第四話 龍王の疑心
ライラは龍王の思惑通りに動いた。
豊満な美女が好みと匂わせておけば冰蝶に会いに行くだろう。
冰蝶はめっぽうな女好きで悪戯好きだ。
これまで他の側妃にも妖しげな茶を飲ませて龍王の逆鱗がどこにあるかを探り、女たちがどうやったら自分に堕ちてくるかを試して遊んでいた。
別に龍王は諍いを起こさない限り咎めはしない。
後宮を含めノルシエはすべて龍王のものであるが、女たちが群れて遊んでいるのを事細かく叱るのは野暮であるし、正妃となるならば女同士の戯れぐらい自力で治めてくれねば困る。
果たして龍王の狙い通り、ライラは冰蝶の媚薬でしっとりと身体を濡らし、息苦しそうにもがくはめになった。
とろとろに蕩けた思考では何を企むこともできまい。
こうして龍王は人畜無害に見える供物の真実を知ろうとしたのであった。
四方を大国に囲まれた砂絹の歴史は古く、小さく貧しくとも国際的発言権は強い。
ノルシエの後ろ盾がほしいだけにせよ、古豪の長姫が嫁ぐとなれば龍王とて警戒はする。
供物の羊よろしくやってきたお妃は、風変わりな本の虫と呼ぶには少々偏っていた。
たわいもない寝物語を楽しんで愛でるだけの姫としては、ライラはどうにも間者に向きすぎている。
異国の言葉や文化を解し、物語より学問に親しみを覚える。
この調子であれば、各国の王家の内情や軍備、臣下のうち誰と誰が懇意であるかも頭に入れろと言えば入るだろう。
ただ国防の一助としてノルシエの後見を望んだだけなのか、砂絹にその先の野望があってライラを送り込んできたのか。龍王は冷静に見極めなければいけなかった。
冰蝶の媚薬は龍王にとって都合の良い自白剤代わりとなったのである。
「トウもころしは……起源となる野生種が不明と……んんぅ、されていて……茎の中に雌花が咲き……はぁ……種子も皮に包まれているため、人の手を介さなければ繁殖することが……んっ……できないと言われています。だからトウモロコシは、ぅくぅッ……天からやってきた、作物だという説が、あります」
極力喋りたくないのか、嬌声混じりの寝物語はずいぶん短かった。
「ふうん、それで」
「……おしまい、です」
汗の浮かんだ象牙の肌をぐったりと投げ出して、ライラは潤む目をぼんやり彷徨わせている。
正常に頭が働いていないのだろう。
わずかな衣擦れにもひいふう喘いで、口の端から細く唾液が垂れている。
龍王は剣の鞘でライラの薄い尻をぺちりと軽く叩いた。
「ゃぁぁぁ」
過ぎた刺激に甘たるい泣き声が上がる。
「だめだ、これっぽっちの話じゃ眠れない」
龍王は努めて冷たく話を続けた。この時を狙っていたとも言える。
「仕方がない。今日は僕の質問にお前が答えることで許してやろう。なに、お前が意識を保ってさえいれば簡単さ」
「しつもん」
「お前の母の名は」
「……ズバイダ」
「お前には兄弟は何人いる」
「兄が一人、妹が四人、弟が七人……」
調べずとも簡単にわかる情報から聞いていく。
ライラの思考をさらに緩めるための手法だった。
「お前を一番ひどい目にあわせたのは?」
「おりませぬ」
急にくっきりした声でライラが否定した。
素面に戻ったのかと顔を見ればまだ熱で潤んでいる。
だのに、龍王の質問を否定しようと眦をきゅっと強くする。
「異なことを。それだけ王位継承者がいて嫌がらせひとつなかったと?」
「砂絹の女は継承権も参政権もございません。――……それに、わたくしはもどき。争いごとの種にもならぬ……透明……でしたので」
「ではなぜお前がノルシエに嫁いできた」
「上の妹二人は輿入れが決まっており、下二人はまだ幼児。……困った父王が思い出したのですわ……とうの昔に打ち捨てた長姫がいたと」
「砂絹がノルシエにこだわる理由は。他国との婚姻関係が成っているならば、なぜさらに後ろ盾を強固にしようとする」
「父は……おそらく長くありません。経験の浅い兄では列強に飲み込まれる。皆が知っていること。砂絹は父王とともに沈みゆく斜陽であると」
ほろほろと涙がこぼれる。
