第九話 龍王の茶会
王都に入り、城下町から王城の威容が見えてきて初めて、シリンはノルシエに歯向かうことがいかに困難であるかをようやく理解した。
奇しくもライラが驚いたのと同じように、砂絹の国土を丸ごと吞み込めそうなほど地平いっぱいに広がる王城の敷地や数々の堅牢な建物を目の当たりにして、ぽつりと呟いた。
「お母さまもお兄さま方も誰も教えてはくださらなかった」
シリンは砂絹の正妃の四番目の子として生まれた。
三人の兄は末っ子かつ女のシリンにとびきり甘く優しかった。
とりわけ第一王子――砂絹の次代の王となる長兄は声を荒らげたこともない人で、弓の練習でうさぎ一匹殺すことにも涙するような繊細な人である。
砂絹は父王で終わり。次代に期待はできない。
そう囁かれるのをシリンは何度も聞いた。
だが、二番目、三番目の兄も他の妃が産んだ王子たちも長兄を退け覇権を握ろうという野心はない。
砂絹の王家には諦めに似た生ぬるい空気が澱んでいて、国ごと腐り落ちていくのを待つしかない。
シリンはそれが許せなかった。
大陸でもっとも高貴な血を持ちながら、他国にへつらい媚びて生きていくなど我慢ならなかった。
ライラの凛とした孤高は、シリンが思い描く理想の砂絹の王だった。
姉さまが王であれば砂絹は砂絹のままでいられる。気高く青い血を守っていける。
だが女は王にはなれない。
政に口も出せない。
熟れて腐る砂絹をつぶさに見ながら、他国に嫁ぎ、下民と混ざりあうことで血を繋ぐしかない。
十二のとき、輝壤の王太子に嫁ぐことが決まった。
これだ、と思った。
輝壤で昇りつめよう。
輝壤では女も王になれる。
砂絹の没落が防げないのであれば、輝壤に砂絹の血を刻みつけてやろう、と思った。
同時に後宮では見えないものとされていた姉の薄い背中が東国に嫁いだ叔母と重なる。
鬱蒼と茂る雑草の向こう。
誰にもおもねることなく、媚びることなく、シリンをとらえたあの透明な眼差し。
そっと線引きをされたときのあの静かな声。
砂絹で王になれないのならば、姉を解放するには連れ立って輝壤へ行くしかない。
ライラを叔母の二の舞にしてはならない。
かわいそうと言われなくて済む、見えないふりをされなくて済む場所へ行かなくては。
助け出すのは、弱気な兄たちでも知らぬ存ぜぬを決め込む母たちでもない。
シリンの役目だ。
シリンが姉さまを、あの高貴な血を具現化したような聡明な人を、本当に輝ける場所へとお連れしなければならない。
なのに父王はよりにもよって蛮族と名高いノルシエに姉を売り飛ばしてしまった。
ノルシエを後ろ盾にした国力強化などともっともらしい理由をつけて、ある日突然。
お救いしなければ。
きっと姉さまも嘆いていらっしゃる。
腑抜けどもには任せておけない。
シリンが動かねば、本当の意味での砂絹の気高さは守れない。
けれど。
「誰も教えては……くださらなかったじゃない……」
けれどノルシエの王城を見て、シリンは砂絹の非力さを目の当たりにし、ひしひしと痛感した。
到底、勝てる相手じゃない。
恐らく輝壤で昇りつめても結果は同じこと。
母も兄も父も、皆わかっていてシリンの戯言、夢語りだと黙殺していたのだ。
「………………」
「ご気分が優れませんか?」
俯き黙りこくるシリンを不審に思ったのか、年嵩の侍女が声をかけてくる。
なんでもない、問題はないと首を振り、シリンは袖の内側で懐剣をそっと撫でた。
――龍王さえ。
王と刺し違えさえすれば、姉さまだけはお救いできる。
そのあとシリン自身がどうなろうとさして興味はない。
シリンは姉を砂絹の王にしたかった。
故国でただひとり、その血に相応しい高潔さを持つ姉ならば、列強を退け、滅びていく砂絹を復興できると信じていた。
そのために輝壤で姉と自分の地位を確たるものにすることがシリンの役目だと疑わなかった。
それが叶わないのなら、せめて蛮族の手から姉を自由にしたい。
ただ、それだけだった。
***
騎馬で王城入りしたアルサラーンと再び合流し、ノルシエ王城の中核を成す正宮の客間に通された。
