第二話 龍王の惰眠
「――……本当につまらぬお耳汚しですが」
龍王は期待していなかった。
母や親類、三人の非公式な側妃たちで女が何を話すのかはだいたいわかっている。
誰かの噂話、珍しい甘味や動物の話、装飾具の話、美を保つのにどんな努力をしているか、龍王のためにどんな詩歌を詠んだのか。
まあだいたいそんな感じだ。
柔らかい胸に顔をうずめて聞き流しておけばそのうち眠くなるだろう。
日々、政務で神経をすり減らし、上手く眠れない龍王にとって、女の話は睡眠薬のようなものだった。
聞いていなくても覚えていなくても毒にも薬にもならぬ、可愛らしい囀り。
「西方に世界中の学者が集まる学び舎がございまして、ある日、昼の休憩時間に一人の男がふらりと学び舎に立ち寄ったのでございます」
出だしからして思っていたのと違った。
龍王はうずめるほどもないライラの薄い胸から顔を上げる。
――……恋愛絵巻の設定かもしれない。続きを聞こう。
「男が何者なのか、学者たちは誰も知りませんでした。男は講堂の教壇に立つと、猛烈な勢いで数式を書き始めました。男は一言も喋りません。そしてここは学者の街。学問をする者であれば多少不審であろうと止める者はおりません。代わりに、学者がひとり、またひとりと講堂に集まってきます。男はひたすら数式を書いています」
僕は何を聞かされているんだ。
龍王は黙考した。
恋愛絵巻でもない。甘くなる要素がひとつもない。
ライラはゆったりとした動きで自らに絡みつく龍王の背を叩き、寝かせつけようとしていた。
「あ! とひとりの学者が叫びます。彼は男が何を書いているのか気づいたのです」
「何を書いていたんだ」
「数学の未解決問題です」
「は?」
予測していない答えだった。
龍王の疑問はなぜこの話をしはじめたか、だったが、ライラは未解決問題とは何か、を補足した。
そうじゃない。
「この世に不思議は数あれど、数学にもなぜその式が成り立つのか証明されていない難問がございまして、そのひとつを男は証明しようと書き連ねていたのです」
「それで?」
「数百人を収める講堂は満杯になりました。ある者は頭をかきむしり、ある者は興奮で叫び、ある者は泣きながら神に祈りを捧げました。それらを無視して男は書き続けました。――そして一時間後、男は見事、百年以上未解決だった証明式を書き上げたのです」
「すごいじゃないか」
「はい、講堂は喝采に包まれました。なにせその証明を解決した者には黄金が馬車三頭分と大きな屋敷、教授としての地位が約束されていた世紀の難問だったのです」
「大出世だ」
「はい。学者という学者が握手を求めて男に駆け寄り、その名を尋ねました。けれど男は自分の名を名乗ることなく、その場を去ってしまったのです」
「なんでまた」
「わかりません。ほどなくして、男は学び舎の街の近くに住む木こりだと判明します。学者たちは男に会いに行きますが会ってはもらえませんでした。仕方なく文を出しましたが、一言『為すべきを為した。あなた方もそうしろ』と書かれた返信があったのみで、やがて木こり小屋からも男は引っ越してしまいました」
「それで?」
「終わりです」
食い気味に訊いた龍王にさっぱりとライラは返す。
「は?」
龍王の喉から心底わからないと声が漏れた。
ライラはなぜか少し照れくさそうに微笑んで続ける。
「物語ではないので……その後、男がどうなったかは誰も知らないのです。ただ、未解決問題がひとつ解決した。それだけのお話ですが、この世の不思議が紐解かれることにわたくしはとてもわくわくいたしました」
「これがお前の最近興味深かった話?」
探るように聞けば、ライラは咎められたと思ったのか、さっと顔を青くして、しおしおと項垂れた。
「も、申し訳ございません……他の姫君方のように楽しくて華やかなお話は、わたくし持ち合わせていないのです」
ライラの目は清らかそのものだった。決して龍王をおちょくって突飛な話をしはじめたのではなく、この娘は本気で『最近興味深く感じたこと』を話したのだ。
流行りの服でも食べ物でも、ましてや陰口やねだり事でもなく、どこぞの男が数式を解いた方がこの娘の興味を引いたのだ。
そんな妃がこの世に何人いるだろうか。
少なくとも今まで出会ったどんな女とも違う。
――この娘、存外当たり籤かもしれぬ。
龍王は思わず吹き出しながら、ライラの薄い胸に顔をうずめなおした。
「ふふ、いいよ。面白かった。許す……く、はは……ふふ……んっふ」
「あ……ありがとうございます。そんなに笑っていただけるお話ではないのですが嬉しゅうございます」
くぐもった笑いに肩を震わせる龍王の背をライラの小さな手がゆっくりさする。