熱に浮かされた瞳にはどこか怯えの色が混じっていた。
「無様を晒して申し訳ございません。此度の醜態はひたすらにわたくしの不徳。ただ、もし、もし一度だけお許しいただけるのならもはや正妃でなくともよいのです。側妃でも下女でも思し召しのまま。どうかこのままお傍に。なんと謗られようと、陛下がわたくしをお見限りになられようと、砂絹に帰るわけにはまいりませんので」
「許さなければ?」
「――……その御剣でどうか死を賜りたく」
震える全身を叱咤してライラは深く跪拝した。
龍王は一拍言葉を失った。
自らを透明だと、『姫君もどき』と自嘲するなら、故国に戻ろうが同じようになかったことになるだけではないのか。
寵を失うことが即、死に結びつく理由がわからなかった。
同時に、この娘の立ち位置も余計にわからなくなった。
砂絹に戻されることだけを恐れているのであれば、ノルシエの不利になる振る舞いはしないだろう。
ただし砂絹そのものを恐れているのであれば、情報を横流しして故国の機嫌を取ることもあり得る。
砂絹とライラの思惑はどうも一致していないようで、龍王は真意を掴みかねていた。
「ライラ。今宵一度限り、お前の醜態を許そう。そして一度しか言わないからよくお聞き」
こういうとき、龍王は自らの直感を信じることにしていた。
深く跪拝するライラを寝そべったまま見上げながら太い息を吐く。
「僕はお前を正妃として守り抜くと約束しよう。砂絹での百倍、お前を丁重に扱おう。二度ともどきだとか透明だなどと言わせない。ノルシエの総力をもってお前という宝石を磨きぬいて世界に見せつけてやろうじゃないか。――ただし、僕を、ノルシエを裏切ってみろ。お前の首だけじゃなく砂絹すべての首で、血で、この白い大地を染め上げてやる。これが僕にできる一番誠実な契約で、お前への最大の愛し方だ。……ライラ、お前に受け止める器はあるか」
ライラは鼻水を垂らしながらポカンと口を開けて、間抜けな顔を晒した。
「わたくしがそのような過分な身分をいただいてもよろしいのでしょうか」
龍王は自分の直感があながち間違っていなかったことを悟る。
この娘、おそらく他人から信じると言われたことがない。
丁重に扱われたことも、逆に激しい悪意に踏みにじられたこともたぶんない。
文字通り透明な存在だったのだろう。
ならば、その心の隙間に付け込めばいい。
砂絹が入りこむ余地がないほどに甘やかしてノルシエに仇なすことなど微塵も考えられなくしてやればいいだけのこと。
大陸を統べる龍王にとって、娘ひとり絆すことはさほど難しいことではなかった。
「お前は素直で馬鹿だね。甘やかして洗脳し、取って食っちまおうっていう恐ろしい話だよ。お前がふにゃふにゃなときに言質をとろうって魂胆なんだからもっと気をつけないと」
「陛下もみなさんもお優しいので……それでもわたくしめは幸せです……」
「こんなにひどい目に遭っておいて? 本当にお馬鹿さんだね」
龍王は熱くなった褥から抜け出て、扉の前に立った。
「今夜はもういいよ。お前はゆっくりおやすみ」
「陛下はどちらへ?」
「さすがにこのままじゃ抱いちまう。薬でふにゃふにゃな生娘をどうこうするのは後味が悪いからね。今日は別の場所で寝るよ。明日はしゃんとした寝物語をしておくれ」
ライラが何か言う前にさっと踵を返す。
いかに龍王が鋼の理性と政治的思考を持っていようと、やわこくておぼこい新妻があられもない嬌声を上げながら隣に転がっていたらぐらつくのだ。
こうして三夜目も褥は白いままであった。
***
次の朝、ライラはいつもより寝過ごした。
夜半すぎまで身体が熱くて熱くて寝付けなかったのだ。
精も根も尽き果ててやっと眠りについたのが明け方ごろ。
そのあとも寝汗がひどくて喉が渇いてしまい、起き抜けに水を一気飲みしたせいで手足がすっかり冷えてしまった。
今は侍女たちに勧められるがまま贅沢にも朝から湯殿で身体を温め、香油で肌を整えられている。
寒気で乾燥のひどいノルシエではこれでもかというほど保湿をされる。
カサカサに乾いた肌では静電気や水で切れてしまうからだ。