暖房が行き届いていて、王城に入った瞬間から――客間はもちろん道中の回廊に至るまでどこもかしこも心地よい温度で整えられている。
外は小雪がちらついているというのが噓のように暖かい。
雪山を登るため分厚い防寒具を纏っていたシリンとアルサラーンには少し暑いくらいだった。
「頼むから大人しくしていてくれよ」
「何のことでしょうか」
座るや否や釘を刺してくるアルサラーンにシリンは上の空で返す。
この王城のどこかに姉がいる。もうすぐライラ姉さまに会える。
そう思うと胸が早鐘を打って何も耳に入ってこない。
ノルシエの茶会は儀式のようだった。
しんと静まり返った客間で、黒ずくめの衣装を着た侍女たちが、これまた黒く光る漆の茶道具を小さな卓に並べていく。
磨き抜かれた銀の茶碗と毒見役の衣装が異質に白く際立っている。
龍王の側妃候補だという女たちが入ってきた。
ひとりは深海めいた藍色、ひとりは深い森の翡翠、ひとりは薔薇を思わせる濃緋の衣装で、付き従う侍女たちもそれぞれに同じ色を纏っている。
「陛下と妃殿下が参られます」
待ちわびた声にシリンは思わず腰を浮かし、隣のアルサラーンが咎めるように軽く袖を引いた。
「姉さま……?」
呆気に取られたようなシリンの声が場に響く。
デコルテはふっくらと、腰を細くくびれさせ、長いトレーンで華奢なシルエットを強調したドレス。
仕立てこそ砂絹風であったけれど、見たことのない姉の姿がそこにはあった。
闇よりなお深い漆黒のドレスには銀糸の刺繍と玻璃で作られたビーズが散りばめられ、動きに合わせてキラキラと控えめに光る。
耳飾りと首飾りは大粒の純度の高い金剛石。
化粧っけのなかった顔は紫を基調に彩られ、元来の凛とした顔立ちに大国の王妃に相応しい威厳が加わっていた。
寸足らずの服を着て、寂れた宮の隅で書を読んでいた面影はどこにもない。
隣には龍王が立ち、ライラの腰を抱いている。
招かれた客は龍王の瞳と衣の色を見るだけでライラの出で立ちの意味と、龍王から正妃への寵の深さを知る。
ライラはアルサラーンだけに膝折礼をすると、龍王に手を引かれ、部屋の奥の少し高く作られた席に腰を下ろした。
「アルサラーン殿下、シリン姫。遠路はるばるよくぞお越しくださった。心ばかりの宴だが堅苦しい儀礼は抜きにしてゆるりと楽しんでほしい」
ライラと指を絡めたまま、高座から龍王が朗らかに言う。
蛮族の王とは一体どんな醜男かと思っていたが、見目麗しく優男にも見える。
姉の手を握りこんで離さない手は白く滑らかに整っていて、とても最強の軍を率いて国々を血塗れにする苛烈さを秘めているとは思えない。
龍王の声に従うように侍女たちがシリンには銀の茶碗を、アルサラーンには透明な蒸留酒で満たされた盃を支度する。
アルサラーンの盃からは花の香りに似た強い酒の匂いがした。
シリンは豪奢な飾りが施された小さな銀器を見つめる。
曇りも濁りもなく、淡い琥珀色の茶が揺れていた。
「………………」
「………………」
アルサラーンと目が合う。
毒見も済んでおり飲まない理由はないのだがノルシエ側はまだ誰も口をつけていない。
くつろげと龍王は言うが、祭儀のようなこの空気感に、作法に反してはいないか、値踏みされているのではないかと嫌な汗が首筋に滲む。
「お酒はお苦手ですか?」
アルサラーンははっとして高座を見る。
龍王の横でライラが微笑んでいた。
金剛石の耳飾りや首飾りが光を反射して星屑が瞬くようにきらめいて見える。
「ノルシエはこのように非常に寒い場所ですから。身体を温めるために葡萄酒よりも度数の高い蒸留酒が主流なのです。砂絹や輝壤ではあまり見かけませんものね。お気に召さなければ、お好きなものをお申しつけくださいまし」
輝壤や砂絹の宴では主催より先に話しかけてはいけないという暗黙の了解がある。
アルサラーンはライラから声をかけられたのに心底ホッとして言った。
「酒は好きなのですが、ノルシエの作法に疎く、陛下よりも先に口をつけたものか悩んでいたのです」
