかしらどうかしら?」
「もちろん。冰蝶の意見もほしいからね。それなら瑞雪も呼ぶか。ひとりだけ呼ばなかったとなると拗ねるだろう」
侍女に瑞雪を呼びに行かせると、香露はライラを座らせ、とっくりと正面からライラの顔を眺めた。思案するように時間をかけて左右からもじっくり眺められると、ライラは恥ずかしくなって手汗をかいてきた。
「あの……香露さま……わたくしは一体どうすれば……」
「好きな色はあるかい? もしよければまずは一回ぼくにお任せで全部化粧を変えてみるというのが一番わかりやすいと思うのだけれど」
「あ、はい。わたくし、ちぃとも詳しくないのでお任せいたしますわ」
「うん。承った。とびきり強くて美しい女に仕立ててあげよう」
白粉を軽くはたかれ、いつもの化粧より高い位置に薄紫の頬紅を置く。自分では絶対に選ばない色だけれど大丈夫かしら……とライラがどぎまぎしていると、香露は迷いなくギラギラと煌めく銀色を瞼に大胆に塗り広げた。蝶の鱗粉のような色にライラがぎょっとする間もなく、切れ長の目尻に沿わせるように発色のいい紫で縁取りしていく。くちびるにも常よりだいぶ濃い紫を帯びた紅をひかれた。
「どうかな、冰蝶」
「目元にもう少し強さがあってもいいんじゃないかしら。お衣装は漆黒だというし、黒で目元を締めてみたら?」
「なるほど、そうだね」
黒い粉を細筆に取って、香露が目尻に線をひいていく。
「ご正妃様、少し目を伏せて。うん、こっちのほうが締まるな。鏡を見てごらん」
とんでもない道化のような顔になっていても感謝だけは忘れないようにしよう。皆、良かれと思ってのことなのだから。
内心冷や汗をかきながらライラが鏡を覗き込むとそこには予想に反して、夜の女王のような威厳のある美しさを湛えた女の顔があった。
ギラギラと輝いていた銀粉も肌の上ではしっかり主張しつつ上品な輝きとなって、ライラの黒い瞳を際立たせている。
「あら、いいじゃない。戦うならこれくらい強くなくてはね」
「なんだかわたくしじゃないみたいです……ふしぎ……」
いつのまにかやってきていた瑞雪が扇の裏で微笑む。「ご正妃様風に言えば、化粧は科学であり数学ですもの。足し引き掛け算で無限の顔が自在に作れましてよ」
その言葉にライラは目が開く思いだった。
自分には関係がないとおざなりにしていた化粧ひとつとっても、実験を繰り返しながら女たちは装い、自分がどう見られたいのかを緻密に計算しているのだ。
学問と同じく突きつめれば突きつめるほど奥が深い。
そう思えば、今まで興味の薄かった化粧や衣装といった女ならではの嗜みも面白く感じてくる。
「お三方ともわたくしのために本当にありがとうございます。これで陛下と並んでも見劣りしない気がいたします」
「そうやって簡単にヘコヘコしてはだめよ。気位高く、沈黙を味方につけるの」
「瑞雪の言うとおりよ。ね、冰蝶も言ったでしょう? 高慢なくらいがちょうどいいのよ、お妃ちゃん」
「そうそう。あと舜龍が何を言っても照れたり恥ずかしがってはダメだよ。君は寵愛されて愛の言葉なんて言われ慣れて飽きている、くらいでいなくちゃ」
三人に口々に言われてライラは、そんな難しいことできるかしらと口を引き結んだが、ほろほろと顔が緩んできてしまう。
故国から遠く離れた異国の地で、血で血を洗う競争相手であってもおかしくはない妃たちがあれこれと世話を焼いてくれるのが単純に嬉しいのだ。
人に恵まれたと心から思う。
冰蝶の薬草茶を飲みながら、瑞雪が持ち寄った菓子を頬張る。
香露が龍王の声音で恋愛絵巻を朗読し、かの人が言いそうもない歯の浮く台詞に妃たちがころころと笑う。
後宮とは信じられないくらい穏やかで優しい時間だった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
信じられないほど多くの方にお読みいただき、驚きとともに幸せを噛み締めています!
砂絹の女の悲劇とノルシエの後宮の暖かさの落差を感じていただけたら嬉しいです。
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