砂絹では頬に軽く薔薇水を叩くだけのライラだったが、ノルシエでは顔を洗うだけでも気が遠くなるほどの工程で侍女たちが世話をしてくれる。
薔薇水を含ませた布で軽く汚れを拭き取り、乳液でもう一度拭き取り、香油でマッサージをしてから拭き取り、ここでようやく石鹸を泡立てて泡洗顔に入る。
泡を丁寧に落としたら、こっくりと濃いクリームを顔に塗ってしばらく寝かす。
その間に洗髪され、こちらも香油で丹念に頭皮をマッサージされる。
あまりの心地よさに微睡んでいると顔のクリームを拭われ、さらにマッサージ。
髪の香油を洗い流したら、顔に薔薇水と乳液、クリームを再度つけられてようやく首から上のお支度が完了だ。
全身が全身こんな感じなものだから、砂絹での十倍は湯殿にいる気がする。
ただ、この侍女たちの執念とも言える手入れのおかげで、ここ数日で見違えるほど髪や肌がツヤツヤもちもちになった。
髪のパサつきや肌のくすみが一切なく、ライラ自身がうっすら光っているようにパッと華やいだ。
「妃殿下、おくつろぎのところ失礼いたします」
「星睿さま。いかがなさいまして」
湯上りの果実水を飲んでいると、初めて星睿の方からライラの部屋へやってきた。
龍王が言いつけた用事でもあるのだろうかと入室を許可すると、星睿の後ろからぞろぞろと大勢が入ってくる。何事かとライラは目をぱちくりさせた。
「星睿さま、この方々は?」
「皆、商人でございます。服地に靴、装飾具、宝石、部屋にお飾りになるものから、化粧品、焚き香、珍味、愛玩動物の類まで今日呼べる者は一揃い。お求めの商人がいなければ後日呼び寄せますのでお申しつけを」
「……いったいどうしたことでしょう。わたくし今のままで何も不足はございません」
「でき得るすべてでおもてなしをと、陛下のお申しつけです。妃殿下は気負わず、お好きなものをお好きなだけ指でお示しになればよいのです」
「なんという」
磨き上げて世界に知らしめるというのは本気だったのだ。
夢か現かもわからず、ぼんやり聞いていた昨晩の龍王の言葉を思い出し、ライラは感嘆とも放心ともつかぬ息を小さく吐く。
そうしている間にも商人たちは分厚い目録を小脇に抱え、ライラに声をかけられるのをそわそわと待っている。
「ほんとうになんでも……? あとで陛下に叱られませんか?」
「国庫を空になさらなければ」
「恐ろしいご冗談はよしてくださいまし。――星睿さま、いけないものはお止めになってね。あまりに高すぎるものも。わたくしお買いものの値段には疎いのです。お約束してくださらなければ恐ろしくて何もできませんわ」
星睿は目尻を少し下げただけで何も言わなかった。
いざという時は止めてくれるだろうと恐々ライラは商人を見渡して言った。
「では、まずお茶菓子を。瑞雪さまには青い箱で口当たりがさっぱりしたものを。冰蝶さまには翡翠色の箱で蜂蜜を使ったお菓子を。ええと……もうお一方は……そう、香露さまには何がよろしいでしょうか。星睿さまはお好みをご存じで?」
「赤い箱で香り高いものがよろしいかと」
「ではそのように。あと、薄絹では少し心許なくて……。肌の透けない上衣を一枚ください。色と生地は華美でなければお任せいたします。それから――おすすめの書を三冊いただけますか。恋愛絵巻は苦手で……歴史や天体のお話が好きです……」
ライラの声が尻すぼみになっていく。
「妃殿下?」
「あ、えっと……終わりです。ありがとうございました」
「妃殿下?」
星睿に二度怪訝な顔をされ、ライラは買いすぎたのかしら、高すぎたのかしら、と青ざめる。
商人から買いものなどしたことがないので、物の値段がさっぱりわからないのだ。
「あの……えっとお高いようでしたら上衣はなくても構いませんわ……」
ほとんどため息のように呟く。
「お求めのお品は以上で?」
「っ、あ、はい」
「どのようなお衣装がお好みですか?」
「チクチクする布が苦手で、あとたぶん明るい色も似合いません……着やすいものであればなんでも」
「透ける薄絹はお苦手ですかな」