「ああ、そういうことか。今日は作法など気にしないでくれ。この酒には干し肉がよく合う。地味なもてなしで申し訳ないが、心ゆくまで酌み交わそうじゃないか」
龍王が干し肉を齧り、景気よく盃を飲み干す。
アルサラーンはようやく安心して盃に口をつける。強い酒精が喉から胃までをカッと熱くするが、水のようにサラサラとした口当たりで嫌な風味ではない。
干し肉の塩気と脂がちょうどよく口の中で調和して「うまい」アルサラーンは思わず笑みをこぼした。
「口に合ってよかった。輝壤からの塩で仕込んだ肉だ。質の高い塩は我らにとっては貴重品だから輝壤との交易にはいつも助けられている」
「先だっては交易路の整備にも尽力いただき、誠にありがとうございました。ノルシエの険しい山も街道ができたことでずいぶんと旅路の短縮となり更に交易が活発化。輝壤にとっても諸国にとってもありがたい一手でした。さすがのご手腕です」
「ああ、あれもライラ――我が正妃のねだりごとでね。僕はこれのねだりごとには滅法弱い。なんでも叶えてやらなくては気が済まないのさ」
龍王がライラのこめかみに口づけを落とす。
人目を憚らない溺愛ぶりにアルサラーンは驚いたように目を丸くし、シリンはぞっとしてくちびるを噛みしめたが、ライラは日常の出来事なのか眉ひとつ動かさず嫋やかに微笑んでいる。
「アルサラーン殿下」
ライラがすっと居住まいを正す。
その顔つきは甘やかされた妃ではなく食えない政治家のそれだった。
「差し出がましいお話ではございますが、輝壤は先々代までの度重なる外征により、働き手となる若い男性が不足気味と聞き及びます」
「!」
アルサラーンの盃を持つ手がわずかに震えた。
公然の事実とはいえ輝壤の弱点を初対面の宴席で突いてくる意図がわからない。
とりあえず口元に笑みを貼り付け、先を促すように頷いた。
どうやらシリンとはまったく異なる意味で少々厄介な妃のようだ。
ライラの鈴の声が歌うように続ける。
「我が国は輝壤との交易に大変助けられております。けれどいくら交易が円滑であろうと、人が足りなければいずれ経済は頭打ち。万が一にも輝壤が傾けば我が国にも少なからず影響が出ることは想像に難くありません。……そこで殿下、ノルシエの豊富な資源を、輝壤へ優先的に輸出する協定を結びたく。もちろん資源には鉄鉱石や石炭などだけではなく『人材』も含まれます」
「関税優遇と人材交流ということですか……」
「ええ。輝壤に資源という血を巡らせる代わりに、ノルシエの財を潤す。互いの経済の心臓を握り合う、対等な共犯関係です。貴国の『慈母協定』にも沿う形かと」
澱みなく答えるライラに、アルサラーンは嫌な汗が背を伝うのを感じた。
(慈母協定と交易を人質に、輝壤軍を動かす理由を封じにきたな)
今以上にノルシエの『資源』に依存すれば、輝壤は二度とノルシエに弓を引けなくなる。
だが、人材を含むノルシエの資源が手に入るとなれば、貴族院も黙るだろう。
喉から手が出るほど欲しい提案であることも事実だった。
とはいえ、ライラ自身の言葉通り、妃が提案する案としては少々でしゃばりすぎている。
アルサラーンは推し量るような視線を高座の龍王に向けた。
龍王は笑みを深めただけで、ライラの髪を指に絡めて楽しんでいる。
龍王にも異論はないということだ。
「……龍王陛下は、恐ろしくも聡明なご正妃を得られたようだ。改めてご成婚お祝い申し上げる」
「ありがとう。僕も得難い伴侶を得たと思っている。僕は本当に運がよかった」
もはやシリンの「ノルシエ殲滅戦」などという寝言に付き合っている場合ではない。
輝壤の行く末は、今この瞬間、食えない笑みを浮かべる龍王夫妻との折衝の行く末に挿げ変わった。
アルサラーンは一気に盃を煽った。
龍王はいたって上機嫌で、ライラの髪を、頬を撫で、耳元で何事かを囁く。
ほかの側妃はお飾りのようでまるで目に入っていない。
見目は麗しいがなんて下品な男だろう、とシリンは憤慨していた。
