第三話 龍王の仕置き
「――……本当につまらぬお耳汚しですが」
龍王はライラの心許ない下乳をたゆたゆと手のひらで揺らして遊びながら、昨日と同じ口上を聞いた。
侍女どもめ、昨夜より寝巻きに気合が入っているな、とほとんど平らになった谷間を飾る刺繍を指でなぞる。
「この世のすべてが小刻みに揺れる紐である、というお話はご存じでしょうか?」
龍王の手で小刻みに乳を揺らされながらライラが訊ねた。
「は? なに、紐?」
「はい、紐です。くくったり縛ったりするあの紐でございます」
「世界のすべてが紐?」
「とある学者が言いますには、この世のすべてはちいちゃな目に見えぬ紐からできているそうなのです」
「すべてとは」
「路傍の石も、水も、夜空も、わたくしたちも、動物も草木も何もかも。すべてをちいちゃくちいちゃく分解すると、小刻みに揺れる紐になると」
「神をも畏れぬ暴論だな」
「いいえ、陛下。わたくしたち人も、水も、作物も、遠く光る星々までもすべてが同じ紐から構成されているのです。これこそ神の御業ではございませんか?」
「なるほど?」
「わたくしたち人は土や小麦をこねて人は作れません。ですが神はちいちゃなちいちゃな紐を集めてこれらを成し遂げられるのです。それに、たとえばノルシエの馬はこの寒さに耐えられるよう毛足が長いですが、砂絹の馬は砂地と暑さに適した短い毛足です。花だって可憐に咲くものもあれば、過酷な土地で虫を糧として生きる花もある――わたくしたちには奇妙に見える生態や営みにも必ず意味があって――世には無神論者もおりますが、逆に学問を突き詰めていくと神の思し召しを感じずにはいられないのです」
「まあ、確かになぁ」
「学べば学ぶほど、人が為しうることには限りあること、神の御力を感じるのですわ」
「……ライラ、お前はこの学説をどこでくすねてきたんだ。いかな古国の砂絹とはいえ、姫君の教育には含まれていまい」
龍王が感心半分、呆れ半分で訊いた。
ライラは一瞬口を噤むと、にへら、と無理をしているのが見え見えな作り笑いをした。
「わたくしの母は文官の娘でした。偶然、祖父への届け物をしに王宮へ上がった際に父王の目に留まり召し上げられました。正妃でもなく、身分も高くない、お妃教育など受けたことのない母は、子どもの目から見ても浮いておりました」
これはよくある話だなと龍王は口の中で呟いた。
ライラには聞こえなかったようで、にへら、という笑い顔のまま続けた。
「舞も楽も刺繍も母は下手でしたので、他のお妃たちからいつも遠巻きにされておりました。お恥ずかしながら、わたくしもそんな母の下で育ちましたのでお妃教育らしい教育はまともに受けておりません。そんな母が唯一わたくしに熱心に教えたのが文字でした。なので、やがて病で母が死んだあとも、父王から下賜された書を読み、たまに外宮の図書館へ通っておりました。わたくしはそうしてずっとひとりで暮らしていくものだと信じておりましたので」
「だのに……いや、だからこそお前は白い悪魔の餌食にされたのか」
龍王が鼻で嗤った。
図星だったのだろう。ライラはもごもごと気まずそうに口ごもった。
ライラはとっさの嘘が異様に下手くそな娘だった。
「立場の弱いお前に供物のお役目を体よく押しつけたってとこだろう。まあいいさ。極北の蛮族と呼ばれるこの地に普通の姫君が嫁いでくるとは僕も思っちゃいなかった。お前は僕が想像していたよりずいぶんまともな姫君でよかったよ」
「押しつけられたと言えば聞こえが悪いですが、こうして陛下にお会いできてわたくしは果報者でございます」
「――……国ではひとりぼっちだったのか」
「陛下。わたくしは寂しくはございませんでした。書の中であれば誰もが平等であり、自由で、どこへでも行ける。書の中こそが楽園である――……母の口癖のとおり、書の中にはひとりぼっちで痩せぎすの姫君もどきはおりませんので、わたくしはどこにでも行けるし何にでもなれましたもの」
姫君もどきというのは砂絹でのライラの通名だったのだろう。