「あ、そうですね、でも寒いわけではなくて、少し恥ずかしいだけなので慣れるようがんばります」
「恋愛絵巻以外にお苦手な書は?」
「あ、えっと、とくにはないです」
「わかりました」
星睿が頷く。そして商人に向き直るとパンパンと二度手を叩き注目させる。
「まず茶菓子は先ほどのご指示通りに。それから季節の果物を毎日五種類ずつ。十分に熟したものでなければなりません。最高品質の瑞々しいものです。あと蜂蜜漬けの胡桃や果実をいくつか。混じり気のない蜂蜜ですよ。お衣装は肌の透けない上衣を二十着。絹の柔らかい素材で落ち着いた色のものを。妃殿下は華美を好まれません。重々留意して品の良いものを用意しなさい。薄絹は朝用と昼用がそれぞれ三十着。夜用は……すぐお脱ぎになられるでしょうから十五着でよろしい。装飾の縫い付けには細心の注意を払って、肌に糸が当たらないように。靴は取り急ぎで二十足。首飾りと耳飾り、髪飾りは三十組ずつ。黒曜石や黒玻璃は使ってはなりません。御髪や瞳の色と被りますから。濃い紫の宝石で。青・赤・翡翠も東の宮の方々の色ですのでこれもまた使ってはなりません。書物はとりあえず百冊。まだ王宮書庫に無い新作を揃えるように。――ああ、肌がけ毛布ですか。とろみがあって手触りがいいですね。加えておきなさい。家具と動物は今日はいったんよろしい。ご希望があればまた呼びます。化粧品は――侍女たち、ひと揃い妃殿下にお似合いになる色を選びなさい。あと焚き香は軽やかで甘さがくどくない香りをいくつか。お好みがわかったらまた改めます。……まあ、今日はこんなところでいいでしょう。採寸の者以外は下がっていいですよ」
ひと息に言ってのけた。
あまりにも気前よく命じるものだからライラは一言も挟めなかった。
そしてこれまたあまりに口早なので、息すらしていいのかわからず、横で冷や汗をかいているだけだった。
「差し出がましくはございますが、妃殿下に必要なものを指示いたしました。これくらいの量が普通とお心に留めていただけますと」
「あ、はい、申し訳ございません……」
「さて。次は採寸ですので私はいったん下がりますが、足りないものがあれば侍女にお伝えください」
「お、多すぎると思う場合は」
「先ほどのもので最低限です。ではのちほど」
星睿がにっこりと笑った。
この壮年の男が笑うところを見たことがなかったので、ノルシエの本気を垣間見た気がして、ライラはただただ恐怖した。
***
怒涛の買いものと採寸が終わり、どっと気疲れしたライラは夕餉までのわずかな間、長椅子に身を預けてうとうとしていた。水仙の優しい香りが部屋に満ちている。
砂絹で何か催し事があるとき、たいてい母とライラの席は用意されていなかった。
なので、端っこの空いている席に座って二人で黙って催しを見ていた。
他の妃に声をかけられることもなかったし、兄弟たちに何かいじめられたりだとかもなかった。
本当に透明だったのだ。
いてもいなくてもいい。下僕でもなんでもない、王宮の人たちにはまるで関わり合いのない、見えない存在。
それが母とライラだった。
後宮の妃には困らないだけの生活費が出ていると知ったのは母が死んでからだった。
母は書にすべてのお金をつぎこんでしまう人だったので、お金があることを知らなかった。
いつも同じ服を着ていたし、いつもうっすらお腹が空いていた。
たぶん母は書に逃げ込むことでしか自分を保てなかったのだろう。
毎日貪るように、実の娘から見ても異様なほどに、母は書を読んでは何かを書いていた。
他の妃や兄弟たちからいじめられなかったのは、正気を失くしてすでに父王に捨てられたお気の毒な妃とその娘だったからかもしれない。
寵を争うことも、王位を狙うこともない無害な二人だったから。
使用人もほぼいない、シンと静まり返った部屋でライラは育った。
母と一緒に書を読むことでしか空虚な時間は埋まっていかなかった。
――ひどく当たられたことはないが、ひとつだけ残っている記憶がある。