恋愛絵巻じゃあるまいし、国の最高位である王が正妃との睦みあいを衆目に晒すなどありえない。姉さまは商売女ではないというのに。
「陛下、紅が落ちてしまいますわ」
頬といってもほとんどくちびるに近い場所にくちづけを落とそうとして、ライラがやんわり押し止める。
ほらやっぱり、とシリンは心中で歯噛みした。
龍王は切れ者だと聞いていたが何のことはない。
姉さまはこの品のない下民の王に無理やり付き合わされているのだ。
先ほどのアルサラーンとの会話を思い起こす。
姉の堂に入った交渉術にシリンは惚れ惚れとした。
重要な交易の話だったのに龍王も一度も口を挟まなかった。
砂絹ではあんなやりとりをする機会には恵まれなかっただろうから、姉の生来の頭の回転の速さが為しうるのだろう。
やはり姉には王の資質がある。
だのに無能で好色な蛮族の王に、稀有な頭脳と美貌を利用されている。女だからというだけで。そんなのあんまりだ。
――と、まだ何も口をつけていないシリンのもとに干しあんずと干しいちじくが運ばれてくる。シリンは弾かれたように高座の姉を見た。
「喉は乾いていないかしら? 干しあんずといちじくなら食べられる? シリンは好きだったでしょう?」
「…………えっ」
シリンは絶句した。
砂絹の宴にライラとその母の席はいつもなく、王族だけの小さな集まりでも卓を共にした記憶はない。
なぜシリンの好物を知っているのだろう。
ライラが艶やかな化粧で彩られた顔に愁いを浮かべて訊いてきた。
「もしかしてもう好きではなかった?」
「いえ……大好きです」
「そう、それはよかったわ」
ライラの顔が笑みでぱっと華やぐ。
宴が始まってから意図的にシリンを無視しているのではないかと思っていたが、きっとノルシエならではのしきたりか何かだったのだろう。
姉の仕草は柔らかかった。
好物を調べてくれたのだろうか。
もしかしたら昔からどこかでずっと見ていてくれたのだろうか。
シリンはぐっと胸に込み上げるものをどう表現したらいいかわからず、干しあんずをちまちまと齧り、ようやく茶に口をつけた。
清涼感のある馴染みのない茶だったが、からからに乾いた喉にはよく沁みて一気に飲み干してしまった。
「お前の視野の広さには目を瞠るばかりだ、ライラ。お前は本当によく気がつく」
龍王が言う。
そのまま流れるようにライラの頭を撫で、耳殻の形を確かめるようになぞった。
「陛下、少し酔われたのでは。わたくしは幼子ではございませんよ」
ライラの眉が寄る。
やはり耳目のある中で好き勝手にベタベタと触れられるのは姉も嫌なのだ。
しかし『龍王の妃』である手前、他国の王族の目がある中で龍王のなすことをはっきりと拒絶はできない。――本当に卑劣な男だ。
二杯目の茶がシリンの銀器に注がれる。ぬるめに淹れられており飲みやすい。
シリンは二杯目の茶もほとんどを飲み干すと、袖の内側に秘めた懐剣を確かめ、ひとり頷いた。
やはりこの男だけでも――。
「恐れながら龍王陛下。盃が空のようですので、一献奉らせていただいてもよろしいでしょうか」
自席を離れ、侍女から酒器をもぎ取るようにして龍王に近づく。
姉さまはシリンが守る。
首をかき切れば、殺せずとて深手は負うだろう。
龍王の手当に追われる混乱の中であれば姉を逃がす隙くらいはなんとか作れるはずだ。
ノルシエから砂絹へはきつい責めがいくだろうが、姉が龍王と離れて正気に戻ってくれれば良い打開策を導き出してくれるだろう。
そもそも姉さまは無理強いされた婚姻の被害者だ。
ノルシエごときがどうのこうのと騒ぐ権利はない。
散々、女を使い潰してきた砂絹にとってもいい薬になる。
龍王は上機嫌に喉の奥でくつくつと笑い、シリンに向けて軽く盃を掲げた。
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いよいよクライマックス。このお話も残すところあと二話で完結となります。
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