その心地よさに任せて、とくとくとライラの心臓の音を聞いていると、知らぬうちに龍王はすっかり眠ってしまったのだった。
翌朝、いつもよりずいぶん日が高くなってから、龍王は呆然と目を覚ました。
眠れずに朝を迎えることはあれ、帯剣もせず誰かの隣で寝過ごしたことなどない。
それも女とはいえ、出会ってまだ半日の異邦人の隣で。
先に目を覚ましていたらしいライラは、龍王の腕の中で、彼を起こさぬよう身動ぎひとつせずそっと息をひそめていた。
「おはようございます、陛下」
「――僕は寝ていたのか」
ライラは「……何度かお声がけはしたのですが、ひどく疲れておいでのご様子でした」少し迷ってから返事をした。
遠路はるばる旅をしてきた彼女より長く寝こけていたのだ。
しかも自称不眠症の夫が。寝汚く。そりゃあ返事もしづらかろう。
「ご気分はいかがですか、陛下」
「……悪くない」
「それはようございました」
ライラは花が綻ぶように笑って安堵の息をついた。
悪くないどころかすこぶる良い。夢すら見ずに泥のように眠って、久しぶりに脳が軽い。普段ならばとっくに星睿と政務の打ち合わせをしている時間だった。
龍王は陽の入る明るい寝台で薄絹のライラをとっくりと眺めた。
全体的に華奢で、腰などは強く掴めば折ってしまえそうだ。胸も尻も肉が足りていないが、ほくろひとつない象牙色の肌は香油のせいか艶めかしく光って見える。
ずっと困惑しきりで眉が下がっているが、切れ長の黒い瞳は知性と理性を帯びて穏やかだった。本人は美姫ではないと卑下するが、端々にしなやかな品があった。
少し太らせる必要はあるが、なかなかどうして悪くない、と龍王は独り言ちた。
龍王の直感は当たる。
齢二十三にしてあまねく広がる巨大な領土の端々まで目配りし、大陸最強のノルシエを一枚岩として束ねられているのは、龍王がここぞの判断を決して間違えないからである。
「こんなに寝たのはずいぶん久しい――侍女どももいやらしいな。みんな僕がお前との色事に溺れていると思い込んで朝の支度にすらやってこない」
「あ、そういう……」
苦笑いをする龍王に、初めて思い至ったという風にライラは頬を紅くした。
本当に誰一人訪れず、扉の外から物音ひとつしないので、龍王の腕の中で彼の目覚めを待つしかなかったのだ。
「真実にするか」
「えっ」
「朝も夜もなくお前を抱いて溺れてみようか」
「ゆ、昨夜はお抱きにはならないと」
「無理強いはしないと言っただけだ。――僕にどうされたい、ライラ?」
真っ赤になって震えるライラを抱き込んで、その耳朶にふぅっと息を吹きかける。
ライラはか細い声で小さく叫んでびくびく跳ねたが、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「早く言わないとこのままお前を食べてしまうよ」
「……お望みのままに……」
「こんなに震えているのに?」
「申し訳ございません、こわいわけではないの、です」
「嫌ではないの」
「……わたくしは、」
くきゅるるるる……と妙に可愛らしい音が鳴った。
覚悟を決めたようにぎゅっと目を瞑ったライラの腹だった。
あ、と消え入るように呟いて黒玻璃の瞳に涙が浮かぶ。
「ちが、わたくし、あの」
「くっ……ははは、はっ、はは……くくっ……はーあ、あー……恋敵が腹の虫とはね。そうだよな、お前こちらに着いてから何も腹に入れてないんだろう。いいよいいよ、朝餉にしよう。――誰か。誰かいるか」
龍王は上着を羽織り、おたおたするライラの頬に軽くくちづけして落ち着かせながら、寝台の横に置かれた鈴を鳴らす。
「また晩にくる」
「ほ……」
「ん?」
「ほかのご寵姫は、よろしいのでしょうか?」
ああ。龍王は脳裏に三人の女を浮かべる。
龍王が望んで召し上げたわけではないと星睿が説明したはずだが側妃は側妃。
新参のライラとしては気になるのだろう。
「会いたいのならば星睿に言うといい」
「いえ、その……陛下はその、皆様と夜をお過ごしにはなられないので?」
「――……」
ふむ、と龍王は考えるふりをした。この娘に嫌われているようではないのだが、一応聞いておいた方がいいだろう。これから先、長い付き合いになる。
「ライラは僕では嫌か、物足りぬか」
「滅相もございません……!」
間髪入れずの否定に龍王は気をよくして朝餉の卓についた。
「ならばいいではないか。――またなにか娯楽を考えておけ」
龍王は初めて女の、この娘の話をまた聞いてみたいと思ったのだった。
娯楽と言われて途方に暮れたのはライラである。
黙々と書を読むのが好きなライラだ。
しかし日がな一日、様々な書状の処理や軍議、各所からの陳情の対応で疲れている龍王に、夜もまた書の話などをしては癒されないだろう。