後宮の女が自分より弱いと認定した女にどんな仕打ちをするのか龍王は熟知している。
生かさず殺さずじわじわと痛めつける者もいれば、見えないふりをする者、派手に苦しめて殺す者。
どこの後宮も無邪気な悪意に満ちている。
それは共通文化をほとんど持たないノルシエと砂絹において、あまり歓迎したくない共通の文化だった。
「恋愛絵巻に夢を見たりはしなかったのか。女は好きだろう」
「妹は熱心に読んでいたようですが、わたくしはあまり。このとおり殿方にとって魅力的な女と言い難いのはよくわかっておりますゆえ」
「そうか? お前の肌はきめ細かくもちもちとして触り心地がいいけどな。僕は運がよかった。見る目のない男どものことは放っておけ」
龍王はむにむにとライラの薄い尻を揉みながら言った。
体質だったらこのままでも仕方ないが、境遇から察するにこれはどうやら栄養が足りていないゆえの肉付きだ。
ならばぜひとも栄養価の高い食事を与えてむちむちにせねばならぬ、と龍王は決意した。
「少し悪いことをするか」
「――?」
龍王は枕元から蜂蜜漬けの胡桃が入った瓶を取り出すとライラのくちびるに押しつけた。
濃厚な金色がどろりと口元を汚す。
ライラは大きな瞳をぱちくりさせながら、慌てて滴り落ちる蜂蜜を小さな舌で追った。
「これが悪いこと? ですか?」
「夜中に甘いものを食べると叱られなかったか? とっても悪いことだろう」
「たしかに」
「うまいか」
「とても甘くて美味しいです」
「もっとお食べ。僕の気が済むまでむちむちにしないとね」
「陛下はむちむちがお好きですか」
「今も悪くないが、むちむちもちもちになったらもっとかわゆい」
ライラはぽぽぽと頬を染めた。
男の人にかわゆいなんて言われたことがない。
それも龍王のような美麗な男の人に。嘘でも気まぐれでもいい。
嬉しくてライラはぺろりと龍王の指ごと蜂蜜を舐めた。
さすがにこうも蜂蜜まみれでは眠れぬと龍王はわずかに眉を顰めて、ライラを抱いたまま部屋を出て湯殿にざぶざぶと入った。
身体を流そうと慌てて集まってきた侍女たちを子犬を蹴散らすように追い払い、機嫌よくライラの身体を磨き上げる。
そうして芯まで温まってほかほかになったライラをぎゅうぎゅうと抱きしめて、龍王は満足げにぐっすりと眠りについた。
――第二夜も褥は白いままであった。
***
このままではいけない、とライラはきゅっとくちびるを固くした。
夜伽もせず、菓子を与えられ、頭のてっぺんから爪先まで甘やかされ、すやすや眠る正妃がいていいのか。
正妃として担うべき政もノルシエに来たばかりのライラにはわからない。
こうして二日、ただひたすら龍王の睫毛の長さや寝息の静けさにどぎまぎしているだけで夜が明けた。
つまり何のお勤めも果たせていない。
「星睿さま」
決意がにじむ声でライラは執務室の傍仕えを呼んだ。
「いかがなされました、妃殿下」
「瑞雪様以外のお二方はむちむちですか」
「――……いかがなされました」
星睿が跪拝を崩して困惑を隠しきれない顔で言った。
「陛下はむちむちがお好みなようなのです。お二方がもしむちむちであれば、ぜひお話を伺わねばなりません」
「二年半、お渡りがなくともですか?」
「お渡りがなくともです。政治的な理由があってお避けになったのかもしれません。お好みに適うお方であれば学べることも多いでしょう」
「……かしこまりました。都合をつけましょう」
星睿は何か言いたげだったが、龍王の好みの片鱗がわかったのだ。
ライラは何としてでも第二・第三の側妃に会う必要があった。
正妃として権勢を誇りたいわけではない。
けれど、ノルシエの一員になったからには自分にできる何かを探したい。龍王に少しでも長く気に入られていたい。
――……もう奇妙な姫君もどきには戻りたくない。
たった二日。
それも特別なお客様扱いだが、こんなに心地よい場所をライラは他に知らなかったので。
***
「それで冰蝶のところに来たってわけね。納得納得。龍王くんはここには来ないから夜に会いに来るだけで大変なお気に入りと思うけれど。それでも不安になっちゃうのは乙女心かしらどうかしら」