まだ母が生きていたころ。手入れがされておらず荒れたライラの宮の庭に、二番目の義妹……第三王女が迷い込んできたことがある。
名をシリンといった。
シリンは三人の王子とともに育ったせいか大層なお転婆で、入ってはいけないと言われる『禁足地』を『冒険』するのが好きだった。
その禁足地のひとつがライラの宮の庭だった。
「かわいそうなねえさま。シリンがきっとたすけだしてあげますからね」
雑草が処理されていない庭で。
くたびれてよれた服をきた痩せぎすのライラを見るなり、義妹はそう言った。
純粋なきらきらとした瞳で。自分こそがライラを救い出す勇敢な王子なのだという顔をして、ライラに『冒険』の中のかわいそうな女奴隷の役をいきなり宛がった。
ライラは「いいの、どうぞお気遣いなく」と返した。
自分がかわいそうだとは思っていなかった。
王位などほしくはないし、物欲も薄いライラにとって、透明で静かな生活は意外と楽だった。
シリンはぽかんとしたあと、いかにライラが不遇であるかを幼い言葉を尽くして語った。
子どもながらの義憤であったのだろう。
地団駄を踏んで悔しそうにしていた。
なぜシリンの言葉がライラに伝わらないのか。なぜシリンを『素敵な王子様』にしないのかと半ば癇癪を起こしながら喚いた。
そしてシリンを探していた使用人たちに大慌てで連れて行かれた。
ひきずられながらもシリンは喚いていた。
その後ろ姿をライラは億劫な気持ちで見送った。
勝手に『冒険』の悲劇にはされたくなかったから。
それからしばらくして母が死に、このささやかな事件をすっかり忘れ、母がしていたように書にうずもれて暮らしていたライラに輿入れ話は突然降ってわいた。
ある朝、起きたら知らない使用人と護衛官が何人か宮にいて、父王がノルシエへの輿入れを命じたと言われた。
話自体は前からあったのか、さすがに雪馬車や嫁入り道具の類は準備されていたが、父王からの書状ひとつなく、出立はその日の夕方という杜撰さであった。
そんな見送りもない寂しい一行をシリンは走って追いかけてきた。
「姉さまはシリンがきっと助け出してみせますから!」
あの日と同じ言葉が、少し大人びた声で追いかけてくる。
真新しいドレスをからげて、兄たちのお下がりだろう練習用の木剣を片手に。
『冒険』はまだ続いているのだと言うように。
供物にされる姉をシリンは心底真心で憐んでの叫びだった。
それが一等、ライラの胸を苦しめた。
「――……これはわたくしの、わたくしだからできる民のための戦なのです」
無意識にライラは拳を握りしめて呟いた。
砂絹王家の女は、すべからく他国に嫁ぐための供物である。
供物であることを悲劇と呼ぶ人もいるだろうが、少なくとも供物である間、ライラは透明ではなくなる。人として、王家の一員としての存在が認められるのだ。
けれどそうして供物とされることさえ、物語のスパイスにされる。そんなことには耐えられない。
これはもどきでも透明でもない、正真正銘、姫君としてのライラの物語だ。
憐れまれる謂れなどどこにもない。
己にもなけなしの矜持があったのだとライラは自分でも驚いていた。
そうやって心を固くして嫁いできてからのこの数日。
ノルシエでライラは透明化されない幸せを――憐れまれず、除け者にされず、変わり者扱いされない幸せを知ってしまった。
龍王は正妃として丁重に扱うと約束してくれた。
たわいもない寝物語に感心し、醜態を寛大に許し、人として尊重してくれる。
その上、光らない石だったライラを磨いてみせると豪語した。
それはライラ自身の可能性を信じてくれるということ。
故国ではついぞ得られなかったとびきり贅沢な仕打ち。
もう、知る前には戻れない。
──わたくしは、陛下の隣で、ノルシエのためになりたい。そうすることで砂絹を守るから。どうか誰も邪魔をしないで。見逃していて。
微睡むライラの片目から涙が一粒すべり落ちる。
もうあの国には帰れない。帰りたくない。
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