賢い木こりの話はお気に召したようだったが、二度も三度もそう上手くいくわけがない。何か女性らしい心休まるものを探さなくては。
「星睿さま」
ライラは龍王に言われたとおり、執務室にいた星睿を訪ねた。
丁寧に火熨しを当てた黒い上着に黒い下穿き姿の男が流れるように跪拝する。
顔を上げるように言って、ライラはふと思う。
この宮の人々はなぜこんなにも黒一色なのだろうか。
「いかがされました、妃殿下」
「お願いにまいりました。他のご側妃に会わせていただくことはできますでしょうか」
「お望みであればいかようにでも。妃殿下はノルシエのご正妃なれば。それぞれお部屋までご挨拶に上がらせればよろしいでしょうか」
「い、いえ。わたくしが東の宮にまいります」
「では茶席でももうけますか」
「大仰なものではなくて、ご側妃にご相談というか、ご指南をいただきたくて……」
「指南、ですか」
星睿が何やら思い当たったように言った。
別に閨の話をあれこれ聞くわけではない。
ないのだが、ライラは急に恥ずかしくなりながら、「陛下が今夜もいらっしゃると仰せになられたので……」ひり出すように言い訳をした。
「承知いたしました。どなたかに都合をつけましょう。ただ、ご側妃のもとに陛下のお渡りはこれまで一度もないのであまり参考にはならないと存じますが」
「お渡りがない? 一度も?」
「はい。お三方が東の宮にいらして二年半ほどになりますが、どなたのもとにも一度たりとも。ですから皆様、正式なご側妃ではないのです」
三人の女が寵を争ってあの手この手で気を引いただろうに。
二年半の間、誰にも靡かなかったのは、政治的な向きを睨んでの鉄の意思か、それとも女嫌いか。
昨晩の龍王はぎゅうぎゅうとライラを抱きしめて放さず眠ったので女嫌いというわけではなさそうだが――……ライラは頬に手を当てて少し悩んだ。
とにかく龍王が難攻不落であることは間違いなさそうだ。
***
「ご正妃様にはご機嫌麗しゅう。ご挨拶が遅れて大変申し訳ございませんでした。あたくしは瑞雪。陛下とは母方のはとこにあたります」
青を基調とした薄絹にしなやかな肢体を包んだライラと同じ年頃の少女は扇で口元を隠しながら言った。本当に申し訳ないとは思っていない淡々とした声だ。
「あたくし存じ上げませんことよ、閨での陛下のお好みなんて」
ライラが白い椅子に座るなり、猫のような大きな緑色の瞳をきゅっと険しくして瑞雪は、侍女が茶の支度をする前に切り出した。
星睿に言った『指南』がやはり閨での話と受け取られてしまったようだ。
ライラは慌てて「その、閨でのお話ではなくて……」と否定するが、瑞雪はちぃとも聞いておらず龍王への恨み節を長々話し始めた。
「いいんですの。あたくしとて兄様と今さらどうのこうのとは思っておりませんわ。季節のご挨拶にはお目通りさせていただいておりますし、こうしてお部屋を賜って何不自由ない暮らしをさせてくださっておりますもの。でもこの二年半、夜のお渡りは一度もなかった。兄様のお気に召す女ではなかったのだと、あたくしちゃあんとわかっております。ご正妃様は違った。はるか砂漠の国からやってきて、やってきたその日に南の宮を賜って、夜もお侍りになられた。侍女たちの噂じゃいつ寝ているかわからないあの兄様が昼過ぎまでお放しにならなかったと言うじゃあありませんか。あたくしはなんだったのでしょうか。そう思っても仕方ないことじゃありませんこと? ああ、勘違いはなさらないで。お気を損ねないでくださいまし。ご正妃様がただ羨ましいのですわ。あたくしは兄様に嫁ぐために育てられた。自分がいかにつまらない女かわかっておりますとも。だから兄様の心を一目で射抜いたご正妃様が羨ましくてならないのですわ。それなのにご正妃様はあたくしにお訊ねになられるのですもの。兄様のお好みなんてあたくしが一等知りたいわ。何も存じ上げません。兄様が狼のように美しく冷たいお方だということしか、あたくしに何の興味もない『息災か』というお言葉しか存じ上げないのです。ご正妃様はあたくしに何をお訊ねになりたいの。兄様の好きな食べ物も飲み物も花も歌も何もかもをあたくしはひとつとして兄様から教えていただいてはいないのに」
扇の向こう側で一気に捲し立てて、瑞雪はふうと淑女らしからぬ大きな息をついた。興奮で白い肌が仄赤く染まり、うっすらと汗をかいていた。
ノルシエの王宮は薄絹で過ごせるよう、どこもかしこも暖房が効いていて少し暑いくらいなのだ。
ライラのことを羨ましいと言う彼女の、名のとおり雪のように白い肌や触らずともわかるもっちりとした胸、魅惑の曲線美を描く腰、何より印象的な気位の高さを感じさせる猫のような長い睫毛に大きな瞳!