たゆんと見るからに重そうなおっぱいを卓に乗せて冰蝶は悪戯に笑う。
龍王と同じか少し年嵩だろうか。
冰蝶はノルシエには珍しい金髪碧眼、正真正銘のむちむちな美女であった。
指を沈み込ませたら楽園の心地がするのだろうな、という透き通った柔らかなおっぱいとお尻で薄絹がぱっつんぱっつんになっている。
おっとりとした垂れ目が色っぽく、厚めのくちびるはつやつやで、手足や腰はすんなりと細い。そのなまめかしい姿態は常の男であれば女神と崇めただろう。
部屋の甘い香りとあいまってくらくらしてくる。
「は……」
飲まれそうになる意識をかき集めてライラはか細い声をあげた。
「あ、あのわたくしは」
「大丈夫。冰蝶はみんな知っているわ、砂絹のお妃ちゃん。遠路はるばる白い魔窟へようこそ。冰蝶のおばあさまもはるかな国からお嫁にやってきたのよ。だから冰蝶はノルシエの色をしていないでしょう? 龍王くんみたいに斬りつけるような闇夜の黒じゃあないの。ノルシエで生まれこそしたものの金の髪も翡翠の目もみんなおばあさまの国の色よ。――そして残念なお知らせだけれど、冰蝶はあなたの望みを叶えられない。龍王くんは冰蝶に興味がないの。悲しく寂しいと思ったこともあったけれど、今となってはこれで正解なのよ。冰蝶は龍王くんのかけらをあなたにはあげられない。ひとつも持っていないから」
「なぜご興味がないと? 何か少しでもお話になったことは? 贈り物は? 何でもいいのです。陛下は冰蝶さまのような豊満な方がお好みのようなのです。だから……」
「あらあら。落ち着いて。お茶はお飲みになるかしらどうかしら? 冰蝶は薬草を煎じるのが趣味なのよ」
冰蝶が銀の茶器をずいっと押し出してきた。
銀器には曇りもなく、青色の液体が揺れている。
「冰蝶の名前にちなんだ蝶豆のお茶よ。酸を絞ると紅くなって、重曹を入れればもっと濃い緑がかった青になる」
冰蝶が茶器に果汁をきゅっと絞る。たちまち青かった薬草茶が紅く色づいた。
「これが蝶豆の! 書で読んだことがあります。本当に鮮やかに色が変わるのですね」
「――……躊躇いもなく冰蝶の出したものに口をおつけになるのね」
「え? ええ。銀器に曇りもないですし、ここは二人きり。一応正妃として迎えられたわたくしに何かあれば不都合なのは冰蝶さま。毒を盛る必要性が見いだせません」
「うふふ。賊に雪馬車を襲われたと聞いたからどれだけ心細くされているかと思えば、お妃ちゃんたらなかなか食えない子。そうね。大丈夫、毒は盛っていないわ」
「毒は?」
見立てが甘かったか。
ぎくりとしてライラは口に含んだ茶を嚥下するかどうか悩んで毒ではないならと飲み込んだ。
冰蝶が自らの白い乳房を指でつぅっとなぞりおろしながら言う。
「媚薬をほんの数滴。死なないわ。気が狂いそうなほどうずうずするだけ。一晩で収まるわ。瑞雪にも香露にも、もちろん冰蝶だって試したのよ。でも龍王くんは逢瀬どころか様子見の文さえ寄こさなかった。お気に入りのお妃ちゃんがとろんとろんになってるのを、龍王くんが抱かずに耐えられるか見てみたいのよ。ごめんなさいね」
香露というのが三番目の側妃だろうか。
砂糖漬けの花弁をむっちりしたくちびるでついばみ、うふふと冰蝶は笑う。
その目がちぃとも笑っていないことに気づいて、ライラはぞっとした。
そして自分の腑抜け具合に歯噛みする。
お渡りがなかろうが非公式だろうが、ここは後宮。戦場なのだ。
冰蝶の仕打ちは悪意からではない。
本気の悪意ならば雪馬車と同じく賊に襲わせて秘密裏に殺している。
これはただ毛色の珍しい愛玩動物が来たから爪先で遊んでみただけのこと。
後宮ではちらとも気を抜くなと骨身に染みてわかっていたはずなのに。
この不始末は、毒でなければ大丈夫と高を括ったライラが全面的に悪い。
毒であっても微弱であれば耐性があると驕っていた。
よもや媚薬とは。
王族に連なる者として様々な薬や毒に多少の耐性はあるがライラは生娘である。
気が狂いそうなほど疼く薬など知らない。
龍王にやたらめっぽうな痴態は晒したくなくてライラは目を潤ませた。
「そんなに死にそうなお顔しなくても、すぐには効かないわ。夕刻から夜半までちぃとばかし火照ってじっとしているのが辛いだけ。きっと龍王くんが慰めてくれる。そうしたら今度は冰蝶ともイケナイ遊びをしましょうね。ここは退屈で仕方ないの。それに冰蝶はかわゆい女の子が大好物なのよ。ああ、おみやげに南の宮へお茶を届けさせるわ。龍王くんとぜひ楽しんでいらして」
***
「冰蝶に一服盛られたって?」
龍王の反応は完全に物見遊山のそれであった。
くつくつといつものように喉の奥で小さく笑う。
「ゆめゆめ油断するな、殺されるぞと僕が忠告したのを忘れたか」
「もうしわけございませ……」
はふはふと熱の篭った吐息混じりに寝台の上でもがくライラを呆れた顔で眺めて、龍王はその横に身を横たえた。
「抱いて宥めてやってもいいが冰蝶に唆されたようで業腹だな。――今日は仕置きだ、ライラ」
薄絹に包まれた曲線をゆっくりと手で撫でおろして、んっんっと物欲しげな声を出すライラを龍王は平時の顔で見下ろした。
そしてしつこく舌を絡めとる濃厚なくちづけでライラのくぐもった嬌声を存分に引き出すと、何事もなかったかのようにさっと放した。
「今夜はこれでお前に指一本触れない。お前は僕が眠るまで寝物語を聞かせておくれ。なに、眠るまでには疼きも醒めよう」
にこやかに笑っているが、ライラの内側からぐずぐずと蕩けだす甘い感覚を龍王が面白く思っていないことは推して知れた。
時折全身が痺れるきゅうっと切ない切迫感も、腰から下が蕩けてなくなりそうな不安定さも、薄い乳房がポツと張る違和感も、余すことなく龍王はわかっていて、許しはしないのだ。
ジャムのように煮詰んだ脳では何の話も思いつかない。
いつもだったらライラの脳裏にはすまし顔で文字が整列しているのに、バラバラとほどけて、あちらこちらへ散らばってしまっている。
指先まで脱力してしまって、頭の中の文字をたぐることもできない。
ひんひんとあられもなく啼くライラの横で龍王が茶碗を覗き込む。
「――……蝶豆茶。冰蝶が寄こしたのか。よしんば僕にも一服盛る気か。ほらライラ。頭からむしゃむしゃ食べられたくなかったら早く狼を寝かしつけないと」
「かまいませぬ」
ほたほたと大きな涙の粒をこぼしながらライラは龍王の指を絡めて哀願した。
龍王は指一本触れぬという宣言通り、涙を拭うことも、慰めに抱きしめることもせず、ただ同じ褥に横たわって、ふうふうと熱い息を漏らすライラを眺めていた。
「いっそむしゃむしゃと一思いにしてくださいまし」
「ふふ、嫌だ。今夜は我慢おし。さて、今日はどんな話をしてくれるのか」
あふ。小さなあくびをひとつ、龍王はライラの指をほどいて仰向けに寝転がる。
彫刻めいてきれいな稜線を描く横顔をライラは恨めしげに見た。
そっと絡めた龍王の指は燃えるように熱かった。
この男、興味がないのではなく、鋼よりも何よりも意思が固いのだ。
やらぬと決めたその一意だけで、ライラを抱かずに夜明かしするつもりだ。
ほたほたと泣きながらライラは覚悟を決めた。
迂闊に薬を盛られた己が悪い。
死ななかっただけ、龍王からの甘い仕置きで済んだだけマシと思わなければ。
もはや感覚のない舌をもつれさせながら、毎夜の口上を述べる。
「――……本当につまらぬお耳汚しですが」
「うん」
「陛下は、トウもころし……」
「うん?」
「トウモロコシの不可思議をご存じですか?」
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」「この物語を応援したい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆から評価やブックマークをいただけますと、執筆の大きな励みになります。
引き続き、毎晩18時に更新していきます!