あの美しい龍王の隣に立っても何ら違和感のない硬質な美しさに、ライラは自分の貧相さを悲しく思った。自らを疎んではいないけれど、こんなに眩しい少女に羨ましがられるほどの美貌も人徳も政治的な後ろ盾もライラは持ち合わせてはいない。ただ物珍しい異邦人なので龍王の目を引いただけである。
けれど、だからこそ、できる努力は怠ってはならない。
ライラにとってこの婚姻は自分が唯一参加できる戦いなのだ。
砂絹の民のためにもぐじぐじと彼我の差を比べて泣いているわけにはいかない。
龍王の気まぐれによる幸運だとしても、せっかく手にした正妃の座をむざむざ擲つわけにはいかないのだ。
「――……わたくしは閨事のお話に参ったのではございません。瑞雪様のお得意なもの、お好きなものを教えていただきたくて、ご挨拶に参りました」
「あたくしの特技ですって?」
ライラは瑞雪の怒涛の勢いに押されながらも、ようやく自分の目的を告げる。
瑞雪の眉がひくりと上がって怪訝そうな顔をした。
「はい、陛下が娯楽を何か考えよと仰せでして。少しでもお心の休まるものをと思ってはいるのですが、わたくしは見てのとおり痩せぎすで、書ばかりを嗜んできた、女らしさの欠片もない妃でございます。ご側妃の皆様のお智恵をお借りしたく、まずは瑞雪様のお得意なもの、お好きなものをお伺いしたいのです」
「……あたくしは刺繍を刺して兄様にお贈りしておりますわ。一度とてお返事をいただいたことはございませんけれども」
本当に龍王は妃たちと没交渉であったらしい。
瑞雪がとげとげとした声で言いながら絹の手拭いを出した。
両面に見事な絹糸の刺繍が施されている。
瑞々しい芙蓉の花とハチドリの刺繍は絵画のようであった。
「なんて素晴らしいのでしょう! 小鳥が今にも羽ばたきそう。えっ、この雫、本物ではないのですか? まあ素敵。まさに匠の技ですわ。ぜひご指南いただけないでしょうか?」
ライラがちょっと大げさに褒めちぎると、瑞雪は誇らしげに「根気さえあれば誰にでもできると思うけれど。まあ、よろしくってよ。あたくしも一度くらい兄様のご感想を聞きたいもの。ご正妃様に何と仰られたのか聞かせてくださるのならお教えいたしますわ」扇を畳んで、髪の毛より細い絹糸の束をドサドサと机に広げた。
瑞雪は第一印象こそ激情型の当たりの強そうな娘であったが、龍王への恨み節をライラが黙って聞いていたのがよかったのか、意外にすんなりと心を許した。
「絹糸の光沢を出すために針を刺す方向が大切なのですわ」
「たわまないよう、けれどもきつすぎないよう一定の張りを持たせてくださいまし」
「糸は絶対に捻じれないように。そして隙間なく埋めていくのがコツですわ」
てきぱきとライラに指示を出しながら自分も針を進めていく。
瑞雪はちらりとライラが一生懸命に刺している図案を見た。
そして見なかったふりをした。
自分だったら絶対に刺さない図案だが、まあまだ練習段階だ。
龍王にそのまま差し出すわけもないのだし、好きなようにしたらいい。
そのまま夕暮れまでだらだらとお喋りをしながらチクチク刺していると、ライラと瑞雪はずいぶん仲良くなったし、図案の一部も形になってきていた。
「絹糸と刺繍枠は南の宮の侍女にお申しつけいただいたらよろしいわ。またいらしてくださいましね。あたくしたち東の宮の女はいつでも暇なのですわ」
瑞雪に見送られて、ほくほくとライラは東の宮を後にした。
二日目にしてお友達と姫君らしい趣味が増えた。
引っ込み思案のライラにしては上出来の一日だった。
夕餉をすませると、また湖のように広い湯殿で頭の先から爪先まで磨き込まれ、寝室に放り込まれた。
寝巻きが昨日の薄絹より煽情的になっている気がする。
向こうが透けて見える薄絹なので露出も何もあったもんじゃないが、紫の刺繍が何とも艶めかしい気配を醸し出している。
ライラは刺繍布を胸に抱いて龍王を待つ。まだ途中だが、なかなか上手にできたのでお見せして、姫君らしいところもあるのだぞ、と龍王に意識させたい。
果たしてライラの目論見は大失敗であった。
龍王は寝室にやってくるなり見せられた刺繍布に一拍黙ると、咽せこむほどの大爆笑をした。
何が悪かったのかわからないがとんでもない失敗をしたのだと青ざめるライラを、龍王は刺繍布を握りしめて震えるほど笑いながら「そうかそうか」と抱きしめた。
「も、申し訳ございません、わたくしなにかとんでもない不調法を……」
「んっふ……ふふ、はっ、あはは、げほっ、ごほ、はは、くっふ……。いいよいいよ、止めなかった星睿と瑞雪が悪い。出来上がったらまた見せてよ」
「ですがお気を悪くされたのでは」
「気を悪くしてたらこんなに笑わない」
ライラが刺した図案は猛々しい龍だった。もちろん龍王の名に因んでだ。
ノルシエでは令嬢が嗜む刺繍は小鳥や花や精緻な模様を描き出すもので、王に因んで龍を刺すことは死出の旅路に捧げる装身具くらいでしか許されない。
それも人間国宝の職人が何年もかけて一針一針丁寧に作り上げるのが通例で、習いたて初日の歪な制作過程を龍王に見せる者などいない。
簡単に言えば新妻に『さっさと死ね』と殴り書きした文を渡されたも同義なので龍王は腹を抱えて笑ったのである。
ライラは知らなかったのだから何の罪もない。
傍仕えや側妃も龍王本人に見せるとは思わなかったのだろう。砂絹ではどうか知らないが、ノルシエでは常識的にありえない図案なのだから。
本当のことを言うと完成品を見せてくれなくなるだろうから、龍王は「必ずこれを完成させて僕に見せること。下手でも決して投げ出さないこと」と言い含めた。
下手でも投げ出すなと言ったことで、ライラは素人の手技だから笑われたのだところりと騙された。
「精進いたします」
「楽しみにしている。――それで? 今日の話は」
わくわくしながら龍王が聞いた。
刺繍もそれなりに面白かったが、図案が珍妙だから面白いだけであって、それこそ瑞雪の芸術のような刺繍を山と献上されている龍王は刺繍自体にそれほどの魅力を感じていなかった。
美しいとは思うがそれだけだ。龍王に蒐集癖はない。
とにかく昨夜のような、何の話かよくわからない話を聞いて、うわあまた何か変なものを聞かされた! となりたいのだ。
理路整然とした話は軍議で聞き飽きている。政務中だって暇ができればどんな話が聞けるのかとそわそわしていたのだ。
「お話、で、ございますか」
ライラはまた話をねだられるとは思っていなかったようで、ぎくしゃくとした。
「だって刺繍は未完成だろ? だったら他にも楽しいことがなくちゃあ」
「楽しいお話ができるかどうか」
「とりあえず話してみろ。昨夜はなかなかに愉快だった」
困り眉になったライラの、紫のいやらしい刺繍がされた胸元に顔をすりつけて抱きつき、龍王は話を聞く体勢をつくった。「ほら早く」頑として引かぬ様子の龍王にライラはええいままよと息を吸う。
ここまでの龍王は悋気な王ではなかった。
つまらなくても激怒してお手打ちにするような王ではないだろう。
ならばさっさと話して眠ってもらったほうが得策だ。
多少ご不興を買ってもすぐさま砂絹に被害が及ぶことにはならないはず。たぶん。
たっぷり一呼吸。ライラは昨日と同じ出だしで語り始めた。
「――……本当につまらぬお耳汚しですが」
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